硝子のラビリンス

 充分に暖まった店内で、彩加がコートを肩から外す。さらりと零れたのは、夏ごろから伸ばし始めた亜麻色の髪。今はもう肩を過ぎた髪が艶やかに揺れる。
 格子硝子の外を行き過ぎる、学生達の影が濃くなっていく。ひとり、またひとりと増えていく人波を眺めながら、利人が問いかける。
「期末試験って、もうすぐだよね?」
「うん」
「いつから?」
「来週」
 応えながら、彩加の視線が窓の外に向けられる。硝子の向こうをじっと見つめる瞳が、淡く潤んでいく。
「それが終わったら春休み?」
「うん」
 人待(ひとま)ち顔で、頷く。
「じゃあ、クラス替えも、もうすぐだね」
 その言葉に、返事はなかった。

 黙ったままの彩加をちらりと見やって、利人は吸っていた煙草を灰皿に擦(こす)りつける。そして、新たにもう一本取り出して火をつける。それだけの間を置いてから、ごく何気(なにげ)ないことのように問いかけた。
「彩加は、国立進学コースだったよね?」
「うん」
「沙希(さき)ちゃんも、同じなの?」
 ピクンと一瞬、彩加の表情が強張った。
「違ったっけ?」
 知っていて、わざと確認しようとする利人の言葉に、彩加は応えない。
「もし違ってたら、クラス、変わっちゃうんじゃない?」
 ドアの外に向けられていた視線が、手元の珈琲へと落される。

 数日前、いつものようにカウンターに座った彩加が、誰もいなくなるのを見計らって、独り言のように呟いた。
 ―― 喧嘩しちゃった
 言葉はそれだけで、ぷつんと途切れる。
 ―― 沙希ちゃんと?
 利人の驚いたような声に、黙ったまま頷く。
 ―― またなんで?
 その問いには応えず、何かを思い出そうとするような瞳をして、ぽそぽそと続ける。
 ―― 喧嘩なんかしょっちゅうだけど……、今回は多分……、もう無理だと思う。
 乾いた笑みに繋がれた言葉は、自分に言い聞かせているようにも見えた。

「なんで、そんなこと聞くの?」
 俯く視線を掌にある白いカップに置いたまま、彩加はわずかに口の端を上げる。笑おうとしているのがわかる。無理にでも笑いたいんだろうと、思う。
「新学期前に、仲直りしたほうが良いと思ってさ」
 それが、彩加の望む言葉ではないと、知っていたけれど。
「なんで?」
 不器用な笑みのまま、問い返す。
「だって、彩加、寂しそうだよ」
「私が?」
 否定をこめて、利人を見上げる。
「うん」
 彩加の気持ちをわかっていながら、利人はためらいなく頷く。
「そんなことないよ」
「ほんとうに?」
 利人の念を押すような問いかけは、彩加を困惑させる。

 急に訪れた意味のわからない焦燥感に戸惑って、彩加は自分の胸辺(むねあた)りの服をぎゅっとつかむ。利人の言葉がトンと押したのは、小さな棘。その棘は、彩加の胸のずっと奥に刺さっている。
―― そんなはずはない。だって、これは、私が望んだことなんだから
 胸の中で呟く。何度も、何度も繰り返す。ちくりと痛んだ胸を誤魔化すように、もう一度口の端を、強く引き上げる。

「寂しいなんて、……思ってないよ」
 それっきり、会話が途切れる。
 柱時計の振り子の音が、微かに聞こえる。カチカチ、カチカチと、時間だけが過ぎていく。彩加の前に置かれた珈琲が、ほとんど飲まれることなく、冷めていく。
「そろそろ、行くね」
 まだ少しだけ早い時間。飲みかけの珈琲をそのままに、彩加が立ち上がる。コートに腕だけを通してマフラーと鞄を手に、ドアへと向かう。
「ホットケーキの準備しとくから、放課後、沙希ちゃん誘っておいで」
 開きかけたドアの隙間から流れ込む風が、彩加の羽織っただけのコートをひらめかせる。
 一枚一枚、丁寧に焼き上げられるホットケーキは、利人の気が向いた時にしかつくられない、裏メニュー。めったにお目にかかることが出来ないそのメニューは、沙希の大のお気に入りだった。
 ドアの前で彩加が立ち止まる。「いってらっしゃい」の代わりに投げかけられた言葉が、彩加の足をその場に縫い付ける。利人がどうしてそんなことを言うのか、それがわかってしまう。何度否定しても、利人は彩加の言葉を信じていない。「本当は寂しいくせに」と思っている。だから、沙希と話すきっかけを失くしてしまった彩加のために、特別なメニューを言ってくれている。
 けれど、それがわかったところで、彩加は何も言えない。認めることはもちろん、否定の言葉も、もう浮かばない。頷くことも、断ることも出来ないまま、彩加は冷たいドアノブを握りなおし、ドアを押し開けた。

 カランと揺れたドアベルを眺めながら、利人は沙希の勝気そうな、少年めいた風貌を思い出していた。多分、きっと、なかなか折れないだろう、意思を持った強い瞳が利人の脳裏をかすめる。
 利人の店に彩加が来るようになって一年。朝はいつもひとりで、放課後もいつもひとりだった。そんな彩加が沙希をともなって訪れた日のことが、昨日のことのように思い出された。

