答えのない問題

季節が流れて九月の終わりの日曜日。駅の駐輪場から自転車を漕ぎ出すと後ろのタイヤがやけに柔らかかった。段差を越えるたびに、ホイールの縁が路面に当たる手応えがある。降りて押しながら駅の通りに入ると、黒田サイクルの看板が見えてきた。赤かったはずの字は、もう薄い桃色に色が抜けている。
店先には空気入れが一本立てかけてあって、半分だけ上がったシャッターの奥から、油とゴムの匂いが流れてくる。作業台の前にしゃがんでいた翔が、こちらを見るなり言った。
「パンクだろ、それ」
「なんでわかるの」
「押し方見ればわかる」
翔は立ち上がると、軍手のまま春の自転車を受け取った。ひょいと逆さにして、サドルとハンドルで地面に立たせる。翔のお父さんは外に出ているそうで、店には翔しかいなかった。
作業台の端には、見覚えのある紙が置いてあった。月曜が締め切りの秋の進路希望調査票だ。就職に丸がついていて志望理由の欄は白いままになっている。
「まだ出してないんだ」
「丸はつけた。理由が書けない。二年のときは、適当に大学の名前書いといたんだよ。普通のとこって言ったろ」
「ああ、あれ」
「今度はそういうわけにいかないし。でも、好きだからしか出てこない。そんなの出したら先生にまた、もったいないって言われるだろ。そしたら俺、たぶん何も言い返せない」
二年の三月、窓のへりに腰を預けた翔が「反対されたらまだいいんだよ」と言っていたのを春は覚えている。説明しているうちに、本気かどうか自分でわかるからと。
「じゃあ、私が反対する」
「は?」
「反対されたら説明できるって、前に言ってたじゃん。だから反対する」
春は店先の丸椅子に勝手に腰を下ろした。
「なんで大学行かないの。もったいないよ」
「勉強が嫌なわけじゃない」
「じゃあ行けばいいじゃん。お店なんて、大学出てからでも継げるでしょ。お父さんに任せたら」
「電動のやつ重いんだよ。去年からはああいうのは全部俺がやってる」
「人を雇えば?」
「雇う金があったら苦労しないって」
「それ、翔じゃなくてもできることでしょ」
「できるよ」
言い返されるかと思ったのに、翔はあっさり認めた。力が入っているのは、そのあとのほうだった。
「でも、直したやつが乗って帰っていくのが好きなんだよ。来るときはみんな押してくるだろ。それが帰りは乗っていく。子どものころから、あれ見るのが好きなんだ」
「でも、それって受験から逃げてるだけじゃないの?」
そう言うと奥に引っ込んだ翔はノートを三十冊以上抱えて戻ってきた。どれも表紙の角が黒ずんでいる。開いて見せられたページには、日付と車種と、どこをどう直したかが細かい字でびっしり並んでいた。
「前に何が壊れてどう直したか書いとけば次は早く修理が終わる。親父、なんでも一回しか言わないし」
言いながら、翔は開いたページを春のほうへ傾けた。
「受験したくないだけのやつが、ここまで書くと思うか?」
翔はノートを持ったまま、自分の書いた字を見下ろしている。
「書かないと思う」
「なんか、説明できちゃったな」
「反対したかいがあった」
翔は直し終えたタイヤに空気を入れ、最後に指の腹で張りを確かめた。春も真似してみると、硬く張ったゴムが指を押し返してくる。
それから翔は作業台の方にあった調査票を引き抜いた。耳に挟んでいた鉛筆を取って、作業台の上でそのまま書きはじめる。
書いているのを見ていると欄に収まりきらなかった字が余白にまではみ出しているのが見えた。二年の秋、三分で書き終えて椅子の背にもたれていた翔、今は欄が足りなくなっている。
「修理代、いくら」
「友達だから八百円。普通は千円」
財布のファスナーは今日も引っかからずに開いた。誕生日に母がくれたものだ。
店の前でサドルにまたがる。来るときは押してきた道を春は漕いで帰った。