硝子のラビリンス

 やわらかそうな髪がさらさらと、風に揺れていた。少し前を歩く彩加の横顔をじっと見つめながら、沙希は思う。
 ―― ほんとうに、綺麗な顔立ちしてる
 その視線に気づいて、彩加が振り返る。
 濃いまつげに縁取られた琥珀色の瞳が、沙希に向けられる。不意に交じり合った視線はあまりにも無防備で、一瞬、時が止まる。自分に向けられた彩加の瞳に沙希は、戸惑いと拒絶、そしてあからさまな寂しさを見たような気がしていた。

 ポツンと見える彩加の空席を眺め、沙希は小さく息を吐く。
 彩加と話さなくなって一週間が過ぎようとしていた。沙希にとってこれは最長記録だった。いつも我慢しきれず自分から話しかけていた。
 でも、今回はどうしても彩加から話しかけて欲しかった。彩加がそうだったように、沙希だって問い詰めたりはしないから。だから、普通に話しかけてきてくれるのを、今か今かと待ちわびていた。
 自分でも掴みきれない気持ちを持て余しているのは、沙希も同じだった。こんなふうに強く、誰かを想ったのは初めてだった。

 この学園に入学した当初、外部からの新入生が五分の一に満たない、エスカレーター式のお嬢様学校で、沙希は居心地の悪さを感じながらも、なんとか日々を過ごしていた。
 部活動がそれほどさかんではないこの学校。けれどテニス部だけは強く、中学時代に憧れていた選手がこの学校にいるという理由だけで、沙希は進路を決めた。
 未来というベールの向こうは、今はまだ遥か彼方にあって、その頃の沙希にとって一番大切で重要なのは、テニスだった。授業なんてうわの空、頭の中はいつも放課後の部活のことでいっぱいだった。
 だからすでにグループが出来上がっているクラスの中で、多少浮いている自分を知っていたけれど、そのことで悩んだことはなかった。

 そうして過ごしていた毎日に変化が起こったのは、夏休み前の体育祭からだった。
 もともと活発で陽気な性格に加え、ほとんどの競技がこなせてそれがトップクラス。体育祭は沙希の独壇場(どくだんじょう)だった。
 そして、テニス部では一年にもかかわらず、その年の新人戦で成績を残したことで、秋には学年のちょっとした有名人になっていた。
 ひょんなことから収まってしまった人気者という位置は、沙希の静かだった毎日を目まぐるしく変えた。けれど、にわかに活気づいた友人達の輪の中に居るのは、純粋に楽しかった。
 そして、シーズンオフの冬休み前に、沙希は彩加を知った。

 日曜の午後、いつもなら練習が終わるとお昼前には帰宅していたのに、その日は先輩達に呼び止められて、皆が持ち寄ったお菓子をつまみながら、他愛ない会話に花を咲かせていた。
 部室の時計が午後二時を指して、そろそろ帰ろうかと腰を上げかけたとき、友人のひとりが沙希を呼び止めた。
「沙希、提出用のデッサン、もう仕上がった?」
 脈絡(みゃくらく)のない質問に「ん?」と問い返しながら振り向いた。
「美術の採点用のデッサン。沙希のクラスも、来週締切りなんじゃないの?」
「……あっ!」
「や~っぱり、絶対忘れてると思ったんだ」
「ヤッバ、全然忘れてた。クロッキー帳も学校に置きっぱなしだよ!」
 すっかり記憶から抜け落ちていた宿題を思い出して、慌てて部室から出て行こうとする沙希に、もう一言、追い討ちがかかる。
「沙希! クロッキー帳の置き場所、わかってるの?」
 ドアノブに手をかけたまま、ハタと立ち止まる。
 通常自分のロッカーに安置されているはずのクロッキー帳。でも、昨日の体育の授業で体操着を取り出したとき、その影はなかった。見かけたら、いくらなんでも気がつくはず。
 おそるおそる振り向く沙希に、その子が可笑(おか)しそうに笑いだす。
「実はね、私、昨日、パステルが足りなくなって、先生のとこに借りにいったの。そしたら美術室の黒板のトコに、沙希のクロッキー帳が飾られてたよ。「いつ気づくんでしょう?」って吹き出しまで書かれてね」
 途端に部室が笑いに包まれる。
 普段なら、一緒になって笑える出来事が、その日は違っていた。提出日ギリギリになっても気づけない自分に呆れて、ズンと落ち込んでしまった。

