硝子のラビリンス

「ごめん、教科書見せてもらって良い?」
 チャイムギリギリに科学室に駆け込んできた沙希が、息を切らしながら彩加に向かって両手を合わせる。
 ほとんど同時に「起立」の掛け声がかかった。
 突然のことに、理由を問うことはもちろん視線をあわせることも出来ないまま、無言で教科書を二人の間に置いた彩加に、沙希が小声で問いかけてくる。
「見つかったら減点かな?」
 耳に、沙希の吐息がかかる。ピリッとしびれる感じがして、思わず身体を引いてしまった彩加に、沙希が口元だけで笑う。

 お嬢様学校と言われる学園で、部活に夢中な沙希はクラスの中でも少し浮いていた。けれどさっぱりとした明るい性格と抜群の運動神経で、体育祭や球技大会ではいつも大活躍だった。
 そして彩加は、常に首席をキープし続ける優等生として、試験のたびに各クラスで名前を読み上げられていた。
 一年の時は別々のクラスにいながら、どちらもある意味有名人で、お互いの顔は見知っていた。けれど直接話をしたのは、これが初めてだった。

 春の力不足な陽光にてらされる、季節外れに陽に焼けた沙希の横顔が、あまりに近すぎて、彩加は自分のノートへと身体を寄せる。すると不意に沙希が、授業とは全然関係ないことを訊いてきた。
「それって、立原道造(たちはらみちぞう)?」
 思いがけない問いかけは、彩加の俯く視線を引っ張りあげる。
「『夢みたものは』って、立原道造でしょ?」
 それは彩加が悪戯に書き込んだ詩の一節(いっせつ)。通常であれば見えないはずの小さな書き込みは、一冊の教科書を覗き込む近さから、沙希の瞳にとまったんだろう。
「よく、知ってるね」
 普段なら聞こえないふりをするか、頷くだけですませる会話。けれどその時は、考えるより先に問い返していた。
 ノートにあったのは、二行だけ。沙希はその数行で、立原道造の名前を口にした。見るからに体育会系の、文学的なことには縁がなさそうに感じる沙希の口から、教科書にも載っていない詩人の名前が出たことに、彩加は驚きを隠せなかった。
 すると、沙希は「ふふ」と笑って、小声でささやく。

〝夢みたものは ひとつの幸福
 ねがったものは ひとつの愛
 山なみのあちらにも しずかな村がある
 明るい日曜日の 青い空がある〟

 それは、彩加が書き込んだ二行に加え、その先を、諳(そら)んじたものだった。
「私、立原道造、好きなんだ。中でも『夢みたものは』と『風のうたった歌』が好き。意外でしょ?」
 心を見透かすような沙希の言葉。彩加の鼓動が、とくんとひとつ、波打った。
「『風のうたった歌』は、どの節が好きなの?」
 彩加も好きな『風のうたった歌』。沙希はどの節が好きなのか、気になってしまった。
「『風のうたった歌』は、全部好きなんだけど……、切り抜くならここかな?」
 そう言って、彩加のノートを引き寄せ、詩の一節を書き込む。

〝むかしむかし そのむかし
 子供は 花のなかにゐた
 しあはせばかり 歌ばかり
 子供は とほく旅に出た〟

 切り抜かれた一節は、彩加が好きな一節と、まるで同じだった。
 隣で沙希は、にこにこと笑っている。

 二年になってから、最初に組まれた進学先別のクラスとは別に、受験の主要科目は成績順で編成されていた。アルファベット順に振り分けられたクラスで、沙希は全教科、彩加と同じクラスだった。
 ずっと気づかなかった。周りを見ることをしていなかった。けれど、科学室での一件以来、彩加はなんとなく沙希が気になっていた。
 移動の多い、バタバタと落ち着かない教室の中で、ほとんど動くことなく「A」の教室にいる彩加は、休み時間でさえ席を離れることは少なかった。いつも指定されたように窓際の真ん中ほどの席に座っていた。
 そしていつからか、彩加の隣、もしくは後ろの席に沙希が座るようになっていた。
 朝の挨拶からはじまって、他愛ない話を持ちかける沙希に、初めの頃は無関心を装っていた。けれど、どんなに冷たい言葉を返しても、素っ気なく会話を打ち切っても、沙希は一瞬の沈黙の後、何事もなかったかのように新しい話題をふってくる。
 そのあまりの屈託のなさに、彩加が根負けするように、いつの間にか相槌をうつようになっていった。
 彩加に対して、こんなふうに話しかけてくる人は、いままでいなかった。だから、どうすればいいのか、わからなかった。でも、話しかけられることを、嫌だとは思っていなかった。

 雨が教室の窓を叩いていた。
「今日は部活、お休みになりました」
 誰にともなく口にして、後ろに座っていた沙希が彩加の椅子の背もたれを、コンコンとノックする。
「ねぇ、部活休みなんだって」
 振り向かない彩加の、肘(ひじ)がゆるくつかまれる。
「だから?」
「振り向いて」と促(うなが)す指先を、知っていながら背を向けたままぶっきらぼうに問う彩加に、沙希が苦笑まじりに問い返す。
「めったにないお休みに、私は彩加を誘ってるんだけど、気づかない?」
 小さな溜息の後、彩加が振り返る。やっと向けられた視線を引き止めるように、沙希が背もたれに置かれた彩加の腕を軽く握る。
「私、彩加のアパートに行ってみたいんだけど」
「えっ?」
 沙希の言葉の意味が、上手く飲み込めなかった。
「彩加って、一人暮らししてるでしょ? 彩加のアパート、私、知ってるよ。だって、彩加が階段下りるとこ、見たもん」
 楽しそうに続ける沙希の声音が、彩加の耳元で水の中の音のようにぽやんと潤む。
「部活があるときはどうしても遅くなっちゃうから無理だったけど、今日は珍しく屋内練習も休みだっていうから、これはチャンスって思ってさ」
 沙希の声が、弾む。
「彩加、今日って、何か予定ある?」
 予定なんて、ない。でも、部屋に誰かを呼ぶなんて、彩加は考えたこともなかった。
「……もしかして、私が行くの、……嫌?」
 何も言えずにいる彩加に、沙希が傷ついたような瞳をする。腕をつかんでいた指先が、すっと離れていく。
 沙希の、幼さの残る、青みがかって見える瞳が、まっすぐに彩加に向けられる。その瞳はいつも濡れたように煌めいて、じっと見つめられると、不思議な居心地の悪さを覚えるほど、澄んでいる。
 彩加がふいと前を向く。
「彩加?」
「好きにすれば」
「いいの? やった!」
 冷たく言い捨てたはずなのに、背中越しに聞こえる沙希の声は明るい。彩加の伏せた瞼の裏に、見えるはずのない沙希の姿が映る。潤んでいた瞳をパッと輝かせ、子供のように万歳(ばんざい)する沙希が、見えたような気がした。

