翌朝、彩加は利人の店を訪れなかった。
差し出す先をなくした珈琲を、自分用のマグカップに注ぎ足して、もう人通りの途切れた窓の外を眺めながら、利人は深く息を吐き出す。
―― 話してごらんよ
そう促しながら、結局最後まで、利人は彩加になんの答えも出してやれなかった。
語られる言葉に共感を覚えるのは今に始まったことじゃない。いつだって彩加の壊れそうな想いは見えていた。だから、理解したいと思った。理解出来ると思った。けれどそれは、利人の思い上がりでしかなかった。
―― 本当の自分を、見せ付けられた気分になる
自嘲するように彩加は言った。夢の中の、意地悪く壁を閉ざす自分を、崩れかかった自分を、本当の自分だと……。
子供の自己イメージを作り出すのは、まわりにいる大人達の言葉。
優しい言葉ばかりなら、子供は自分を悪いものだと思うことはないだろう。けれど大人は身勝手で、自分の都合を優先させたいばっかりに、言ってはいけない酷い言葉を投げつける時がある。
その時子供は大人の視線の先に、歪んだ醜い自己イメージを垣間見る。
子供にとって自分をとりまく大人という存在は、世界の全てに等しい。けれど普通一般に良い親とされる人たちでさえ、子供が一個人であることを、時に、忘れる。
子供には子供の思惑があって、子供なりの思考で考えて行動しているのだということを、忘れてしまう時がある。そしてたまたま見つけてしまった行き届かない行為を、頭ごなしに叱りつける。どうしてそんなことをしてしまったのかと、問いかけることもしないまま。
それがもしも、子供が最も失意のとき、あるいはもっとも慰めや励ましの言葉を必要としているときと重なってしまったなら、子供の心の中には、決して消すことの出来ない自分への失望が生まれる。そんな中で子供は、自分に向けられる愛情が実は「条件付き」だと気づき、自分がその「条件」に見合わなければ、愛してもらえないと思い始める。
そして、子供は目に見えない「条件」を手探りで追いかけながら、消えかけた愛情を失わないために、必死で頑張ってしまう。掲げられた「条件」は「良い子」であったり「かしこい」であったり、その時々で姿を変える、曖昧なものにすぎなくても。
けれど、どんなに頑張っても大人が望む「夢の子供」に届けなかった子供は、届かないと諦めてしまった子供は、家族の中で居場所を失くす。
子供には、少しの偽りもなく、ありのままの自分でいていいんだと、そう信じることの出来る居場所が必要なのに、それを与えられなかった子供は、自分という存在を許すことが出来ないまま、許される場所を求めて彷徨い続ける。
そして、家族という唯一縋れるはずの輪の中からはみだしてしまった子供は、無意識のうちに自分だけのものを見つけようとする。
学校という不特定多数の入り組んだ小箱の中で、とりわけ仲良くなった友人を、なんとかして自分だけのものにしようとしてしまう。それは与えられなかった愛情を他から得ようとする代償行為でしかないけれど、その想いは切実で重いものになってしまう。
そんな重い感情を押し付けられた相手は、本能的にそれを察知し逃げようとする。
知らず知らずのうちに育ててしまった「孤独」という不安は、唯一の相手を常に探し続けることから、致命的な「錯覚」を繰り返す。ふとした一瞬の共感を奇跡のように感じて、たまたまの偶然を運命と呼んで、寂しがる心はその「錯覚」を信じようとする。
けれど、これが唯一と思った相手は、そんな気持ちに気づくはずがない。
