硝子のラビリンス

 ランチタイムの後、店は静寂に包まれていた。その日はお客の流れも少なく、閑散とした空気ばかりが漂っていた。

 朝の彩加の、心許ない表情が、利人はどうしようもなく気にかかっていた。
 ―― 喧嘩しちゃった。
 そう聞いたのは、何日前だったろう。それ以来、彩加は決して沙希のことを口にしなかった。けれどその日からずっと、彩加はまるで何かに追われているかのように、此処に来ていた。
 独りになることを避けるように、独りになることに怯えるように。
 だから利人は、あえて聞いた。考えることから逃げる彩加を呼び止めた。彩加が、本当は自分の心を打ち明けたくて、此処に来ているように思えてならなくて。

 時計は四時をさしていた。カランというドアベルの音が、店内の静寂を揺らした。
「いらっしゃい」
 いつもと変わらず声をかける利人に、彩加の淡い笑みが返される。
 酷く疲れて見えた。いつもなら薔薇色に染まる頬は蒼ざめて、瞳は曇ってしまった硝子みたいに輝きを失くしていた。カウンターに座った彩加の前にいつものブレンドを置きながら、利人が問いかける。
「彩加、ちゃんと食べてる? 顔色、随分悪いよ」
 利人の言葉に、彩加の視線がわずかに泳ぐ。思い当たることがあるんだろう。利人はじっと彩加の言葉を待った。
「普通に、……食べてるよ」
 誤魔化すように、うっすらと笑う。
「じゃ、どっか体調くずしてるんじゃない? ホント、大丈夫なの?」
 心配気になおも続く利人の問いかけに、彩加がポツリと言う。
「ただの、寝不足」
「眠れないの?」
「眠れないっていうか……、眠らないようにしてるだけ」
「えっ?」
「眠ると、似たような夢ばかり見るから……、眠りたくないの」
 迷うように、彩加の視線が揺れる。
「それって、どんな夢?」
 指先を見つめたまま言いよどむ彩加に、利人が冗談交じりに続ける。
「ねぇ、悪い夢とか、信じたくない夢って、人に話すと平気になるって知ってる? 話した方がいいぞぉ」
 利人のおどろおどろしく作った声音に、彩加が俯いたまま少しだけ笑う。

 夕闇が滲みだした窓の外、シンとした空気を振動させるように、水分を含んだ重く湿った春の雪が、屋根に留まりきれず「ドシャッ」という音と共に落ちていく。その音に、彩加の視線がカウンターの奥の窓硝子に向けられる。

「……夢の中で、私は真っ暗な中に立ってる」
 すっと瞳を泳がせる。
「動こうとすると、足元がずぶずぶとぬかるんで、上手く動けない。そのうち、横に壁があることに気づいて、私はその壁を支えにして、歩き出すの」
 視線が、目の前の指先に落とされる。
「そうしたらね、そのぬかるみが、どろどろって動き出して、蟻地獄(ありじごく)みたいに私の身体を吸い込んでいこうとするの。慌てて周りを見渡したら、そのどろどろした物が、手や、足や、顔の形になっていく……」
 彩加の声音は落ち着いている。
「ぞっとして、身体を離したくて、壁に身体を押し付けたら、背中の壁が、ふって、浮くの。支えにしてた真っ白な壁は、押した瞬間だけ、ぴって裂けて、隙間みたいなのが出来るの」
 その言葉に感情は見えない。
「その場から逃げ出したくて、壁を力任せに押すんだけど、何かが押さえつけてるみたいに、壁はほんの少ししか浮かない」
 ふわりと視線が、遠くを見つめる。 
「壁の向こうには、きっと安全な場所がある。それを確かめたくて、細い隙間から中を覗いたら、目があったの。今にも鼻先がくっつきそうなところに、人が立ってる」
 また、視線が落とされる。
「その人は、私と同じように覗き込んでくるから、ビックリして、動けなくなった私に、足元から人が、うようよと這い上がってくる。その瞬間、足元で崩れかけてる人全部が、壁の向こうに居た人と同じだってことに、気づくの」
 ぷっつりと、言葉が途切れる。
「……それから?」
「それで終わり」
「……壁の向こうには、誰がいたの?」
 彩加の口元に、色のない笑みが浮かぶ。そして――。