 降り続いた雨は放課後、霧雨に変わり、彩加のアパートに着く頃には止みかかっていた。
 遠くから眺めるだけなら瀟洒に見えるアパートは、近づくごとにその古さを実感させる。雨に洗われた外壁は白く輝いて見えるけれど、二階へ繋がる鉄筋の階段はところどころ赤茶色く錆(さび)ついて、ひと足ごとにカンカンと乾いた音を響かせる。
 おもちゃみたいに並ぶ、そっくり同じドア。その横にある、ちょうど目線の高さの磨り硝子からは、キッチン用品が透けて見える。
 二階の一番端(はし)で足を止めた彩加が、コートのポケットから鍵を取り出す。
「此処が彩加のお城?」
「……そんな、大層(たいそう)なもんじゃない」
 沙希のわくわくといった語感に、気のない返事をして、彩加がドアを開ける。
 入ってすぐの六畳ほどの台所には、備え付けの食器棚と小さなシンク。反対側の土間に全自動の洗濯機と乾燥機。その横にユニットバス。そしてさえぎるもののないダイニングの向こうに、装飾品ひとつない殺風景な部屋がある。
 向かって左側の壁際にベッドがあり、その反対側の壁には内から外に向かって、クローゼット、本棚、それから少し背の低いチェストが順に並んでいる。チェストの上に置かれたテレビと向かい合う丸い硝子のテーブルが、窓の外の光を淡く受け止めている。

 こもった空気を追い出すように、彩加が窓を開ける。
 半間(はんけん)程の出窓にかけられた、薄いレースのカーテンが、水の香(か)を含んだ風にふわりと揺れる。引き寄せられるように窓際に立つ沙希に、彩加が声をかける。
「何か飲む?」
「うん」
 少しの肌寒さを感じて、彩加が珈琲を準備して持って行くと、沙希は薄い本を開いて窓辺に座っていた。沙希が手にした本。それは彩加が本棚の隅に置いてあった詩集。美しい絵と言葉に魅かれて、幼い頃に買ったものだった。
 でも、知らないふりで、彩加は硝子のテーブルにマグカップを並べる。膝立ちだった彩加がベッドによりかかるようにして膝を折った時、沙希が呟くように言った。

〝シャボン玉の中へは庭は入れません〟

 窓から届く微風に乗るその声に、彩加が沙希を見上げる。本から視線を離さない沙希の、じっと待っているような感覚に、彩加が次を諳んじる。

〝まわりをくるくる廻っています〟

 少しの沈黙に、窓の外、小鳥のさえずりが聞こえた。
「これって、どう思う?」
「……綺麗だなって、思うよ」
「それだけ?」
 当たり障りのない答えを選んだ彩加に、沙希の不満そうな問いが返される。
「私、コクトーの中で、この詩が一番好き」
 きっと、学園の中でも知る人の少ないだろうフランスの詩人「ジャン・コクトー」を、友人のように「コクトー」と呼んで、沙希はうっとりと本を胸元に抱き込む。
 彩加の胸の奥で、何かがキシリと軋んだ。
「……どうして?」
「だってこれ、究極の片思いの詩だって、思わない?」
 それは、問いかけを真似た、確信だった。
 沙希は彩加の中にも同じ想いがあると、そう見抜きながら、あえて聞いている。それが、彩加にはわかった。
 胸の奥にある何かが、響きあって溶けあっていく。深く切り抜かれた心が、重なりあっていく。
 西の方にそびえ立つまろやかな稜線が、薄い陽射しをまといはじめていた。

 陽だまりの風景がよく似合う人。彩加にとって沙希は、いつもどこか眩しい人だった。
 沙希のまわりにはクラスの級友だけではなく、部活の仲間や先輩がいて、その交友関係は広く、そんな沙希がなぜ自分に近づこうとするのか、彩加にはわからなかった。
 それまで、あまりにたくさんのことを遠巻(とおま)きにして来てしまったから、素直な好意、まっすぐな視線、そのなにもかもに戸惑った。
 一緒にいると優しい気持ちになれるのに、辛いと感じてしまう。妙に切ない感覚におちいってしまうのは、いつものことだった。
 そんな穏やかさの中に潜む痛みの理由が見つけられなくて、苛々(いらいら)して、突き放すような言葉ばかり並べていた。それを沙希は「冷めている」と言うけれど、そうではなかった。
 冷めて見えるのは、ただ単に沙希より感情が屈折してしまっているだけで、沙希が自分とは全く違う種類の人間だということは、よくわかっていた。

