彩加が目覚めないまま、一週間が過ぎようとしていた。
手術の翌日に一般病棟に移された彩加は、深い眠りと浅い眠りを繰り返しながら、今もまだ夢の中を泳いでいるようだった。
ランチのあと、日課となった面会時間に、小さなブーケを持って病院を訪れた利人の前に、沙希がいた。
「沙希ちゃん」
利人を見るなり、沙希が気まずそうに俯く。
「彩加のお見舞いに来たの?」
あの日の沙希をまるっきり忘れたように、いつもどおり話しかけてくる利人を、沙希が不安げに見上げる。
「彩加、……は?」
学校には、不注意の事故として届け出ているはずだった。だから利人は、沙希が余計な不安を持たないように、いつも以上に明るく応える。
「眠ってばっかいるけど、体調は順調に回復してるってさ。寝顔見ていけば? 病室には入れるよ」
利人の言葉に、沙希が辛そうに首を振る。
「逢いたくないの?」
また、振る。そして、
「……逢えない……」
搾り出すように、ぽつりと言う。
「私、彩加に、酷いこと、言ったの。……彩加はきっと、私を許してくれない」
ぽろりと涙が零れる。
「沙希ちゃん、中庭にいこう」
涙に濡れた瞳が、子犬のようにまっすぐに、利人に向けられる。
「此処の中庭、なかなか綺麗だよ。今はまだ少し雪が残って寒いから、ほとんど貸切り状態なんだ。静かだし、気持ちが落ち着くよ」
その言葉に、沙希の涙がぽろぽろと零れた。
俯いてしまった沙希の肩を抱いて、利人はそのまま中庭へと向かう。陽だまりに乾いたベンチに沙希を座らせ、自販機で温かい珈琲を買ってその場に戻る。沙希の膝の上にポンと珈琲を放ると、沙希の視線が上向く。
「甘いのを選んだつもりなんだけど、苦かったら言って。変えてくるからさ」
受け取った珈琲を両手で包み込んで、沙希がクスンと鼻を鳴らす。いつもなら、気持ちの良いお礼の言葉を口にする沙希が、ぎゅっと唇を噛み締めて俯いている。
その指先から珈琲を取り出しプルトップを開けてやり、また掌に返す。自分の珈琲は横に置いて、代わりに胸ポケットから煙草を取り出し火をつける。そして、ベンチの背もたれに寄りかかり、綺麗に晴れ渡った空を見上げた。
「なにがあったのかなんて、聞くつもりはないよ」
それが優しさかどうかは、わからなくても。
「ただ、もしも沙希ちゃんが、彩加を傷つけたって思ってるなら、そしてそれを謝りたいって思ってるなら、そうするべきだと思うよ」
ちらりと沙希に視線を滑らせる。
「傷つくのは、相手を想う気持ちがあるからだって、僕は思ってる」
後ろから沙希を眺めていた利人を、沙希が振り返る。
「だから、もしも彩加が沙希ちゃんの言葉に傷ついているとしたら、沙希ちゃんが心から話すことをきっと聞いてくれる。沙希ちゃんのことを、許してくれるよ」
言いながら、背もたれから身体を起こして沙希の目を見る。
「……もしも、……傷ついて、なかったら?」
「だったら何もなかったように話せばいいじゃない。……ちょっと虚しいけどね」
軽く付け足された言葉に、沙希が寂しそうな瞳をする。
「でもそれは、沙希ちゃんだからって訳じゃない。だからそのことで、傷ついたりしちゃ駄目だよ」
言葉にしなかった諦めを慰められて、沙希が驚いたように瞬く。そんな沙希の肩をポンと叩いて、利人が続ける。
「彩加は、これから変わっていく。今の彩加は人の気持ちに鈍感すぎて、沙希ちゃんの本当の気持ちがわからないんだよ。だから、もう少しだけ、待ってあげて」
その時、利人の目の前に、虹色に光を弾くシャボン玉が、ふわりと飛んでいった。
―― シャボン玉とんだ。屋根までとんだ ――
無邪気な歌声に乗って、シャボン玉はふわふわと、風に流れていく。
そのシャボン玉に、不意に利人は、彩加と初めて会った日のことを思い出した。自分がどうして、彩加にもう一度会いたいと思ったのか。もう少し話をしてみたいと思ったのか。その答えが、唐突に思い浮かんだ。