「私」

 彩加の一言に、ひんやりと、空気が凍った。
「壁の向こうにも、足元にも、私がいるの」
 遠くを見つめたまま、「ふふっ」と笑う。
「壁の向こうの私は、にやにや笑いながら私を閉め出す。足元の溶けかかった私は、涙目で私にすがりついてくる」
 彩加の、自嘲めいた微苦笑が、深くなる。
「朝、目が覚めても、夢はハッキリ覚えている。だから、夢の中の自分が、本当の自分なんだろうなって思うの。……本当の自分を、思い出せって、言われているような気分になる」
 パチンと大きな音を立てて、利人の胸の奥で、何かの螺子が弾け飛んだ。
「彩加」
 思わず、呼びかけていた。
「彩加?」
 繰り返される呼び声に、彩加の視線が上向く。
「彩加、大丈夫だよ」
 その視線を引き止めるように、利人は優しく言い切る。
「夢なんて、口にしちゃえばそれっきりだよ。ただの夢なんだから。それに、夢の中の彩加が普段と違って見えるのは、暗い場所に閉じ込められていたせいだよ。でも、もういない。彩加が話してくれたから、もう彩加の夢の中にはいない。だから大丈夫。もう、同じ夢は見ないよ」
 それは、なんの根拠もない言葉だった。
 けれど、「大丈夫」だと繰り返さなければ、彩加はこのまま、崩れかけた自分のなかに埋もれていってしまいそうな気がして、利人は言葉を探す。どうにかして引き止めたくて、せめて彩加の悪夢だけでも消してやりたくて。

「彩加?」
 彩加の瞳が、そっと伏せられる。
「ねぇ、彩加。もっと色んなこと、話してごらんよ。話すだけでも、気持ちはずっと軽くなるはずだよ」
 俯く視線が、惑いながら漂う。
「ねっ、ちょうどお客もいないことだし、今、店の前に「準備中」の札出してくるから、ちょっと待ってて」
 そう言うと、彩加の視線が意思を持って利人に向けられた。
 断ろうとしているのがわかって、利人はその視線を振り切るように彩加に背を向け、カウンターの外に出る。店のドアの前に「準備中」の札を下げ、彩加から目を逸らしたままカウンターに戻り、シンクの上の灰皿を引き寄せる。
 胸ポケットから煙草を取り出し火をつけ、ゆっくりと紫煙を吸い込む。乾いた唇を湿らせる為に珈琲を口にし、それだけの間をおいてから、ごくさりげなく、問いかけた。
「夢は、それだけ?」

 利人の問いかけは、静かに寄せる波のように、彩加の心にふれる。いつも決して無理に問い詰めたりはしない利人の優しさを、彩加は充分に知っていた。
 その控えめな優しさは、彩加に心地よかった。利人は言葉にすることに慣れない彩加を待ってくれる人だった。利人に大切にされるのは、痛みをともなわない。ただ穏やかな時間だけが流れていく。
 けれど、その穏やかさ以上に、沙希を想う彩加がいた。
 沙希の隣にいると、簡単に隠せるはずの些細なことが、端から崩れていく。ずっと守り続けた何かが、端からパリパリと剥がされていく。
 沙希はいつも、不意に心の中に切り込んでくる。そして、彩加が気づいて欲しくない、一番痛いところを突いてくる。それは多分、沙希にとっては無意識で。無意識だから、尚更辛いのに、それでも……。

