乗り込んだ救急車で診察券を渡すと、隊員はすぐさま無線をうち、あっという間にふたりを指定の病院へと運んだ。それは十分にも満たない、ほんの数分の出来事だった。
けれど利人は、そのたった数分の間で、自分と彩加の関係性の薄さを、改めて思い知らされていた。
「名前は?」
「年齢は?」
「家族の連絡先は?」
「こういうことはよくあったのですか?」
重ねられる質問に、なにひとつ確かなことは言えなかった。辛うじて答えた名前すら、診察券に書かれている苗字と違うと、訝しげな視線を向けられた。
古びた診察券に書かれていたのは、多分彩加の旧姓なんだろう。けれどそれに思い当たったところで、確信なんかあるはずもなく……。
当然といえば当然、利人と彩加は単なる「マスター」と「お客」の間柄でしかない。そう思った自分に、苦い笑みが浮かんだ。
「意識は!」
「ありません!」
「脈拍は!」
「微弱です!」
口早な確認の後、待ち構えていた医師がちらりと利人を振り返る。そして、その瞳が一瞬、わずかに瞠られた。
「先生!」
「……あっ、第三処置室へ!」
「はい!」
「付き添いの方は、こちらでお待ちください」
救急の待合室は、明るい受付から切り離されて、暗く沈んでいた。
ストレッチャーが通り過ぎた後、利人はひとり置いてきぼりにされたような感覚に陥っていた。看護師に座るようにと促されたソファーは固く、冷たい。静まり返ったその場所は、時間の流れまでが滞っているように感じる。
「どうぞ中へ」
治療の終わりを告げる若い看護師の声に、利人が立ち上がる。けれど、慌てて立ち上がったものの、ドアの前で躊躇していると、中の医師がやわらかく呼びかけてきた。
「どうぞぉ」
そろそろとドアを開くと、救急車の到着を待ってくれていた若い医師が、カルテと思われる白い紙に、サラサラと何かを書き込んでいた。
「……あの……」
おずおずと発した声に医師が顔を上げ、懐かしそうに笑う。
「利人だろ?」
「えっ?」
「わかんないかな? 俺だよ、俺」
「えっ?」
驚いて目を丸くする利人に、医師はバリバリと頭を掻く。すぐ横にある鏡に自分を映して情けなさそうに肩を落とす。
「俺、そんなに老けたかぁ? お前は一目でわかったんだけどなぁ……」
寝癖であっちこっちにはねている髪を両手で撫で付けて、胸ポケットにさしてある黒縁眼鏡をかけ、前髪を押さえて利人を振り返る。
「これでも駄目か?」
「あっ!」
顔半分を覆ってしまいそうな大きな黒縁眼鏡に、黒い詰襟の学生服が重なった。
「片桐!」
「やっと思い出してくれたか」
ほっとしたように笑うと、かけた眼鏡を外して、ぱさりと前髪を下ろす。
「今はコンタクトにしたんだよ。当直明けなもんで髭も剃ってないからな。わからなくってもしょうがないか」
ちょっとだけ寂しそうに言って、片桐は顎のあたりをさわさわと撫でながら、もう一度鏡を覗き込んでいる。
高校、大学と一緒だった片桐と利人は、仲が良いという間柄ではなかった。学部も違ったし、もちろんゼミも違っていた。けれど、同じ高校からのよしみで時々は言葉を交わしていた。
高校時代は模範的優等生で、生徒会役員まで務めた片桐は、大学ではもっぱら研究室にこもりっきりになっている変わり者として有名だった。合コンや同好会なんかに参加することもなく、思い出せるのが邪魔そうに見えた眼鏡だけというのが、なんとなく笑える。
「この病院に勤めてるなんて、知らなかったよ」
「社会見学ってとこかな。親父が元気なうちだけさ」
父親が開業した診療所を継ぐんだと聞いたのは、大学の時。
学生時代からずっと、ひとつの目標に向かってレールの上を直走ってきた片桐は、利人にとって遠い存在だった。
それでも楽しく語り合う思い出なんかはなくても、顔見知りというだけで緊張感が和らぐ。
「ところで、彩加ちゃんとはどういう関係なのかな?」
けれど世間話は早々に切り上げられ、片桐がさくっと本題に入る。唐突な質問に口ごもる利人をちらりと見上げる。
「まさか、身内?」
「いや……、彼女のアパートの近くで、喫茶店をやってるんだけど……」
「喫茶店? 利人が?」
「うん」
「へぇ~、なんか意外」
「そうか?」
「うん。なんかじゃないな。すっごく意外かも」
「なんで?」
「いや、利人って人間嫌いな印象、あったからさ」
あっけらかんと言いながら、左手に持ったペンでカルテに何かを書き込んでいる。そういえばコイツ両手使えるんだよな、なんてどうでもいいことを思い出しながら、利人は片桐の観察眼に少しだけ驚いていた。
他人との付き合いを煩わしいと感じながら、それなりにこなしてきたつもりでいた。でも、そんな隠れ蓑も、片桐にとっては蚊帳の役にもたたなかったらしい。確認するつもりなんかさらさらないといった感じで、ポンと突き放すように言い切る片桐に、利人が小さく笑う。
「まっ、それは置いとくか。それで?」
「あっ……、彼女は常連なんだけど、最近ちょっと元気がなくて、毎日来てくれてたのに、今日はいつもの時間に来なかったんで、心配になって彼女のアパートに行ってみたんだ。そしたら、具合が悪そうだったんで……」
「で、此処に来たと」
「うん。此処の診察券が、彩加の部屋の、テーブルの下に落ちてたんだよ」
「あっ、これね」
プラスチックのカードをひらりと摘まんで見せる。利人が頷くと、そのカードとカルテを見比べながら問いかける。
「カルテに書かれてる連絡先が、変わってしまってるみたいなんだけど、じゃ、そこのアパートでいいのかな?」
「あっ……、いや、実家は別にあるって聞いてる」
「実家?」
「うん。母親が再婚して、新しい家に引っ越したって」
「再婚?」
「うん」
「じゃ、今のアパートには、彩加ちゃん、ひとり?」
「……そう、聞いてる」
少しだけ躓いた会話に、利人が訝しげに頷くと、片桐は何かとても苦いものを噛んだときのように口元をゆがめた。
「彼女はとうとう、彩加ちゃんを手放したのか……」
片桐の言う「彼女」というのが、彩加の母であることが、すぐさま思い当たった。
彩加の話の中で、一度も優しさを感じたことのない母親像が、利人の頭の中で暗いシルエットになって思い浮かぶ。
「彩加ちゃんのお母さんに、会ったことある?」
「いや」
「そっか」
短く答えて、片桐は口を噤む。パラパラとカルテをめくりながら、小さく溜息する。
「血液検査の結果です」
「あっ、ありがとう」
