小さな喫茶店の、朝一番のお客。彼女は近くの高校に通う二年生。
彼女が初めて利人の店を訪れたのは一年前。北風に磨かれた空が眩しい、冬晴れの日だった。
開店してからずっと、利人が店を開けるのは学生の通学が途絶えた九時半ごろだった。けれどその日はちょっとした気まぐれで八時前から店にいた。
遮光カーテンの隙間から零れる陽光に、目覚めを誘われた朝。寝ぼけ眼のまま引き開けた帳の向こう側には、冬の陽射しを乱反射する銀世界が広がっていた。
見渡す限りの真っ白な雪原と、薄氷をはりつめたように澄んだ青。光の粒を撒き散らす煌びやかな風景が、利人の眠り足りない気分を拭い去っていった。
久々の晴天に、なんとなくうきうきとした気分を連れて、普段よりずっと早い時間に家を出た。灯りをつけ暖房をいれ、珈琲のためのお湯を沸かす。小さな喫茶店はそれだけで準備万端。
でも、開店を早めるつもりはなかった。店の前に「準備中」の札をさげたまま、ドアを背にカウンターの中にしゃがみ込んで、めったに出来ない棚の中の整理をしていた。
その時……、
「まだ、ダメですか?」
聞き違いかと思ってしまうほど、小さな声だった。
断るつもりで立ち上がった利人は振り返った瞬間、自分の営業用の笑みが軽く強張るのを感じた。おそるおそる開かれたんだろうドアの上、役目を果たせなかったドアベルが申し訳なさげに揺れていた。
半開きのドアから流れ込む、冷たい風に浚われそうに細い影。不安げに小首を傾げる少女の瞳は、どうしてか泣き出しそうに潤んでいた。
それは寒さのせいだったのかもしれない。微かに震える指先も、ただ寒いからだったのかもしれない。けれど、ドアノブを握り締めてたたずむ少女の姿はあまりにも頼りなくて、とても「ダメ」とは言えなかった。
「珈琲しか出来ないけど、それでもいい?」
強張りかけた頬を意識的に緩め、自分用に淹れてあったサイフォンを指差して問いかける利人に、少女はホッとしたように頷いた。
カウンターの、ドアに一番近い席を選んで座る少女に珈琲をさしだすと、その年代の子には珍しくブラックのまま利人のブレンドを飲み、じっと窓の外を見つめている。その視線の先が気になって、利人も視線を滑らせる。
格子硝子を透かして見える枝先に、鶫に似た雛鳥がとまっていた。
羽を膨らませ、ふっくらと丸まった小鳥は、目の前にある綿帽子のように積もった雪を、チチと嘴でつっついてはプルプルと首を振っている。そのうちトサリと雪の固まりが落ちて、小鳥がビックリして飛び退く。
その可愛らしいようすに、利人の口元がほころぶ。少女に視線を戻すと、少女の頬にも淡い笑みが浮かんでいた。
「何年生なの?」
ふわりと和んだ空気に、利人が問いかける。ふと絡む視線に、少女がはにかんだように俯く。
「一年。……もうすぐ二年」
「此処に来たこと、あったっけ?」
「初めてです」
店の前の坂道は、街を見下ろす高台へと繋がっていた。
桜並木に彩られた細い坂道は、少女達が通う学園へと続いている。
中学から大学まで一貫教育のその学園は、優秀な生徒が多く入学が難しいと評判の有名校だった。けれど地元では優秀さよりも、裕福な家庭の子が集う「お嬢様学校」として知られていた。
少女達が身につけるミッション系の制服は清楚なイメージが強いのに、何処にいても目立った。冬場に指定されているケープのついたコートに、時折被られる校章入りのキャスケットが、異国めいた情緒を感じさせて、少女達を特別な存在に変える。
そんな学園の通学路に店を構えた利人は、開店当初、丘の上の生徒達が此処に来ることはないだろうと思っていた。丘の上には、由緒正しいお嬢様学校の中等部と高等部だけ。大学は別の敷地にあった。通常、喫茶店といえば校則で禁止される常套句のはず。その上、少女達の通学路は喫茶店の前に一本きり。当然、教師達もこの道を通る。そんな店を、好き好んで選ぶ学生はいない。きっと敬遠されるに違いないと思っていた。
けれど利人の予想は、良い意味で裏切られた。ポツリポツリと増えていった制服が、今では店の大半を占めている。さすがに中学生が訪れることはなかったけれど、それでも制服ばかりであることに変わりはない。
最初の頃こそ、学園からの苦情にびくびくしていた利人だったけれど、少女達に混じって教師までが立ち寄るようになった時点で、その取り越し苦労も消えた。突然の教師の訪問に決まり悪そうに表情を引き攣らせる利人に、教師は通り道だから安心できるんだと朗らかに言った。
CANONと音符で綴られた白木細工のプレートが指し示す、北欧の森を思わせる小さな喫茶店。空に浮かぶ、尖った屋根の上の風見鶏が、少女達を迎える。
格子硝子のドアを開くと、見上げるばかりの高い天井から、燦々と陽の光が降り注ぐ。
大きな出窓に置かれた陶器のプランターには、季節ごとに数種の花が植え込まれ、冬場の花が少ない時期には、赤と緑のビードロで飾られた、背の低い常緑樹が並ぶ。
壁にそった作り付けのベンチの前には、木目のテーブル。ベンチに向かい合う背もたれのない丸い椅子はその時々で居場所を変え、少女達の気まぐれを満足させていた。
年月が過ぎるごとに、一番の上客に合わせてその姿を変えていく店内はミルク色の優しさをまとい、一日のほとんどを其処で過ごす利人にとって「CANON」はただの仕事場から、愛着ある場所へと変わっていった。
その大切な空間に、少女は毎朝、決まった時間に訪れる。
最初はたまたまの偶然。それを日課にしたのは、利人だった。
朝のシンとした空気の中、何を話すでもなく一杯の珈琲を飲み終え席を立った少女は、利人が言った「いってらっしゃい」の一言にくるりと振り返り、不思議そうな瞳をした。
利人が「ん?」といった感じで首を傾げると、慌てたようにこくんと頷いて、ドアの向こうに消えていった。
それはほんの一瞬の出来事だった。けれど、少女の戸惑ったような表情が印象的で、なんとはなしにまた逢いたいと思ってしまった。そして、利人の店の「OPEN」時間は、その日から八時前に変わった。