結果として、自分の思うような感情を返してくれない相手に戸惑い、苛立ち、より強く相手に気持ちを押し付けようとする。そうすることで相手はより一層離れていってしまうということに、気づけないまま。
そうして幾度となく突き放され、傷ついた心は、愛情を求めれば求めるほど独りになりたがるような、屈折した態度を取るようになってしまう。傷つきたくないばっかりに、自分が一番に望むものを、自分から切り捨てようとする。自分が捨てたんだと、自分に信じ込ませるために。
ちりっと、胸が痛んだ。
忘れられない棘が、利人の中で疼きだす。思い出せないくらい昔の記憶は、辿ることすら難しい。けれど、その時感じた痛みだけは、今も生々しく残っている。
利人の幼い頃の想い出は、白い壁と白い天井の中。
―― 小児喘息
与えられた病名は、些細なことで入退院を繰り返させた。
でも、病気の苦しさよりも、自分が病気になると、決まって喧嘩する両親の言葉のほうが痛かった。
―― 僕が病気ばかりしてるから、だから父さんも母さんも、苛々するんだ……
誰に言われるともなく、そうだと思ってしまった心。言い争う両親の間に立って、泣きながら言った。
「喧嘩しないで。僕、元気になるから」
幼い頃、利人にとって両親は、全世界で神様のような存在だった。その神様が否定する自分という無力な存在が、どんなに居た堪れなかったか、きっと誰にもわからない。
「この子がいるから、しょうがないのよ」
どんな話の流れでそんな言葉が出たのか、利人にはわからなかった。どんな場面だったのか、今となってはそれすら覚えていない。けれど、そう言った母の手に繋がれていた指先が、どんどん冷たくなっていったことだけは、はっきりと思い出せる。
「お前の為に我慢してるのに!」
はずみで言われたその言葉は利人の心に深く根ざしている。利人が生まれたから、好きでもない人と結婚したと。別れたくても、利人がいるから別れられないと……。
子供にはわからないだろうと、安易な気持ちで語られた世間話は、けれど、確かに刻み込まれる。小さな頃は朧気にしかわからないことでも、その記憶は成長するごとにちゃんと意味までともなって、心の奥深くに住み着いてしまう。
小さい頃は、悪いこと全部が自分のせいのように思えて、苦しかった。自分の全部を否定されて、どうしようもなく辛かったのに涙も出ず、立ち尽くすしかなかった。指先ひとつ、動かせないまま。
―― だったら、生まなきゃ良かったじゃないか!
何度も出かかって、でもいつも、ギリギリの所で飲み込んでいた。
良い子でいたかった。そうしていれば、いつか何もかもが良くなるんじゃないかと、夢みていた。最後までその夢が、叶うことはなかったけれど。
幼かった頃、自分の感情をどうしても伝えることが出来なかった。
語彙の乏しさや、思考の未熟さが、言葉を見つけられなくて、ただ俯くしかなかった。やっと言える歳になって、今なら伝えられると思ったとき、伝えたい相手は既に、何処にもいなかった。
だから今も、大人になりきれない自分は、何も言えず、唇を噛み締めて、ただ見つめることしか出来ない。振り向かない背中を、虚しく追いかけるだけの、あの頃のまま。
時の向こう側には、背中を丸め、其処から一歩も動こうとしない、幼いままの自分がいる。
子供の時間は、とっくの昔に砕け散った。これ以上、失うことも出来ないくらい粉々に、散り散りに。けれど自分は、今も同じ場所で足踏みし続けている。
―― 母さんは、どうして僕を生んだの?
滾々と湧き出す記憶に繋がれた、音に出来なかった問い。その問いに、昨日の彩加の、消え入りそうな問いかけが、重なった。
―― 自分は、どうして生まれたんだろうって、考えたことある?