 しゅんとした気分のまま向かった校舎。
 正面玄関をぬけ、中庭をはさんで建つふたつの棟の前で、沙希は少しだけ迷う。教室の並びとは逆にある美術室の棟に向かうのに、上履(うわば)きを取ってくるのがとんでもなく億劫(おっくう)だった。
 ―― 誰もいないし、もういいや
 そうひとりごちて、靴下のまま廊下に上がり、美術室のある三階へと向かった。
 日曜の午後の学校はシンとした空気に包まれて、上履きを履いて来なかったことを心の中で「正解!」と自画自賛しながら、美術室のドアをそろそろと開ける。
 黒板の右端に立てかけられているクロッキー帳を手に取り、吹き出しを消して美術室を出ようとしたその時、不意に流れ出したピアノの音に、沙希の身体がビクリと竦んだ。
 驚きで跳ねた鼓動が、そのまま好奇心へと変わっていく。
 ―― ……誰……?
 美術室の向かいにある、音楽室の扉が少しだけ開いている。そっと近寄り、その隙間から中を見やる。窓辺のグランドピアノに座っているのは見知った顔。沙希と同学年の……。

「また、一番は早坂さんだね」
 一学期の中間試験の席次(せきじ)で、友人達の声に紛れてそんな言葉が聞こえた。
「あっ、早坂さん! また一番だよ」
 そう言って笑いかけた生徒に、無表情に一瞥(いちべつ)を投げかけ、席次表を見ることもなく通り過ぎていった、冷たい横顔。
「頭いいんだ」
 別段含みもなく、沙希は思ったままを口にした。教科別の席次でさえ全部が一番のその生徒に、今更「おめでとう」もないだろうと思いながら。
 すると、沙希の言葉を受けて、友人のひとりが言った。
「早坂さんは特別だよ。きっと、出来ないことなんてないんじゃない」
 単純な好意とは違う、一段下がって見上げるような、羨望(せんぼう)に近い感情が、その言葉からは読み取れた。
 次に彼女を見かけたのは体育祭。全員参加の百メートル走で、スタートラインに立つ彼女に視線がとまった。
 何の気なしに視線を合わせていたはずが、走り出した一塊(ひとかたまり)から抜け出していく彼女に、沙希の視線が縫いとめられた。軽々と地を蹴る、伸びやかな肢体(したい)。風になびく亜麻色の髪が金色に煌めいて、それはまるで、蝶が羽化(うか)する瞬間を見ているようだった。
 役員から渡された「一番」と書かれた紙を、無造作にゴミ箱に投げ入れ、面倒くさそうに鉢巻(はちまき)を外す端整(たんせいな)な横顔を、見るともなく眺めていた。

 そんな彼女が、誰もいない音楽室でピアノを弾いている。
 美しい旋律(せんりつ)が、夕陽に染まる音楽室を彩(いろど)り、幻想的に滲んでいく。けれど、その夢のような憧憬は、大きく響いた不協和音に掻き消された。
 また、どきりと沙希の鼓動が跳ね上がる。それでも視線を外せずにいた沙希の瞳に、ポロポロと零れる、雫が映った。
「……っ……、ぅっ……」
 ―― ……泣いて……る……?
 声に出せない疑問を肯定するように、細く長く嗚咽(おえつ)は続いて……。
 見てはいけないものを見てしまったように思った。この場所にいてはいけないと感じた。見えない何かに押されるように後ずさり、沙希はその場を離れた。