看護師から受け取った結果に視線を走らせ、気難しげに眉を顰める。
束の間の沈黙。
カーテンで仕切られただけの処置室は、隣の診察の音がよく聞こえる。なのにこの場所は現実から切り離されたように、静かだった。目の前の片桐以外が、遠のいていく。
「片桐」
沈黙を破ったのは、利人だった。
ぽつんと宙に浮いた声音は、自分でも驚くほど弱々しく、乾いていた。なかなか病状を告げようとしない片桐に、利人の中で不安だけが育っていた。自分でも気づかないうちに育ってしまった不安は、利人の声を詰まらせる。
「彼女の病名は、なんなんだ?」
自分が聞くことが、はたして許されるのか。また、これを聞き出すことで、育ってしまった不安を引き抜くことができるのか。それはまったくわからなかった。けれど、どうしても、聞かずにはいられなかった。
「なんか、特殊な病気なのか? まさか、このまま入院なんてことはないよな?」
問い詰めるように言葉を重ねる利人を、片桐が見つめる。眼鏡の時には気づけなかった鳶色の瞳が、まっすぐに利人に向けられる。
「片桐」
答えを促すように、もう一度呼びかける。
利人の呼び声には、懇願するような響きがこもっていた。その必死さを宥めるように、片桐の口調が少しだけ優しいものになる。
「大丈夫だよ」
それは安堵を誘う言葉のはずだった。
「今の点滴が済んだら帰れる。入院の必要はない」
けれど「帰れる」と言いながら、片桐の表情は暗い。
「彼女の病名は?」
誤魔化されないぞとばかりに、利人が同じ問いを重ねる。ちらりと利人を見やり、おもむろに立ち上がる。白衣に利人が手を伸ばしかけたとき、片桐が看護師を呼んだ。
「ちょっと談話室に行ってくる。何かあったら、呼びにきて」
「はい」
片桐に連れられて入った「談話室」と呼ばれるそこは、病院内でも限られた喫煙ルームらしく、脚の長い灰皿が、いくつか置かれていた。片桐とふたり、並んで座るソファーは窓に向けられ、目の前には灰色の冬空が、寒々しく広がっている。
「医者にはな、守秘義務があるって知ってるか?」
「……うん」
「身内でもないお前に、ベラベラしゃべって良いと思うのか?」
「……思わない」
「なんでわかってて聞くかなぁ」
思いっきり脱力してソファーにのけぞる片桐の横で、利人がしゅんと肩をすくめる。
申し訳ないと思う気持ちと、なんとしても彩加の病状を知りたいという気持ちとが、利人の中でごっちゃになっていた。冷静に話したいと思っているのに、どうにもこうにも感情がついてこない。
なんとか落ち着きを取り戻そうと、胸ポケットから煙草を取り出した。
「あれ? お前、煙草吸ったっけ?」
片桐が驚いたように身を乗り出す。
「お前確か、喘息持ちだったよな?」
そう問われて初めて、利人は自分がいつから愛煙家になったのかと思いを巡らせた。実際、子供の頃は、他人の煙でさえ気を使っていた。そんな自分が、いったいいつから……。
そして利人は、不意に思い出す。大学半ばで、ぽつんとひとり取り残された時期を。
その時期を殊更辛かったとは思っていなかった。寂しいとも。時折訪れる喪失感はあっても、それは一過性のもので、心にわだかまる程のものではなかった。
けれど、利人が煙草を吸いだしたのはちょうどその頃からだった。
「そうやって吸ってるとこみると、今はすっかりいいんだな」
片桐の嬉しそうな声音に、浮遊していた意識がすっと利人に戻ってくる。
「俺にも一本くれる?」
振り出した煙草を片桐に渡し、火をつけてやると「二十四時間ぶりだ」と言って旨そうに煙を吸い込む。またドサリとソファーに沈み込んで、銜え煙草のまま、誰にともなく話し始める。
「彩加ちゃんがこの病院に通っていたのは、二年くらいかな。最後に会ったのは、五年以上前になる」
独り言みたいな片桐の言葉に、利人の視線が向けられる。その視線をかわすように立ち上がった片桐が、窓際の手すりに両肘をついて遠くを見つめる。
「詳しい検査はもちろん必要だけど、血液検査の結果から、多分、自家中毒で、間違いないと思う」
「…… ? ……、自家……中毒?」
戸惑うように繰り返す利人に、背を向けたまま頷く。
「そんな……、だって、その病気は……」
利人の言葉が途切れる。
入退院を繰り返した小児科病棟で、利人はその病気に苦しむ同年代の子供達を何人となく見てきた。けれどその症状は利人の病気と一緒で、ある年代を過ぎるとパタリと消えていた。
言いかけて言葉を飲み込む利人の、納得しかねるようすに、片桐が苦笑する。
「お前が言いたいことはわかるよ。通常自家中毒ってのは、幼年期特有のもんだからな」
軽く言って、短くなった吸殻を灰皿に放る。灰皿の水の中から、じゅっと微かな音が聞こえてくる。
「でも、中にはいるんだよ。成人になっても、同じ症状に苦しむ人が」
何も言えずにいる利人に、片桐が続ける。
「彩加ちゃんの場合、多分、周期性ACTH症候群という疾患名がつくことになる」
「……AC……TH……?」
「小児科の慢性特定疾患に入ってる病名だ。でも、この病気は成人してからも完治できない場合がある」
片桐の言葉が、とつとつと続く。
「この病気は周知が少ないだけに、治療法もこれといってない。それも、身体そのものというよりも精神的な部分によるところが大きいからなんだ。だから投薬もそれほど劇的な役目を果たすとは思えない」
どこか弱々しくさえ感じる片桐の言葉に、利人が問いかける。
「どんな薬があるんだ?」
「吐き気に関してはガスモチン錠という吐き気止めの薬がある。吐き気がおさまることで安定してくれればいいんだが、それでも駄目な場合は精神安定剤を使うことになる」
「精神、……安定剤?」
「ああ、最初は抗不安薬をいくつか試して様子を見て、それでも症状が治まらない場合は、抗精神病薬を試すことになる」
「抗……、精神病?」
「ああ、うつ病なんかでも使われるヤツだ」
「……うつ病……」
「この病気はうつ病と密接な繋がりがあるって言われてるんだよ」
目の前の大きな硝子の向こうには、ちらちらと雪が舞いはじめていた。遠い空から降る雪は、見上げる利人に向かって落ちてくる。
「俺が、彩加ちゃんに初めて逢ったのは、彼女が十歳のときだ」
救急で運ばれてきた彩加を、小児科医から紹介されたと続ける。
「それからずっと、彩加ちゃんの担当医として、俺が診察してた」
くるりと振り返って、利人を見下ろす。