 利人を決して見ようとしない彩加の瞳が、伏せられたまま揺れる。そして、気を取り直すように口元を引き締め、珈琲に手を伸ばす。けれど、伸ばした指先がカタカタと震えて、その自分の震えに「ふっ」と小さく笑って、彩加が諦めたように口を開く。
「それだけ、じゃないよ。すごく幸せな夢も、見るよ。目が覚めちゃうのがもったいないくらい、幸せな夢」
 言いながら、カウンターに置かれた指先を緩く組んで、その指先を見つめながら、明るく続ける。
「でも、私は、どっちの夢も嫌い。夢なんて、見たくない」
 ゆるく組まれた指先を、ぎゅっと握りしめる。
「だって、夢って、全部嘘のくせに、時々すっごく現実味があったりする。だから、嫌いだった。だから眠りたくなかった」
 握りしめた指先を、ふっと緩める。
「だけど、もう気にしないことにする。マスターが言うように、夢は夢でしかないもんね」
 無理に繕われた明るさは、利人に綻びを探させる。彩加の言葉を、簡単に信じることは出来なかった。
 彩加の幸せな夢。それはどんな夢なんだろう。
 彩加の、不自然に明るい声音に、詮索に過ぎない疑問が、利人の思考に立ち止まる。そして、その疑問と同時に、ふとしたことに思い当たる。彩加はもしかしてさっき話した夢よりも、幸せな夢のほうこそ見たくないんじゃないかと……。
 利人も、そう思った時期があった。幼い頃、幸せな夢はいつも、利人の目覚めを哀しくさせた。
「彩加はいつから、そんな夢、みるようになったの?」
 陶質(とうしつ)を帯びた横顔に、どうしても、血を通わせたかった。
「もしかして、沙希ちゃんと喧嘩してからなんじゃない?」
 だからわざと、触れられたくないだろう話題を、一番に口にした。すると、「沙希」というひと言に、彩加の眉がピクンと引き攣った。けれどそれは一瞬のことで、彩加はすぐさま、いつもの口の端だけの笑みを見せる。
「マスターは、なんでいつも、沙希のことばっかり聞くの?」
 他愛ない会話を装って、笑いながら続ける。
「私は別に、沙希と喧嘩したからって、何も変わらないのに」
 その時利人は、決して視線を上げようとしない彩加の本心が、今しも溢れ出そうと、彩加の喉元で待ち構えているような気がしていた。
「彩加が、強がりばっか言うからだよ」
 だから、その本心を、どうしても引き出したくて、口調を変えた。普段とは違う、突き放すような声音に、彩加がチラリと利人を見上げる。
「友達と喧嘩して、ひとりきりになって、それでいつもと変わりないなんて、そんなの強がりでしかないよ」
 念を押すように同じ言葉を繰り返すと、彩加がプイと視線を外す。
「だって、こんなの、良くあることじゃない」
 口の端を意識的に引き上げ、強気な声を作るけれど、緩く組まれたはずの指先が、また、しっかりと握り締められている。
「人の気持ちなんて簡単に変わるんだから、くっついたり、離れたり、皆やってることじゃない」
「それって、彩加の気持ちが変わったってこと?」
 ひゅっと、息を吸い込むような、音がした。
「彩加の気が変わって、あんなに仲が良かった沙希ちゃんと、もう一緒にいられなくなっちゃったんだ?」
 うっすらと開かれた唇は、何かを音にしたいと望みながら、答えを見つけられないというように、不安そうに震えている。それが、自分の意地の悪い言い方のせいだと知りながら、利人は同じ口調で続ける。
「それが、喧嘩の原因?」
 それは決して、彩加を傷つけたいわけじゃなく、もちろん泣かせたいわけでもなく、ただ彩加に、自分の本当の気持ちを話して欲しかった。話すことで、きっと彩加は楽になれる。利人はそう、信じていた。
「それで? 沙希ちゃんは、彩加の気まぐれに、納得してるの?」
 核心に近づく利人の言葉を遮るように、彩加が瞼を閉じ、強く首を振る。
「沙希にはわからない」
 鬱屈した想いが、まっすぐな言葉に変わる瞬間。
「言っても沙希にはわからない!」
 彩加の切り捨てるような拒絶が、利人の記憶に触れる。
 ―― マスターは、知ってる?
 揺り起こされた記憶。それは、沙希の寂しげな問いかけだった。
 まだ雪は来ていなかった。けれど凍えるように寒い日が続いていた。立ち枯れた樹木がその葉を全部散らして、裸の触手を空に向かって伸ばしていた。