 そして、それから……。
 沙希は無意識のうちに、彩加の姿を探すようになっていた。
 気にしているつもりはなかった。けれど、廊下で偶然すれ違った時、とくんと震えた鼓動は沙希を振り返らせた。そして、彩加の後姿を見つめながら、追いかけたい衝動にかられている自分に気づいて、沙希は思わず苦笑した。
 不確かな感覚に戸惑うばかりの三学期は瞬く間に過ぎて、日毎に澄んでいく陽光に押し出されるように、新学期がはじまった。
 二年のクラス発表の掲示板で、沙希は真っ先に彩加の名前を探した。そして、同じクラスに自分の名前を見つけ、心密(こころひそ)かに喜んでいた。けれど狭い教室の中、あらためて見る彩加は、沙希が思い描いていた印象からかけ離れていた。
 彩加が示す極端な個人主義は、近づこうとする友人達を拒絶する。
 もともと綺麗すぎて、近寄りがたい雰囲気はあった。けれど、それ以上に彩加には、頑なに内面を他人に覗かせまいとするような厳しさがあった。誰が話しかけても、必要最低限のことしか応えない。応えた後も、それ以上の会話を拒むようにフイと視線をそむける。
 音楽室で見かけた彩加は、沙希の瞳に壊れそうなほど儚げに映った。けれど教室での彩加に、その姿は重ならない。まるで別人だった。
 ―― きっと、多分。あの日の彩加は、……誰も知らない ――
 それは根拠のない優越感だった。
 けれど沙希はそのことに、少しの秘密を共有している、共犯者めいた甘さを感じていた。そして、いつからか、彩加のもつ静かな多面性(ためんせい)を、もっと知りたいと思うようになっていた。

 秘密は、沈黙の誓い。言葉のない、約束。
 ずっと、憧れていた。気づかれないように、知られないように。

 きっかけを探しながら、今一歩が踏み出せずにいた沙希が、彩加に初めて声をかけたのは、春の終わり。
 窓から見える桜並木が、朱鷺色(ときいろ)から萌葱色(もえぎいろ)へと移(うつ)ろっていた。

 偶然にも隣を確保できた科学の授業。
 先輩に呼び出されたのを良いことに、故意(こい)に教科書を忘れて、彩加に話しかけた。突然のことに驚いた風を見せた彩加が、それでも黙って教科書を見せてくれた。
 そして沙希は見つけた。無言で差し出された教科書の向こう側、彩加のノートに見知った詩の一節(いっせつ)を。
 消えかけた、細い鉛筆の線。
 少し右肩上がりの繊細な文字が綴る言の葉に、沙希は曖昧に揺れていた自分の想いが、解き放たれたように彩加に向かって流れだすのを感じていた。

 ふたりきりで過ごした夏の日が、青い草の香りと共によみがえる。
 無理矢理おしかけた、彩加のアパートでの二十日間(はつかかん)。
 最初の頃はそれなりに遠慮もあって、気持ちが通った手ごたえはつかめないまま、ぎこちない日々を重ねていた。
 彩加のまわりには、常に細い糸が張り巡(めぐ)らされていて、ふれたらそれは、紙のようにサックリと沙希の肌を切る。
 細い細い糸は普段は見えないのに、必要以上に近づこうとすると、きらりと光る。けれど、その糸が、はらりとほどけた瞬間を、沙希は鮮明に覚えていた。彩加はきっと忘れている、多分忘れている、沙希の大切な記憶。

