硝子のラビリンス

「そこ! どいてください!」
「急患です! 入室します!」
「状態は!」
「意識がありません! 血圧も低下してます!」
「手術室に医師が待機してる。このまま運んで!」
「輸血の準備は!」
「出来てます!」

 走るストレッチャーを無言で追いかける利人の腕が、不意にグイと引かれた。
「片桐!」
 ストレッチャーが利人を置いて、先へ先へと進んでいく。
「離せよ! お前なんで此処にいるんだ! 早く行けよ!」
 ストレッチャーを指差して、叫ぶ。
「落ち着け」
「彩加が……! 動かないんだ! 呼んでも、何も応えないんだ!」
 片桐の手を振り切るように、腕を捻(ねじ)る。
「わかったから、お前はこっちに来い」
「離せ!」
「お前が行ってどうするんだ! 行ったって仕方(しかた)ないだろう!」
 ガンと叩(たた)きつけるように言われて、利人が片桐を見上げる。朦朧とした意識を映し出す、視点を伴(ともな)わない瞳に、片桐がやんわりとした笑みを見せる。
「大丈夫だから、あとは外科医に任せろ。容態は、今、確認してくる。だから、お前は着替えて待ってろ。こっちに着替え準備してあるから」
 冷えていく彩加の身体をなんとかして暖めたくて、救急車が到着するまでの間、ずっと抱きしめていた利人の服は、コートはもちろん、中に着ていたシャツもズボンも、何もかもが血で濡れていた。
「ほら、こっち」
 通されたのは、小さなベッドのある白いカーテンの中。水色の脱衣籠(だついかご)に、薄青いガウンが綺麗にたたまれて入れてあった。
 ぼんやりと立ち竦んだまま、どれほどの時間が過ぎたのか、青い手術着姿の片桐が勢いよくカーテンを引いた。
「なんだ、まだその格好でいたのか。早く着替えろよ」
 ぴっちりと頭を包み込んでいた帽子を外し、机の上に放る。
「ほら、まずコート脱いで。夜間クリーニング頼んであるから、すぐ出せば綺麗になる。なんせ血液はお手のモンだからな」
 冗談交じりに言って、利人の肩からコートを外す。それでもピクリとも動かない利人の前に回りこんで、ペチペチと頬を叩く。
「おい、しっかりしろよ。俺の声、聞こえるか?」
 ゆれていた視点が、片桐に向かって絞られていく。その瞬間、怒涛(どとう)のような感情が、一気に溢(あふ)れだした。
「片桐!」
 その場に立つ片桐の二の腕をつかむ。
「片桐……!」
 自分の鼓動が、鼓膜の奥をざらざらと擦(こす)る。
「彩加を……、彩加を助けてくれ」
 声は、情けなく潤む。
「頼む……」
 とうとう、涙が零れた。
「もう大丈夫だってわかったから、俺は此処にいるんだ」
 片桐の言い聞かすような声音に、利人の視線が弾かれたように上げられる。
「小さなナイフでよかったよ。出血は酷かったけど、致命傷には至ってないってさ」
 片桐の顔が、ゆらゆらと歪(ゆが)んでいく。
「ウチの最高の外科医が言うんだから、間違いない。縫合(ほうごう)がすんだら、手術は終わる。あとは麻酔(ますい)が切れるのを待つだけだ」
 身体中の螺子(ねじ)が一気にゆるんで、利人はそのままずるずると、片桐の足元に座り込んでしまう。
 涙が、止まらない。何かが決壊してしまったかのように、涙が止まらなかった。