「俺のこの病院での専門は、心療内科だ」
―― 心療内科 ――
わずか十歳の子供が、心の診察を受けなければいけない理由。原因は、数えるほどしかないだろう。
「虐待……、か……?」
自分の言葉が、冷たい指先になって利人の胸底をなでる。
「いや」
そっけなく否定する片桐の、けれど気難しげな表情は変わらない。
「虐待じゃない」
「じゃ、なんで……」
詰め寄るように言いかけた利人を掌で制して、片桐がドサリとソファーに腰を下ろす。
「虐待や育児放棄のように、目に見えて原因がわかるものなら、もっと手段はあった。でも、彼女の場合、違っていた。彼女は憎らしいくらいの周到さで、彩加ちゃんを扶養してたんだよ。親と名のつく人が常識の範疇の対応をしてるなら、他人が無理矢理食い込むことは出来ない。たとえそれが、徹底的な無関心から来る、義務感だけだとしてもな」
苦々しく言い放つ。
「なぜ……、そう、言い切れるんだ……?」
喉がはりついて、利人の言葉が途切れる。
「俺には、どうしても、彼女が彩加ちゃんを愛してるとは、思えなかったんだ。っていうより、本物の親子かどうかさえ疑ってたよ」
片桐の温かみのある鳶色の瞳が、眇められる。
「俺が面談したとき、彼女は表情も変えないで、精神科でも小児科でも、入院が必要ならそうしてください。私に聞かれても、わかりませんからって、そう言ったんだぞ」
片桐の声に、じわりと怒りが滲む。
「そのうえ、自分の子供の誕生日を、即座に答えられない……、いや、覚える気のない親に、愛情なんかあるもんか。あの母親は、子供の誕生日を、保険証を取り出して確認したんだぞ!」
ひんやりと、空気が張り詰める。
「……それは、気が動転してたとか、たまたま思い出せなかったとか……」
誰のための言い訳なのか、利人は自分の確信のない言葉の弱さを知っていた。
「彼女は、きわめて冷静だったよ。泣きながら吐き続ける娘を、鬱陶しそうに見下ろすぐらいにな」
談話室から入院棟へと場所を変え、利人は痛み止めで眠る彩加の枕元にいた。空いていた病室には空のベッドが並び、窓の外には寒々しい空しか見えない。
視線を下すと、いつも大人びた表情しか見せない彩加の、不思議なほどあどけない寝顔がある。
―― 俺には、どうしても、彼女が彩加ちゃんを愛してるとは、思えなかったんだ。
片桐の、悲痛な声音が、利人の鼓膜の底で繰り返される。
『◆「うつ病」の発症には「視床下部―下垂体―副腎」系の活性上昇、特にCRFニューロンの増加、CRF遺伝子の発現昂進が関与している。
◆小児期に虐待や遺棄などの不幸な体験を重ねると、CRFニューロンの持続的な活性化、増大、閾値の低下をきたし、成人してからの「うつ病」発症につながる。
上記2点より、発展途上にある脳は、反復するストレス反応に対し永続的な変化をきたし、CRFの放出やCRFに対する感受性を慢性的に増強させ、犠牲者に一生「うつ病」にかかりやすい危険性を背負わせることになる。
故に、周期性嘔吐症は、「小児の一時期にみられる一過性疾患」から「成人に到っても、うつ病という広大なスペクトラムをもつ疾患」へとつながる可能性を秘めていることになる。』
それは、片桐に見せてもらった医学書の一文だった。
「分からないところは分からないままでいい。分かるとこだけ拾い読みして見てくれ。俺が何を言いたいのか、彩加ちゃんを知っているおまえになら、分かるだろう?」
片桐が言うように、拾い読みだけで、片桐の言わんとする内容が、分かるような気がした。
そして、その文の一節だけが、利人の思考に繰り返された。
―― 小児期に虐待や遺棄などの不幸な体験を重ねると ――
目に見える虐待ですら見つけることは難しいのに、意識上の、個々に与えられる感受性の違いから受けとってしまう目に見えない虐待を、誰が見つけられると言うんだろう。奪い取られ、放り出された子供時代を、誰が埋めてやれると言うんだろう。
蒼ざめた横顔。伏せられた瞼。翳る睫毛。抱き寄せた時のあまりにも細い肩が、はっきりと利人の腕によみがえった。あどけない寝顔が、涙で歪む。とうとう堪えきれず、涙が零れた。
―― ……おかあ、……さん……
無意識の中「おかあさん」と呼んでしがみついてきた小さな手に、搾り出された涙を拳で拭って、利人は立ち上がる。病室を包み込む蒼い静けさに耐え切れず、蛍光灯をつけた。
すると、微かに身じろぐ気配がして、利人はベッドに駆け寄った。覗き込んだ視線の先で、長い睫が震える。
「彩加?」
「……マス……ター……?」
利人の顔を確認するように瞬く彩加に笑って見せながら、ナースコールを押した。
「……病、院?」
彩加の言葉に黙ったまま頷く。バタバタと忙しない足音のあと、小柄な看護師がドアを開けるなり、満面の笑みで問いかける。
「やっと目が覚めたねぇ。吐き気はもう大丈夫かな?」
眩しげに見上げるだけの彩加に、ころころと笑いかける。
脈を取り、手早く血圧を確認すると、自分の腕に直接数字を書き込んで、「喉、渇いてない?」と問いかける。
「もし気持ち悪くなかったら、水分摂った方がいいから、飲めるかな?」
そう言って水差しを口元に出され、戸惑ったように彩加の視線が揺らぐ。けれど諦めたように口を開くと、少しだけ水を含んだ。
「それじゃ、先生呼んでくるから、ちょっと待っててね」と、ドアまでいったかと思ったら「あっ、そうだ」とポンと手を叩いて、ポケットを探りながら回れ右する。
「熱、測っててくれるかな。手で握るだけでいいからね」
取り出した体温計を彩加に握らせると、くるんとベッドに背を向け、今度こそ小走りでドアの向こうに消えていった。
「つむじ風みたいだな」
くるんくるんと向きを変えながら、ひらひらと病室を出て行った看護師を見送って、利人が冗談交じりに言うと、彩加が微かに笑う。その笑顔に少しだけホッとして、利人が問いかける。
「今はもう、辛くない?」
出来る限りの優しさをこめた言葉に、彩加の瞳がみるみる潤んでいく。
「吐き気は治まったんだって?」
片桐の明るい声に、彩加の瞳が大きく揺れる。
「……先生……」
言葉に詰まって布団を引き寄せる彩加の頭に、片桐がぽんと掌を置く。ぽんぽんとやわらかく、宥めるように彩加に触れる。その様子を見つめながら、利人はそっと後ずさり、廊下へと移動した。
―― 俺とお前が知り合いだってこと、ちょっとの間、内緒にしておいてくれるか?