 それは彩加の部屋に居座って、十日(とおか)ほど過ぎた日のこと。
 ふたりの食事は、ほとんどが彩加の手作りだった。外食を嫌う彩加は、手慣れた感じで食事の準備をする。沙希が部活帰りに適当に買ってくる食材で、毎日違うメニューをテーブルに並べてくれる。
 自分には部活があるから、それにこの部屋は彩加のテリトリーだからと言い訳しながら、キッチンを避けていた沙希だった。
 けれど、強引(ごういん)に居付いた上に、食事の世話まで任せっきりというのはさすがに気が引けて、部活が休みの日、前日に買ってあった材料を手に、「今日は私が作ります」と宣言し、キッチンに向かった。
 意気込(いきご)みはたっぷり。
 とはいえ、料理なんてものは生まれてこのかた、家庭科の調理実習しか経験がない沙希が選んだメニューは、焼くだけで何とかなるステーキと、遥か昔に習ったコールスローサラダと粉吹き芋だった。
 覚束(おぼつか)ない記憶を掘り起こしながら、もたもたと準備する沙希を、彩加の心配そうな視線が追いかける。たかがキャベツの千切りに四苦八苦(しくはっく)している間に、ジャガイモを入れたお湯がガンガンに沸騰していた。
「わっ!」
 慌てて火を止め、溶けかけたジャガイモに串を刺す。刺されたジャガイモはお湯の中でほろりと崩れてしまう。
「あれ?」
 記憶にはない光景に、思わず声が出る。「?」マークが頭の上を飛び交う。それでも手を休めるわけにはいかない。とにかく記憶の手順を律儀に守って、鍋のお湯を切る。
 塩コショウを適当にふって、蓋を閉じてカッカッカッと鍋を揺する。
「ちょ、ちょっと、沙希」
「えっ?」
「それ、もういいんじゃない?」
「えっ、そう? ってか、彩加、私が何作ってるかわかってるの?」
「粉ふき芋でしょ?」
「あたり! なんでわかった?」
「なんでって、材料とか、手順とか……」
 カッカッカッ。言いかけて、彩加の視線はまた振られだした鍋に向けられる。
「もう、そんなのいいから、ちょっと鍋貸して!」
 さっと立ち上がった彩加が、沙希から鍋を奪い取る。ガス台に戻された鍋の蓋に、恐々といった感じで手を伸ばし、鍋の中をのぞき込んでいる。
「……」
 この沈黙はなんなんだろうと首を傾げながら、沙希も一緒になってのぞき込む。
 鍋の中には、もう原形を留めていない、粉々の残骸。その上、その残骸もほとんどが熱い鍋肌にこびりついている状態で、所々焦げかかっているという有様だった。
 いったい、この物体(ぶったい)は、食べられるんだろうか……?
 唖然(あぜん)とする沙希の隣で、彩加がプーっと吹きだした。
「これ、もう、粉しか残ってないんですけど」
 限界といった感じで、彩加がお腹を抱えて笑い出す。
「沙希ったら、固形の音がまったくしないお鍋を、力いっぱい振り回してるんだもん。絶対おかしいから」
 笑いすぎて途切れてしまう声で言いながら、彩加が笑っている。
 銀の糸が、空気に散って、きらきらと煌めきながらほどけていった。それは彩加が初めて見せてくれた、心の底からの笑顔だった。

 明るい陽射しが容赦(ようしゃ)なく照りつける、快晴の午後。
「ただいまぁ」
 疲れきった身体から搾り出した声が、窓際のカーテンを揺らした風にさらわれる。
「彩加?」
 応えはなく、ひんやりと心地良い静けさが、沙希の火照(ほて)った頬を掠めた。
 出かけているのかな? と思いながら、ドアを細く開けたまま、その隙間に自分の靴を置いて、部屋に上がった。
 すると、ベッドにもたれかかるようにして眠る、彩加がいた。
 穏やかな眠りは柔らかな髪を梳(す)く風にも、膝に置かれた本のページが捲(めく)られることにも乱されない。こんな無防備な彩加を見るのは初めてで、思わずその場に座り込んで、綺麗な寝顔を、ただ見つめていた。
 どれくらいの時間が過ぎたのか、何枚目かのページが彩加の細い指先に触れて、長い睫毛が小刻(こきざ)みに震える。寝ぼけ眼のままぼんやりと沙希を見つめ、ふわりと笑う。
「おかえり」
 彩加の、寝起きの少し掠れた声が、沙希の胸に甘く響いて、沙希の胸がいっぱいになる。彩加はいつからか、「おかえり」と言ってくれるようになっていた。