少女がいつもそんなに早く登校すると限ったわけじゃない。もちろん約束もない。けれど少女は利人の気持ちに応えるように、翌日も、その翌日も、利人の店のドアを開けた。
そしていつからか、少女は放課後も利人の店を訪れるようになっていた。
午後の気だるげな陽光の中、さざ波のように交わされる学生達の会話。光を含んだ波頭が寄せる会話の波から、少し離れたところに少女はいた。
利人の「いらっしゃい」の言葉に軽い会釈を返して、カウンターの一番奥の席に向かう。学生鞄から図書印の押された薄い単行本を取り出し、鞄を足元に置く。注文のないまま利人が差し出す珈琲に、活字から視線を離すことなく手を伸ばす。
何かの約束事のように、いつも同じ動きでカップを探す、白い指先。
雨の土曜だった。
「何読んでるの?」
激しい雨のせいで客足は殆ど無く、学生達ももう校内には残っていないだろう夕間暮れ。水切り籠に伏せてあるグラスを拭きながら、肩越しに問いかけた。いつもの単行本とは違う厚い大きな本が、なんとなく気になって。
「童話……、の原書」
「へぇ、すごいね。もしかして中身全部、向こうの言葉?」
「ううん、ところどころ注釈がついてる。それに、ストーリーは、わかってるから」
利人の感心したような口調に、少女の頬に赤味がさす。パタンと本を閉じて、ためらいがちに口を開く。
「私ずっと、童話って、好きになれなくて」
雨は衰えることなく、窓を叩いていた。
「でも、原書は違ってるって、そう聞いたから」
途切れ途切れの声が、細く雨音に絡んでいく。
何気ない問いかけのはずが、少女にとっては不意打ちだったのかもしれない。言葉はまるで言い訳のように重ねられる。
「確かに、微妙に違ってはいるけど、もし好きになるためだとしたら、おすすめはしないね」
「マスター、知ってるの?」
「ちょっとだけね」
思い出せる、記憶の欠片を辿りながら、付け足す。
「悪役に対する懲らしめ方が残酷すぎて、僕はシンデレラだけでギブアップしたよ。だってさ、意地悪だったお姉さんたちは、ガラスの靴を履くために足を切って、それだけだって痛いのに、最後には鳩に目をくりぬかれるって酷くない? その上、肝心の筋書きは、和訳と大して変わんない」
その言葉の意味を問うように、少女が瞬く。
「ご都合主義の、めでたし、めでたし」
利人のちゃかした言い方に、少女の口元にごく微かな笑みが浮かぶ。
「足を切らせたり、目をくり抜いたりしておいて、それはないだろうって思わない?」
少女の笑みが、深くなる。
「主人公だけが幸せになれば、あとはお構いなしって世界だよ」
最後のグラスを拭き終え、利人がくるりと振り返る。
「僕もね、童話って嫌いなんだ」
次の言葉を待って、少女が利人を見上げる。
「なんかさ、童話の世界って善と悪が、きれいにスッパリわかれてるでしょ? まぁ、そうしなきゃ物語にならないんだろうけど、現実に善の部分だけの人間なんているわけないって思うし、もしいたら気持ち悪い。それに〝どんなに虐められても、優しい素直な心をなくしませんでした〟なんて、そんなことあると思う?」
軽く腕組みした格好で滔々と話し出した利人に、少女がくすくすと笑う。少女の笑顔に後押しされて、利人が続ける。
「僕は思ったね。それは偉いことでもなんでもなくって、ただ単に自分が虐められてるとか、酷いことされてるってことに、本人が気づいていないんじゃないかってね。童話の主人公って、どっか白痴的じゃない? 無垢って言えば聞こえはいいけど、僕はそうは想わない。彼らは無垢なんかじゃなくて無知なんだよ。だから傷つかない」
少女の口元から、笑みが消える。
「彼らはその愚鈍さのおかげで、ずっと素直でいられるんだよ」
そう言って、少女の瞳を覗き込んだ。
「私も、人が善良なモノだなんて、信じてない」
利人の視線をわずかにそらして、続ける。
「人は、善でありたいって願いながら、絶対に善にはなりきれないモノだって思う」
冷めた表情で、言い切る。
「だから良いことばっかり書かれている主人公が、なんだか嘘っぽくて、好きになれなかった」
薄く瞼を伏せて、納得したようにこくんと頷く。
「でも、そうだね。マスターが言うように、他人の悪意に気づけない鈍感な人なら、それも有りかもしれないね」
少女の横顔に、人形のように体温を感じさせない、陶器の笑みが浮かぶ。
「傷つけようとする人たちの悪意を、気づけないことで傷つけ返しながら、童話の主人公はいつまでも、綺麗なままでいられるんだね」
利人の子供じみた意地悪な演説が、少女の言葉と共鳴した。
学生達が溢れかえる放課後。少女はいつもひとりだった。
店で偶然に出会う友達にも一言二言言葉をかわすくらいで、同席しようとはしなかった。
友人達の明るい会話に背を向け、ぽつんとひとりカウンターに座る少女。それは、寂しい風景のはずだった。けれど、利人の瞳には、少女が望んでそうしているように映っていた。少女には、近寄りがたさを感じさせる、何かがあった。
整った顔立ちを際立たせる、薄い琥珀色の瞳。くせのない薄茶の髪が、細い頤を包み込むように切り揃えられていた。少し長めの前髪を時おりうるさそうにかきあげる。かきあげられた前髪は、けれど留まることなくサラサラと、白磁の額に零れていった。
春の霞がかった青空から、やわらかな陽射しが射し込んでいた。店内に流れるピアノの曲に、少女が不意に問いかける。
「マスター、この曲、知ってる?」
「えっ? あぁ、なんだろう? よく聞く曲だよね」
有線からランダムに流れる曲は、一定の間隔で似たようなピアノの曲がかかっていた。その曲名を問われたと思い、利人が問い返す。けれど少女は利人の問いに応えることなく、遠くを見つめたままポツンと言う。
「この曲、私、弾けたんだよ」
宙に浮いてしまった利人の問い。けれどその問いよりも、少女の消え入りそうに細い声音が気にかかる。
「今は?」
「……今も、……弾けるよ」
そう言って、口元だけで笑う。
「ピアノ、習ってるんだ?」
そう訊くと、少女は笑んだまま、緩く首を振る。
「習ってない。でも、この曲だけは弾けるの」
