答えのない問題

土曜の午後、母がリビングのテーブルに大学のパンフレットを三冊並べていた。どれも表紙の学生が同じような角度で笑っている。
「これ、どうしたの」
「もらってきた。この前の説明会で」
「行ったんだ」
「保護者だけのやつがあってね」
春はテーブルの向かいに座った。パンフレットの一冊には付箋が貼ってある。
「別に頼んでないけど」
「うん。勝手にもらってきただけ」
母は湯呑みに手を伸ばして、それから開いていたページを春のほうへ向けた。
「あんたの成績ならここは狙えるって言われた」
「またそれ?」
「またって」
「また『大学に行けば選択肢が広がる』でしょ。何回目」
「何回目かはわかんないけど。でも本当のことだと思ってるから」
「私の人生なのに、なんでお母さんが決めるの」
思ったより大きい声が出ていた。
「決めてないよ」
「決めてるじゃん。パンフレットまで持ってきて」
「持ってきたら、決めたことになるの」
「なるでしょ」
「そう。じゃあ、春はどうしたいの」
来たと思った。用意してあった言葉を出そうとして、口を開けた。
十八になったら自分で決める。一人暮らしする。放っておいてほしい。
どれも、この質問の答えではなかった。
「分からない……」
母の顔は見なかった。溜め息でも説教でも、次に来るものを黙って受けるつもりで、テーブルの木目に目を落としていた。
「だったら、一緒に考えようか」
「自分で決めろって言わないの?」
母は少し首を傾げた。それから、何でもないことのように言った。
「自分で決めるのと、一人で決めるのは違うでしょう」
春はその言葉をすぐには飲み込めなかった。
「でも、お母さんが言ったやつ選んだら、それって」
「それって?」
「自分で決めたことにならないじゃん」
「ならない、ね……」
母は春の言葉をそのまま口に出して、少しのあいだ自分で転がしていた。反論するときの間ではなかった。
「お母さんね、高校のとき、担任の先生に勧められたところ受けたのよ」
「知らない」
「言ってないもん。そこで友達もできたし、お父さんとも会ったし。今のところ、悪くなかったと思ってる」
「それ、先生が決めたんじゃないの」
「受験勉強したのはお母さんだよ」
「それは、そうだけど」
「嫌だったらやめてもよかった。他のところ受けてもよかった。でも、そうしなかった。そうしなかったのは、お母さんでしょう」
言い終えると、母は立ち上がった。
「パンフ、置いとくね。読まなくてもいいから」
その夜、春は結局、付箋の貼ってある一冊を開いた。読んだというほどではない。
翌日、夕菜と駅で待ち合わせて、開いたばかりの本屋を回った。参考書の棚の前で春が昨日のことを話すと、夕菜は噴き出した。
「なにそれ、私が前に言ったのと同じじゃん」
「そうだっけ」
「そうだよ。覚えてないの」
「嘘、本当は覚えていた。あのときは、なんか納得いかなかった」
「今は?」
春は棚から一冊抜いて、中も見ずに戻した。
「まだ引っかかってる。だってさ、誰かに相談したら、その人の影響受けるじゃん」
「そりゃ受けるでしょ、普通に。私たちって、一人で生きてないんだから」
「でもそれ、自分で決めたって言えるの」
「大事なのって、誰の意見を聞いたかじゃなくて、最後にどう考えたかじゃない?」
「そう?」
「うん。聞くだけ聞いてやっぱ違うなって思ったらやめればいいし。いいなと思ったら乗ればいい。どっちも自分がやってることでしょ」
「夕菜はさ、お母さんに勧められたとこ、ほんとにいいと思ってるの?」
「思ってる。思ってるけど、あそこじゃなきゃ駄目とも思ってない」
「それでいいの?」
「それってよくないことなのかな」
「さあ、わからない」
春がそう言うと夕菜は笑った。
「じゃあ、わかったら教えてよ」
帰り道、自転車に乗ってからも、二つの言葉が交互に浮かんだ。
自分で決めるのと一人で決めるのは違う。
人に相談することと人に人生を決めてもらうことは違う。
別々の人が言ったはずなのに、どこかで同じ形をしている。そう考えながらペダルを漕いでいるうちに、春は自分の家の前を一度通り過ぎていた。