 揺れる木漏(こも)れ日、萌(も)えたつ翠緑(すいりょく)。眩しすぎる夏の日は瞬く間に過ぎて、空はだんだんと遠くなり、風は日々寂しげに澄んでいった。

 気まぐれな秋の空に、早めに切り上げられた部活の帰り、沙希は中庭に佇む彩加を見つけた。
「なにやってんの?」
 沙希の問いかけに、驚いて振り返る彩加の瞳が、潤んでいるように見えた。その潤んだ瞳は、沙希に初めて彩加を知った日のことを思い出させる。
「……別に」
 さらりと言ってその場から離れようとする彩加の手を、沙希は思わずつかんでいた。
「何?」
 訝しげに問う彩加の声に応えないまま、沙希は彩加の手を引いて、まっすぐに音楽室へと向かった。放課後の、誰もいない校舎を無言で歩く。シンとした空気。陽射しは厚い雲に覆われて、校舎は暗い影に包まれていた。
「……なんで?」
 音楽室の扉に手をかける沙希の、他方(たほう)の指先がわずかに引かれる。
 どうして此処にとでも言うように、彩加の指先が強張(こわば)る。握っていた手を離し、振り向きもせずに、ゆっくりとグランドピアノに向かって数歩進み、沙希が言う。
「ねぇ、弾いて?」
「えっ?」
「弾けるでしょ?」
 彩加の微かな驚きに、振り返って問いかける。
「ねっ、弾いて?」
 もう一度、今度は少し強く言ってみる。すると、綺麗に結ばれた唇が薄く開かれて、彩加が細く息を吐きだした。諦めたような表情で、沙希の横を通り抜け、ピアノの前に座る。
 いつの間にか降り出した雨が、音楽室の窓をポツポツと叩いていた。
 雨音が、彩加が奏でる旋律に優しく寄り添う。薄く曇った硝子窓に、彩加の影が映る。伏し目がちに鍵盤(けんばん)を叩くその姿は輪郭(りんかく)をなくし、セピア色の風景に溶けていく。
 曲の名前は知らない。けれど紡(つむ)がれる旋律は切なく響いて、寂しく降り積もる。窓を伝い落ちる雨だれが、涙の雫のように沙希の心に絡(から)んでいく。
 最後の一音が、雨に溶け込んで、ピアノの蓋を閉じるカタンという無機質な音が、沙希を振り返させる。
 その場に立ち竦む彩加が、問うような視線を投げかけてくる。けれど決して言葉にはしないだろう彩加の性格を、沙希は知っていた。知っていて、わざと答えるつもりはなかった。
 彩加から、聞いて欲しかった。「どうして?」と、「何を考えてるの?」と。自分がいつも口にしてしまう言葉を、彩加に言って欲しかった。

 きっと応えることなんか出来ないと、知っていながら問い詰めたのは、ちょうど一週間前。あの日の空は晴れていただろうか。冬に逆戻りしたような今日の空では、それすら思い出せない。

 彩加の態度が妙だと感じたのは、冬休みが終わってからだった。
 ずっと名前を呼んでいるのに、適当に返事をして、一向に振り向こうとしない。様子がおかしい。なんだか喋(しゃべ)ろうとしない。視線を合わそうともしない。
 それでも、最初は気にならなかった。いつものことと、軽く考えていた。けれど、気づいてしまった。彩加がわざと自分を遠ざけようとしていることに。
「彩加?」
 後ろから呼びかけると、目の前の肩がピクリと震える。
「どうしたの? 元気、ないんじゃない?」
 何か悩んでいることがあるのなら、話して欲しい。彩加のことなら、何でも知りたい。そう思うのに。
「……なんでもない」
 返される言葉はやっぱり冷ややかで、話そうという気がないのがわかる。表情を確認しようと軽く肩にふれると、途端(とたん)に彩加の身体が固くなる。ここのところ、また細くなった頬に、蒼い影が落ちている。
「なんでもないから、離して」
 冷たく言って肩をそびやかす彩加の目尻(めじり)が、赤く染まっているような気がした。それが泣いているように見えて、席を立って彩加の前に回り込もうとした。
「起立!」
 けれど、何かに届きそうだった指先は、授業の始まりの号令に途切れた。その一件の後、彩加は本格的に沙希を避けはじめた。
 遊びに行くことはもちろん、CANONでの待ち合わせでさえ、彩加が頷くことはなくなった。その上、わざと沙希が他の友達といるように仕向(しむ)けようとしたりする。
 それは朝座っていた席を突然替わってみたり、約束した場所に他の誰かをよこしたりという見え透いた行為ではあったけれど、彩加らしからぬその行動に、沙希は翻弄された。
 友人達との会話を意識的に遠ざけてきた彩加が、話したこともないクラスメイトに席を替わってくれと頼み込む。沙希への伝言を、お願いする。
 そんなにまでして自分と居たくないのかと、そう思った瞬間、とてつもない寂しさが沙希の胸を支配した。
 ただの気まぐれだと何度自分に言い聞かせても、込み上げてくる不安は消せず、沙希は放課後、彩加の腕をつかんで屋上近くの踊り場に来ていた。