不安定な笑み。はかりかねる瞳の色に、利人が続く言葉を選びあぐねていると、店のドアが勢いよく開いて、数人の生徒がなだれ込んできた。
「こんにちは!」
明るい声に、利人も明るく応える。
「いらっしゃい」
少女はそれっきり、口を噤んでしまった。利人がオーダーを確認してカウンターに戻ったとき、そこにはもう、声をかけることさえためらわれる、無表情な横顔だけがあった。
多くを語らない少女の紋切り型の応え方は、ともすると冷たく切り捨てられたように感じる。けれど、変にベタベタと甘ったるい言葉を選びたがる学生達よりも、そっけなく返される少女の言葉の方が、利人は好きだった。
親戚との付き合いが希薄だった利人の両親が、あいついで病気に倒れたのは十年以上も前になる。
だからひとりきりの生活には、とうの昔に慣れっこになっていたけれど、唐突に訪れる意味のわからない喪失感にだけは、いつまでたっても慣れることが出来ずにいた。身体のどこかが欠け落ちてしまったような、自分が抜け殻のように心許ない存在に思える一瞬があった。
そんな利人にとって、この喫茶店で得られる袖が触れ合う程度のいくつもの交流は、利人が思う以上に大切なものになっていた。
そして毎朝決まった時間に訪れる少女の、媚びることをしない言葉遣いは、利人に身内のような親近感を抱かせていた。
五月雨が、紗幕のように広がっていた。耳を澄ますとしとしとと、雨の滲む音がする。
その日は何故か、少女は時間になっても席を立とうとしなかった。
「学校、大丈夫なの?」
「ん……、今日は……、やめとこうかなって、思ってる……」
途切れ途切れの言葉には、少女の戸惑いが感じられた。今までにない、すこしだけ甘えを含んだ声音。
「行きたくないの?」
重ねられる問いに、少女は黙ったまま。いつもと変わらない、俯き加減の淡い笑み。でも、その笑顔が、その日はとても頼りなげに見えた。
「気分的なものかな? まっ、そんな日もあるよね」
それは少女にとって思いがけない同意だったのかもしれない。伏目がちだった視線が、弾かれたように利人に向けられた。
「だったら、その席目立つから、こっちの奥おいで。此処だったら外から見えないから。そんな良く見えるところで堂々とサボられたんじゃ、いくらなんでも、まずいからね」
カウンターの中から手招く利人に、少女の顔がパッとほころんだ。嬉しそうに唇をかんで、利人がすすめる席へと移動する。
「お腹、空いてない?」
また意外な言葉だったのか、少女がぱちりと大きく瞬く。
「トーストぐらいしかできないけど、少し食べない? 僕も軽く食べるからさ」
少女が学校に行った後、利人はいつも「準備中」の札を出して、自分の朝食の時間にあてていた。今日はそれが無理そうだったので、少女にも聞いてみた。「ついでだよ」と強調する利人に、少女が小さく頷く。
カウンターを挟んでの雑談。よくある風景にも関わらず、少女の言葉は少なかった。
でもそれは別に話すことを嫌がっているわけではなく、自分の気持ちを表現することに慣れていないだけなんじゃないかと、利人はおぼろげに感じる。それを示すように、利人の問いかけに少女が嫌そうな素振りを見せることはなかった。ただ淡々と、言葉を紡ぐ。
「名前、聞いてなかったよね?」
なんとなく、聞きそびれていたことを尋ねてみる。
「……早坂、彩加」
「早坂さんって呼んで良いのかな?」
利人の問いかけに、視線を逸らして訂正する。
「彩加の方が良い」
「じゃあ、彩加ちゃん?」
そう呼ぶと、ふわりと頬を染める。
「……ちゃんって、なんか嫌」
赤い唇を、ツンと尖らせる。子供が我侭を言うときのような彩加の表情に、利人がクスリと笑う。
「じゃあ、彩加、かな?」
確かめるように呼ぶと、こくんと頷く。
「あやかって、綺麗な響きだね」
利人の言葉に、俯いたまま、かすかに笑う。
「私の名前、おとうさんがつけてくれたんだって」
言って、遠くに視線を馳せる。
「でも私、おとうさんのこと、全然知らないの」
そんな感じで、彩加の話ははじまった。
彩加が初めて利人の店のドアを開けた朝、それは彩加が独り暮らしをはじめて間もない頃のことだった。
喫茶店の裏手にあるアパートに引っ越して、最初のうちは独り暮らしのテンポがつかめず、時間はみるみる過ぎていった。けれど慣れてしまえばひとりのこと、然程かかるはずのない朝の時間を潰しきれず、早くに家を出てしまった。
少しだけ散歩してみようと軽い気持ちでいたものの、遠回りをするにも限界を感じて、あまりに早い時間に学校に行くのも嫌で、もう一度アパートに戻ろうかと思いかけた時、灯りのともったこの店を見つけたのだと言う。
「朝、早く起きる習慣が抜けなくって」
遠くから通っていた頃と同じ時間に目が覚めてしまうと言って薄く笑う。利人が黙って聞いていると、またポツリポツリと続ける。
彩加が物心ついた頃、既に父はいなかった。父がどうしていないのか、彩加は知らない。
「いつも、おかあさんと、ふたりきりだった」
それを知りたいと思ったことは、確かにあったはずなのに……、
「でも、おかあさんが結婚して、私の名前も変わったの」
今はもう、言葉にすることも出来ない。
小さなアパートから綺麗な一軒家に引っ越したのは、彩加が小学六年の時。
木の香りが漂う真新しい家には、優しそうなお父さんと可愛らしい妹。今までテレビの画面でしか見ることのなかった日常の何気ない挨拶や、家族の食卓。それはきっと幸せな場面のはずだった。
けれど、彩加はどうしてもその暖かな場所に馴染めずにいた。
「私、男の人が苦手みたい」
ポツンと言って、諦めたように笑う。
彩加にとって、「おとうさん」という存在は、とても遠い人だった。もちろんその言葉に、憧れはあった。でも、突然見も知らない人を「父」だと言われても、どう接していいのかわからなかった。
先生とも、見知らぬ他人とも違う「父」という存在に、思考は躓くばかりで、ギクシャクとした雰囲気はそのまま、苦手意識へと繋がっていった。
「それを言われた僕は、なんか頷けない」