 釣瓶落(つるべお)としの夕暮れに、店内はもう数人のお客しか残っていなかった。もうそろそろ店じまいかなと思いかけたとき、部活帰りの沙希がふらりと店に訪れた。いつもなら眩しいくらいの明るさを纏っている沙希が、ひっそりと彩加の指定席に座っていた。
 時折、何か言いたげな瞳が利人に向けられる。けれどそのたびに、薄い唇がきゅっと引き締められる。普段とは明らかに違うそのようすに、気づいていながら気づかない振りで、利人はただ静かに沙希の言葉を待っていた。
 お客の影も消え、夕闇に白熱灯の光が滲み出したころ、沙希がやっと口を開いた。
「マスターって、もててるって自覚ある?」
 その投げやりな声音に、利人の片方の眉がピクリと上がる。
「唐突な質問だね。愛情もないし」
 ちょっとだけムッとしてしまった自分はなかったことにして、冗談めかして言った。振り向くと、強い声音とは裏腹に、沙希の潤んだ瞳は心細げに揺れていた。
「なんでそんなこと訊くの?」
 その瞳を覗き込んで問いかける利人に、沙希は自分の喧嘩腰な言い方を恥じるように、俯いた。
「クラスでも、マスターのファンって多いから、気づいているのかなって、思って……」
 言いよどむ沙希の言葉には、本当に問いたい言葉が隠されている。
「へぇ、そうなんだ。それは光栄だね。で、沙希ちゃんはどう思ってるの?」
 わざと茶化して問いかける利人を、沙希が顎を引いたままちらりと見上げてくる。
「自信、あるんだろうなって……」
「自信?」
「うん。マスター、いつも楽しそうだもん。悩みなんかなさそう」
 これにはさすがにカチンとくる。
「なにそれ。僕が、悩みひとつない、天下泰平(てんかたいへい)の極楽(ごくらく)トンボってこと?」
 不機嫌そうに顔をしかめる利人に、沙希が慌てて言葉を付け足す。
「あっ、違う。そうじゃなくて、マスターは大人だから、私みたいにちっぽけなことで悩んだりしないんだろうなって」
「ちっぽけなこと?」
「うん。私、ちょっと行き詰っちゃってて……。でも、言っていいコトと悪いコト、あるよね。ごめんなさい。私、八つ当たりしました」
 座ったまま、ぺこりと頭を下げて、恐々(こわごわ)といった感じで顔を上げる。
「……マスター、怒っちゃった?」
 沙希の申し訳なさそうな表情に、利人の大人気ない苛立ちは、あっという間に消えた。沙希の言葉はいつもまっすぐで、素直な感情がきちんと伝わってくる。
「こんなことで怒ったりしないよ」
 利人の穏やかな声音に、沙希がほっとしたように肩の力を抜く。
「でも、大人になったからって、悩みがなくなるなんてことはないよ」
 そう言うと、黒蜜の瞳が、不思議そうに瞬いた。
「もしも僕がいつも楽しそうに見えるとしたら、それはきっと沙希ちゃんより、ちょっとだけ長く生きてるからだよ」
 潤んだ瞳は、ひたすらに、利人を見つめる。
「ちょっとだけってのは、言いすぎかな?」
 笑顔を誘うはずの利人のひとりつっこみにも、沙希の思いつめたような瞳は変わらない。その瞳の真剣さに押されそうな気分を誤魔化すように、利人は少しだけ視線をそらして続けた。
「あのね、歳食(としく)っちゃうとさ、嘘や見栄が上手くなるんだよ。悩んでてもね、悩んでないように見せようって頑張っちゃうんだ。でも、中身は全然変わってない。むしろ余計なことを知った分、臆病になったようにも思うね」
「そうなの?」
 本当に意外そうに言う沙希に、利人が苦笑する。
「がっかりした? でも、そんなもんだよ」
 また考え込むように俯いてしまった沙希をそれとなく窺いながら、利人は煙草に火をつける。ゆっくりと紫煙を吐き出す利人に、沙希がまた、ポツリと問いかける。
「マスターは、彩加のこと、どう思ってる?」
 その声音は、酷く弱々しい。
「どうって、……なんて答えればいいのかな?」
 問い返された言葉に、沙希が唇を噛む。少しの沈黙の後、観念したように口を開いた。
「彩加のこと、好き?」
 直球すぎる質問は、そらしたはずの利人の視線を引き戻す。視線が重なる。笑って、軽口でかわしてしまいたい問いが、重く利人の胸に響く。笑うことは出来なかった。沙希の瞳は真剣そのもので、いい加減な返事は出来なかった。
「好きだよ」
 沙希が息を呑む。
「でもそれは、沙希ちゃんに対しても一緒だよ」
 重ねて言うと、沙希が一度詰めた息を細く吐き出した。
「沙希ちゃんのことも、彩加のことも、同じように好きだよ」
 沙希の眉が、怪訝そうに顰(ひそ)められる。
「ココは色んな人が来るからね。正直、嫌なヤツもいるよ。でも、二人は僕にとって気が合う友人に近い存在かな?」
「本当に?」
「本当だよ」
「特別じゃない?」
「二人とも、特別だよ」
 その言葉に、沙希の瞳が大きく揺れた。涙が零れるんじゃないかと思った。けれど涙は零れなかった。潤んだ瞳はそのままの状態で留まり、ただじっと、利人に向けられていた。