「……私が、話しかけるの、嫌なの?」
 そう言った瞬間、彩加はひどく傷ついたような瞳をした。
「もう、返事もしたくないくらい、嫌なの?」
「な、……に?」
 意地悪な問いだと知っていた。けれど「何故?」と聞いても、曖昧(あいまい)にはぐらかされるだけだと思った。だからわざと結論を先に言った。なのに切なさは感情を先回りして、堪え切れず涙が零れた。
「沙希?」
 驚いたように呼んだくせに、それでも平静を装うから、
「彩加は、私がなんで泣いてるのか、わかってないよね」
 悔しくて、
「私が今、どんなに傷ついてるかも、わかってないよね」
 子供じみた感傷を、止めることができなくなった。
「なんで私を避けるの!」
 自尊心(じそんしん)の欠片(かけら)も無い言葉。
「違うなんて言わせない! 彩加は私を避けてるでしょ!」
 言ってて、情けなくなる。
「冬休み終わってから、ずっと……、私が気づかないって思ってた?」
 でも、それでも、一度あふれ出してしまった想いは止まらない。
「彩加?」
 呼びかける声に、彩加の瞳が揺れる。
「私は、彩加が好きなんだよ」 
 彩加の瞳が瞠(みは)られる。
「なんでわかってくれないの!」
 たたみかける言葉に、彩加は膠着(こうちゃく)したように動かなかった。
「彩加は、私が嫌いなの?」
 言いながら、ゆっくりと、少しずつ、距離を縮めていった。
「私に、離れて欲しいの?」
 本心が知りたくて伸ばした指先が、バッと音がするほど強く、弾かれた。
 焼け付くように痛んだ指先を握り締めて見上げると、弾いた彩加のほうが泣きそうな瞳をしていた。なのに、その哀しげな瞳とは裏腹な、冷たい言葉が沙希の鼓膜を凍りつかせた。
「そう、思うなら、……そう、すれば、」
 一瞬、世界から、全ての色が抜け落ちた。
 漠然(ばくぜん)と抱(いだ)くだけだった不安は、その瞬間、沙希の目の前で現実に変わった。
 それでも諦め切れなくて、無理やり腕をとって彩加の瞳を確認しようとした。なのに彩加は視線を合わせることさえしてくれない。俯く瞳が、沙希の視線を拒むように、ぎゅっと閉じられた。

 彩加の気持ちが、わからなかった。
 こんなにも拒絶されてしまう理由が、わからなかった。その理由を問い詰めたいと思うのに、もう、彩加の傍にはいられなかった。他の相手なら我慢できることも、彩加が相手だと途端に駄目になる。信じられないくらい気持ちが揺さぶられて、言わなくていいことまで言ってしまいそうになる。
 いたたまれなさに、逃げ出した放課後。
「沙希! 今日は屋内練習だよ!」
 友人の声を無視して、内履きのまま、校舎の外へ飛び出した。
 ずっと、不安だった。ずっと怖がっていた。もう、切れかけているんだろうか、ふたりの繋がりは。それとも最初から、繋がってなんかいなかったんだろうか。いつもいつも、そんなふうに思っていた。
 だって、彩加の心はあまりにも不安定で、つかまえたと思っても次の瞬間、散り散りに散っていく。