それは、振り返った彩加の、あまりにも幼い表情のせいだった。
彩加はひっそりと、カウンターに座っていた。口数の少なさや整いすぎた容貌に、大人びた印象を感じていた利人は、そのアンバランスさが忘れられなかった。
向けられたのは、子供の瞳。なんて澄んだ瞳だろうと思った。なんて寂しい色だろうと……。
「彩加はずっと、人の気持ちに背を向けてきたから、自分の気持ちにまともな価値観を持てずにいるんだよ」
寂しい心の行く先を、見つけられない子供のままの彩加。
「彩加は、自分を好きになれずにいる。だから他人からの想いを、まっすぐに受け取れない。自分の、他人への思いにも躓く」
自分を愛せない人間に、他人を愛することは出来ない。
「沙希ちゃんのことだって、本当は大好きなくせに、わざとそっけない態度をとろうとする。自分の気持ちを、認めたくないんだろうね」
「どうして、そう思うの?」
「あのね、CANONで彩加が話すことって言ったら、沙希ちゃんのことばっかりなんだよ」
多少の誇張には目を瞑って、利人が明るく言う。
「僕だって彩加のことが好きなのにね。あの鈍さにはまいるよ」
わざとしゅんと肩を竦めて見せると、沙希が小さく笑う。今日初めての沙希の笑顔にホッとして、利人が続ける。
「でも、きっと、変わっていくはずだから」
煌めきに満ちた、青空を見上げる。
「だから彩加が目を覚ましたら、みんなでたくさん、いろんな話をしよう」
いつか明るい明日が来たなら、行くはずだった未来、見つけるはずだった夢、そして成るはずだった幸せな毎日の話を、みんなでしよう。
「ね、沙希ちゃん」
透き通るように優しい、沈黙の中。
彩加は目覚める。今年最後の雪の日に。
風花が、薄水色の空に舞う朝に。
―― 自分は、どうして生まれたんだろうって、考えたことある?
今度こそ、その問いに、確かな答えを見つけるために。(了)
手術の翌日に一般病棟に移された彩加は、深い眠りと浅い眠りを繰り返しながら、今もまだ夢の中を泳いでいるようだった。
ランチのあと、日課となった面会時間に、小さなブーケを持って病院を訪れた利人の前に、沙希がいた。
「沙希ちゃん」
利人を見るなり、沙希が気まずそうに俯く。
「彩加のお見舞いに来たの?」
あの日の沙希をまるっきり忘れたように、いつもどおり話しかけてくる利人を、沙希が不安げに見上げる。
「彩加、……は?」
学校には、不注意の事故として届け出ているはずだった。だから利人は、沙希が余計な不安を持たないように、いつも以上に明るく応える。
「眠ってばっかいるけど、体調は順調に回復してるってさ。寝顔見ていけば? 病室には入れるよ」
利人の言葉に、沙希が辛そうに首を振る。
「逢いたくないの?」
また、振る。そして、
「……逢えない……」
搾り出すように、ぽつりと言う。
「私、彩加に、酷いこと、言ったの。……彩加はきっと、私を許してくれない」
ぽろりと涙が零れる。
「沙希ちゃん、中庭にいこう」
涙に濡れた瞳が、子犬のようにまっすぐに、利人に向けられる。
「此処の中庭、なかなか綺麗だよ。今はまだ少し雪が残って寒いから、ほとんど貸切り状態なんだ。静かだし、気持ちが落ち着くよ」
その言葉に、沙希の涙がぽろぽろと零れた。
俯いてしまった沙希の肩を抱いて、利人はそのまま中庭へと向かう。陽だまりに乾いたベンチに沙希を座らせ、自販機で温かい珈琲を買ってその場に戻る。沙希の膝の上にポンと珈琲を放ると、沙希の視線が上向く。
「甘いのを選んだつもりなんだけど、苦かったら言って。変えてくるからさ」
受け取った珈琲を両手で包み込んで、沙希がクスンと鼻を鳴らす。いつもなら、気持ちの良いお礼の言葉を口にする沙希が、ぎゅっと唇を噛み締めて俯いている。