泣き続ける時の中で、同じ場所に立ちすくんだままのふたつの影。
それは子供の頃の利人と彩加だった。薄蒼い闇の中、彩加が振り返る。頼りなげな薄い肩越しに、何処へ行けばいいのかと問うように、今の利人を振り返る。
ずっと長い間、彩加はひとりぼっちで、そして今も、沙希の手を離してしまった彩加の傍には、誰もいない。今、この瞬間も ―― 。
弾かれたように、利人は立ち上がっていた。
ハンガーからコートを剥ぎ取り、カウンターを飛び出す。言い知れない不安に指先が震えて、店の鍵がうまくかからない。こんなにも動揺している自分になかば呆れながら、利人は彩加のアパートに向かって走った。
「たしか、此処のはず……」
独りごちて郵便受けの表札を、一軒一軒確認していく。
二階の一番奥に「早坂」の名前を見つけ、階段を駆け上がりインターホンを鳴らす。返事はない。けれど、キッチンと思える磨り硝子の向こう側には、朝だというのに灯ったままの灯りが見える。
「彩加?」
呼んで、ドアを叩いた。
「彩加!」
消せない不安はやがて現実となり、利人の鼓動が逸る。
何度かドアを叩いて、それでも開かれないドアに、利人は大家の連絡先を訊こうと思いたち、隣の部屋のインターホンを押そうとした。その指先が、カチャリという音に止まる。振り返ると、彩加の部屋のドアが、ゆらりと開いた。
「彩加っ!」
慌てて駆け寄り、引き開けたドアの向こうに、小さくうずくまった彩加がいた。
「彩加? どうした? 大丈夫か?」
答えはない。パジャマのまま、彩加は小刻みに震えながら、胸の辺りの布をぎゅっと握り締めている。
声も出せずにいる彩加の横をすり抜け部屋に上がり、救急車を呼ぶ。足元に散らばる破片はグラスだろうか。しゃがんでその欠片を隅に寄せようとしたとき、テーブルの下に落ちていた白い診察券を見つけ、利人はそのプラスチックのカードを拾い上げる。
立ち上がり見渡す部屋の惨状に、眉を顰める。
布団が捲くれ上がったベッドは、シーツにも枕カバーにも黄色い液体が染み付いて、何度も吐いたらしい状況がわかった。クローゼットの脇にかけてあったコートを取って、玄関先でうずくまったままの彩加を包み込む。
キッチンまで抱き上げて横にした時、開けられたままのユニットバスに目がいく。流されないまま其処にあった汚物を流して、もう一度彩加の手を取った。力ない冷たい指先を握り締めて、利人は彩加の震える身体を抱きしめた。
コートで包み込んで抱き上げたとき、彩加の紅くなった眦から、透明な雫が零れ落ちた。
「……おかあ、……さん……」
彩加の小さな呼びかけに、利人の瞼が熱く滲んでいく。
平気だと、ひとりきりでも平気だと繰り返しながら、望むようなぬくもりを返してくれない何もかもに諦めながら、それでもその手を捨て切れない彩加が、利人の腕の中にいた。
その拙い想いに押し出されそうになる涙を、利人は必死に飲み込んでいた。
差し出す先をなくした珈琲を、自分用のマグカップに注ぎ足して、もう人通りの途切れた窓の外を眺めながら、利人は深く息を吐き出す。
―― 話してごらんよ
そう促しながら、結局最後まで、利人は彩加になんの答えも出してやれなかった。
語られる言葉に共感を覚えるのは今に始まったことじゃない。いつだって彩加の壊れそうな想いは見えていた。だから、理解したいと思った。理解出来ると思った。けれどそれは、利人の思い上がりでしかなかった。
―― 本当の自分を、見せ付けられた気分になる
自嘲するように彩加は言った。夢の中の、意地悪く壁を閉ざす自分を、崩れかかった自分を、本当の自分だと……。
子供の自己イメージを作り出すのは、まわりにいる大人達の言葉。
優しい言葉ばかりなら、子供は自分を悪いものだと思うことはないだろう。けれど大人は身勝手で、自分の都合を優先させたいばっかりに、言ってはいけない酷い言葉を投げつける時がある。
その時子供は大人の視線の先に、歪んだ醜い自己イメージを垣間見る。
子供にとって自分をとりまく大人という存在は、世界の全てに等しい。けれど普通一般に良い親とされる人たちでさえ、子供が一個人であることを、時に、忘れる。
子供には子供の思惑があって、子供なりの思考で考えて行動しているのだということを、忘れてしまう時がある。そしてたまたま見つけてしまった行き届かない行為を、頭ごなしに叱りつける。どうしてそんなことをしてしまったのかと、問いかけることもしないまま。
