簡単なこと、いつものこと。
いつだって、孵らない卵をあたためるように、いくつもの諦めを準備していた。傷つくことが怖くて、自分が望んだことだと思い込ませるために。
確かなものなんて何ひとつない。目に見えるものなんて何ひとつない。自分の中にあるものが、どんなに頼りないものなのか、よく知っている。
だから、早く、日常に戻ろう。何もなかったことにして、ひとりの自分に戻ろう。
―― どうしてあんなふうになってしまったんだろう?
彩加はひとり、思いをめぐらせていた。
時々あった吐き気は、いつもなら一度吐くと落ち着いて、苦しむことはなかった。なのに、あの日は何度吐いても楽になれなかった。胃の中が空っぽになっても続く吐き気が、あまりに苦しくて、このまま死んでしまうんじゃないかと思った。
―― あんな苦しい思いは、もう、したくない
そっと、胸に手を置いてみる。今は落ち着いている胸の鼓動を、掌で確認する。片桐が処方してくれた、吐き気止めが効いているんだろうと、おぼろげに思う。
―― これは、きっと、薬のおかげ
きっとそれは正しくて、だとしたら、もしも薬が切れたなら、同じように苦しむんだろうかと想像すると、ぞっとする。
―― でも……
気持ちを強く持ちたくて、自分の膝頭をぎゅっと握り締めた彩加の瞳に、鳴らない電話が映りこむ。彩加の休みが続くと、いつもなら一日もたたないうちに沙希から連絡があった。けれど、今回は……。
何も言わない沙希の視線は、確実に彩加を追いつめていた。話しかけてきてくれたほうが、どんなにか楽なのに、沙希も今度ばかりはそうしてくれそうにない。それを知っていても、彩加にはどうすることもできなかった。
離れることに決めて、沙希からのメールも電話も、全部見なかったことにして、知らないふりを続けてきた。なのに、その為に距離を置くことで、自分がどんなに沙希を必要としているのか、改めて思い知らされていた。
けれど、そのことを、認めるわけにはいかなかった。
だから自分に問いかける。どうしてこんなに苦しいんだろうと。
―― 沙希が、寂しそうな瞳で見つめてくるから?
―― 沙希が、私の望む場所で、幸せでいてくれないから?
答えは、闇の中に沈んでいく。
―― 大丈夫。寂しいのは今だけ。沙希ならすぐに、私の代わりを見つけられる。
言い聞かせる言葉は、痛みにしかならない。相反する心と身体のバランスが、急激に崩れていく。
つかまえたくないのに、つかまえたくなる。
つかまりたくないのに、つかまりたくなる。
離れたいはずなのに、離れなきゃいけないのに、胸の痛みが消えない。問われることを避けるように常に一歩先の行動を取りながら、心の奥底で、追いかけて来て欲しいと願ってしまう自分を消せない。
少しずつ、壊れていく世界。カリカリと鳴り止まない谺は、この歪んだ世界の隅っこを引っかき続ける、爪音。
窓の外は薄蒼い闇に染まり始めていた。
病院帰りに、必ず寄るようにと言った利人の言葉を思い出し、彩加は夕方、出かける準備をしていた。その時、めったに押されることのないインターフォンが鳴った。
微かな甘い予感に、とくりと鼓動が震える。けれど、平静を装いドアに向かった。
「……誰?」
「彩加」
思いがけない声に慌ててチェーンを外し、ドアを開けた。
「おかあさん!」
驚いて呼びかけた彩加を一瞥することもなく、母が部屋に入ってくる。
母がこの部屋に来たのは、引越しの日以来のことだった。唐突な訪問に戸惑いを隠せない彩加を、母は振り返らない。座る素振りも見せない。
「何か……、飲む?」
黙ったままの母に、彩加がおずおずと問いかける。
「彩加、私に話すことないの?」
母が、突き放すように言う。
「今日、片桐先生から、電話があったんだけど?」
言いながら、キロリと彩加を睨んで、溜息まじりに視線を外す。
「あの先生は、私のことがお嫌いなようね。保険証だけ渡してくれればいいから、ですって」
「ふふ」と冷たく笑う。
「心療内科なんて綺麗ごと言って、要は頭がおかしいってことでしょう?」
蔑むような視線を、一瞬だけ、彩加に向ける。
「心療内科に通院するなんて、恥ずかしくてお父さんにも言えないわ。いったい、どこまで面倒かければ気が済むのかしらね。あなたって人は!」