彩加の少しだけ翳った表情が、話し始めたことを悔やんでいるようにも見えて、利人はわざとしゅんと肩を落として見せる。彩加の声音が、少しずつ弱くなって、今にも話を途切れさせてしまいそうで、そうはさせたくなくて悪戯っぽく問いかける。
「だって、それってさ、僕のことも苦手ってことでしょ?」
ハッとしたように顔を上げる彩加に、安堵を誘うように笑いかける。
「こうして話してるの、無理してる?」
「無理なんかしてない」
「僕も一端の男のつもりだけど?」
困ったような瞳をして、小首を傾げる。
「マスターのことは、苦手って思ったことないよ。なんでだろ? 喋り方……かな?」
「僕が女顔、だからじゃない?」
きょとんと瞬く彩加に、情けなさそうな顔で続ける。
「昔っからよく言われたからね。大学の文化祭の時には女装までさせられたんだよ」
彩加の口がパクンと開いて、驚いているのがわかる。
「もちろん最初は嫌々だったよ。でもね、これがやってみるとちょっと面白くってさ、調子にのってたら、知らない男に告白されちゃったんだよ。あれはさすがにまいったね」
おどけた調子で話す利人に、硬かった彩加の頬が、ゆるやかに綻んでいく。
小さい頃からあまり丈夫じゃなかった利人は、外に出ることを好まない、内向的な少年だった。
両親が亡くなってからは出不精に拍車がかかり、やっとの思いで入った大学でさえ単位ギリギリの出席で、なんとか卒業できたという状況だった。
その上、多少とはいえ相続できた遺産があったのをいいことに、この店を開くまで利人はほとんど外に出ることをしていなかった。
そんな生活環境は、色白の背ばかりヒョロヒョロと伸びてしまった、典型的なもやしっ子を改造する機会を失くしたまま、今にいたっていた。
ひげの薄い、どちらかというと女性的な自分の身体に嫌気がさしても、そう成ってしまったものが変わるわけもなく「しょうがないな」と開き直っていた。
けれどそんな利人の思いとは裏腹に、大学時代は女性からの誘いがたえなかった。自分の容姿が、女性の目を惹くということに気づいたのは、大学に入ってすぐのことだった。
高校までは、嫌われているとまでは思わなくても、間違ってもモテるなんて思ったことはなかった。女生徒の憧れの存在は大半が運動部のエースか、飛びぬけて頭のできる秀才に限られていた。運動はほとんど出来ず、成績も真ん中ほどをふらふらしている程度の利人が目立つことなんかなかった。
まして虚弱体質なんて言葉は、男子生徒にとってマイナス以外の何ものでもない。
それが大学に入ってからは何のはずみか、まるでダムが決壊したかのように女性からのアプローチが増えた。
特に何が変わったとも思えない。外見的な違いはと言えば、学生服を脱いだことと、大学に入ってから伸ばし始めた髪ぐらいしか思い浮かばない。にもかかわらず、この周りの反応の違いはいったいなんなんだろうと首を傾げていたとき、仲間のひとりがボヤクように言った。
「顔のいい奴は得だよなぁ」
多分に嫌味の入った言葉ではあった。けれどその一言は、自分の容姿に対する再認識になった。利人が嫌だと感じる女性的な風貌は、ままごとみたいな恋愛を望む夢見がちな女性にとって格好の条件だったらしい。
優しさなんて、長所でもなんでもないものが幅をきかせる幼い恋愛。始末におえない優柔不断さを美化させる要素を含んだその言葉に幻想を抱いて、女性達は近寄ってくる。そうした中で利人も幾つかの恋を経験して、今にいたっていた。
それはあまり楽しいとは言えない経験ではあったけれど。
そんなことをふつふつと思い返しながら、冗談まじりに利人が言う。
「男らしいなんて言葉からは程遠い僕だけど、でも、普通の健康な男であることに間違いはないから、僕で慣らしていけば? いい準備運動になるよ」
その言葉に彩加の視線が、自分の指先に落とされる。そして何処を見るともなく視線を揺らして、自嘲気味にくすりと笑った。
「もう、遅いかも」
おっとりと鷹揚な父の優しさ、懐っこく愛らしい妹。それは絵に描いたような家族の団欒。
出会ったばかりの妹が、甘えるように「おかあさん」と呼ぶ。
「可愛げのない子で……」
そんな妹と彩加を見比べて、母が申し訳なさそうに言う。
「恵美が子供過ぎるんだよ。彩加ちゃんはしっかりしてるからね」
母の膝枕で幸せそうに眠る、妹の隣で交わされた会話。
母の枷にはなりたくなくて、甘え上手な子供になりたいと思っても、出来ない。知らない間にひとりでいることに慣らされていた彩加に、妹のように無邪気な笑顔はつくれない。
自分の言葉、自分の行動、なにもかもが不自然に思えて、幸せな家族の中で、自分の身体だけが宙に浮いてしまっているような心許なさは、大きくなっていくばかりだった。
自分という存在の異物感。それは事あるごとに胸を圧迫して、ずっしりと肩にのし掛かる。その重さにとうとう耐えかねて、彩加は母にひとり暮らしをしたい、と言った。
「そう。……じゃあ、お部屋を探しにいかないとね」
母の振り返らない背中を見つめたまま、彩加は続く言葉を飲み込んだ。
胸の中に、いくつか用意していたもっともらしい理由。冬の通学が不便だとか、勉強に集中したいからだとか。その理由を、口にする必要はなかった。
「あのアパート、同じ高校の先輩が使ってたんだって」
高校に入ってひとり暮らしをする人はそんなに珍しくなかった。学校が準備した下宿や寮もあったけれど、みんな一年の終わりごろにはお仕着せの場所を離れる。そしてその部屋は、卒業を間近に控えた三年生が解約したばかりだった。
「ちょうど良いタイミングだったみたい」
他人事みたいな彩加の言葉。
彩加の声は明るい。抑揚なく紡がれる言葉は淡々と続いた。けれど……。
雨は、優しすぎるほど穏やかに、窓の外を濡らしていた。幾重にも重なる紗幕はひっそりと世界を閉じ込めて、白熱灯に照らされたこの空間だけを切り取っていた。
その静けさに耳を澄ませるように、彩加は言葉を繋いでいた。さらさらと降り続く雨音の中から、たった一粒の雨が降り落ちる音を聴こうとするように、言葉を探していた。