それがもしも、子供が最も失意のとき、あるいはもっとも慰めや励ましの言葉を必要としているときと重なってしまったなら、子供の心の中には、決して消すことの出来ない自分への失望が生まれる。そんな中で子供は、自分に向けられる愛情が実は「条件付き」だと気づき、自分がその「条件」に見合わなければ、愛してもらえないと思い始める。
そして、子供は目に見えない「条件」を手探りで追いかけながら、消えかけた愛情を失わないために、必死で頑張ってしまう。掲げられた「条件」は「良い子」であったり「かしこい」であったり、その時々で姿を変える、曖昧なものにすぎなくても。
けれど、どんなに頑張っても大人が望む「夢の子供」に届けなかった子供は、届かないと諦めてしまった子供は、家族の中で居場所を失くす。
子供には、少しの偽りもなく、ありのままの自分でいていいんだと、そう信じることの出来る居場所が必要なのに、それを与えられなかった子供は、自分という存在を許すことが出来ないまま、許される場所を求めて彷徨い続ける。
そして、家族という唯一縋れるはずの輪の中からはみだしてしまった子供は、無意識のうちに自分だけのものを見つけようとする。
学校という不特定多数の入り組んだ小箱の中で、とりわけ仲良くなった友人を、なんとかして自分だけのものにしようとしてしまう。それは与えられなかった愛情を他から得ようとする代償行為でしかないけれど、その想いは切実で重いものになってしまう。
そんな重い感情を押し付けられた相手は、本能的にそれを察知し逃げようとする。
知らず知らずのうちに育ててしまった「孤独」という不安は、唯一の相手を常に探し続けることから、致命的な「錯覚」を繰り返す。ふとした一瞬の共感を奇跡のように感じて、たまたまの偶然を運命と呼んで、寂しがる心はその「錯覚」を信じようとする。
けれど、これが唯一と思った相手は、そんな気持ちに気づくはずがない。
結果として、自分の思うような感情を返してくれない相手に戸惑い、苛立ち、より強く相手に気持ちを押し付けようとする。そうすることで相手はより一層離れていってしまうということに、気づけないまま。
そうして幾度となく突き放され、傷ついた心は、愛情を求めれば求めるほど独りになりたがるような、屈折した態度を取るようになってしまう。傷つきたくないばっかりに、自分が一番に望むものを、自分から切り捨てようとする。自分が捨てたんだと、自分に信じ込ませるために。
ちりっと、胸が痛んだ。
忘れられない棘が、利人の中で疼きだす。思い出せないくらい昔の記憶は、辿ることすら難しい。けれど、その時感じた痛みだけは、今も生々しく残っている。
利人の幼い頃の想い出は、白い壁と白い天井の中。
―― 小児喘息
与えられた病名は、些細なことで入退院を繰り返させた。
でも、病気の苦しさよりも、自分が病気になると、決まって喧嘩する両親の言葉のほうが痛かった。
―― 僕が病気ばかりしてるから、だから父さんも母さんも、苛々するんだ……
誰に言われるともなく、そうだと思ってしまった心。言い争う両親の間に立って、泣きながら言った。
「喧嘩しないで。僕、元気になるから」
幼い頃、利人にとって両親は、全世界で神様のような存在だった。その神様が否定する自分という無力な存在が、どんなに居た堪れなかったか、きっと誰にもわからない。
「この子がいるから、しょうがないのよ」
どんな話の流れでそんな言葉が出たのか、利人にはわからなかった。どんな場面だったのか、今となってはそれすら覚えていない。けれど、そう言った母の手に繋がれていた指先が、どんどん冷たくなっていったことだけは、はっきりと思い出せる。
「お前の為に我慢してるのに!」
はずみで言われたその言葉は利人の心に深く根ざしている。利人が生まれたから、好きでもない人と結婚したと。別れたくても、利人がいるから別れられないと……。
子供にはわからないだろうと、安易な気持ちで語られた世間話は、けれど、確かに刻み込まれる。小さな頃は朧気にしかわからないことでも、その記憶は成長するごとにちゃんと意味までともなって、心の奥深くに住み着いてしまう。
小さい頃は、悪いこと全部が自分のせいのように思えて、苦しかった。自分の全部を否定されて、どうしようもなく辛かったのに涙も出ず、立ち尽くすしかなかった。指先ひとつ、動かせないまま。
―― だったら、生まなきゃ良かったじゃないか!