 あれから一週間。
 毎日は滞りなく過ぎて、彩加と沙希をとりまく日常は少しも変わらない。けれど、ふたりの距離だけは、日に日に遠のいていた。
 傍にいてさえわからなかったものが、離れたらそれこそ輪郭はあやふやで、いま目の前にある曖昧な線を追いかけても、描かれるトレースは彩加の心じゃない。
 そうわかっていても、その先に進む方法がわからない。知りたいことはたくさんある。伝えたいこともたくさんある。それなのに、その方法が見つからない。
 思わず、頭を抱えて机に突っ伏す。
 どんなに思いを巡らせても、結局はひとつところに戻ってしまう自分の思考に嫌気がさす。感情のふり幅が大きすぎて、心が振り落とされる。頭ではわかっていることに、気持ちがついていけない。
 近づきさえしなければ、傷つくこともないと思うのに、離れていることがどうしようもなく辛い。思い出しても苦しいだけなのに、気がつくと、彩加のことばかり考えている。
 身体を起こして、大きく息を吐きだす。
 もう、いっそのこと、彩加を大嫌いになれたらいいのに……。
 そう思った刹那(せつな)、ひやりと背筋を、冷たい何かが滑り落ちた。投げやりな思考がたどりついた言葉は、沙希を瞠目(どうもく)させた。
 ―― まさか、彩加は……
 バラバラと足元に散らばるだけだったピースが、磁石に吸い付く砂鉄のようにパタパタと当てはまっていく。
 ―― 私に、……嫌われたかったの?
 冬休みが終わってからずっと、彩加は沙希が苛立つことばかりしてきた。
 話しかけても聞こえないふりをし、問いかけてもシラを切り、待ち合わせ場所にも来ない。彩加の理解できなかった行動の全てが、沙希の認めたくない絵をつくりあげようとする。
 ―― でも、なんで?
 もともとの好意は、沙希の一方的なものだった。けれど、彩加の気持ちが、一度も自分に向いていなかったなんて思えない。
 今でも彩加は、視線を微妙にずらして、沙希をまっすぐに見ようとはしない。
 でも、同じ空間にいるだけでも、最初の頃に比べればずいぶん変わったと思う。それでも、逃げ出したいような衝動を持っていることも知っていた。感情を抑えようとしているのが、見ていてよくわかる。
 でも彩加は、それでも離れずにいてくれた。離れようと思えば簡単に離れられる場所にいながら、それでも沙希の傍にいてくれた。こんなふうに、隣にいることを、拒んだりはしなかった。
 ―― 私は、何かを見落としている。でも、いったい、何を?
 彩加が、素直に自分の気持ちを言うわけがないことはわかっていた。
 追い詰めたらいけない。追い詰めたら、彩加は頑なに自分を閉じ込めようとしてしまう。
 そうわかっていながら、あの時は彩加が言いたがらない何もかもを言わせたかった。そうでもしないと納得できない何かが、胸の奥で燻っていた。彩加が、問い詰められることに怯えていると、そう、知っていたのに。
 彩加が、自分の気持ちに素直じゃないことは知っていた。でも、だからと言って、何もかもを自分に都合よく考えられるほど、自惚(うぬぼ)れてもいない。だから、あの時は、彩加が言いたがらない何もかもを、はっきりと言わせたかった。
 それが、どんなに身勝手なことか知っていたけれど、その身勝手な感情は、胸の中で暴れて、頭の中で暴れて、どうすることも出来なかった。追い詰めれば、追い詰めるほど、最悪の結果にしか行き着かないだろうことに、気づいていたのに。

 ―― そう、思うなら、……そうすれば、
 あの日、彩加は酷く哀しげな瞳をしていた。
 その瞳は、ふるえながら、何かを一生懸命に探していた。それに気づいていながら、どうして自分は、待ってやることが出来なかったんだろう。あともう少し優しく待っていれば、もしかしたら真実に、近づけたかもしれないのに。
 言い知れない後悔が、胸いっぱいに広がっていく。

 六時間目の授業が終わってすぐ、沙希は鞄とコートを手に、教室を飛び出していた。
 鳴り終わらないチャイムが、沙希の靴音に絡む。慌しく羽織っただけのコートは冷気を遮断しきれず、沙希の身体に纏いつく。
 けれど、そんな何もかもが、もうどうでもよく、沙希はただひたすら、彩加のアパートに向かって走った。
 少しずつすれ違っていった想い。初めはきっと、些細なズレのはずだった。それが今となってはどうしようもなく遠い。
 苛々と心を削る、噛み合わない感情。求め方を忘れさせる、意味のない意地。そんな取るに足りないちっぽけなプライドが、ふたりの距離を遠ざけていく。
 彩加がどうして自分を避けるのか、ちゃんと確認しなければいけなかったのに、彩加の答えが怖くて無理矢理辛い結論を言わせた。
 自分のプライドを守りたいばっかりに、自分の気持ちを優先させた。「好き」という言葉でさえ、面と向かって言ったのは初めてだったのに、あんな悔し紛れな言い方で、何が彩加に伝わるというんだろう。
 伝わらなければ、意味がない。伝えなければ、終わってしまう。何もかもが。
 息せき切ってアパートの階段を駆け上がり、インターフォンを押した。磨り硝子からぼんやりと部屋の灯りは見えるのに、ドアを叩いても呼びかけても応えは返らず、休んでいるはずの彩加はいなかった。
 高まった鼓動が急速に冷えていく。開かないドアを見上げる沙希の口元が、歪む。