それは、利人と片桐の談話室での最後の会話だった。
―― 過去に問診していたとはいえ、五年も間が空いてる。俺達が顔見知りだってことが、彩加ちゃんにとってプラスになるのか、マイナスになるのか、今はまだ、判断がつかないんだ。だから、申し訳ないんだが、ちょっと協力してくれ。
医師と患者との距離感がどういうものなのかはわからなくても、片桐の言う言葉は素直に理解できた。
突然の体調不良だけでも、彩加はきっと混乱している。その混乱を静めるためにも、彩加を動揺させるような現実は出来る限り排除しようということなんだろう。
そう思いながら、利人は救急用の窓口で会計を済ませ、彩加が病室から出てくるのを待っていた。
彩加のアパートの前、病院から乗り付けたタクシーを降りて、すぐに店に向かおうとする利人を彩加が引き止める。
「マスター、ちょっとだけ、寄って行ってくれる? あの、ちょっとだけでいいから……」
利人のコートの端をつかんで、彩加が言う。見下ろす心細げな表情に、利人は「どうして?」と問うことも出来ないまま頷いていた。
少しだけ待ってほしいと頼まれて、ドアの前で待っていると、そっとドアが開く。
彩加に促されて入った部屋は、きれいに片付けられていて、まるでチェックイン前のホテルのように、無機質な空間が広がっていた。
朝には気づけなかった、高校生の女の子の部屋とはとても思えない殺風景さが、利人の胸にちりちりとした痛みを感じさせる。
ぼんやりと硝子テーブルの前に座っていた利人の前にティーセットが置かれ、彩加が向かい側に座る。淹れてくれた紅茶に手を伸ばそうとした利人の前に、白い封筒がすっと差し出された。
「何?」
眉を顰めて問いかける。
「あの……、今日の、診察代。……それと、タクシー代、とか……」
ついさっき、精算のためにと手渡した領収書を彩加は確認したんだろう。そう思い至っても、その大人びた対応にやりきれなさがこみあげてくる。
「精算、終ってからでいいよ」
「でも、」
「いいって!」
封筒を押し返しながらの声に、少しの怒気がこもってしまった。
ハッとして見上げた視線の先、唇を噛んで封筒に手を置く彩加は、いつもと違ってとても幼く見えた。その幼気なようすに、利人は慌てて自分の大人気ない態度をひるがえした。
「いや、ごめん。あのね、今日じゃなくっていいよ。彩加、ゆっくり休んだ方が良いよ。こんなの気にしなくっていいから、元気になったらまた店においで。そのほうがずっと嬉しいよ」
そう言って笑うと、彩加の薄茶の瞳が、光を集めて揺れた。
「彩加?」
泣くのではないかと、そう思った。けれどそれは一瞬のことで、彩加は潤んだ瞳を隠すように視線を落とした。
「精算、出来ないかもしれないから……」
彩加の言葉に、利人の眉根が寄る。
「此処には、保険証、持ってきて、ないの」
利人の口の中が、どうしようもなく苦いもので満たされていく。
「でも、おかあさんには、……言いたくない」
予想できる言葉だった。もしかしたらと、思っていた。けれど、
―― ……おかあ、……さん……
彩加は無意識の中、確かに母親を呼んだのに。母親に、助けを求めていたのに。彩加の細い声が、忘れられない。
「なんで?」
それは残酷な問いかもしれない。けれど、利人は聞いた。聞かずにはいられなかった。
「言っても、治らないし、……おかあさんには、……鬱陶しいだけだから」
彩加の心に刻み込まれている、母親の言葉はわからない。けれど、彩加の自分を責める声音は、背筋が冷えるような想像ばかりを掻き立てる。
「彩加だって好きで病気になってるわけじゃないんだから、そんなの気にすることないよ」
利人のやんわりとした否定に、彩加は俯くばかりで何も答えようとしない。
「今日みたいなことって、……よくあったの?」
彩加が話せるように、優しさを総動員して声を落ち着かせた。
「気持ち悪くなることは、たまにあったけど、今日みたいなのは、初めてかもしれない」
ぷつ、ぷつと、途切れる言葉。翳る瞼の青さに、彩加の憔悴が見てとれる。
「普段だったら、一度吐けば楽になるのに、今日は、何度吐いても、駄目だったから」
慣れた言い方に不安を覚えて、利人が口を開く。
「吐き気は、よくあったの?」
「ん……。気持ち悪く、なるのはね」
痛ましいとしか言いようがない横顔に、それでも淡い笑みを浮かべる。
「お母さんは、そのこと、知ってるの?」
力ない笑みを口元に留めたまま、彩加がゆるく首を振る。もう、それ以上はとても問うことが出来なくて、利人は意識的に明るい声音をつくる。
「とりあえず、さ、病院には通わなきゃいけないんだから、保険証だけは送ってもらいなよ。理由なんて適当に、健康診断とかでいいじゃん。それでちゃんと診察してもらって、原因さえわかれば、そんな気持ちが悪くなるのなんて、あっという間に治っちゃうよ」
確信なんかない、その場限りの言葉を並べて、彩加の瞳を覗き込んだ。その言葉に頷く彩加に、病院の帰りに店に寄るようにとだけ言い置いて、利人は彩加の部屋を後にした。
中途半端に閉めただけの店が気になって、利人が一旦店に戻ると、店のドアの隙間に少女達からのメッセージが挟み込まれていた。
明るい、無邪気な文面が、どうしてか、滲んでいく。それが、瞳に溜まっていく涙のせいだと気づいた瞬間、利人は格子硝子の桟に拳を打ち付けていた。ガンと鈍い音の後、雪の雫が、ハラリと散る。
口先だけの慰めなら、いくらだって言える。このまま相手の不安や痛みから目をそらしてしまえるなら。けれど今の利人には、それすら満足に出来なかった。
彩加を想う気持ちはある。確かにある。でも、この想いこそが、より一層、彩加を傷つけてしまいそうな不安が消せない。
いつか冷めてしまうくらいの想いのために、気まぐれな優しさを与えたところで、その傷が癒えるわけがないことを、利人自身、痛いほどに知っていた。
大学時代に重ねた恋愛。それはいつだって、簡単に終わりを迎えた。
甘いだけの恋愛期間は長くは続かなくて、肌を重ねた瞬間その思いは妙に生々しく利人を追いつめた。自分を縛りつけようとする女性達の真綿のような触手は、自分を支配する為だけに差し出された母の愛情と重なって、どうしようもない嫌悪感ばかりが生まれた。
そして気持ちは、急速に冷めていった。
恋をしなくなった長い年月は、利人の中で何かを鈍らせ、麻痺させ、膠着させていた。