 窓の外は、もうすっかり夜の色に変わり、窓硝子が鏡のようにふたりを映し出していた。ゆらりと揺れた沙希の影が、レジの前へと移動する。
「これから彩加のトコ行くの?」
 お釣りを渡す利人を見上げる、子犬のような瞳に問いかけた。
「……行かない」
 ぽつんと返される言葉が、寂しい。
「喧嘩でもしたの?」
 その寂しさを慰めるように明るく問うと、沙希は微かに笑って首を振った。そのままドアに向かっていく沙希が、ふと、立ち止まる。
「マスターは、知ってる?」
 問いながら、ゆっくりと振り返る。
「マスターは、私が彩加のこと、ちゃんと好きでいるって、……知ってる?」
 哀しそうに言って、「ふっ」と笑った沙希は、利人の答えを待つことをしないで、ドアの向こうへ消えていった。

 あの日の沙希の、問いかけの意味が、今やっと、わかった。きっと彩加は一度として、沙希の言葉を素直に受け止めたことはないんだろう。沙希が、自分のせいで苦しむわけがないと、「沙希にはわからない」と言い切るその頑なな心で、沙希の想いを否定し続けたんだろう。
 どんなに繰り返し「好きだ」と言っても伝わらない。信じてもらえない。
 そんな一方通行の想いが苦しくて、沙希は利人と彩加の関係に、無理矢理に意味を持たせようとしていた。焦燥を煽るばかりの、胸に滞る想いの吐き出し口を見つけたくて。
「彩加?」
 利人が、呼びかける。
「なんで、そんなふうに決め付けるの?」
 最初から、話す前からわかってもらうということを諦めてしまっている彩加に、どんな言葉なら、届くんだろう。
「そんなふうに一方的に決め付けられたら、沙希ちゃんが可哀想だよ」
 すると、彩加の視線が、弾かれたように利人に向けられた。
「沙希が、……可哀想?」
 問い返す彩加は、どうしてかあまりにも無防備に驚いていて、利人はたじろぐような気持ちになる。けれど彩加の本心が、唐突に目の前に置かれたようにも感じて、それを逃さないようにと言いつのる。
「そうだよ。僕は沙希ちゃんに同情するね。仲が良かった友達に意味もわからず避けられるなんて、そんなの僕だったら耐えられない。そんな辛いことってないよ」
 喧嘩の原因なんて、何もわからない。けれど、あてずっぽうで言ったはずの言葉に、彩加の顔色が、どんどん青褪めていく。
「もしも、彩加がそんなことをしたんなら、きっと沙希ちゃんは、怒る前に泣いちゃってるよ」
「……沙希が?」
「そうだよ」
 迷いなく頷かれ、彩加は困惑したような視線を利人に向ける。
「……そんな」
 小刻みに震える彩加の声が、掠れる。
「そんなわけない」
 それでも、健気に言い切る。
「私が、いきなり態度変えちゃったから、怒ってはいるかもしれないけど、そんな、沙希が可哀想だなんて、そんなわけない!」
 利人は喧嘩の内容を、少しも聞かされていなかった。
 けれど彩加の言葉は、まるで利人が何もかもを知っているかのように続けられた。彩加にしてみれば、言うつもりもなく、考えるより先に口にしてしまっていたのかもしれない。彩加は急に気を散らしはじめ、落ち着かなく視線を泳がせている。
「彩加?」
 利人が、呼びかける。
「なんで、そんなふうに決め付けるの?」
「だって、沙希には、いっぱい、友達がいるから……」
「友達は、みんな同じなの?」
 利人の呟きに、彩加の視線が縋る。
「彩加にとって、沙希ちゃんは、その他大勢のひとり?」
 硝子の瞳が、悄然(しょうぜん)と利人に向けられる。
「ねぇ、彩加?」
 そらされそうになる瞳を覗き込む。
「彩加は、沙希ちゃんのこと、少しでも好き?」
 わかりきったことを、確認の為だけに聞いたのに、彩加の瞳が大きく瞠られた。
「彩加……?」
 それが、泣き出しそうに見えて、利人は思わず続く言葉を飲み込み、問うように呼びかけていた。自分の言葉の何が彩加の琴線に触れたのかわからなくて、そのまま彩加の言葉を待った。

