答えのない問題

昼休みの美術室には、美月しかいなかった。油絵具とテレピン油の匂いが、窓を閉めきった空気に溜まっている。春がパンを持って入っていくと、すでに机の上に紙が広げられていて、鉛筆の線が細かく走る音だけが続いた。
「絵、描いているの?」
「まだ下書きだけどね」
覗き込んでも、春には何本も重なった薄い線にしか見えない。ただ、そのどれにも迷いがなかった。
「美月さ、専門学校を考えているんでしょ」
「うん」
「行けばいいじゃん」
鉛筆が止まったが、美月は顔を上げなかった。
「美月、絵うまいし。行きたいなら行けば」
「そんな簡単じゃないよ」
「なんで。自分の人生でしょ」
窓の外で、誰かが三階から一階の誰かを呼んでいる。その声が途切れるまで、美月は何も言わなかった。それから、鉛筆を紙の横に置いた。
「二年間で大体二百八十万」
「高いね」
「調べたよ、ちゃんとね」
「でも、奨学金とかあるよ」
「借りるって、返すってことだよ」
ここで初めて美月が顔を上げた。責める目ではなく、数字を読み上げるときの目に近い。
「絵で食べていけなかったら、どうするの。二百八十万払って、二年通って、駄目でしたって。そのとき私、二十歳だよ」
「それは……やってみないと」
「うん。やってみないとわかんない」
「もう行くしかないじゃん」
「じゃあ、失敗したときのお金まで春が出してくれる?」
答えようとして、そこで止まった。出せるお金など春には一円もない。そのあいだに美月は置いていた鉛筆を取り直して、さっきの続きを描きはじめた。
「なんか……ごめん」
謝ったのは春のほうだった。
「なんで春が謝るの、変なの」
美月はそれだけ言うと、紙のほうに向き直った。昼休みが終わるまで、春はその横を離れなかった。持ってきたパンは袋も開けないまま、ずっと膝の上に載っている。
家に帰って夕飯を食べたあと、母は食器を洗っていた。春は麦茶のコップを前に置いたまま、テーブルに残っている。
「ねえ、大人になったらさ、一人暮らししても何も言わないでよ」
水の音は止まらないまま、返事だけが先に来た。
「いいよ」
春は顔を上げた。母は皿を立てかけながら、こちらを見てもいない。
「なんで」
「なんでって、あんたが言ったんでしょ」
「いや、そうだけど」
「十八なら、契約もできるし」
母は蛇口を締めた。
「でも家を出るなら、家賃も生活費も、全部自分で何とかしてね」
「そこまで言わなくてもいいじゃん」
「そこまでって、どこまで」
母はそれで話を終わりにした。布巾で手を拭いてリビングへ行き、テレビをつける。天気予報の声がこちらまで届いて、明日は雨だと言っていた。
春はコップを流しに置いた。指先に水滴がついて、それを服で拭う。
反対されると思っていた。大変だとか、まだ早いとか、一人じゃ無理だとか、そういうことを言われて、それに言い返すつもりだった。言い返す言葉ならいくつも用意してあったのに。
自由ってこんなに簡単に手に入るものだったのか。それとも、母は最初から何も渡していないのか。
春はリビングを通らずに、そのまま階段を上がった。