彼女が初めて利人の店を訪れたのは一年前。北風に磨かれた空が眩しい、冬晴れの日だった。
開店してからずっと、利人が店を開けるのは学生の通学が途絶えた九時半ごろだった。けれどその日はちょっとした気まぐれで八時前から店にいた。
遮光カーテンの隙間から零れる陽光に、目覚めを誘われた朝。寝ぼけ眼のまま引き開けた帳の向こう側には、冬の陽射しを乱反射する銀世界が広がっていた。
見渡す限りの真っ白な雪原と、薄氷をはりつめたように澄んだ青。光の粒を撒き散らす煌びやかな風景が、利人の眠り足りない気分を拭い去っていった。
久々の晴天に、なんとなくうきうきとした気分を連れて、普段よりずっと早い時間に家を出た。灯りをつけ暖房をいれ、珈琲のためのお湯を沸かす。小さな喫茶店はそれだけで準備万端。
でも、開店を早めるつもりはなかった。店の前に「準備中」の札をさげたまま、ドアを背にカウンターの中にしゃがみ込んで、めったに出来ない棚の中の整理をしていた。
その時……、
「まだ、ダメですか?」
聞き違いかと思ってしまうほど、小さな声だった。
断るつもりで立ち上がった利人は振り返った瞬間、自分の営業用の笑みが軽く強張るのを感じた。おそるおそる開かれたんだろうドアの上、役目を果たせなかったドアベルが申し訳なさげに揺れていた。
半開きのドアから流れ込む、冷たい風に浚われそうに細い影。不安げに小首を傾げる少女の瞳は、どうしてか泣き出しそうに潤んでいた。
それは寒さのせいだったのかもしれない。微かに震える指先も、ただ寒いからだったのかもしれない。けれど、ドアノブを握り締めてたたずむ少女の姿はあまりにも頼りなくて、とても「ダメ」とは言えなかった。
「珈琲しか出来ないけど、それでもいい?」
強張りかけた頬を意識的に緩め、自分用に淹れてあったサイフォンを指差して問いかける利人に、少女はホッとしたように頷いた。
カウンターの、ドアに一番近い席を選んで座る少女に珈琲をさしだすと、その年代の子には珍しくブラックのまま利人のブレンドを飲み、じっと窓の外を見つめている。その視線の先が気になって、利人も視線を滑らせる。
格子硝子を透かして見える枝先に、鶫に似た雛鳥がとまっていた。
羽を膨らませ、ふっくらと丸まった小鳥は、目の前にある綿帽子のように積もった雪を、チチと嘴でつっついてはプルプルと首を振っている。そのうちトサリと雪の固まりが落ちて、小鳥がビックリして飛び退く。
その可愛らしいようすに、利人の口元がほころぶ。少女に視線を戻すと、少女の頬にも淡い笑みが浮かんでいた。
「何年生なの?」
ふわりと和んだ空気に、利人が問いかける。ふと絡む視線に、少女がはにかんだように俯く。
「一年。……もうすぐ二年」
「此処に来たこと、あったっけ?」
「初めてです」
店の前の坂道は、街を見下ろす高台へと繋がっていた。
桜並木に彩られた細い坂道は、少女達が通う学園へと続いている。
中学から大学まで一貫教育のその学園は、優秀な生徒が多く入学が難しいと評判の有名校だった。けれど地元では優秀さよりも、裕福な家庭の子が集う「お嬢様学校」として知られていた。
少女達が身につけるミッション系の制服は清楚なイメージが強いのに、何処にいても目立った。冬場に指定されているケープのついたコートに、時折被られる校章入りのキャスケットが、異国めいた情緒を感じさせて、少女達を特別な存在に変える。
そんな学園の通学路に店を構えた利人は、開店当初、丘の上の生徒達が此処に来ることはないだろうと思っていた。丘の上には、由緒正しいお嬢様学校の中等部と高等部だけ。大学は別の敷地にあった。通常、喫茶店といえば校則で禁止される常套句のはず。その上、少女達の通学路は喫茶店の前に一本きり。当然、教師達もこの道を通る。そんな店を、好き好んで選ぶ学生はいない。きっと敬遠されるに違いないと思っていた。
けれど利人の予想は、良い意味で裏切られた。ポツリポツリと増えていった制服が、今では店の大半を占めている。さすがに中学生が訪れることはなかったけれど、それでも制服ばかりであることに変わりはない。
最初の頃こそ、学園からの苦情にびくびくしていた利人だったけれど、少女達に混じって教師までが立ち寄るようになった時点で、その取り越し苦労も消えた。突然の教師の訪問に決まり悪そうに表情を引き攣らせる利人に、教師は通り道だから安心できるんだと朗らかに言った。
CANONと音符で綴られた白木細工のプレートが指し示す、北欧の森を思わせる小さな喫茶店。空に浮かぶ、尖った屋根の上の風見鶏が、少女達を迎える。
格子硝子のドアを開くと、見上げるばかりの高い天井から、燦々と陽の光が降り注ぐ。
大きな出窓に置かれた陶器のプランターには、季節ごとに数種の花が植え込まれ、冬場の花が少ない時期には、赤と緑のビードロで飾られた、背の低い常緑樹が並ぶ。
壁にそった作り付けのベンチの前には、木目のテーブル。ベンチに向かい合う背もたれのない丸い椅子はその時々で居場所を変え、少女達の気まぐれを満足させていた。
年月が過ぎるごとに、一番の上客に合わせてその姿を変えていく店内はミルク色の優しさをまとい、一日のほとんどを其処で過ごす利人にとって「CANON」はただの仕事場から、愛着ある場所へと変わっていった。
その大切な空間に、少女は毎朝、決まった時間に訪れる。
最初はたまたまの偶然。それを日課にしたのは、利人だった。
朝のシンとした空気の中、何を話すでもなく一杯の珈琲を飲み終え席を立った少女は、利人が言った「いってらっしゃい」の一言にくるりと振り返り、不思議そうな瞳をした。
利人が「ん?」といった感じで首を傾げると、慌てたようにこくんと頷いて、ドアの向こうに消えていった。
それはほんの一瞬の出来事だった。けれど、少女の戸惑ったような表情が印象的で、なんとはなしにまた逢いたいと思ってしまった。そして、利人の店の「OPEN」時間は、その日から八時前に変わった。