ひんやりと冷たいものに、心臓をさわられたような気がした。
「とにかく、病院にはちゃんと通ってね。これ以上、悪者にされるのはまっぴらだから。保険証と、あとこっちは治療費」
バッグから取り出されたのは、白い封筒と保険証。それらを硝子のテーブルの上に放るように置いて、母は玄関に向かおうとする。
「お、おかあさん、」
縋るように呼んで、彩加の指先が母の腕に伸ばされる。
「さわらないで!」
母の怒声にビクリと震えて、彩加は伸ばしかけた指先を握りこんだ。
まるで汚いもののように扱われるのは、いつものことだった。それでも今は、ちゃんと謝ろうと思った。謝って、もう平気だからと、そう言いたかった。
「おかあさん」
けれど、消え入りそうな呼びかけに向けられた母の目は、冷たかった。それでも、今消えかかっている繋がりを、なんとしても繋ぎ止めたくて、こくんと生唾を飲み込み、彩加は声を絞り出す。
「おかあさん」
「誰のこと?」
ためらいがちな呼び声に、揶揄するような問いが返される。びっくりして、彩加の喉がひくりと鳴る。瞠目する彩加に、母は冷たい声音で続ける。
「私は、……あなたのお母さんなんかじゃない!」
憎しみに満ちた視線が、彩加を見据える。
「あなたに、お母さんなんて、呼ばれたくない!」
母の言葉の意味がわからなくて、彩加は母を悄然と見上げる。そんな彩加を見下ろして、母が続ける。
「あなたのお父さんはね、殺されたの」
意地悪く、ゆがんだ口元が告げる言葉は、氷の欠片よりも冷たい。
「あなたの、本当のお母さんにね」
―― えっ?
問いかけたい疑問符は、けれど、音にはならなかった。
「私だけが……、何も知らなかった」
母の瞳が、憎悪で潤む。
「あなたの本当のお母さんはね、私の妹よ」
奇妙な笑い顔が、其処にはあった。
「あなたのお父さんは、私の夫は……、私の妹と一緒に死んだのよ!」
今はもう、立ち尽くすだけの彩加から顔を背け、俯いて、母はかたかたと小刻みに震えているようだった。
開かれたのは、パンドラの箱。決して開けてはいけませんと、神様が言った箱。
幼い頃に両親を亡くした彩加の母は、妹とふたり、親類の家で暮らしていた。
引き取ってくれた伯母は優しく、その家族もいたわりをもってふたりを迎えてくれた。けれど、心はいつも満たされなかった。理由のない居心地の悪さを宥めてくれたのは、昔むかしの家族写真。
消えてしまったものは、ただただ美しく、憧れだけがそこにあった。
妹とふたり、いつも本当の家族を夢見ていた。帰ることを許される、本当の家族が欲しかった。胸を張って自分のモノだと言える、本当の家が欲しかった。だから高校を卒業してすぐ、伯母が勧めてくれた縁談に、是も非もなく飛びついた。
妹と一緒でかまわないという甘い言葉が、何より嬉しくて。
自分達と同じ、家族のないその人との生活は、ままごとのように始まった。欲しくてたまらなかった、やっと与えられた家は夢のように綺麗で、毎日があまりに眩しすぎて、目の前にある満たされた空間を受け取ることだけで精一杯だった。
たくさんの財産を受け継いでいた、なんでも言う事を聞いてくれる優しい夫に夢の風景を重ねて、テレビや本で見るような、夢の家族をつくりあげることに夢中だった。
だから、少しずつずれていった歯車に、気づくことが出来なかった。妹が突然家出したときも、その理由がわからなくて、ただおろおろするばかりだった。
そして、それから一年後、妹は生まれたばかりの子供を抱いて、帰ってきた。
「ずっと、好きだったの」
ぽろぽろと涙をこぼす妹に、そっと寄り添い肩を抱いたのは、紛れもない夫、彩加の父だった。
「おねえちゃん……」
何が起こっているのか、理解できなかった。頭は真っ白で、責める言葉すら浮かばなかった。
「……ごめんね」
それが、妹の、最後の言葉だった。夫と連れだって、再び家を後にした妹は、白い小さな包みになって帰ってきた。
「スピードの出しすぎによる過失。運転手、同乗者、共に即死。お子様は無事です!」
警察からの電話が、途切れ途切れに、鼓膜にこびりついた。
―― ……同乗者……?