 季節は足早に過ぎて、アパートの窓からは、ぬけるような青空と翠輝(みどりかがや)く木々が見えた。
「この部屋、涼しいよねぇ」
 出窓の下にもたれるように寄りかかって、ずっと漫画を読んでいた沙希が、今気づいたかのようにポツリと言った。
「……っていうか、何しに来たの?」
「ん? 夏休みだから」
 彩加の不機嫌そうな問いかけに、噛み合わない応えが返される。
 部活を終えた沙希が突然に、お弁当まで持って彩加のアパートを訪れたのは、正午を告げる鐘の音と一緒だった。
 開いたドアの向こうの満面の笑みに、何も言えずにいる彩加の横をすり抜けて、沙希は両手一杯の荷物を硝子のテーブルに並べていった。
 最初に置かれた籐の籠にはサンドイッチとフライドチキン。大き目のタッパーには定番の卵焼き。ふっくらと優しい黄色の隣には、緑鮮(みどりあざや)かなブロッコリーと赤いトマト。
 そして最後に兎(うさぎ)の林檎と三日月オレンジが置かれ、殺風景だった部屋が、あっというまにピクニックのランチシートのようにカラフルに染まった。
 呆気(あっけ)に取られて立ち尽くす彩加に、沙希は「ひとりじゃ食べきれないから、彩加、手伝って」と、悪戯そうに笑った。
 予期しない出来事に、驚き以上にときめいた鼓動がまだ消えない。

 食事も終わって沈黙の中、自分が買ってきた漫画を読みふける沙希をチラチラとうかがいながら、彩加は言葉を待っていた。自分が読むつもりでテーブルに広げた活字は宙に浮いたまま、ただ頁(ぺーじ)をめくられていた。
「彩加は帰らないの?」
 きっと、よくある問いかけ。けれど、応えにくいその問いに、彩加が躊躇する。何の気なしに問いかけただろう沙希にさりげなく応えたいのに、上手な言葉が見つからない。
「ねっ、もし帰らないんだったら、明日、泊りに来て良い?」
 彩加の返事を待つことをしない沙希の、明るい問いが重なった。思いがけない言葉に、彩加がわずかに瞳を瞠る。
「部活毎日あるんだけど、家、遠いから通うの大変なんだ。でも、ここからだったら、すっごく楽になる。一時間以上多く眠れるもん」
 彩加の瞳が揺れる。
「だから、もし彩加に予定ないんだったら二~三日、続けて泊まりたいなぁ。ねっ、週末まででいいから」
 断る理由は見つからない。でも、ずっと一緒にいることへの不安はある。なのに、断ろうとする自分を、何かが引き止める。自分の気持ちがつかみきれなくて視線を逸らす彩加に、沙希が不安そうな瞳をする。
「……嫌?」
 沙希はいつもこんな聞き方をする。「駄目?」とか「良い?」なら理由を探すことができるのに、「嫌?」と聞かれてしまっては、頷くことがためらわれる。それを知ってか知らずか彩加がひどく戸惑ってしまう質問に、沙希は必ずこの言葉を使う。
 そして問いかける瞳のまま、彩加を覗き込む。沙希の潤んだ瞳は、いつもまっすぐに彩加に向けられる。少し掠れた声音は、彩加の心にすっと染み込んでくる。
「……好きに、すれば?」

 最初に言った「二~三日」の言葉とは裏腹に、沙希は夏休みのほとんどを、彩加のアパートで過ごした。
 部屋のチャイムに、扉を開けた彩加の目に、見たこともない大柄な男性が、大荷物を持って立っていた。びっくりしてドアを閉めようとすると、
「初めまして、沙希の兄の智弘って言います。今回は妹の我儘に付き合わせちゃって申し訳ないです」
 そう言って頭を下げる智弘には、確かに沙希の面影があった。
「私、我儘なんか言ってないよ!」
 後ろから、沙希が智弘の頭をパシリと叩く。
「おまえ、荷物運ぶのに車出してやった俺に、そういう態度とるか?」
「はいはい、ありがとうございました。もう帰って良いよ!」
「こんな奴ですけど、よろしくお願いします」
「「こんな奴」は余計!」
 そんなやり取りの後、智弘が車を出そうとすると、「お兄ちゃん、ありがとぉ!」と、沙希が元気に手を振る。プップーと返事のようなクラクションの後、車は細い路地を抜けて、山際へと消えていった。
「騒がしくってゴメンね」
 ペロッと舌を出して謝る沙希と、さっきの智弘の笑顔が重なる。
「仲がいいんだね」
「そんなことないよ。家にいるとうるさいの。やれ門限だの、宿題だのって、お母さんより口うるさい」
 そう言いながら、沙希の声音には温かみがあった。きっと「お兄ちゃん」のことが大好きなんだろうなと、彩加は思った。
 その後の荷ほどき。
 ベッド以外の寝具が何もなかった彩加の部屋に、タオルケットと枕、薄い敷布団まで持ち込んで、沙希は狭い一室に自分の居場所をつくった。
 休み明けの試験に使われる参考書がその一角に積まれた時点で、沙希が当分帰るつもりのないことに彩加が気づく。もともと帰る気のなかった彩加に問題はなくても、沙希のその行動はどうかと思い、一度だけ聞いた。
「家の人、何も言わないの?」
 その問いに、沙希の口元に笑みが浮かぶ。
「家は放任主義だから、全然平気。その上「早坂さんトコ」って言ったら、むしろ喜んでたよ。ゆっくりしておいで、だって」
「なんで?」
「万年トップの彩加の名前は、家の親も知ってるからね。一緒にいたら、私の成績も上がるとか思ったんじゃない? 家の親、単純だもん」
 そう言って、屈託なく笑う。
 深くを訊いてしまったなら、自分も答えなければいけなくなる。だから沙希に訊くのも必要最低限に限られた。
 そんな彩加の気持ちを察するように、沙希も多くを訊こうとはしなかった。
 ただ傍に居て、テレビや雑誌のとりとめのない会話が続く。それでも雑談にまぎれるようにしてかわされる何気ない言葉が、時に共鳴する。同じものを見て同じことを感じるふとした瞬間が、甘い痛みをともなって彩加の胸に落ちていく。