少女がいつもそんなに早く登校すると限ったわけじゃない。もちろん約束もない。けれど少女は利人の気持ちに応えるように、翌日も、その翌日も、利人の店のドアを開けた。
そしていつからか、少女は放課後も利人の店を訪れるようになっていた。
午後の気だるげな陽光の中、さざ波のように交わされる学生達の会話。光を含んだ波頭が寄せる会話の波から、少し離れたところに少女はいた。
利人の「いらっしゃい」の言葉に軽い会釈を返して、カウンターの一番奥の席に向かう。学生鞄から図書印の押された薄い単行本を取り出し、鞄を足元に置く。注文のないまま利人が差し出す珈琲に、活字から視線を離すことなく手を伸ばす。
何かの約束事のように、いつも同じ動きでカップを探す、白い指先。
雨の土曜だった。
「何読んでるの?」
激しい雨のせいで客足は殆ど無く、学生達ももう校内には残っていないだろう夕間暮れ。水切り籠に伏せてあるグラスを拭きながら、肩越しに問いかけた。いつもの単行本とは違う厚い大きな本が、なんとなく気になって。
「童話……、の原書」
「へぇ、すごいね。もしかして中身全部、向こうの言葉?」
「ううん、ところどころ注釈がついてる。それに、ストーリーは、わかってるから」
利人の感心したような口調に、少女の頬に赤味がさす。パタンと本を閉じて、ためらいがちに口を開く。
「私ずっと、童話って、好きになれなくて」
雨は衰えることなく、窓を叩いていた。
「でも、原書は違ってるって、そう聞いたから」
途切れ途切れの声が、細く雨音に絡んでいく。
何気ない問いかけのはずが、少女にとっては不意打ちだったのかもしれない。言葉はまるで言い訳のように重ねられる。
「確かに、微妙に違ってはいるけど、もし好きになるためだとしたら、おすすめはしないね」
「マスター、知ってるの?」
「ちょっとだけね」
思い出せる、記憶の欠片を辿りながら、付け足す。
「悪役に対する懲らしめ方が残酷すぎて、僕はシンデレラだけでギブアップしたよ。だってさ、意地悪だったお姉さんたちは、ガラスの靴を履くために足を切って、それだけだって痛いのに、最後には鳩に目をくりぬかれるって酷くない? その上、肝心の筋書きは、和訳と大して変わんない」
その言葉の意味を問うように、少女が瞬く。
「ご都合主義の、めでたし、めでたし」
利人のちゃかした言い方に、少女の口元にごく微かな笑みが浮かぶ。
「足を切らせたり、目をくり抜いたりしておいて、それはないだろうって思わない?」
少女の笑みが、深くなる。
「主人公だけが幸せになれば、あとはお構いなしって世界だよ」
最後のグラスを拭き終え、利人がくるりと振り返る。
「僕もね、童話って嫌いなんだ」
次の言葉を待って、少女が利人を見上げる。
「なんかさ、童話の世界って善と悪が、きれいにスッパリわかれてるでしょ? まぁ、そうしなきゃ物語にならないんだろうけど、現実に善の部分だけの人間なんているわけないって思うし、もしいたら気持ち悪い。それに〝どんなに虐められても、優しい素直な心をなくしませんでした〟なんて、そんなことあると思う?」
軽く腕組みした格好で滔々と話し出した利人に、少女がくすくすと笑う。少女の笑顔に後押しされて、利人が続ける。
「僕は思ったね。それは偉いことでもなんでもなくって、ただ単に自分が虐められてるとか、酷いことされてるってことに、本人が気づいていないんじゃないかってね。童話の主人公って、どっか白痴的じゃない? 無垢って言えば聞こえはいいけど、僕はそうは想わない。彼らは無垢なんかじゃなくて無知なんだよ。だから傷つかない」
少女の口元から、笑みが消える。
「彼らはその愚鈍さのおかげで、ずっと素直でいられるんだよ」
そう言って、少女の瞳を覗き込んだ。
「私も、人が善良なモノだなんて、信じてない」
利人の視線をわずかにそらして、続ける。
「人は、善でありたいって願いながら、絶対に善にはなりきれないモノだって思う」
冷めた表情で、言い切る。
「だから良いことばっかり書かれている主人公が、なんだか嘘っぽくて、好きになれなかった」
薄く瞼を伏せて、納得したようにこくんと頷く。
「でも、そうだね。マスターが言うように、他人の悪意に気づけない鈍感な人なら、それも有りかもしれないね」
少女の横顔に、人形のように体温を感じさせない、陶器の笑みが浮かぶ。
「傷つけようとする人たちの悪意を、気づけないことで傷つけ返しながら、童話の主人公はいつまでも、綺麗なままでいられるんだね」
利人の子供じみた意地悪な演説が、少女の言葉と共鳴した。
学生達が溢れかえる放課後。少女はいつもひとりだった。
店で偶然に出会う友達にも一言二言言葉をかわすくらいで、同席しようとはしなかった。
友人達の明るい会話に背を向け、ぽつんとひとりカウンターに座る少女。それは、寂しい風景のはずだった。けれど、利人の瞳には、少女が望んでそうしているように映っていた。少女には、近寄りがたさを感じさせる、何かがあった。
整った顔立ちを際立たせる、薄い琥珀色の瞳。くせのない薄茶の髪が、細い頤を包み込むように切り揃えられていた。少し長めの前髪を時おりうるさそうにかきあげる。かきあげられた前髪は、けれど留まることなくサラサラと、白磁の額に零れていった。
春の霞がかった青空から、やわらかな陽射しが射し込んでいた。店内に流れるピアノの曲に、少女が不意に問いかける。
「マスター、この曲、知ってる?」
「えっ? あぁ、なんだろう? よく聞く曲だよね」
有線からランダムに流れる曲は、一定の間隔で似たようなピアノの曲がかかっていた。その曲名を問われたと思い、利人が問い返す。けれど少女は利人の問いに応えることなく、遠くを見つめたままポツンと言う。
「この曲、私、弾けたんだよ」
宙に浮いてしまった利人の問い。けれどその問いよりも、少女の消え入りそうに細い声音が気にかかる。
「今は?」
「……今も、……弾けるよ」
そう言って、口元だけで笑う。
「ピアノ、習ってるんだ?」
そう訊くと、少女は笑んだまま、緩く首を振る。
「習ってない。でも、この曲だけは弾けるの」