当たって欲しくない予感は、いつも哀しいくらい当たる。ハンドルを握っていたのは妹。同乗者は、その日帰らなかった、夫だった。
奇跡的に無傷だった彩加を、大事そうに渡した婦警が、慰めるように言った。
「酷い事故だったんですけど、御遺体は綺麗ですよ」
その言葉に頷くことも出来ないまま、のろのろと安置場所まで歩いた。暗い場所に横たえられたふたりは、まるで眠っているかのように、穏やかだった。
―― おねえちゃん ――
大人になってもかわらなかった、愛らしく、たどたどしい呼び声。
―― おねえちゃん ――
愛していた。心の底から大切だった。だから、その想いの深さの分だけ、憎くて、憎くて、心が、千切れてしまいそうだった。
それでも、自分の腕の中で何も知らず、昏々と眠り続ける彩加を、手放すことは出来なかった。自分には与えられなかった小さな命を、みすみす他人に渡すことは出来なかった。自分に残された家族は、もう、彩加しかいなかった。けれど、自分の子供と偽ってまで引き取った彩加を、愛することは出来なかった。
夫の死後、遺されるはずだった遺産は債権者たちの手によって瞬く間に消え、やっと見つけたはずの帰る家も、知らない誰かの手に渡った。
追い立てられるようにして辿り着いたアパートは、みすぼらしく小さい部屋だった。その惨めな空間で、ふたりの生活を支えるために働き始めた毎日に、心は疲弊していった。
最初の頃は、小さいばかりの赤ちゃんは、愛とは別の形であっても、可愛いと感じていた。けれど、一年、二年と、月日がすぎていくごとに、その思いは擦り切れていった。
無邪気に自分を慕ってくれる彩加に、どうしても優しくできなかった。愛したはずの妹の、夫の、忘れられない面影が、あどけない表情に重なるたびに生まれるのは、たとえようもない憎しみばかりだった。
大切な人は死んでしまった。あまりにあっけなく、突然に。その寂しさは埋まらない。口に出せなかった憎しみは消えない。簡単に乗り越えられるほど強くはなれない。忘れてしまえるほど、弱くもなれない。
なんの罪もない彩加を、愛したいという切望と、愛せない罪悪感に、心が引き裂かれてしまいそうだった。
―― ひきとらなければよかった
何度も後悔しながら、その後悔とは全く反対の胸の内では、ずるくて残酷な安堵を、育て続けていた。
この世界に、たったひとりきりの自分を、決して見捨てない無心な瞳。どんなに傷つけてもかわらず自分を求め続ける瞳に、救われていた。傷つけてしまう自分に、自分がもっと深く傷つきながら、自分が壊れていく音を、聞いていた。
そんな時、勤務先の上司から食事に誘われた。その上司もひとりで子供を育てていることは知っていた。彩加よりも少しだけ幼い子供のことを、よく相談されていた。
結婚なんて、もう、こりごりだと思っていた。けれどその人の朴訥とした優しさに、いつからか惹かれはじめていた。過去を詮索しないという約束事は今も守られ、穏やかな毎日だけが与えられた。
けれど、その安穏な日々は、彩加に対する憎しみだけを浮彫りにしていった。
彩加を見るたびに、壊れかけた自分の冷たい仕打ちばかりが思い出されて、見ているだけで苛立った。彩加の無心な瞳には、悪鬼のような自分の姿が、今も映っているように思えてたまらなかった。彩加が傍にいるだけで、いつか自分の醜さが家族に知られてしまいそうで、怖かった。
その恐怖は、穏やかな毎日を、少しずつ侵食していった。
どんなに非難されても、彩加をひきとるべきじゃなかった。今こうして突き放すくらいなら、一緒に暮らすべきじゃなかった。