 休みの日は、ほとんど自炊ですませる彩加の食生活は、ずっと不規則だった。
 三度に三度、きちんと取ったことはなく、良くて二度、悪ければ二日くらい飲み物だけで過ごすこともあった。けれど部活に通う沙希が、朝食を食べずに出かけるなんて無理だろうとは思っていた。それでも最初の朝は、知らないふりをした。
 沙希の目覚ましの音に気づきながら、眠ったふりを続けた。けれど沙希が出かけた後、台所のゴミ箱に菓子パンの包み紙を見つけたとき、彩加は自分のしたことを後悔した。
 彩加が眠っていると信じ込んで、物音を立てないようにと気遣いながら、台所の隅でこっそりと、背中を丸めてパンを食べている沙希の姿がはっきりと思い浮かんで、胸が痛んだ。
 だから、次の日の朝、シンクの前で立ったまま、菓子パンを口にする沙希に後ろから問いかけた。
「珈琲、いる?」
「えっ?」
「いらないの?」
「いっ、いる。いるっ!」
 大慌てで頷く沙希に座るようにと促して、二人分の珈琲を持って彩加が沙希の前に座る。テーブルを挟んで珈琲を飲む彩加を、沙希は食べかけの菓子パンを手に、ぽかんとした表情で見つめている。
「なに?」
「あっ、ううん、なんでもない」
 ぷるぷると首を振って、ぱくぱくと菓子パンを食べ始める。でもまた少しすると、ちらりと彩加を見上げる。
「だから、なに?」
「あっ、あのね、まさか起きてくれるなんて思ってなかったら。ごめん、なんか、めっちゃ嬉しいみたい、私」
 そう言って、本当に嬉しそうに笑う。
 残った菓子パンを、一口に頬張り、まだ熱いだろう珈琲を一気に流し込むと、「じゃ、行ってくるね」と明るく手を振り、ドアの向こうに消えていく。沙希の衒いのない言葉は、彩加の胸のずっと奥に、すとんと落ちていく。

 ―― ただ一緒に、珈琲を飲んだだけなのに……

 そう思い返しながら、たったそれだけのことに見せられた、沙希の笑顔を思い出す。それは子供にしか出来ないような、思いっきりの笑顔。見ているだけで自分までが幸せになれそうな、そんな笑顔だった。
 沙希の満面の笑顔は、彩加を不思議な気持ちにさせた。いつだって、ちっぽけにしか扱われなかった自分に、沙希はどうしてこんなふうに応えるのか、それがわからなかった。
 わからないことは不安になる。不安になると怖くなる。でも、その怖さより、沙希の笑顔が見たかった。沙希には、いつも、子供のように無邪気に笑っていて欲しくて、彩加は毎日キッチンに立つようになった。
 その日から、食に関して無頓着だった彩加の食生活が、瞬く間に充実していった。
 それまで彩加は、自分が好きなものも良くわかっていなかった。美味しいとか不味いとかさえ、あまり感じたことがなかった。でも、毎日台所に立つうちに、自分の好みがわかってくる。
 そして、自分の作ったものを喜んで食べてくれる沙希の存在が、食事の時間を楽しみな時間へと変えていった。

「彩加って、ホント、何でも出来るんだね」
 ため息混じりに沙希が言う。それがなんだかくすぐったくて、彩加が立ち上がる。
「メープル、いる?」
「うん!」
 朝陽に照らされるテーブルの上には、プチトマトのサラダと、クリームチーズをたっぷり挟み込んだフレンチトースト。とろりと流れるメープルシロップが、陽射しに金色に透けていた。
「私、コレ、大好き」
 ナイフとフォークを上手に使って、沙希はフレンチトーストをぱくんと口に含む。
「どこにでもあるでしょ」
 抑揚なく応える彩加に、沙希が「もう」と、肩を落とす。
「またそういう冷めた言い方する」
 持っていたカトラリーを、皿の上にかちゃんと放る。
「このフレンチトーストはね、特別なの。どこにもないよ」
 初めて彩加が朝食を作った朝、フレンチトーストを食べた瞬間の沙希の笑顔は、格別だった。それは言葉で何を言うよりも、美味しいと伝えるに十分な笑顔だった。
 だから、沙希が、このフレンチトーストを気に入っていることは知っていた。けれど、こんなふうに正面切って言われると、どうすればいいのかわからなくなる。
「たっぷりのクリームチーズにふわふわ卵、それにメープルシロップ。この組み合わせ、絶妙! なんかね、焼きたてのチーズケーキみたい。これって、彩加が考えたんでしょ?」
「考えたなんて、ただ単に朝ごはんだから、甘いだけより良いかなって……」
「だから、考えて試して美味しく出来ちゃうってことがすごいって言ってるの。本やネットで調べたわけじゃないんでしょ?」
「それって、そんなに大層(たいそう)なこと?」
「タイソウ、タイソウ! 連呼(れんこ)しちゃうよ」
 自分の口癖をふざけたように繰り返されて、彩加がプイと言った感じで視線を逸らす。
「たかがトーストじゃない。沙希はいつも大げさなんだよ」
「大げさで結構。だって私には、逆立ちしたって出来っこないもん」
 言って、テーブルにコツンと肘をつく。
「自分で食べたいもの、つくってるだけじゃない」
「普通の人は、食べたいってだけじゃつくれません」
「だって自分しかいないんだから、自分でつくるしかないでしょ?」
「そうは思っても、出来ないのが凡人なの。私みたいにね。私がもしも彩加の立場だったら、毎日そこら辺のコンビニ弁当やお惣菜屋さんのお世話になってるよ」
 頬杖をついたまま、ぽつぽつと呟くように続ける。
「きっと、本当の意味で頭いいっていうのは、彩加みたいな人のこと言うんだよ」
 自分の言葉に納得したように軽く頷いて、沙希が笑う。
「でも、彩加は何でも出来ちゃうから、これが特別なコトだって、気づけないんだね」
 少しだけ、寂しそうにも聞こえる呟きに視線を戻すと、頬杖に俯いていた視線が、ゆっくりと上げられる。黒蜜(くろみつ)の瞳が、じっと彩加を見つめる。
「私、今ね、美味しくって嬉しくって、すっごく幸せなの。それは彩加がくれたんだよ。だからありがとうって言いたかったの。わかる?」
 噛み砕かれた言葉が、キラキラと滲むように、沙希が笑う。
 もう、返す言葉は、見つからなかった。沙希の瞳が、朝の光の眩さが、彩加の声を吸い込んでしまう。銀色の陽だまりのなか、沙希が笑うから。あんまり綺麗に笑うから……。