 ―― 待っていてくれる ――
 心の何処かでそう思っていた。けれどそれは自分にとって都合のいい、思い込みに過ぎなかった。
 それでも沙希は、落胆の気持ちを抑え込んで、その場で彩加の帰りを待ってみた。汗ばんだ身体に沁みる寒さをこらえながら、部屋の前の鉄柵に肘を置いて、じっと道路を見つめていた。
けれど、どんなに待っても見渡す道路に人影は見えず、やがて辺りがうっすらと青みがかっていく。遠くに見える街路灯が、ポツリ、ポツリと燈りだす。
 諦めて階段を下りかけたとき、遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。
 階段を降りきった所で、少しだけ背伸びして音の方角に視線をこらす。道の向こうに車のライトが見えて、それがタクシーだということがわかった。通り過ぎるかと思われたタクシーがアパートの前に停まり、開いたドアから彩加が出てくる。
 ―― 彩加!
 思わず駆け寄ろうとした沙希の足元が、けれど次の瞬間、凍りついた。
 沙希に背を向ける彩加の前に、利人が降り立った。同じタクシーから降りた利人が、彩加の肩に軽くふれ、そのまま帰ろうとするのを彩加が呼び止める。何を話しているのか、声は聞こえない。
 けれど、利人のコートを握り締める彩加の甘えるような仕草に、沙希の身体中の血がカッと熱を持った。
 薄闇に鎖されたアパートの壁際に隠れて、沙希はふたつの影が彩加の部屋に消えていくのを、ただ、見つめていた。

 駅へと続く歩道を、とぼとぼと歩きながら、沙希は呆然と想う。
 ―― なんだ、そうだったんだ……
 ぽつんと、言葉が浮かぶ。
 ―― 彩加は、マスターと、付き合ってたんだ
 ふっと、笑う。
 ―― だったら、はっきり言ってくれればよかったのに。私が邪魔だって
 卑屈な想いが、キリキリと胸を締め付ける。
 ―― 避けられて、当然だよね。彩加の家に入り浸って、もしかして少しは私を好きでいてくれるなんて、図々しく想ってる、私なんて
 そこまで思って、もう、たまらず、涙が零れだした。
 ―― 私は……、馬鹿だ……
 わかりあえると思って、思い込んで、何もかもに目を瞑っていた。知りたいくせに、聞く勇気も持てなくて、間違ってばかりいた。自分の猜疑心に振り回されて、彩加の気持ちを少しも理解しようとしていなかった。
 自分のことばかり心配していた。自分が傷つくことばかり怖がっていた。失うまい、失うまいと、束縛することばかり考えていた。
 ―― だから彩加は、マスターとのことを、私に話してくれなかったんだね。だから何も言わないで、離れようとしたんだね
 傷つくことだけ一人前の、何も持たない自分が、彩加に振り向いてもらえるわけがなかった。彩加が、自分を好きになってくれるなんて、そんなこと、あるはずがなかった。
 ―― 彩加
 ぽろぽろと零れる涙が止まらない。諦めなければいけない想いが、それでも痛いほどに胸を叩くから、どうしても涙が止まらない。
 目に見えない何かを、必死になって掻き集めていた。彩加を知りたくて。彩加に近づきたくて。いつまでも変わらないと信じられる何かを、ふたりの間に見つけたくて。彩加とならそれが見つけられると、きっと見つかると、そう思っていた。
 でも、それは全部、自分だけの思い込みだった。自分だけの、思いあがりだった。
 ―― 彩加
 あの、夏の日。あの日ふたりは、ふたりきりの空間で、澄みわたる菫青(きんせい)を見つめていた。何も話さず、身じろぎもしないで、変わっていく空の色を、ただ見つめていた。それだけで、心が重なり合っていくような気がしていた。
 
 でも、もう、勝手に踏み込んじゃいけない。彩加には、彩加の大切な世界がある。
 ―― 其処に、私の居場所はない ――