でも、本当は、許したかった。
妹も、優しさばかりの夫も。許せたなら、少しは楽になれる気がしていた。けれど、胸の中にある憎悪は消せなかった。抑えようとすればするほど、いびつに膨れ上がるばかりだった。
彩加には、なんの罪もない。そう、頭ではわかっていた。けれど、ふたりの面影を残す彩加を、どうしても、愛することは出来なかった。この子さえ生まれなければと、思わずにいられなかった。
真実は、触れてはいけない箱の中。空っぽの箱の底に、希望は残されていなかった。
静寂が、彩加の部屋を包みこんでいた。
ポツンと置かれた保険証と白い封筒を見つめて、彩加はじっと動けずにいた。思考を止めた瞳を染めるのは、橙色の夕焼け。それは、彩加に寄り添い続けた、遠い記憶に重なる。
彼女は時折、本当に極々わずかな時間、彩加に優しく接することがあった。
少し体温の低い指先が、頬を、髪を、優しく撫でていく記憶。それがいつだったかは想い出せなくても、その時々の風景や空気の色、感じただろう淡い粉白粉の匂いまで、彩加は鮮明に思い出せた。
それがどんな気分によるものなのかはわからなくても、彩加にとってその気まぐれに与えられる優しさは、何より大切な思い出だった。
だから数えるほどしかない想い出を、幾度も取り出し磨き上げ、宝物のように心の一番大切な場所に、丁寧にしまいこんでいた。
それが、たったひとつの拠り所だったほんの些細な煌きが、今、消えていく。
欠け落ちたピース。幼い心は、戻るべき場所を、とうの昔に失くしていた。
―― おかあさん
振り向かない背中に向かって呼び続けた。
―― おかあさん
思い出の中の母は、いつも冷たい背中ばかりでも、心はいつも告げていた。
―― おかあさん、おかあさんがもしも私を嫌っていても、私はおかあさんが世界で一番好きだよ。ずっとずっと、大好きだよ
言葉は何処に消えたんだろう。今だって、この時だって、想いは胸にあるのに。
なにもかも、ちゃんと諦めていたはずだった。期待を持つことの虚しさを、嫌というほどの失望を、ちゃんと知っているはずだった。
なのに今、この胸の痛みが、彩加に教える。信じるまいと頑なに言い聞かせながら、心のどこかで縋るように求めていた。伝わらないと諦めてしまっている心で、それでもいつか、いつかわかって欲しいと、願い続けていた。
けれど……。
―― おかあさんは、今度こそ、本当に、……本当に、私を捨てた。欠片も残さず、糸ほどのつながりまで、断ち切って
もう来ない。誰も来ない。この部屋にあるのは哀しみの記憶だけ。
もう誰も私を見つめない。見つけない。誰も私を振り向かない。
私がある日突然いなくなっても、誰も泣かない。哀しまない。
きっと、私がいなくなったことにすら、誰も気づかない。
空ろに見上げた薄墨色の空に、遠く小さな星が見える。
見つめることだけ許された、小さな煌めきが瞬く。
瞼の奥にいつもある、遠くに見えるあの場所は、
憧れだけでつくられた、眩く美しい世界。
壊れた心の上にたつ、儚すぎる憧憬。
いつだって、孵らない卵をあたためるように、いくつもの諦めを準備していた。傷つくことが怖くて、自分が望んだことだと思い込ませるために。
確かなものなんて何ひとつない。目に見えるものなんて何ひとつない。自分の中にあるものが、どんなに頼りないものなのか、よく知っている。
だから、早く、日常に戻ろう。何もなかったことにして、ひとりの自分に戻ろう。
―― どうしてあんなふうになってしまったんだろう?