 他人との接触に、常に緊張を強いられてきた彩加にとって、沙希とふたりきりの夏休みは未知の体験の連続だった。
 部活で疲れて帰ってくる沙希を、いつのまにか待っている自分。アパートの階段を登る足音が聞こえるたびに、ときめいてしまう自分が理解できなかった。
 それでも、沙希といる時間が増えれば増えるほど、慣れているはずの独りきりの空間に物足りなさを感じてしまう。当たり前だったはずの空間が、当たり前じゃなくなっていく。
 そのことに、微かな不安は、感じていた。

 沙希が帰ったのは、始業式の数日前だった。
 夕方近くに沙希の兄の智弘が迎えに来て、荷物を運び出し、沙希を見送った。
 ドアを閉めた瞬間、今まで一度も感じたことのなかった「寂しさ」を感じて、彩加はベッドの上に座っていた。壁に背を預けて、何を見るでもなく部屋を見渡す。視線が、沙希の荷物があった場所で躓く。今はもう綺麗に片されたその場所に、止まる。
 どれくらいそうしていたのか、ポツという微かな音が、彩加の視線をその場所から引き剥がした。
 辺りはすっかり暗くなっていて、彩加が蛍光灯を灯す。明るくなった部屋は、沙希の不在を、なお強調して、彩加はカーテンを引くと、唇を噛んでベッドの上で丸くなる。すると、また、ポツという音が聞こえた。
 静寂に包まれた部屋に波紋を落とすその音は、少しの間をおいて繰り返される。
 音の方向を探りながら、そっと立ち上がる。
 キシリとベッドが軋む。その音を縫ってまた、ポツと音がする。音は窓辺から聞こえてくる。少しだけカーテンを開けてみる。暗闇に慣れない瞳が映し出す漆黒が、やがて徐々に輪郭をなして、木々の葉と空を区切る。
 そして瞳は、繰り返し窓に当たる小さな影を見つけた。朽(く)ちた色の翅(はね)を震わせながら、滑る窓に必死にしがみつき、落ちそうになると飛び立ち、また、窓にぶつかる。
 夜に翔ぶ、鈍色(にびいろ)の蝶。
 暗闇に怯えながら、光を目指して逃げ惑う。届かない光に向かって、何度も同じことを繰り返す。枯葉色のくすんだ鱗粉が、窓硝子を通り抜けて、彩加へと降りかかってくる。
 思わず、遮るようにカーテンを閉め、逃げるように後退っていた。
 鱗粉が散る。それはもちろん、錯覚でしかない。
 そうわかっているのに、親しげに纏いついてくる蝶の幻影は、ポツ、ポツと、音のたびにその数を増やして、彩加を取り囲んでいく。鱗粉が、見る見る降り積もって、彩加を埋め尽くそうとする。
 もう、その音を聴きたくなくて、テレビのリモコンに手を伸ばした。

 ―― トゥルルル……

 不意打ちの携帯のベルにビクリとして、リモコンが手から滑り落ちる。慌てて携帯を手に、通話ボタンを押す。
「彩加?」
 鬱々とした気持ちに捕まりそうになっていた心が、その声に汲み上げられる。
「今、どうしてた?」
「……別に、……なにも……」
「どうしたの? 声に元気ないよ?」
 心にぽっと、暖かな火が灯る。
「別に、普通でしょ?」
「そう?」
「電話で無駄に明るくして、どうするの」
「違うよ。電話だから明るくするんだよ」
「何、ソレ?」
「顔見えないんだから、暗い声だったら心配になるじゃない」
「……心配?」
「なんでそこで聞き返すかな。あたりまえじゃん」
 電話の向こうに、沙希の人懐っこい笑顔が見える。

 細い首筋、伏せられた長い睫。今はもうこの部屋にいない沙希の姿が、はっきりと思い浮かぶ。耳元に、沙希の声が心地良く響く。いつもの軽口が、なんだか楽しい。
 切らないで。もっと話したい。もっと聴いていたい。切らないで。もっと、もっと……。

 校舎へと続く銀杏並木(いちょうなみき)が、金色に染まっていた。
 冬に近づく空が茜色に変わっていくのを、彩加はひとり、教室の窓辺から眺めていた。
「まだいたの?」
 振り向くと、真っ白なスコート姿の沙希が自分の席へと歩いていく。持っていた参考書をポンと机の中に放り込んで、黙ったまま視線で追いかける彩加に笑って言う。
「CANONで待ってて。部活、もうすぐ終わるから」
 胸が、痛んだ。
 彩加の返事を待たずに、沙希は教室から出て行く。沙希の姿は消えても、瞳を閉じても、鮮やかな残像は彩加の瞼から消えない。
 ―― どうして? ……どうして……
 どうして沙希は、いつも望みながら決して貰えない、でも、欲しくて堪らなかった言葉を口にするんだろう。見つからないように、自分でそれに気づかないようにとまで隠している言葉を、どうして沙希は見つけ出してしまうんだろう。
 ―― 待っててなんて、言わないで。そんなに簡単に、言わないで
 沙希は気づいたんだろうか。ひとりきりの部屋に帰りたくなくて、意味も無く此処にいたことを。CANONに行っても、無意識に待ってしまう自分が嫌でCANONにも行けずにいたことを。
 涙が零れそうになる。自分の感情を決して出したくないと、そう思っていながら、本当に、泣いてしまいたいような気分になる。沙希の何気ない一言で、彩加の世界は呆気無く変わってしまう。たった一人の存在に、情けないくらい左右されてしまう。
 ―― どうかもう、そんな言葉は言わないで欲しい。核心を、どうかもう、突かないで欲しい。
 過敏すぎる心が、剥き出しになる。意味のわからない不安は、日増しに大きくなっている。もう、逃げ場はない。じりじりと追い詰められて、もう後がない。だから、毎日毎日、訳のわからない感情で皮膚を逆立てていた。
 そんな彩加が口にする言葉は、どこか投げやりな、冷たい言葉ばかり。何が怖いのかもわからないまま、ただ逃げたくて、沙希と視線をあわせることさえ苦しい。それでも沙希は、何も聞かず、何も咎(とが)めず、黙ったまま傍にいてくれる。