何度も出かかって、でもいつも、ギリギリの所で飲み込んでいた。
良い子でいたかった。そうしていれば、いつか何もかもが良くなるんじゃないかと、夢みていた。最後までその夢が、叶うことはなかったけれど。
幼かった頃、自分の感情をどうしても伝えることが出来なかった。
語彙の乏しさや、思考の未熟さが、言葉を見つけられなくて、ただ俯くしかなかった。やっと言える歳になって、今なら伝えられると思ったとき、伝えたい相手は既に、何処にもいなかった。
だから今も、大人になりきれない自分は、何も言えず、唇を噛み締めて、ただ見つめることしか出来ない。振り向かない背中を、虚しく追いかけるだけの、あの頃のまま。
時の向こう側には、背中を丸め、其処から一歩も動こうとしない、幼いままの自分がいる。
子供の時間は、とっくの昔に砕け散った。これ以上、失うことも出来ないくらい粉々に、散り散りに。けれど自分は、今も同じ場所で足踏みし続けている。
―― 母さんは、どうして僕を生んだの?
滾々と湧き出す記憶に繋がれた、音に出来なかった問い。その問いに、昨日の彩加の、消え入りそうな問いかけが、重なった。
―― 自分は、どうして生まれたんだろうって、考えたことある?
泣き続ける時の中で、同じ場所に立ちすくんだままのふたつの影。
それは子供の頃の利人と彩加だった。薄蒼い闇の中、彩加が振り返る。頼りなげな薄い肩越しに、何処へ行けばいいのかと問うように、今の利人を振り返る。
ずっと長い間、彩加はひとりぼっちで、そして今も、沙希の手を離してしまった彩加の傍には、誰もいない。今、この瞬間も ―― 。
弾かれたように、利人は立ち上がっていた。
ハンガーからコートを剥ぎ取り、カウンターを飛び出す。言い知れない不安に指先が震えて、店の鍵がうまくかからない。こんなにも動揺している自分になかば呆れながら、利人は彩加のアパートに向かって走った。
「たしか、此処のはず……」
独りごちて郵便受けの表札を、一軒一軒確認していく。
二階の一番奥に「早坂」の名前を見つけ、階段を駆け上がりインターホンを鳴らす。返事はない。けれど、キッチンと思える磨り硝子の向こう側には、朝だというのに灯ったままの灯りが見える。
「彩加?」
呼んで、ドアを叩いた。
「彩加!」
消せない不安はやがて現実となり、利人の鼓動が逸る。
何度かドアを叩いて、それでも開かれないドアに、利人は大家の連絡先を訊こうと思いたち、隣の部屋のインターホンを押そうとした。その指先が、カチャリという音に止まる。振り返ると、彩加の部屋のドアが、ゆらりと開いた。
「彩加っ!」
慌てて駆け寄り、引き開けたドアの向こうに、小さくうずくまった彩加がいた。
「彩加? どうした? 大丈夫か?」
答えはない。パジャマのまま、彩加は小刻みに震えながら、胸の辺りの布をぎゅっと握り締めている。
声も出せずにいる彩加の横をすり抜け部屋に上がり、救急車を呼ぶ。足元に散らばる破片はグラスだろうか。しゃがんでその欠片を隅に寄せようとしたとき、テーブルの下に落ちていた白い診察券を見つけ、利人はそのプラスチックのカードを拾い上げる。
立ち上がり見渡す部屋の惨状に、眉を顰める。
布団が捲くれ上がったベッドは、シーツにも枕カバーにも黄色い液体が染み付いて、何度も吐いたらしい状況がわかった。クローゼットの脇にかけてあったコートを取って、玄関先でうずくまったままの彩加を包み込む。
キッチンまで抱き上げて横にした時、開けられたままのユニットバスに目がいく。流されないまま其処にあった汚物を流して、もう一度彩加の手を取った。力ない冷たい指先を握り締めて、利人は彩加の震える身体を抱きしめた。
コートで包み込んで抱き上げたとき、彩加の紅くなった眦から、透明な雫が零れ落ちた。
「……おかあ、……さん……」
彩加の小さな呼びかけに、利人の瞼が熱く滲んでいく。
平気だと、ひとりきりでも平気だと繰り返しながら、望むようなぬくもりを返してくれない何もかもに諦めながら、それでもその手を捨て切れない彩加が、利人の腕の中にいた。
その拙い想いに押し出されそうになる涙を、利人は必死に飲み込んでいた。