その指先から珈琲を取り出しプルトップを開けてやり、また掌に返す。自分の珈琲は横に置いて、代わりに胸ポケットから煙草を取り出し火をつける。そして、ベンチの背もたれに寄りかかり、綺麗に晴れ渡った空を見上げた。
「なにがあったのかなんて、聞くつもりはないよ」
それが優しさかどうかは、わからなくても。
「ただ、もしも沙希ちゃんが、彩加を傷つけたって思ってるなら、そしてそれを謝りたいって思ってるなら、そうするべきだと思うよ」
ちらりと沙希に視線を滑らせる。
「傷つくのは、相手を想う気持ちがあるからだって、僕は思ってる」
後ろから沙希を眺めていた利人を、沙希が振り返る。
「だから、もしも彩加が沙希ちゃんの言葉に傷ついているとしたら、沙希ちゃんが心から話すことをきっと聞いてくれる。沙希ちゃんのことを、許してくれるよ」
言いながら、背もたれから身体を起こして沙希の目を見る。
「……もしも、……傷ついて、なかったら?」
「だったら何もなかったように話せばいいじゃない。……ちょっと虚しいけどね」
軽く付け足された言葉に、沙希が寂しそうな瞳をする。
「でもそれは、沙希ちゃんだからって訳じゃない。だからそのことで、傷ついたりしちゃ駄目だよ」
言葉にしなかった諦めを慰められて、沙希が驚いたように瞬く。そんな沙希の肩をポンと叩いて、利人が続ける。
「彩加は、これから変わっていく。今の彩加は人の気持ちに鈍感すぎて、沙希ちゃんの本当の気持ちがわからないんだよ。だから、もう少しだけ、待ってあげて」
その時、利人の目の前に、虹色に光を弾くシャボン玉が、ふわりと飛んでいった。
―― シャボン玉とんだ。屋根までとんだ ――
無邪気な歌声に乗って、シャボン玉はふわふわと、風に流れていく。
そのシャボン玉に、不意に利人は、彩加と初めて会った日のことを思い出した。自分がどうして、彩加にもう一度会いたいと思ったのか。もう少し話をしてみたいと思ったのか。その答えが、唐突に思い浮かんだ。
それは、振り返った彩加の、あまりにも幼い表情のせいだった。
彩加はひっそりと、カウンターに座っていた。口数の少なさや整いすぎた容貌に、大人びた印象を感じていた利人は、そのアンバランスさが忘れられなかった。
向けられたのは、子供の瞳。なんて澄んだ瞳だろうと思った。なんて寂しい色だろうと……。
「彩加はずっと、人の気持ちに背を向けてきたから、自分の気持ちにまともな価値観を持てずにいるんだよ」
寂しい心の行く先を、見つけられない子供のままの彩加。
「彩加は、自分を好きになれずにいる。だから他人からの想いを、まっすぐに受け取れない。自分の、他人への思いにも躓く」
自分を愛せない人間に、他人を愛することは出来ない。
「沙希ちゃんのことだって、本当は大好きなくせに、わざとそっけない態度をとろうとする。自分の気持ちを、認めたくないんだろうね」
「どうして、そう思うの?」
「あのね、CANONで彩加が話すことって言ったら、沙希ちゃんのことばっかりなんだよ」
多少の誇張には目を瞑って、利人が明るく言う。
「僕だって彩加のことが好きなのにね。あの鈍さにはまいるよ」
わざとしゅんと肩を竦めて見せると、沙希が小さく笑う。今日初めての沙希の笑顔にホッとして、利人が続ける。
「でも、きっと、変わっていくはずだから」
煌めきに満ちた、青空を見上げる。
「だから彩加が目を覚ましたら、みんなでたくさん、いろんな話をしよう」
いつか明るい明日が来たなら、行くはずだった未来、見つけるはずだった夢、そして成るはずだった幸せな毎日の話を、みんなでしよう。
「ね、沙希ちゃん」
透き通るように優しい、沈黙の中。
彩加は目覚める。今年最後の雪の日に。
風花が、薄水色の空に舞う朝に。
―― 自分は、どうして生まれたんだろうって、考えたことある?
今度こそ、その問いに、確かな答えを見つけるために。(了)