 だから彩加は、夢みてしまう。ふわりと包まれたこの優しさの中で瞳を閉じたなら、いつもとは違う世界で目覚めることができるような気がして。澄んだ空気に心も身体も洗われて、何か綺麗なものに、生まれ変われるような気がして……。

 でも……、夢は、
 藻が絡む、底の見えない水底に吸い込まれるように、消えていった。
 静かに。儚い雪みたいに。

 年末年始、彩加は家族の元へ帰っていた。
 夏休み中、一度も帰らなかった彩加に、母は何も言ってこなかった。生活費はいつも決まった日に彩加の通帳に振り込まれ、生活を気遣うような連絡も一度もなかった。
 それでも、彩加は帰った。世間体を気にする母が、もしかしたら喜んでくれるかもしれないと、淡い期待すら持ちながら。
 大晦日の午後、鍵のかかった玄関の前で、待つともなしにただぼんやりと突っ立っていた彩加に、妹の恵美が駆け寄ってくる。
「あっ、お姉さん! お帰りなさい」
 年末の買い出しに行っていたんだと、はしゃいだように続ける妹に、不器用に笑うだけで応えながら、母の表情をうかがった。
「帰るんなら連絡ぐらいしなさい。こんな寒い中で、人目が悪い」
 彩加を邪魔そうに押し退けて鍵を開ける母から、それ以上の言葉はなかった。
 一度離れてしまった家族という団欒は、今まで以上によそよそしく、歳の近い妹と話す時でさえ、まるで先生と生徒のような、敬語まで混ざってしまう不自然さをともなった。
 幸せなはずの風景が、彩加ひとりが加わることで、変わってしまう。家族が家族でなくなる。お客様のように小さくなっている彩加に対して、気遣う父が、妹が、母の苛立ちをつのらせていくのが、手に取るようにわかった。
 そのあまりの居た堪れなさに、彩加は年明け早々にアパートに戻った。

 閑散とした電車、シャッターが下ろされた商店街、灯りの消えたCANON。その何もかもが、彩加の寂しさを煽った。
 アパートの住人もほとんどが自宅に帰っているらしく、目にする磨り硝子はどれも真っ暗で、彩加の足音だけが虚ろに響いていた。鍵を開ける「カチャリ」という音が、いつも以上に大きく感じられた。
 そして、開かれたドアの向こう側には、見慣れた闇。蒼白く沈んだ、ひんやりと冷たい空間が、彩加を迎える。
 誰もいない部屋。それはいつものことなのに。この部屋に、自分以外の誰かがいたのは、ほんの一時(いっとき)なのに。それだって、もうずいぶん昔のことに思えるのに。
 ―― ……なのに、誰もいないことに、いまさら傷つくなんて!
 泣き出したい気持ちを捨てるように、彩加は持っていた荷物を乱暴に床に叩きつける。
 それでも消えない感傷に、コートのままベッドに飛び乗り、膝を抱えてうずくまった。ぎゅっと膝を引き寄せ、小さく小さく身体を丸めて、ザワザワとうごめくように落ち着かない、胸の鼓動が静まるのを待った。
 彩加はその時、幼い頃の、振り返らない人を見つめることしか出来ない、待つことしか出来なかった日々を思い返していた。
 ひとつ記憶があふれ出すと、引きずられるように別のものまであふれ出してくる。
 平静を保とうとする気持ちと、弱さに傾いていく気持ちとが、胸の中でぐしゃぐしゃに混ざり合って、追い詰められた心が、嗚咽(おえつ)のような声を絞り出した。
「……沙希……」
 情けない自分の声に、唇を噛み締めた。

 忘れかけた記憶を呼び覚ます、翅音(はおと)が聞こえる。鈍色(にびいろ)の翅(はね)に引きずり出された記憶が、やわらかに暖かな場所から、シンと凍えたあるべき場所へと還(かえ)っていく。
 翅音は囁く。氷の吐息とともに。
 その抱え続けた想いの歪(いびつ)さをよく見ろと。卑屈さで育て上げられた、浅ましい自分の姿を思い出せと。
 沙希がいる、眩しすぎる風景。それはありもしない夢の国の御伽噺(おとぎばなし)のように、彩加の世界とは重ならない。

 彩加は、今此処にある自分というものを、自分自身だと感じたことがなかった。求められる自分と自分の本質が、決してイコールではないことを、知っていた。
 だから彩加はいつも、誰かが望む自分をまず頭の中に思い浮かべ、その自分ならこういう言葉を言うだろう、こういう行動をとるだろうと、確認しながら歩いてきた。そうやって自分で自分を見張ることで、なんとか前に進んできた。
 何も考えずに言った言葉は、いつも母を苛立たせてばかりいた。何を言っても望む言葉は返ってこなかった。だったらせめて、母の邪魔にはなりたくなくて、母がどんな言葉を望むのか、どんな行動を望んでいるのか、そんなことばかり考えていた。
 それは今も続いている。
 だから、今、此処にある彩加という存在は、自分で準備したシナリオに沿って作られた、紛(まが)い物でしかなかった。
 何処までが演技で、何処までが本当なのか、今となっては思い出せない。ただひとつ、わかっていることは、自分の本当は、誰からも求められないということだけだった。
 つきまとう、様々な強迫観念。母を落胆させる、自分の全て。彩加のまわりにはたくさんの「失望」だけが転がっている。

