相沢春の前の席から回ってきた紙が指にざらついた。粉っぽいわら半紙で「進路希望調査票」という文字が上に印刷されている。窓が半分開いたままだったので、グラウンドから金属バットの音が届いた。カン、と遠く鳴って、それから誰かの声がした。
「うわ、もうこれ書くの」
斜め前の美月は振り返らずに答えた。
「もう二年生で十一月だよ」
「まだ二年じゃん」
「まあ、そうだけど」
言いながらも美月の手はもう動いていて、第一志望の欄にはイラストの専門学校の名前が、その下にも別の名前が入っている。
翔は早かった。三分ほどで書き終えると、椅子の背に体重を預けてしまう。
「翔、もう書いたの」
「うん」
「どこ」
「まあ、普通の大学」
夕菜はまだ書いていなかったが、開いたノートには大学名らしきものが五つ並んでいて、その横にそれぞれ小さな数字が添えてある。
「それ何」
「お母さんと見た学費」
春は自分の紙に目を戻した。氏名と組と番号まではすぐに埋まる。その下には進路希望の欄があって、四年制大学、短大、専門学校、就職、未定と並んでいて、どれかに丸をつけることになっていた。さらに下には志望校名と学部、志望理由を書く欄が続く。
チャイムが鳴って放課後になると、教卓のあたりから担任が呼んだ。
「相沢、まだ出してないだろ」
「今書いてます」
「何かやりたいことあるのか」
「まだないです」
「そうか」
机に戻りシャープペンを握り直して、並んだ選択肢のいちばん右にある未定を丸で囲んだ。志望校名も学部も志望理由も、そのまま空けておく。丸を一つ描くだけだから三秒もかからず、隣で誰かが椅子を引いた音のほうがよほど長く続いていた。
そして担任に調査票を出してから家に帰ると、油の跳ねる音がしていた。玉ねぎの匂いからすると、今日は何かの炒めものらしい。
「おかえり。そういえば今日、あれ配られたんでしょ。進路の」
鞄を下ろす手が止まった。
「なんで知ってるの」
「学校からメール来てた。ご家庭でも話し合ってくださいって」
「……別に、まだ二年だし」
「でも書いたんでしょ」
「書いた」
「何て」
「未定」
母は振り返らず、フライパンの中では何かが鳴り続けている。
「未定に丸だけして、出したの?」
「そういう欄があるんだから、いいでしょ」
「そういうことじゃなくて。お母さんはただ、そろそろちゃんと」
「十八になったら、自分で決めるから」
換気扇だけが回る中で、母が菜箸を持ったままこちらを見た。
「十八になったら?」
「そう。もう大人なんだから」
自分の部屋に行き、ドアを閉めると油の匂いが薄れた。制服のままベッドに腰を下ろしたものの、すぐに立ち上がって壁のカレンダーを四月までめくる。来年の分を買ってきたのは先週で、まだどの月にも書き込みはない。
四月二日、学年でいちばん早い誕生日。ペンで丸を描き、そのまま同じ線をもう一周なぞった。インクが二重になって、紙がかすかにへこむ。
「うわ、もうこれ書くの」
斜め前の美月は振り返らずに答えた。
「もう二年生で十一月だよ」
「まだ二年じゃん」
「まあ、そうだけど」
言いながらも美月の手はもう動いていて、第一志望の欄にはイラストの専門学校の名前が、その下にも別の名前が入っている。
翔は早かった。三分ほどで書き終えると、椅子の背に体重を預けてしまう。
「翔、もう書いたの」
「うん」
「どこ」
「まあ、普通の大学」
夕菜はまだ書いていなかったが、開いたノートには大学名らしきものが五つ並んでいて、その横にそれぞれ小さな数字が添えてある。
「それ何」
「お母さんと見た学費」
春は自分の紙に目を戻した。氏名と組と番号まではすぐに埋まる。その下には進路希望の欄があって、四年制大学、短大、専門学校、就職、未定と並んでいて、どれかに丸をつけることになっていた。さらに下には志望校名と学部、志望理由を書く欄が続く。
チャイムが鳴って放課後になると、教卓のあたりから担任が呼んだ。
「相沢、まだ出してないだろ」
「今書いてます」
「何かやりたいことあるのか」
「まだないです」
「そうか」
机に戻りシャープペンを握り直して、並んだ選択肢のいちばん右にある未定を丸で囲んだ。志望校名も学部も志望理由も、そのまま空けておく。丸を一つ描くだけだから三秒もかからず、隣で誰かが椅子を引いた音のほうがよほど長く続いていた。
そして担任に調査票を出してから家に帰ると、油の跳ねる音がしていた。玉ねぎの匂いからすると、今日は何かの炒めものらしい。
「おかえり。そういえば今日、あれ配られたんでしょ。進路の」
鞄を下ろす手が止まった。
「なんで知ってるの」
「学校からメール来てた。ご家庭でも話し合ってくださいって」
「……別に、まだ二年だし」
「でも書いたんでしょ」
「書いた」
「何て」
「未定」
母は振り返らず、フライパンの中では何かが鳴り続けている。
「未定に丸だけして、出したの?」
「そういう欄があるんだから、いいでしょ」
「そういうことじゃなくて。お母さんはただ、そろそろちゃんと」
「十八になったら、自分で決めるから」
換気扇だけが回る中で、母が菜箸を持ったままこちらを見た。
「十八になったら?」
「そう。もう大人なんだから」
自分の部屋に行き、ドアを閉めると油の匂いが薄れた。制服のままベッドに腰を下ろしたものの、すぐに立ち上がって壁のカレンダーを四月までめくる。来年の分を買ってきたのは先週で、まだどの月にも書き込みはない。
四月二日、学年でいちばん早い誕生日。ペンで丸を描き、そのまま同じ線をもう一周なぞった。インクが二重になって、紙がかすかにへこむ。