本当にわからないのか、わからないふりをしているのか、それすらも自分では、もうわからなかった。わからなく、なってしまっていた。
遠のいていく想い。見出せない真実。それら全てが、欠けて落ちた部品のように、戻るべきパーツを探していた。
けれど利人は、そのたった数分の間で、自分と彩加の関係性の薄さを、改めて思い知らされていた。
「名前は?」
「年齢は?」
「家族の連絡先は?」
「こういうことはよくあったのですか?」
重ねられる質問に、なにひとつ確かなことは言えなかった。辛うじて答えた名前すら、診察券に書かれている苗字と違うと、訝しげな視線を向けられた。
古びた診察券に書かれていたのは、多分彩加の旧姓なんだろう。けれどそれに思い当たったところで、確信なんかあるはずもなく……。
当然といえば当然、利人と彩加は単なる「マスター」と「お客」の間柄でしかない。そう思った自分に、苦い笑みが浮かんだ。
「意識は!」
「ありません!」
「脈拍は!」
「微弱です!」
口早な確認の後、待ち構えていた医師がちらりと利人を振り返る。そして、その瞳が一瞬、わずかに瞠られた。
「先生!」
「……あっ、第三処置室へ!」
「はい!」
「付き添いの方は、こちらでお待ちください」
救急の待合室は、明るい受付から切り離されて、暗く沈んでいた。
ストレッチャーが通り過ぎた後、利人はひとり置いてきぼりにされたような感覚に陥っていた。看護師に座るようにと促されたソファーは固く、冷たい。静まり返ったその場所は、時間の流れまでが滞っているように感じる。
「どうぞ中へ」
治療の終わりを告げる若い看護師の声に、利人が立ち上がる。けれど、慌てて立ち上がったものの、ドアの前で躊躇していると、中の医師がやわらかく呼びかけてきた。
「どうぞぉ」
そろそろとドアを開くと、救急車の到着を待ってくれていた若い医師が、カルテと思われる白い紙に、サラサラと何かを書き込んでいた。
「……あの……」
おずおずと発した声に医師が顔を上げ、懐かしそうに笑う。
「利人だろ?」
「えっ?」
「わかんないかな? 俺だよ、俺」
「えっ?」
驚いて目を丸くする利人に、医師はバリバリと頭を掻く。すぐ横にある鏡に自分を映して情けなさそうに肩を落とす。
「俺、そんなに老けたかぁ? お前は一目でわかったんだけどなぁ……」
寝癖であっちこっちにはねている髪を両手で撫で付けて、胸ポケットにさしてある黒縁眼鏡をかけ、前髪を押さえて利人を振り返る。
「これでも駄目か?」
「あっ!」
顔半分を覆ってしまいそうな大きな黒縁眼鏡に、黒い詰襟の学生服が重なった。
「片桐!」
「やっと思い出してくれたか」
ほっとしたように笑うと、かけた眼鏡を外して、ぱさりと前髪を下ろす。
「今はコンタクトにしたんだよ。当直明けなもんで髭も剃ってないからな。わからなくってもしょうがないか」
ちょっとだけ寂しそうに言って、片桐は顎のあたりをさわさわと撫でながら、もう一度鏡を覗き込んでいる。
高校、大学と一緒だった片桐と利人は、仲が良いという間柄ではなかった。学部も違ったし、もちろんゼミも違っていた。けれど、同じ高校からのよしみで時々は言葉を交わしていた。
高校時代は模範的優等生で、生徒会役員まで務めた片桐は、大学ではもっぱら研究室にこもりっきりになっている変わり者として有名だった。合コンや同好会なんかに参加することもなく、思い出せるのが邪魔そうに見えた眼鏡だけというのが、なんとなく笑える。
「この病院に勤めてるなんて、知らなかったよ」
「社会見学ってとこかな。親父が元気なうちだけさ」
父親が開業した診療所を継ぐんだと聞いたのは、大学の時。
学生時代からずっと、ひとつの目標に向かってレールの上を直走ってきた片桐は、利人にとって遠い存在だった。
それでも楽しく語り合う思い出なんかはなくても、顔見知りというだけで緊張感が和らぐ。
「ところで、彩加ちゃんとはどういう関係なのかな?」
けれど世間話は早々に切り上げられ、片桐がさくっと本題に入る。唐突な質問に口ごもる利人をちらりと見上げる。
「まさか、身内?」
「いや……、彼女のアパートの近くで、喫茶店をやってるんだけど……」
「喫茶店? 利人が?」
「うん」
「へぇ~、なんか意外」
「そうか?」
「うん。なんかじゃないな。すっごく意外かも」
「なんで?」
「いや、利人って人間嫌いな印象、あったからさ」
あっけらかんと言いながら、左手に持ったペンでカルテに何かを書き込んでいる。そういえばコイツ両手使えるんだよな、なんてどうでもいいことを思い出しながら、利人は片桐の観察眼に少しだけ驚いていた。
他人との付き合いを煩わしいと感じながら、それなりにこなしてきたつもりでいた。でも、そんな隠れ蓑も、片桐にとっては蚊帳の役にもたたなかったらしい。確認するつもりなんかさらさらないといった感じで、ポンと突き放すように言い切る片桐に、利人が小さく笑う。
「まっ、それは置いとくか。それで?」
「あっ……、彼女は常連なんだけど、最近ちょっと元気がなくて、毎日来てくれてたのに、今日はいつもの時間に来なかったんで、心配になって彼女のアパートに行ってみたんだ。そしたら、具合が悪そうだったんで……」
「で、此処に来たと」
「うん。此処の診察券が、彩加の部屋の、テーブルの下に落ちてたんだよ」
「あっ、これね」
プラスチックのカードをひらりと摘まんで見せる。利人が頷くと、そのカードとカルテを見比べながら問いかける。
「カルテに書かれてる連絡先が、変わってしまってるみたいなんだけど、じゃ、そこのアパートでいいのかな?」
「あっ……、いや、実家は別にあるって聞いてる」
「実家?」
「うん。母親が再婚して、新しい家に引っ越したって」
「再婚?」
「うん」
「じゃ、今のアパートには、彩加ちゃん、ひとり?」
「……そう、聞いてる」
少しだけ躓いた会話に、利人が訝しげに頷くと、片桐は何かとても苦いものを噛んだときのように口元をゆがめた。
「彼女はとうとう、彩加ちゃんを手放したのか……」
片桐の言う「彼女」というのが、彩加の母であることが、すぐさま思い当たった。
彩加の話の中で、一度も優しさを感じたことのない母親像が、利人の頭の中で暗いシルエットになって思い浮かぶ。
「彩加ちゃんのお母さんに、会ったことある?」
「いや」
「そっか」
短く答えて、片桐は口を噤む。パラパラとカルテをめくりながら、小さく溜息する。
「血液検査の結果です」