彩加はひとり、思いをめぐらせていた。
時々あった吐き気は、いつもなら一度吐くと落ち着いて、苦しむことはなかった。なのに、あの日は何度吐いても楽になれなかった。胃の中が空っぽになっても続く吐き気が、あまりに苦しくて、このまま死んでしまうんじゃないかと思った。
―― あんな苦しい思いは、もう、したくない
そっと、胸に手を置いてみる。今は落ち着いている胸の鼓動を、掌で確認する。片桐が処方してくれた、吐き気止めが効いているんだろうと、おぼろげに思う。
―― これは、きっと、薬のおかげ
きっとそれは正しくて、だとしたら、もしも薬が切れたなら、同じように苦しむんだろうかと想像すると、ぞっとする。
―― でも……
気持ちを強く持ちたくて、自分の膝頭をぎゅっと握り締めた彩加の瞳に、鳴らない電話が映りこむ。彩加の休みが続くと、いつもなら一日もたたないうちに沙希から連絡があった。けれど、今回は……。
何も言わない沙希の視線は、確実に彩加を追いつめていた。話しかけてきてくれたほうが、どんなにか楽なのに、沙希も今度ばかりはそうしてくれそうにない。それを知っていても、彩加にはどうすることもできなかった。
離れることに決めて、沙希からのメールも電話も、全部見なかったことにして、知らないふりを続けてきた。なのに、その為に距離を置くことで、自分がどんなに沙希を必要としているのか、改めて思い知らされていた。
けれど、そのことを、認めるわけにはいかなかった。
だから自分に問いかける。どうしてこんなに苦しいんだろうと。
―― 沙希が、寂しそうな瞳で見つめてくるから?
―― 沙希が、私の望む場所で、幸せでいてくれないから?
答えは、闇の中に沈んでいく。
―― 大丈夫。寂しいのは今だけ。沙希ならすぐに、私の代わりを見つけられる。
言い聞かせる言葉は、痛みにしかならない。相反する心と身体のバランスが、急激に崩れていく。
つかまえたくないのに、つかまえたくなる。
つかまりたくないのに、つかまりたくなる。
離れたいはずなのに、離れなきゃいけないのに、胸の痛みが消えない。問われることを避けるように常に一歩先の行動を取りながら、心の奥底で、追いかけて来て欲しいと願ってしまう自分を消せない。
少しずつ、壊れていく世界。カリカリと鳴り止まない谺は、この歪んだ世界の隅っこを引っかき続ける、爪音。
窓の外は薄蒼い闇に染まり始めていた。
病院帰りに、必ず寄るようにと言った利人の言葉を思い出し、彩加は夕方、出かける準備をしていた。その時、めったに押されることのないインターフォンが鳴った。
微かな甘い予感に、とくりと鼓動が震える。けれど、平静を装いドアに向かった。
「……誰?」
「彩加」
思いがけない声に慌ててチェーンを外し、ドアを開けた。
「おかあさん!」
驚いて呼びかけた彩加を一瞥することもなく、母が部屋に入ってくる。
母がこの部屋に来たのは、引越しの日以来のことだった。唐突な訪問に戸惑いを隠せない彩加を、母は振り返らない。座る素振りも見せない。
「何か……、飲む?」
黙ったままの母に、彩加がおずおずと問いかける。
「彩加、私に話すことないの?」
母が、突き放すように言う。
「今日、片桐先生から、電話があったんだけど?」
言いながら、キロリと彩加を睨んで、溜息まじりに視線を外す。
「あの先生は、私のことがお嫌いなようね。保険証だけ渡してくれればいいから、ですって」
「ふふ」と冷たく笑う。
「心療内科なんて綺麗ごと言って、要は頭がおかしいってことでしょう?」
蔑むような視線を、一瞬だけ、彩加に向ける。
「心療内科に通院するなんて、恥ずかしくてお父さんにも言えないわ。いったい、どこまで面倒かければ気が済むのかしらね。あなたって人は!」
ひんやりと冷たいものに、心臓をさわられたような気がした。
「とにかく、病院にはちゃんと通ってね。これ以上、悪者にされるのはまっぴらだから。保険証と、あとこっちは治療費」