 それは夏休みの静か過ぎる午後。利人は店の窓とドアを開け放って掃除をしていた。
 夏枯(なつが)れの時期の掃除は、クッションの虫干(むしぼ)しから、床のワックスかけ、果ては天井のすす払いまでやっていた。本来なら年末にやるはずの大掃除を、夏場に済ませてしまうのには理由があった。
 年末には雪が多くてなかなか思うようには出来ない。それで何度か失敗した利人は、夏場の大掃除を恒例としていた。
 その日の予定は最後の仕上げ、カーテンの洗濯だった。真っ白に洗い上げられたレースのカーテンが、夏の乾いた風に気持ちよさそうにたなびいていた。真っ青な空にそよぐカーテンを眺めながら、利人は店の前にある木製のベンチに座っていた。
 ひと仕事終えた爽快感を満喫すべく、胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけようと瞼を伏せかけたそのとき、シャリという敷石を踏む音が利人の視線を上げさせた。

 その一瞬、利人のまわりで時間が止まった。
 涼しげな水色のワンピースが、風をふくんで揺れていた。薄いシフォンに包まれた華奢な素足が、戸惑いながら敷石を踏む。
 その頼りなげな風景は夏の蜃気楼を思わせて、伸びかけた亜麻色の髪を片手で押さえながら利人を見つめる彩加の姿が、現実のものに思えなかった。

 咥(くわ)え煙草もそのままに固まってしまった利人に、彩加が「大丈夫かな?」というように小首をかしげる。その仕草にハッとして利人が立ち上がる。
「いらっしゃい」
 慌てて煙草を口元から外し笑顔を向ける利人に、彩加がほっとしたように笑う。
「ちょっとバタバタしてるけど、カウンターは無事だよ。寄ってって」
 束の間、見惚れてしまった自分が妙に照れくさくて、利人はそそくさとカウンターにたてこもる。
 思いがけず逸ってしまった鼓動を気のせいで片付けて、何気なさを装って振り返ったとき、いつものようにカウンターに座った彩加の隣で、きょろきょろと店内を見回している少女に、初めて気づいた。
 それが沙希だった。
「友達?」
 そう訊くと彩加がちらりと沙希を見やって、プイと視線を逸らす。
「居候(いそうろう)」
 彩加の不機嫌そうな声音に、沙希が笑う。背もたれに後ろ手をついていた身体をくるりと反転させ、利人に視線をあわせる。
「初めまして。居候です」
 彩加の言葉尻をつかんで自己紹介する沙希に、利人は思わず吹き出していた。
「居候って、どういうこと? 彩加のとこに居座ってんの?」
 笑いながら問いかける利人に、沙希が小さく舌を出す。
「はい。居ついちゃってます。だって彩加の部屋、すっごく居心地いいんだもん。出て行くの大変」
 おどけたように言って、ぽすんと彩加の隣に座る。
「なに迷い猫みたいなこと言ってんの。勝手に居つかれたこっちは迷惑なんだけど」
「またまたぁ。ほんとは嬉しいくせに」
「……日本語が通じない」
「猫語(ねこご)ならわかるかも。にゃん!」
 言いながら、軽く握った両手をひょいと上げて猫のポーズを真似る沙希に、彩加が仕方なさそうに笑う。

 沙希の明るい声音や、彩加の遠慮のない口調がなんとなく心地良い。テンポよく交わされる会話は、好奇心旺盛な仔猫の瞳のように、くるくると興味の矛先(ほこさき)を変えていく。
 利発(りはつ)さを感じさせる言葉の選び方は変わらない。口の端だけのシニカルな笑みも、時折見せる。けれど、沙希の隣にいる彩加は、利人がもっていた印象を、鮮やかに打ち消していった。
 沙希の冗談に、堪えきれず笑い出す彩加は本当に楽しそうで、その笑顔は幼さを感じさせるほど可愛らしい。
 こんなふうに笑えるんだと、そう思った瞬間「そうだ、この子はまだ十七になったばかりだったんだ」と、改めて気づかされた。今この瞬間こそが、歳相応の、当たり前の風景なんだと。
 夏の陽射しが白木のカウンターを明るく染め上げて、気泡を放つソーダ水の影が、青空の欠片のように揺れていた。

 部活に入ってない彩加と違って、テニス部に所属しているという沙希は、小麦色の肌が健康そうな、快活な少女だった。
 すっきりとした鼻梁(びりょう)に薄い唇。ともすると冷たく見えるその顔立ちを、無邪気な人懐っこい笑顔が掻き消す。細身にもかかわらずしっかりと筋肉のついた肢体(したい)に、真っ黒なウェーブがかった髪。しっとりとした艶を持ったその髪は小さな顔を強調するように短くカットされて、濁りのない黒い瞳を際立たせていた。
 いつも濡れたような瞳でじっと見つめて話す癖に、時々ドキリとさせられた。沙希のまっすぐな言葉や素直な表情から滲み出る、健やかな純粋さは、利人に微かな憧憬すら抱かせていた。
 夢見る頃を遥かに過ぎた利人でさえ、仄かな憧れを感じてしまう沙希という少女。今まだ夢の途中にいる彩加が、そんな沙希に惹かれていくのは、当然のことだったのかもしれない。