「あっ、ありがとう」
看護師から受け取った結果に視線を走らせ、気難しげに眉を顰める。
束の間の沈黙。
カーテンで仕切られただけの処置室は、隣の診察の音がよく聞こえる。なのにこの場所は現実から切り離されたように、静かだった。目の前の片桐以外が、遠のいていく。
「片桐」
沈黙を破ったのは、利人だった。
ぽつんと宙に浮いた声音は、自分でも驚くほど弱々しく、乾いていた。なかなか病状を告げようとしない片桐に、利人の中で不安だけが育っていた。自分でも気づかないうちに育ってしまった不安は、利人の声を詰まらせる。
「彼女の病名は、なんなんだ?」
自分が聞くことが、はたして許されるのか。また、これを聞き出すことで、育ってしまった不安を引き抜くことができるのか。それはまったくわからなかった。けれど、どうしても、聞かずにはいられなかった。
「なんか、特殊な病気なのか? まさか、このまま入院なんてことはないよな?」
問い詰めるように言葉を重ねる利人を、片桐が見つめる。眼鏡の時には気づけなかった鳶色の瞳が、まっすぐに利人に向けられる。
「片桐」
答えを促すように、もう一度呼びかける。
利人の呼び声には、懇願するような響きがこもっていた。その必死さを宥めるように、片桐の口調が少しだけ優しいものになる。
「大丈夫だよ」
それは安堵を誘う言葉のはずだった。
「今の点滴が済んだら帰れる。入院の必要はない」
けれど「帰れる」と言いながら、片桐の表情は暗い。
「彼女の病名は?」
誤魔化されないぞとばかりに、利人が同じ問いを重ねる。ちらりと利人を見やり、おもむろに立ち上がる。白衣に利人が手を伸ばしかけたとき、片桐が看護師を呼んだ。
「ちょっと談話室に行ってくる。何かあったら、呼びにきて」
「はい」
片桐に連れられて入った「談話室」と呼ばれるそこは、病院内でも限られた喫煙ルームらしく、脚の長い灰皿が、いくつか置かれていた。片桐とふたり、並んで座るソファーは窓に向けられ、目の前には灰色の冬空が、寒々しく広がっている。
「医者にはな、守秘義務があるって知ってるか?」
「……うん」
「身内でもないお前に、ベラベラしゃべって良いと思うのか?」
「……思わない」
「なんでわかってて聞くかなぁ」
思いっきり脱力してソファーにのけぞる片桐の横で、利人がしゅんと肩をすくめる。
申し訳ないと思う気持ちと、なんとしても彩加の病状を知りたいという気持ちとが、利人の中でごっちゃになっていた。冷静に話したいと思っているのに、どうにもこうにも感情がついてこない。
なんとか落ち着きを取り戻そうと、胸ポケットから煙草を取り出した。
「あれ? お前、煙草吸ったっけ?」
片桐が驚いたように身を乗り出す。
「お前確か、喘息持ちだったよな?」
そう問われて初めて、利人は自分がいつから愛煙家になったのかと思いを巡らせた。実際、子供の頃は、他人の煙でさえ気を使っていた。そんな自分が、いったいいつから……。
そして利人は、不意に思い出す。大学半ばで、ぽつんとひとり取り残された時期を。
その時期を殊更辛かったとは思っていなかった。寂しいとも。時折訪れる喪失感はあっても、それは一過性のもので、心にわだかまる程のものではなかった。
けれど、利人が煙草を吸いだしたのはちょうどその頃からだった。
「そうやって吸ってるとこみると、今はすっかりいいんだな」
片桐の嬉しそうな声音に、浮遊していた意識がすっと利人に戻ってくる。
「俺にも一本くれる?」
振り出した煙草を片桐に渡し、火をつけてやると「二十四時間ぶりだ」と言って旨そうに煙を吸い込む。またドサリとソファーに沈み込んで、銜え煙草のまま、誰にともなく話し始める。
「彩加ちゃんがこの病院に通っていたのは、二年くらいかな。最後に会ったのは、五年以上前になる」
独り言みたいな片桐の言葉に、利人の視線が向けられる。その視線をかわすように立ち上がった片桐が、窓際の手すりに両肘をついて遠くを見つめる。
「詳しい検査はもちろん必要だけど、血液検査の結果から、多分、自家中毒で、間違いないと思う」
「…… ? ……、自家……中毒?」
戸惑うように繰り返す利人に、背を向けたまま頷く。
「そんな……、だって、その病気は……」
利人の言葉が途切れる。
入退院を繰り返した小児科病棟で、利人はその病気に苦しむ同年代の子供達を何人となく見てきた。けれどその症状は利人の病気と一緒で、ある年代を過ぎるとパタリと消えていた。
言いかけて言葉を飲み込む利人の、納得しかねるようすに、片桐が苦笑する。
「お前が言いたいことはわかるよ。通常自家中毒ってのは、幼年期特有のもんだからな」
軽く言って、短くなった吸殻を灰皿に放る。灰皿の水の中から、じゅっと微かな音が聞こえてくる。
「でも、中にはいるんだよ。成人になっても、同じ症状に苦しむ人が」
何も言えずにいる利人に、片桐が続ける。
「彩加ちゃんの場合、多分、周期性ACTH症候群という疾患名がつくことになる」
「……AC……TH……?」
「小児科の慢性特定疾患に入ってる病名だ。でも、この病気は成人してからも完治できない場合がある」
片桐の言葉が、とつとつと続く。
「この病気は周知が少ないだけに、治療法もこれといってない。それも、身体そのものというよりも精神的な部分によるところが大きいからなんだ。だから投薬もそれほど劇的な役目を果たすとは思えない」
どこか弱々しくさえ感じる片桐の言葉に、利人が問いかける。
「どんな薬があるんだ?」
「吐き気に関してはガスモチン錠という吐き気止めの薬がある。吐き気がおさまることで安定してくれればいいんだが、それでも駄目な場合は精神安定剤を使うことになる」
「精神、……安定剤?」
「ああ、最初は抗不安薬をいくつか試して様子を見て、それでも症状が治まらない場合は、抗精神病薬を試すことになる」
「抗……、精神病?」
「ああ、うつ病なんかでも使われるヤツだ」
「……うつ病……」
「この病気はうつ病と密接な繋がりがあるって言われてるんだよ」
目の前の大きな硝子の向こうには、ちらちらと雪が舞いはじめていた。遠い空から降る雪は、見上げる利人に向かって落ちてくる。
「俺が、彩加ちゃんに初めて逢ったのは、彼女が十歳のときだ」
救急で運ばれてきた彩加を、小児科医から紹介されたと続ける。
「それからずっと、彩加ちゃんの担当医として、俺が診察してた」
くるりと振り返って、利人を見下ろす。