バッグから取り出されたのは、白い封筒と保険証。それらを硝子のテーブルの上に放るように置いて、母は玄関に向かおうとする。
「お、おかあさん、」
縋るように呼んで、彩加の指先が母の腕に伸ばされる。
「さわらないで!」
母の怒声にビクリと震えて、彩加は伸ばしかけた指先を握りこんだ。
まるで汚いもののように扱われるのは、いつものことだった。それでも今は、ちゃんと謝ろうと思った。謝って、もう平気だからと、そう言いたかった。
「おかあさん」
けれど、消え入りそうな呼びかけに向けられた母の目は、冷たかった。それでも、今消えかかっている繋がりを、なんとしても繋ぎ止めたくて、こくんと生唾を飲み込み、彩加は声を絞り出す。
「おかあさん」
「誰のこと?」
ためらいがちな呼び声に、揶揄するような問いが返される。びっくりして、彩加の喉がひくりと鳴る。瞠目する彩加に、母は冷たい声音で続ける。
「私は、……あなたのお母さんなんかじゃない!」
憎しみに満ちた視線が、彩加を見据える。
「あなたに、お母さんなんて、呼ばれたくない!」
母の言葉の意味がわからなくて、彩加は母を悄然と見上げる。そんな彩加を見下ろして、母が続ける。
「あなたのお父さんはね、殺されたの」
意地悪く、ゆがんだ口元が告げる言葉は、氷の欠片よりも冷たい。
「あなたの、本当のお母さんにね」
―― えっ?
問いかけたい疑問符は、けれど、音にはならなかった。
「私だけが……、何も知らなかった」
母の瞳が、憎悪で潤む。
「あなたの本当のお母さんはね、私の妹よ」
奇妙な笑い顔が、其処にはあった。
「あなたのお父さんは、私の夫は……、私の妹と一緒に死んだのよ!」
今はもう、立ち尽くすだけの彩加から顔を背け、俯いて、母はかたかたと小刻みに震えているようだった。
開かれたのは、パンドラの箱。決して開けてはいけませんと、神様が言った箱。
幼い頃に両親を亡くした彩加の母は、妹とふたり、親類の家で暮らしていた。
引き取ってくれた伯母は優しく、その家族もいたわりをもってふたりを迎えてくれた。けれど、心はいつも満たされなかった。理由のない居心地の悪さを宥めてくれたのは、昔むかしの家族写真。
消えてしまったものは、ただただ美しく、憧れだけがそこにあった。
妹とふたり、いつも本当の家族を夢見ていた。帰ることを許される、本当の家族が欲しかった。胸を張って自分のモノだと言える、本当の家が欲しかった。だから高校を卒業してすぐ、伯母が勧めてくれた縁談に、是も非もなく飛びついた。
妹と一緒でかまわないという甘い言葉が、何より嬉しくて。
自分達と同じ、家族のないその人との生活は、ままごとのように始まった。欲しくてたまらなかった、やっと与えられた家は夢のように綺麗で、毎日があまりに眩しすぎて、目の前にある満たされた空間を受け取ることだけで精一杯だった。
たくさんの財産を受け継いでいた、なんでも言う事を聞いてくれる優しい夫に夢の風景を重ねて、テレビや本で見るような、夢の家族をつくりあげることに夢中だった。
だから、少しずつずれていった歯車に、気づくことが出来なかった。妹が突然家出したときも、その理由がわからなくて、ただおろおろするばかりだった。
そして、それから一年後、妹は生まれたばかりの子供を抱いて、帰ってきた。
「ずっと、好きだったの」
ぽろぽろと涙をこぼす妹に、そっと寄り添い肩を抱いたのは、紛れもない夫、彩加の父だった。
「おねえちゃん……」
何が起こっているのか、理解できなかった。頭は真っ白で、責める言葉すら浮かばなかった。
「……ごめんね」
それが、妹の、最後の言葉だった。夫と連れだって、再び家を後にした妹は、白い小さな包みになって帰ってきた。
「スピードの出しすぎによる過失。運転手、同乗者、共に即死。お子様は無事です!」
警察からの電話が、途切れ途切れに、鼓膜にこびりついた。
―― ……同乗者……?