 そんな自分が、初めて他人に向けた想い。
 ―― ……好き……
 くすりと、小さく笑う。
 これが、追いかけてくる不安の答えだった。その答えに、もう、笑うしかなかった。
 ―― 沙希が、……好き……
 多くを話はしなかった。大切なことはいつも、口にはしなかった。
 けれど、染み入るように心に触れる何かがあった。授業中の内緒話。小声で繰り返される、他愛ない会話。ためらいがちに伸ばされる指先。ふれられたなら泡立つ気持ちを知りながら、その指先を待つ、仄(ほの)かな甘さ。
 空っぽだった胸の中に、深く静かに降り積もっていった想い。
 ―― 沙希が、好き。哀しいくらい、好き
 ちりちりと、切なく痛むこの想いが、友情なんかじゃないことに、彩加は気づいていた。気づきながら、知らないふりをしていた。認めてしまうのが、あまりにも怖かった。
 いつからか芽生えてしまった、沙希への想い。その想いに彩加は、見ようとしなかった自分の醜い部分に、気づかざるをえなかった。大人になりきれない、未熟な心が見つけた恋愛感情。子供じみた独占欲より、まだ始末に負えない。
 ―― 私は、普通じゃない。
 今、全ては白日に晒されて、もう、自分を誤魔化すことは出来なかった。認めてしまった烙印(らくいん)は、真っ赤に燃えて、彩加の肌を焼いていく。ジリジリと焦げ付く痛みを、彩加はなかば陶然(とうぜん)と受け止めて、力なく笑っていた。
 頬に浮かぶ薄笑いは、自嘲なんか追いつけない、強烈な自己嫌悪だった。

 胸の中で暖めるだけだった孵るはずのない願いが、決して消えない熾火になって、チリチリと心を焦がしはじめる。
 沙希は彩加に、生まれて初めて、ひとりじゃない時をくれた。心が通い合う、笑顔が触れ合う、暖かくも穏やかな日々。
 その優しい時間を、彩加は心の底から失くしたくないと思っていた。その想いは、一緒にいるためになら、なんでもしてしまいそうなほど強かった。それが執着に近い依存だと、彩加は気づいていた。けれど、それを認めるのが怖かった。だから見ないふりをしていた。自分で自分を騙しながら、何もかもに目を瞑っていた。
 だから何もかもが、今、壊れていく。
 沙希が何を想って、自分の隣にいてくれたのか、彩加にそれを推し量ることは難しい。沙希の気持ちはわからない。けれど、変わることなく寄せられた好意は、彩加の胸に今もある。それは子供のような無邪気さで、まっすぐに、彩加へと向けられた。
 その思いに応えられる、自分になりたかった。その思いを受け止められる、自分でありたかった。そう、望んだけれど、その想いの美しさが、眩しさが今、耐え難い光になって、決定的な隔たりを持って、彩加を遠ざけていく。
 もう、足元は崩れかけている。もう、殆ど崩れている。
 これ以上、沙希の近くにいることは出来ない。こんな想いを、沙希に知られてしまうわけにはいかない。沙希が、好きだなんて、誰にも言えない。誰もわかってくれない。こんな気持ちを、もしも沙希に気づかれたなら、この足元は崩れ落ちる。跡形もなく、粉々に。

 ―― 私は、普通じゃない。でも、沙希は違う。沙希は、違う……。

 ずっと、長い間、彩加は自分の気持ちを、言葉にも素振りにも出さないまま、自分の内に匿っていた。願いが叶ったことはなかった。それがどんなに小さな望みでも、叶えられたことはなかった。
 自分が望むもの、自分の願い、それらはいつも鬱陶しそうな視線とともに跳ね返された。だからもう、何も望まない、期待したりしない。そうすることで、自分を守ろうとしていた。
 けれど、敵対するものなら、悪意のあるものになら、どれほどにでも頑なになれる心が、自分という存在を認められてしまっては、頑なでいることは難しい。「いらない」と突っぱねてしまいたい優しさに、泣き出してしまいそうになる。与えられるぬくもりに、子供みたいに縋りついてしまいたくなる。
 そんなふうに許されてしまっては、いずれ自分は、打ち明けてしまう。
 自分の醜さを。自分の浅ましさを。胸に閉じ込めた辛い全てを、いつか自分は話してしまう。決して許せない自分の全てを沙希に知られてしまうのは、死ぬより辛いことだとしても。

 ―― 私は、普通じゃない。
 これ以上、沙希の近くにいることは出来ない。沙希が好きだなんて、誰にも言えない。誰にも、知られたくない。沙希が、好きだから……、もう、傍にはいられない。
 ―― 沙希……!
 沙希にはわからない。まっすぐに見つめる瞳を持った人間に、わかるはずがない。……わかる必要もない。

 離れようと決めたのは、冬休み、最後の日。
 そうして彩加は、少しずつ距離をとろうとした。できる限りのさりげなさで、徐々に遠ざけようと。けれど、沙希と会った瞬間、それがどんなに難しいことなのか、改めて思い知らされていた。
 沙希といると、簡単に心の箍(たが)が外れてしまう。
 見つめる瞳、心地良く響く声、わずかに上がった口角。彩加を惑わせるのはいつも、他人だったら見落としてしまう程度の、些細な仕草だった。
 沙希自身、気にもとめないだろう一挙一動に、彩加の心は振り回されて、簡単に出来るはずの、なにもかもに躓(つまづ)く。なにもかもが、思い通りにならない。
 たった一年。たった一年の間に、どうしてこんなに変わってしまったんだろう。沙希に出逢う前の自分に戻りたいだけなのに、たった一年前の自分が思い出せない。
 ―― 好きになることに、もしも理由があるなら、誰か教えて欲しい。
 そうしたら、その理由全部失くして、ひとりで歩いていける、自分に戻れるのに……。
 流されそうになる想いを、無理矢理ねじ伏せる毎日は彩加を疲れさせて、行動は、どんどん極端になっていく。そんな彩加を、沙希が放っておくはずがなかった。