不安定な笑み。はかりかねる瞳の色に、利人が続く言葉を選びあぐねていると、店のドアが勢いよく開いて、数人の生徒がなだれ込んできた。
「こんにちは!」
明るい声に、利人も明るく応える。
「いらっしゃい」
少女はそれっきり、口を噤んでしまった。利人がオーダーを確認してカウンターに戻ったとき、そこにはもう、声をかけることさえためらわれる、無表情な横顔だけがあった。
多くを語らない少女の紋切り型の応え方は、ともすると冷たく切り捨てられたように感じる。けれど、変にベタベタと甘ったるい言葉を選びたがる学生達よりも、そっけなく返される少女の言葉の方が、利人は好きだった。
親戚との付き合いが希薄だった利人の両親が、あいついで病気に倒れたのは十年以上も前になる。
だからひとりきりの生活には、とうの昔に慣れっこになっていたけれど、唐突に訪れる意味のわからない喪失感にだけは、いつまでたっても慣れることが出来ずにいた。身体のどこかが欠け落ちてしまったような、自分が抜け殻のように心許ない存在に思える一瞬があった。
そんな利人にとって、この喫茶店で得られる袖が触れ合う程度のいくつもの交流は、利人が思う以上に大切なものになっていた。
そして毎朝決まった時間に訪れる少女の、媚びることをしない言葉遣いは、利人に身内のような親近感を抱かせていた。
五月雨が、紗幕のように広がっていた。耳を澄ますとしとしとと、雨の滲む音がする。
その日は何故か、少女は時間になっても席を立とうとしなかった。
「学校、大丈夫なの?」
「ん……、今日は……、やめとこうかなって、思ってる……」
途切れ途切れの言葉には、少女の戸惑いが感じられた。今までにない、すこしだけ甘えを含んだ声音。
「行きたくないの?」
重ねられる問いに、少女は黙ったまま。いつもと変わらない、俯き加減の淡い笑み。でも、その笑顔が、その日はとても頼りなげに見えた。
「気分的なものかな? まっ、そんな日もあるよね」
それは少女にとって思いがけない同意だったのかもしれない。伏目がちだった視線が、弾かれたように利人に向けられた。
「だったら、その席目立つから、こっちの奥おいで。此処だったら外から見えないから。そんな良く見えるところで堂々とサボられたんじゃ、いくらなんでも、まずいからね」
カウンターの中から手招く利人に、少女の顔がパッとほころんだ。嬉しそうに唇をかんで、利人がすすめる席へと移動する。
「お腹、空いてない?」
また意外な言葉だったのか、少女がぱちりと大きく瞬く。
「トーストぐらいしかできないけど、少し食べない? 僕も軽く食べるからさ」
少女が学校に行った後、利人はいつも「準備中」の札を出して、自分の朝食の時間にあてていた。今日はそれが無理そうだったので、少女にも聞いてみた。「ついでだよ」と強調する利人に、少女が小さく頷く。
カウンターを挟んでの雑談。よくある風景にも関わらず、少女の言葉は少なかった。
でもそれは別に話すことを嫌がっているわけではなく、自分の気持ちを表現することに慣れていないだけなんじゃないかと、利人はおぼろげに感じる。それを示すように、利人の問いかけに少女が嫌そうな素振りを見せることはなかった。ただ淡々と、言葉を紡ぐ。
「名前、聞いてなかったよね?」
なんとなく、聞きそびれていたことを尋ねてみる。
「……早坂、彩加」
「早坂さんって呼んで良いのかな?」
利人の問いかけに、視線を逸らして訂正する。
「彩加の方が良い」
「じゃあ、彩加ちゃん?」
そう呼ぶと、ふわりと頬を染める。
「……ちゃんって、なんか嫌」
赤い唇を、ツンと尖らせる。子供が我侭を言うときのような彩加の表情に、利人がクスリと笑う。
「じゃあ、彩加、かな?」
確かめるように呼ぶと、こくんと頷く。
「あやかって、綺麗な響きだね」
利人の言葉に、俯いたまま、かすかに笑う。
「私の名前、おとうさんがつけてくれたんだって」
言って、遠くに視線を馳せる。
「でも私、おとうさんのこと、全然知らないの」
そんな感じで、彩加の話ははじまった。
彩加が初めて利人の店のドアを開けた朝、それは彩加が独り暮らしをはじめて間もない頃のことだった。
喫茶店の裏手にあるアパートに引っ越して、最初のうちは独り暮らしのテンポがつかめず、時間はみるみる過ぎていった。けれど慣れてしまえばひとりのこと、然程かかるはずのない朝の時間を潰しきれず、早くに家を出てしまった。
少しだけ散歩してみようと軽い気持ちでいたものの、遠回りをするにも限界を感じて、あまりに早い時間に学校に行くのも嫌で、もう一度アパートに戻ろうかと思いかけた時、灯りのともったこの店を見つけたのだと言う。
「朝、早く起きる習慣が抜けなくって」
遠くから通っていた頃と同じ時間に目が覚めてしまうと言って薄く笑う。利人が黙って聞いていると、またポツリポツリと続ける。
彩加が物心ついた頃、既に父はいなかった。父がどうしていないのか、彩加は知らない。
「いつも、おかあさんと、ふたりきりだった」
それを知りたいと思ったことは、確かにあったはずなのに……、
「でも、おかあさんが結婚して、私の名前も変わったの」
今はもう、言葉にすることも出来ない。
小さなアパートから綺麗な一軒家に引っ越したのは、彩加が小学六年の時。
木の香りが漂う真新しい家には、優しそうなお父さんと可愛らしい妹。今までテレビの画面でしか見ることのなかった日常の何気ない挨拶や、家族の食卓。それはきっと幸せな場面のはずだった。
けれど、彩加はどうしてもその暖かな場所に馴染めずにいた。
「私、男の人が苦手みたい」
ポツンと言って、諦めたように笑う。
彩加にとって、「おとうさん」という存在は、とても遠い人だった。もちろんその言葉に、憧れはあった。でも、突然見も知らない人を「父」だと言われても、どう接していいのかわからなかった。
先生とも、見知らぬ他人とも違う「父」という存在に、思考は躓くばかりで、ギクシャクとした雰囲気はそのまま、苦手意識へと繋がっていった。
「それを言われた僕は、なんか頷けない」