当たって欲しくない予感は、いつも哀しいくらい当たる。ハンドルを握っていたのは妹。同乗者は、その日帰らなかった、夫だった。
奇跡的に無傷だった彩加を、大事そうに渡した婦警が、慰めるように言った。
「酷い事故だったんですけど、御遺体は綺麗ですよ」
その言葉に頷くことも出来ないまま、のろのろと安置場所まで歩いた。暗い場所に横たえられたふたりは、まるで眠っているかのように、穏やかだった。
―― おねえちゃん ――
大人になってもかわらなかった、愛らしく、たどたどしい呼び声。
―― おねえちゃん ――
愛していた。心の底から大切だった。だから、その想いの深さの分だけ、憎くて、憎くて、心が、千切れてしまいそうだった。
それでも、自分の腕の中で何も知らず、昏々と眠り続ける彩加を、手放すことは出来なかった。自分には与えられなかった小さな命を、みすみす他人に渡すことは出来なかった。自分に残された家族は、もう、彩加しかいなかった。けれど、自分の子供と偽ってまで引き取った彩加を、愛することは出来なかった。
夫の死後、遺されるはずだった遺産は債権者たちの手によって瞬く間に消え、やっと見つけたはずの帰る家も、知らない誰かの手に渡った。
追い立てられるようにして辿り着いたアパートは、みすぼらしく小さい部屋だった。その惨めな空間で、ふたりの生活を支えるために働き始めた毎日に、心は疲弊していった。
最初の頃は、小さいばかりの赤ちゃんは、愛とは別の形であっても、可愛いと感じていた。けれど、一年、二年と、月日がすぎていくごとに、その思いは擦り切れていった。
無邪気に自分を慕ってくれる彩加に、どうしても優しくできなかった。愛したはずの妹の、夫の、忘れられない面影が、あどけない表情に重なるたびに生まれるのは、たとえようもない憎しみばかりだった。
大切な人は死んでしまった。あまりにあっけなく、突然に。その寂しさは埋まらない。口に出せなかった憎しみは消えない。簡単に乗り越えられるほど強くはなれない。忘れてしまえるほど、弱くもなれない。
なんの罪もない彩加を、愛したいという切望と、愛せない罪悪感に、心が引き裂かれてしまいそうだった。
―― ひきとらなければよかった
何度も後悔しながら、その後悔とは全く反対の胸の内では、ずるくて残酷な安堵を、育て続けていた。
この世界に、たったひとりきりの自分を、決して見捨てない無心な瞳。どんなに傷つけてもかわらず自分を求め続ける瞳に、救われていた。傷つけてしまう自分に、自分がもっと深く傷つきながら、自分が壊れていく音を、聞いていた。
そんな時、勤務先の上司から食事に誘われた。その上司もひとりで子供を育てていることは知っていた。彩加よりも少しだけ幼い子供のことを、よく相談されていた。
結婚なんて、もう、こりごりだと思っていた。けれどその人の朴訥とした優しさに、いつからか惹かれはじめていた。過去を詮索しないという約束事は今も守られ、穏やかな毎日だけが与えられた。
けれど、その安穏な日々は、彩加に対する憎しみだけを浮彫りにしていった。
彩加を見るたびに、壊れかけた自分の冷たい仕打ちばかりが思い出されて、見ているだけで苛立った。彩加の無心な瞳には、悪鬼のような自分の姿が、今も映っているように思えてたまらなかった。彩加が傍にいるだけで、いつか自分の醜さが家族に知られてしまいそうで、怖かった。