 ―― 沙希ちゃんのこと、少しでも、好き?
 利人の最後の問いかけは、彩加の揺れていた感情を、ピタリと止めた。
 ―― ……好き……

 その時彩加は、利人の言葉に、自分の表情がどんどん崩れていくような気がしていた。利人の言葉は、彩加の弱った心にどっと何かを流し込んだ。
 離れることに決めたのは、なにも自分を守りたい為だけじゃなかった。自分のすること、自分の考え、それが正しいなんて思ってない。間違うことを、恐れてもいない。
 ただ、その過ちに、沙希を引き入れてしまうことが怖かった。自分のこのどうしようもなく歪んだ感情に、沙希を巻き込んでしまいたくなかった。なのに、一度自覚してしまった沙希への恋心は、知る前よりもずっと大きく、ずっと鮮明に、生々しく彩加の心を湿らせていた。沙希を想う気持ちが、自分の中にあることは知っていた。
 けれど、その想いが、どれほどのものなのか、わかっていなかった。

 冬休みの後、沙希に何気なく触れられたとき、その指先に、心が吸い込まれてしまいそうな気がして、思わず沙希の手を振り払っていた。沙希が傷ついたような顔をしたのに、それでも、誤魔化すことさえ出来なかった動揺に、自分が一番驚いていた。
 言葉に出来ない小さな澱(おり)。いくつもいくつも降り積もるだけの澱。
 水の中をゆらゆらと掠める澱はいつしか小さな塊になって、彩加の心の奥底に沈みこんでいた。その塊は落ちてくる一片(いっぺん)を吸い寄せ、吸いつけ、少しずつ、大きくなっていた。
 好きになっちゃいけないんだと、思えば思うほど気持ちはつのって、隣にいるだけで、どんなに心を閉じていても、想いは溢れそうになる。だから離れなければと思った。
 この歪(ゆが)んだ感情に、沙希を巻き込んでしまう前に、知られてしまう前に。
 けれど、そのことで沙希が「可哀想」に思われるなんて、そんな哀れみのこもった憐憫(れんび)の目で見られてしまうなんて、彩加は考えもしていなかった。
 ―― きっと、沙希ちゃんは、怒る前に泣いちゃってるよ
 そう、確かに、沙希は泣いていた。
 でもそれは、素直すぎる沙希の、一瞬の感情の昂ぶりでしかない。沙希にとって自分は、数多い友人のひとりに過ぎない。だから仮に沙希が自分の態度が変わったことに苛立ったとしても、そんな感傷は、すぐに忘れられる。
 自分は何にもつかない、ちっぽけな存在でしかないんだから。
 ―― 彩加は、沙希ちゃんのこと、少しでも好き?
 その答えなら、一点の迷いもなく、今も胸の奥にある。でも、だからこそ。

 ―― 絶対に言わない。言わなければ、なかったことに、出来るから。

 彩加の長い睫が、伏せられる。
 溶けかけた何かがまた、ゆっくりと凍りついていく。形のいい唇が静かに閉じられ、薄い琥珀の瞳も、氷の幕がはったように閉ざされる。その瞳が空(うつ)ろに、ただ空ろに澄んでいく。
「彩加?」
 深く物思いに沈み込もうとする彩加に、利人が呼びかける。
 一瞬、彩加の瞳には、生まれて初めてなにかを知ったときのような、驚きと不安が浮かんだ。あの一瞬、彩加は何かを掴みかけたはずなのに、その掴みかけた何かを、自分で遠くに押しやってしまった。
 彩加の心が、内へ内へと翻っていく。
 開きかけたドアが、利人の目の前で、パタンと音をたてて閉じられた。わずかに開いた隙間に一生懸命問いかけていた言葉たちも、今となっては虚しいばかりだった。
 もしも少しでも沙希を好きでいるなら、ちゃんと話すべきだと、そう続けるはずだった言葉はもう、言ってもどうしようもない。もう、彩加の心には、何も届かない。
 その確信に、黙り込んでしまった利人に、彩加がそっと呼びかける。
「ねぇ、マスター?」
 揺れる瞳が幾度か瞬(またた)き、無表情に闇に向けられる。
「自分は、どうして生まれたんだろうって、考えたことある?」
 問いかけながら、彩加は利人の答えを、待つことをしない。
「なんて、ね。馬鹿みたい」
 自嘲気味に言って、口元だけで哀しく笑う。

 窓の外には、しんしんと雪が降り積んでいた。青い水底(みなぞこ)のような雪闇(ゆきやみ)に、音もなく白雪(はくせつ)が舞っていた。