「俺のこの病院での専門は、心療内科だ」
―― 心療内科 ――
わずか十歳の子供が、心の診察を受けなければいけない理由。原因は、数えるほどしかないだろう。
「虐待……、か……?」
自分の言葉が、冷たい指先になって利人の胸底をなでる。
「いや」
そっけなく否定する片桐の、けれど気難しげな表情は変わらない。
「虐待じゃない」
「じゃ、なんで……」
詰め寄るように言いかけた利人を掌で制して、片桐がドサリとソファーに腰を下ろす。
「虐待や育児放棄のように、目に見えて原因がわかるものなら、もっと手段はあった。でも、彼女の場合、違っていた。彼女は憎らしいくらいの周到さで、彩加ちゃんを扶養してたんだよ。親と名のつく人が常識の範疇の対応をしてるなら、他人が無理矢理食い込むことは出来ない。たとえそれが、徹底的な無関心から来る、義務感だけだとしてもな」
苦々しく言い放つ。
「なぜ……、そう、言い切れるんだ……?」
喉がはりついて、利人の言葉が途切れる。
「俺には、どうしても、彼女が彩加ちゃんを愛してるとは、思えなかったんだ。っていうより、本物の親子かどうかさえ疑ってたよ」
片桐の温かみのある鳶色の瞳が、眇められる。
「俺が面談したとき、彼女は表情も変えないで、精神科でも小児科でも、入院が必要ならそうしてください。私に聞かれても、わかりませんからって、そう言ったんだぞ」
片桐の声に、じわりと怒りが滲む。
「そのうえ、自分の子供の誕生日を、即座に答えられない……、いや、覚える気のない親に、愛情なんかあるもんか。あの母親は、子供の誕生日を、保険証を取り出して確認したんだぞ!」
ひんやりと、空気が張り詰める。
「……それは、気が動転してたとか、たまたま思い出せなかったとか……」
誰のための言い訳なのか、利人は自分の確信のない言葉の弱さを知っていた。
「彼女は、きわめて冷静だったよ。泣きながら吐き続ける娘を、鬱陶しそうに見下ろすぐらいにな」
談話室から入院棟へと場所を変え、利人は痛み止めで眠る彩加の枕元にいた。空いていた病室には空のベッドが並び、窓の外には寒々しい空しか見えない。
視線を下すと、いつも大人びた表情しか見せない彩加の、不思議なほどあどけない寝顔がある。
―― 俺には、どうしても、彼女が彩加ちゃんを愛してるとは、思えなかったんだ。
片桐の、悲痛な声音が、利人の鼓膜の底で繰り返される。
『◆「うつ病」の発症には「視床下部―下垂体―副腎」系の活性上昇、特にCRFニューロンの増加、CRF遺伝子の発現昂進が関与している。
◆小児期に虐待や遺棄などの不幸な体験を重ねると、CRFニューロンの持続的な活性化、増大、閾値の低下をきたし、成人してからの「うつ病」発症につながる。
上記2点より、発展途上にある脳は、反復するストレス反応に対し永続的な変化をきたし、CRFの放出やCRFに対する感受性を慢性的に増強させ、犠牲者に一生「うつ病」にかかりやすい危険性を背負わせることになる。
故に、周期性嘔吐症は、「小児の一時期にみられる一過性疾患」から「成人に到っても、うつ病という広大なスペクトラムをもつ疾患」へとつながる可能性を秘めていることになる。』
それは、片桐に見せてもらった医学書の一文だった。
「分からないところは分からないままでいい。分かるとこだけ拾い読みして見てくれ。俺が何を言いたいのか、彩加ちゃんを知っているおまえになら、分かるだろう?」
片桐が言うように、拾い読みだけで、片桐の言わんとする内容が、分かるような気がした。
そして、その文の一節だけが、利人の思考に繰り返された。
―― 小児期に虐待や遺棄などの不幸な体験を重ねると ――
目に見える虐待ですら見つけることは難しいのに、意識上の、個々に与えられる感受性の違いから受けとってしまう目に見えない虐待を、誰が見つけられると言うんだろう。奪い取られ、放り出された子供時代を、誰が埋めてやれると言うんだろう。
蒼ざめた横顔。伏せられた瞼。翳る睫毛。抱き寄せた時のあまりにも細い肩が、はっきりと利人の腕によみがえった。あどけない寝顔が、涙で歪む。とうとう堪えきれず、涙が零れた。
―― ……おかあ、……さん……
無意識の中「おかあさん」と呼んでしがみついてきた小さな手に、搾り出された涙を拳で拭って、利人は立ち上がる。病室を包み込む蒼い静けさに耐え切れず、蛍光灯をつけた。
すると、微かに身じろぐ気配がして、利人はベッドに駆け寄った。覗き込んだ視線の先で、長い睫が震える。
「彩加?」
「……マス……ター……?」
利人の顔を確認するように瞬く彩加に笑って見せながら、ナースコールを押した。
「……病、院?」
彩加の言葉に黙ったまま頷く。バタバタと忙しない足音のあと、小柄な看護師がドアを開けるなり、満面の笑みで問いかける。
「やっと目が覚めたねぇ。吐き気はもう大丈夫かな?」
眩しげに見上げるだけの彩加に、ころころと笑いかける。
脈を取り、手早く血圧を確認すると、自分の腕に直接数字を書き込んで、「喉、渇いてない?」と問いかける。
「もし気持ち悪くなかったら、水分摂った方がいいから、飲めるかな?」
そう言って水差しを口元に出され、戸惑ったように彩加の視線が揺らぐ。けれど諦めたように口を開くと、少しだけ水を含んだ。
「それじゃ、先生呼んでくるから、ちょっと待っててね」と、ドアまでいったかと思ったら「あっ、そうだ」とポンと手を叩いて、ポケットを探りながら回れ右する。
「熱、測っててくれるかな。手で握るだけでいいからね」
取り出した体温計を彩加に握らせると、くるんとベッドに背を向け、今度こそ小走りでドアの向こうに消えていった。
「つむじ風みたいだな」
くるんくるんと向きを変えながら、ひらひらと病室を出て行った看護師を見送って、利人が冗談交じりに言うと、彩加が微かに笑う。その笑顔に少しだけホッとして、利人が問いかける。
「今はもう、辛くない?」
出来る限りの優しさをこめた言葉に、彩加の瞳がみるみる潤んでいく。
「吐き気は治まったんだって?」
片桐の明るい声に、彩加の瞳が大きく揺れる。
「……先生……」
言葉に詰まって布団を引き寄せる彩加の頭に、片桐がぽんと掌を置く。ぽんぽんとやわらかく、宥めるように彩加に触れる。その様子を見つめながら、利人はそっと後ずさり、廊下へと移動した。
―― 俺とお前が知り合いだってこと、ちょっとの間、内緒にしておいてくれるか?