その恐怖は、穏やかな毎日を、少しずつ侵食していった。
どんなに非難されても、彩加をひきとるべきじゃなかった。今こうして突き放すくらいなら、一緒に暮らすべきじゃなかった。
でも、本当は、許したかった。
妹も、優しさばかりの夫も。許せたなら、少しは楽になれる気がしていた。けれど、胸の中にある憎悪は消せなかった。抑えようとすればするほど、いびつに膨れ上がるばかりだった。
彩加には、なんの罪もない。そう、頭ではわかっていた。けれど、ふたりの面影を残す彩加を、どうしても、愛することは出来なかった。この子さえ生まれなければと、思わずにいられなかった。
真実は、触れてはいけない箱の中。空っぽの箱の底に、希望は残されていなかった。
静寂が、彩加の部屋を包みこんでいた。
ポツンと置かれた保険証と白い封筒を見つめて、彩加はじっと動けずにいた。思考を止めた瞳を染めるのは、橙色の夕焼け。それは、彩加に寄り添い続けた、遠い記憶に重なる。
彼女は時折、本当に極々わずかな時間、彩加に優しく接することがあった。
少し体温の低い指先が、頬を、髪を、優しく撫でていく記憶。それがいつだったかは想い出せなくても、その時々の風景や空気の色、感じただろう淡い粉白粉の匂いまで、彩加は鮮明に思い出せた。
それがどんな気分によるものなのかはわからなくても、彩加にとってその気まぐれに与えられる優しさは、何より大切な思い出だった。
だから数えるほどしかない想い出を、幾度も取り出し磨き上げ、宝物のように心の一番大切な場所に、丁寧にしまいこんでいた。
それが、たったひとつの拠り所だったほんの些細な煌きが、今、消えていく。
欠け落ちたピース。幼い心は、戻るべき場所を、とうの昔に失くしていた。
―― おかあさん
振り向かない背中に向かって呼び続けた。
―― おかあさん
思い出の中の母は、いつも冷たい背中ばかりでも、心はいつも告げていた。
―― おかあさん、おかあさんがもしも私を嫌っていても、私はおかあさんが世界で一番好きだよ。ずっとずっと、大好きだよ
言葉は何処に消えたんだろう。今だって、この時だって、想いは胸にあるのに。
なにもかも、ちゃんと諦めていたはずだった。期待を持つことの虚しさを、嫌というほどの失望を、ちゃんと知っているはずだった。
なのに今、この胸の痛みが、彩加に教える。信じるまいと頑なに言い聞かせながら、心のどこかで縋るように求めていた。伝わらないと諦めてしまっている心で、それでもいつか、いつかわかって欲しいと、願い続けていた。
けれど……。
―― おかあさんは、今度こそ、本当に、……本当に、私を捨てた。欠片も残さず、糸ほどのつながりまで、断ち切って
もう来ない。誰も来ない。この部屋にあるのは哀しみの記憶だけ。
もう誰も私を見つめない。見つけない。誰も私を振り向かない。
私がある日突然いなくなっても、誰も泣かない。哀しまない。
きっと、私がいなくなったことにすら、誰も気づかない。
空ろに見上げた薄墨色の空に、遠く小さな星が見える。
見つめることだけ許された、小さな煌めきが瞬く。
瞼の奥にいつもある、遠くに見えるあの場所は、
憧れだけでつくられた、眩く美しい世界。
壊れた心の上にたつ、儚すぎる憧憬。