 ホームルームが終わってすぐ、席を立とうとした彩加は沙希に腕をつかまれて、屋上近くの踊り場に連れてこられた。きつく締め付けられる腕に、問い詰められそうな予感はあった。
 けれどきっと笑ってかわせると、思っていた。自分は沙希に何も告げてない。だから、きっと大丈夫だと、そう思っていた。
 けれど……、
「彩加?」
 名前を呼ばれただけなのに、いままですっかり忘れていた、疼(うず)くような感覚が甦(よみがえ)った。
「彩加?」
 問いかける、呼び声。
「ねぇ、こっち向いて」
 沙希の、掠れる声音。
「……私が、話しかけるの、嫌なの?」
 なんの前触れもなく結論を口にする沙希に、鼓動が震える。
「もう、返事もしたくないくらい、嫌なの?」
「な……、に……?」
 声が、上擦ってしまう。コクリと自分の喉が鳴る。なんとかこの場をやり過ごそうと、無理に笑って視線をあわせた。その瞬間、沙希の瞳から涙が零れ落ちた。
「沙希?」
 びっくりして呼びかけるのに、沙希はプイと視線をはずし、涙を拭う。
「彩加は、私がなんで泣いてるのか、わかってないよね」
 また、ぽろりと雫が落ちる。沙希の頬を、ゆっくりと伝う水滴が、夕日を吸って橙色(とういろ)に光って零れる。こんな時なのに、光を弾くその一粒があんまり綺麗で、沙希の言葉を理解するのが、少し遅れた。だから……、
「私が今、どんなに傷ついてるかも、彩加はわかってないよね」
 続けられた言葉にも、すぐに反応出来なくて、ただ、手の甲で乱暴に目をこする仕草を見ながら「後で赤く腫れるのに」とか、そんなくだらないことばかり考えていた。
「なんで私を避けるの!」
 けれど、何かが破裂したような沙希の声に、彩加の視界がいきなりクリアに切り替わった。
「違うなんて言わせない! 彩加は私を避けてるでしょ!」
 それでも、憤りを隠そうとしない沙希を、彩加は黙ったまま見つめていた。
「冬休み終わってから、ずっと……、私が気づかないって思ってた?」
 沙希の声が、胸の鼓動に消されて、よく聞こえない。でも、その姿を見つめているだけで……。
 ―― 沙希、私は、こんな時でも、沙希の素直さに、まっすぐな言葉に、……眩暈(めまい)がするよ。
「彩加?」
 呼びかけは遠く、波紋のように散っていく。
「私は、彩加が好きなんだよ」 
 彩加の心臓が、大きく、跳ねるように鳴った。
「なんでわかってくれないの!」
 初めて告げられた「好き」という言葉は、甘さよりも切なさばかり含んで、彩加の胸をかきむしる。沙希の言葉は、きらきらと光る、青い硝子玉(がらすだま)みたいに透きとおっている。
「彩加は、私が嫌いなの?」
 沙希の濡れた瞳が、彩加を見つめる。
「私に、離れて欲しいの?」
 揺れる視界に、沙希の指先が映りこむ。自分へと伸ばされる、指先。どんなにか求めた指先。けれど、彩加はとっさにその手を振り払っていた。
「あ……」
 すぐに後悔して、唇を噛んだ。けれど弾いた指先は焦(じ)れたように痛んで……。
 こうなることを、望んでいたはずだった。二度と消えない亀裂を、望んでいたはずだった。なのに、今、目の前の現実は、本当は少しも諦めてなんかいなかった彩加を浮き彫りにしていた。
 彩加の本当が、胸に閉じ込められた彩加が、必死になって閉じられたドアを叩いている。いつしか叫び声はかすれ、手が血だらけになっても、きっと、叩き続けている。
 それでも……、
 ―― それでも、私は今、少しの揺るぎもない声で、最後の言葉を言わなければいけない。
 そう言い聞かせて、彩加は痛む指先を握り締める。
「そう、思うなら、……そうすれば、……」
 けれど、言葉は喉に詰まって途切れた。「いいじゃない」と繋げるはずだった言葉は、音にならなかった。
 はっきりと拒絶する言葉を言い切れず、俯く彩加に沙希の手が伸びる。
 もう、逃げることも出来なくて、取られるがままに両肘をつかまれた彩加は、その近すぎる距離に、自分の鼓動が沙希に聞こえてしまうのではないかと不安になるほど、動揺していた。
 けれど、その動揺以上に、触れられた肘が、熱くて、熱くて、振りほどけなかった。簡単に振り払えるはずの指先を、離せなかった。どんなにか、望んだ指先。沙希の指先。
 ―― このままもしも、……抱きしめられたら……
 そう思った瞬間、ゾクリと悪寒(おかん)が走った。
 ―― 私は、歪(ゆが)んでる。どうしようもないほど
 いたたまれなさに、瞼を閉じた。
 一瞬、きりりと痛んだ肘が、ドンと突き放され、沙希が走り去っていく。階段を駆け下りる沙希の靴音が、徐々に遠のいて、渡り廊下を走る靴音が遠くに聞こえて、やがて消えていく。
 心が、引き千切られたような、気がした。
 その場に、崩折(くずお)れるようにしゃがみこんだとき、緊張を強いられていた身体のあちらこちらが、鈍い痛みを訴えてきた。
 けれど、それ以上に痛む胸の内を宥めるために、彩加は動きたがらない自分の腕を何とか動かし、自分で自分を抱きしめた。今はもう消えてしまったぬくもりを留めようとするように、両肘を、自分の手でぎゅっと握り締めた。
 その瞬間、胸の奥から熱い塊がせり上がってくる。
 ―― 涙なんか、失くなってしまえばいいのに!
 見上げた窓の向こう、潤んだ瞳に映る、空は茜色に染まりはじめていた。潤む視界が映し出す、水の中の風景が、シャボン玉のように揺れる。
 夕焼けの空に浮かぶ、虹色に煌くシャボン玉。きらきらと光るシャボン玉は庭を映してふわふわと風に舞う。その輪郭(りんかく)が薄れて、シャボン玉は最後の吐息のように、パチンと弾けて消える。

 たゆたうシャボンに寄り添う庭。
 庭はシャボンに憧れ、シャボンは庭を夢にみる。
 見つめあい、求めあう想いはけれど、壊れることでしか叶わない。