それは、利人と片桐の談話室での最後の会話だった。
―― 過去に問診していたとはいえ、五年も間が空いてる。俺達が顔見知りだってことが、彩加ちゃんにとってプラスになるのか、マイナスになるのか、今はまだ、判断がつかないんだ。だから、申し訳ないんだが、ちょっと協力してくれ。
医師と患者との距離感がどういうものなのかはわからなくても、片桐の言う言葉は素直に理解できた。
突然の体調不良だけでも、彩加はきっと混乱している。その混乱を静めるためにも、彩加を動揺させるような現実は出来る限り排除しようということなんだろう。
そう思いながら、利人は救急用の窓口で会計を済ませ、彩加が病室から出てくるのを待っていた。
彩加のアパートの前、病院から乗り付けたタクシーを降りて、すぐに店に向かおうとする利人を彩加が引き止める。
「マスター、ちょっとだけ、寄って行ってくれる? あの、ちょっとだけでいいから……」
利人のコートの端をつかんで、彩加が言う。見下ろす心細げな表情に、利人は「どうして?」と問うことも出来ないまま頷いていた。
少しだけ待ってほしいと頼まれて、ドアの前で待っていると、そっとドアが開く。
彩加に促されて入った部屋は、きれいに片付けられていて、まるでチェックイン前のホテルのように、無機質な空間が広がっていた。
朝には気づけなかった、高校生の女の子の部屋とはとても思えない殺風景さが、利人の胸にちりちりとした痛みを感じさせる。
ぼんやりと硝子テーブルの前に座っていた利人の前にティーセットが置かれ、彩加が向かい側に座る。淹れてくれた紅茶に手を伸ばそうとした利人の前に、白い封筒がすっと差し出された。
「何?」
眉を顰めて問いかける。
「あの……、今日の、診察代。……それと、タクシー代、とか……」
ついさっき、精算のためにと手渡した領収書を彩加は確認したんだろう。そう思い至っても、その大人びた対応にやりきれなさがこみあげてくる。
「精算、終ってからでいいよ」
「でも、」
「いいって!」
封筒を押し返しながらの声に、少しの怒気がこもってしまった。
ハッとして見上げた視線の先、唇を噛んで封筒に手を置く彩加は、いつもと違ってとても幼く見えた。その幼気なようすに、利人は慌てて自分の大人気ない態度をひるがえした。
「いや、ごめん。あのね、今日じゃなくっていいよ。彩加、ゆっくり休んだ方が良いよ。こんなの気にしなくっていいから、元気になったらまた店においで。そのほうがずっと嬉しいよ」
そう言って笑うと、彩加の薄茶の瞳が、光を集めて揺れた。
「彩加?」
泣くのではないかと、そう思った。けれどそれは一瞬のことで、彩加は潤んだ瞳を隠すように視線を落とした。
「精算、出来ないかもしれないから……」
彩加の言葉に、利人の眉根が寄る。
「此処には、保険証、持ってきて、ないの」
利人の口の中が、どうしようもなく苦いもので満たされていく。
「でも、おかあさんには、……言いたくない」
予想できる言葉だった。もしかしたらと、思っていた。けれど、
―― ……おかあ、……さん……
彩加は無意識の中、確かに母親を呼んだのに。母親に、助けを求めていたのに。彩加の細い声が、忘れられない。
「なんで?」
それは残酷な問いかもしれない。けれど、利人は聞いた。聞かずにはいられなかった。
「言っても、治らないし、……おかあさんには、……鬱陶しいだけだから」
彩加の心に刻み込まれている、母親の言葉はわからない。けれど、彩加の自分を責める声音は、背筋が冷えるような想像ばかりを掻き立てる。
「彩加だって好きで病気になってるわけじゃないんだから、そんなの気にすることないよ」
利人のやんわりとした否定に、彩加は俯くばかりで何も答えようとしない。
「今日みたいなことって、……よくあったの?」
彩加が話せるように、優しさを総動員して声を落ち着かせた。
「気持ち悪くなることは、たまにあったけど、今日みたいなのは、初めてかもしれない」
ぷつ、ぷつと、途切れる言葉。翳る瞼の青さに、彩加の憔悴が見てとれる。
「普段だったら、一度吐けば楽になるのに、今日は、何度吐いても、駄目だったから」
慣れた言い方に不安を覚えて、利人が口を開く。
「吐き気は、よくあったの?」
「ん……。気持ち悪く、なるのはね」
痛ましいとしか言いようがない横顔に、それでも淡い笑みを浮かべる。
「お母さんは、そのこと、知ってるの?」
力ない笑みを口元に留めたまま、彩加がゆるく首を振る。もう、それ以上はとても問うことが出来なくて、利人は意識的に明るい声音をつくる。
「とりあえず、さ、病院には通わなきゃいけないんだから、保険証だけは送ってもらいなよ。理由なんて適当に、健康診断とかでいいじゃん。それでちゃんと診察してもらって、原因さえわかれば、そんな気持ちが悪くなるのなんて、あっという間に治っちゃうよ」
確信なんかない、その場限りの言葉を並べて、彩加の瞳を覗き込んだ。その言葉に頷く彩加に、病院の帰りに店に寄るようにとだけ言い置いて、利人は彩加の部屋を後にした。
中途半端に閉めただけの店が気になって、利人が一旦店に戻ると、店のドアの隙間に少女達からのメッセージが挟み込まれていた。
明るい、無邪気な文面が、どうしてか、滲んでいく。それが、瞳に溜まっていく涙のせいだと気づいた瞬間、利人は格子硝子の桟に拳を打ち付けていた。ガンと鈍い音の後、雪の雫が、ハラリと散る。
口先だけの慰めなら、いくらだって言える。このまま相手の不安や痛みから目をそらしてしまえるなら。けれど今の利人には、それすら満足に出来なかった。
彩加を想う気持ちはある。確かにある。でも、この想いこそが、より一層、彩加を傷つけてしまいそうな不安が消せない。
いつか冷めてしまうくらいの想いのために、気まぐれな優しさを与えたところで、その傷が癒えるわけがないことを、利人自身、痛いほどに知っていた。
大学時代に重ねた恋愛。それはいつだって、簡単に終わりを迎えた。
甘いだけの恋愛期間は長くは続かなくて、肌を重ねた瞬間その思いは妙に生々しく利人を追いつめた。自分を縛りつけようとする女性達の真綿のような触手は、自分を支配する為だけに差し出された母の愛情と重なって、どうしようもない嫌悪感ばかりが生まれた。
そして気持ちは、急速に冷めていった。
恋をしなくなった長い年月は、利人の中で何かを鈍らせ、麻痺させ、膠着させていた。
本当にわからないのか、わからないふりをしているのか、それすらも自分では、もうわからなかった。わからなく、なってしまっていた。
遠のいていく想い。見出せない真実。それら全てが、欠けて落ちた部品のように、戻るべきパーツを探していた。