彩加の少しだけ翳った表情が、話し始めたことを悔やんでいるようにも見えて、利人はわざとしゅんと肩を落として見せる。彩加の声音が、少しずつ弱くなって、今にも話を途切れさせてしまいそうで、そうはさせたくなくて悪戯っぽく問いかける。
「だって、それってさ、僕のことも苦手ってことでしょ?」
ハッとしたように顔を上げる彩加に、安堵を誘うように笑いかける。
「こうして話してるの、無理してる?」
「無理なんかしてない」
「僕も一端の男のつもりだけど?」
困ったような瞳をして、小首を傾げる。
「マスターのことは、苦手って思ったことないよ。なんでだろ? 喋り方……かな?」
「僕が女顔、だからじゃない?」
きょとんと瞬く彩加に、情けなさそうな顔で続ける。
「昔っからよく言われたからね。大学の文化祭の時には女装までさせられたんだよ」
彩加の口がパクンと開いて、驚いているのがわかる。
「もちろん最初は嫌々だったよ。でもね、これがやってみるとちょっと面白くってさ、調子にのってたら、知らない男に告白されちゃったんだよ。あれはさすがにまいったね」
おどけた調子で話す利人に、硬かった彩加の頬が、ゆるやかに綻んでいく。
小さい頃からあまり丈夫じゃなかった利人は、外に出ることを好まない、内向的な少年だった。
両親が亡くなってからは出不精に拍車がかかり、やっとの思いで入った大学でさえ単位ギリギリの出席で、なんとか卒業できたという状況だった。
その上、多少とはいえ相続できた遺産があったのをいいことに、この店を開くまで利人はほとんど外に出ることをしていなかった。
そんな生活環境は、色白の背ばかりヒョロヒョロと伸びてしまった、典型的なもやしっ子を改造する機会を失くしたまま、今にいたっていた。
ひげの薄い、どちらかというと女性的な自分の身体に嫌気がさしても、そう成ってしまったものが変わるわけもなく「しょうがないな」と開き直っていた。
けれどそんな利人の思いとは裏腹に、大学時代は女性からの誘いがたえなかった。自分の容姿が、女性の目を惹くということに気づいたのは、大学に入ってすぐのことだった。
高校までは、嫌われているとまでは思わなくても、間違ってもモテるなんて思ったことはなかった。女生徒の憧れの存在は大半が運動部のエースか、飛びぬけて頭のできる秀才に限られていた。運動はほとんど出来ず、成績も真ん中ほどをふらふらしている程度の利人が目立つことなんかなかった。
まして虚弱体質なんて言葉は、男子生徒にとってマイナス以外の何ものでもない。
それが大学に入ってからは何のはずみか、まるでダムが決壊したかのように女性からのアプローチが増えた。
特に何が変わったとも思えない。外見的な違いはと言えば、学生服を脱いだことと、大学に入ってから伸ばし始めた髪ぐらいしか思い浮かばない。にもかかわらず、この周りの反応の違いはいったいなんなんだろうと首を傾げていたとき、仲間のひとりがボヤクように言った。
「顔のいい奴は得だよなぁ」
多分に嫌味の入った言葉ではあった。けれどその一言は、自分の容姿に対する再認識になった。利人が嫌だと感じる女性的な風貌は、ままごとみたいな恋愛を望む夢見がちな女性にとって格好の条件だったらしい。
優しさなんて、長所でもなんでもないものが幅をきかせる幼い恋愛。始末におえない優柔不断さを美化させる要素を含んだその言葉に幻想を抱いて、女性達は近寄ってくる。そうした中で利人も幾つかの恋を経験して、今にいたっていた。
それはあまり楽しいとは言えない経験ではあったけれど。
そんなことをふつふつと思い返しながら、冗談まじりに利人が言う。
「男らしいなんて言葉からは程遠い僕だけど、でも、普通の健康な男であることに間違いはないから、僕で慣らしていけば? いい準備運動になるよ」
その言葉に彩加の視線が、自分の指先に落とされる。そして何処を見るともなく視線を揺らして、自嘲気味にくすりと笑った。
「もう、遅いかも」
おっとりと鷹揚な父の優しさ、懐っこく愛らしい妹。それは絵に描いたような家族の団欒。
出会ったばかりの妹が、甘えるように「おかあさん」と呼ぶ。
「可愛げのない子で……」
そんな妹と彩加を見比べて、母が申し訳なさそうに言う。
「恵美が子供過ぎるんだよ。彩加ちゃんはしっかりしてるからね」
母の膝枕で幸せそうに眠る、妹の隣で交わされた会話。
母の枷にはなりたくなくて、甘え上手な子供になりたいと思っても、出来ない。知らない間にひとりでいることに慣らされていた彩加に、妹のように無邪気な笑顔はつくれない。
自分の言葉、自分の行動、なにもかもが不自然に思えて、幸せな家族の中で、自分の身体だけが宙に浮いてしまっているような心許なさは、大きくなっていくばかりだった。
自分という存在の異物感。それは事あるごとに胸を圧迫して、ずっしりと肩にのし掛かる。その重さにとうとう耐えかねて、彩加は母にひとり暮らしをしたい、と言った。
「そう。……じゃあ、お部屋を探しにいかないとね」
母の振り返らない背中を見つめたまま、彩加は続く言葉を飲み込んだ。
胸の中に、いくつか用意していたもっともらしい理由。冬の通学が不便だとか、勉強に集中したいからだとか。その理由を、口にする必要はなかった。
「あのアパート、同じ高校の先輩が使ってたんだって」
高校に入ってひとり暮らしをする人はそんなに珍しくなかった。学校が準備した下宿や寮もあったけれど、みんな一年の終わりごろにはお仕着せの場所を離れる。そしてその部屋は、卒業を間近に控えた三年生が解約したばかりだった。
「ちょうど良いタイミングだったみたい」
他人事みたいな彩加の言葉。
彩加の声は明るい。抑揚なく紡がれる言葉は淡々と続いた。けれど……。
雨は、優しすぎるほど穏やかに、窓の外を濡らしていた。幾重にも重なる紗幕はひっそりと世界を閉じ込めて、白熱灯に照らされたこの空間だけを切り取っていた。
その静けさに耳を澄ませるように、彩加は言葉を繋いでいた。さらさらと降り続く雨音の中から、たった一粒の雨が降り落ちる音を聴こうとするように、言葉を探していた。