「落ち着いたか?」
 あの日の談話室に、ガウン姿で現れた利人を振り返って、片桐が笑う。煙草の吸殻(すいがら)をポイと灰皿に放って、大きく伸びをする。
「手術は無事成功。彩加ちゃんは、今夜は集中治療室にお泊りだ」
 一瞬、不安そうな表情を見せた利人に、笑いかける。
「術後(じゅつご)は誰だって集中治療室に入るさ。別に危険ってわけじゃない。安心しろ」
 それでも利人の青褪(あおざ)めた頬に、笑みは浮かばない。その思いつめた視線の先に、片桐が煙草をさしだす。
「銘柄(めいがら)は、一緒だろ?」
 真夜中の談話室に人影はなく、利人と片桐のいる場所だけ間接照明がつけられていた。暗い窓硝子が、ぽっと橙色に光る。細く流れる紫煙が、ふたりの間をたゆたう。
「……何があったんだ? って、聞いても良いか?」
 躊躇(ためら)いがちな問いかけに、利人の視線が足元へと落とされる。
 混乱は続いていた。瞼に焼き付いて離れない、血だらけだった彩加の身体。それは利人を、利人の何かを、粉々に打ち砕いた。
「順序だてて話す必要はない。ただ、有ったことだけ、利人が知ってることだけ、聞かせてくれないか?」
 片桐の気遣いが、利人の俯く視線を上げさせる。利人の瞳に、何かを必死になって我慢しているような、片桐の顔が映る。本当ならもっと、強く問い詰めたいだろう片桐の気持ちが、手に取るようにわかった。
「昨日……、彩加は、母親と会ったみたいなんだ」
 利人の言葉に、片桐の目が僅かに瞠(みは)られる。それでも、ぎゅっと口を閉じて先を促す気配に、利人は昨日の彩加の様子をかいつまんで話す。
「結局、最後まで、何を言われたのかはわからなかったけどね」
 黙って聞いていた片桐が、独り言のように呟く。
「彩加ちゃんは、お前のこと、本当に信頼してるんだな」
 その言葉に、利人が自嘲するような笑みを見せる。
「これは別に、お前を慰めるために言っているわけじゃないぞ」
 利人の表情に気づいた片桐が、声を強める。
「お前にしてみれば、たったそれだけかもしれない。でもな、彩加ちゃんが気持ちを閉ざしているのは、それが自分を守る唯一の方法だからだ。その彩加ちゃんが、わざわざお前の店に出向(でむ)いてまで話した。たとえそれが一時的なものだとしても、彩加ちゃんにそれが出来たのは、お前の存在があったからだ。それだけは間違いない」
 片桐の言葉が、利人の心の深い部分に、小さな波紋(はもん)を落とす。
 けれど……。
 一度否定されたものを立て直すには、力がいる。それが、全世界なら尚更に。三つ子の魂(たましい)に刻み込まれた記憶は、利人からあらゆるものを奪っていた。
 失くしたものは、自信と勇気。
 あれからもう、気が遠くなるくらいの時間が過ぎたのに、胸の底に深々と沈んでいる自分に対する失望は、自分に期待を持つことを許さない。

 何かを悔いるように身体を丸める利人に、片桐がおずおずと問いかける。
「お前が思い当たることって、母親のことだけか?」
 利人の視線が、ちらりと、片桐の手元に向けられる。
「あのな、今回、俺は、本当に驚いているんだ」
 辛そうに口を噤(つぐ)んでしまった利人のために、片桐は言葉を選び、とつとつと話しかける。
「情けないって、笑ってくれてかまわない。でもな、彩加ちゃんには今まで、自傷癖(じしょうへき)はなかった。それが突然、自分の身体を突き刺すなんて、俺にはどうしても納得できないんだ」
 広げた両膝に両肘をついて、片桐も背中を丸める。
「今回の件で、俺が本当に驚いてるのは、彩加ちゃんの絶望の深さなんだよ」
 視線を暗い窓の外に向けたまま、話し続ける。
「自殺未遂でよくあるのは、手首を切ることだろう? でも、あれには一縷の望みがある。もしかしたら助かる可能性がある。もちろん実際に切ってしまう人は少ない。でも、実際に切った人でも、心の何処かで助かる可能性を探してる。無意識にな」
 丸めた背中をスッと伸ばし、硝子の中の利人を見つめる。
「でも、彩加ちゃんはそうしなかった。手首を切るなんて傷じゃなく、自分の身体を突き刺した。それが俺には、助かろうとする望みを、自分で断ち切ったように思えてならないんだ」
 闇が広がる硝子には、利人と片桐の姿がぼんやりと映っている。
「でも、その絶望が、母親のせいだけだとは思えない」
 ちらりと利人に視線を向ける。
「確かに、きっかけは、母親のせいかもしれない」
 闇が広がる硝子に映る、片桐の姿を、利人も見つめていた。
 必死になって何かを気づかせようとしている片桐の気持ちが、窓硝子に反射して、利人に伝ってくるような気がしていた。
「でも、母親のことは、彩加ちゃん、お前に話したろ? それが全部じゃなくても、お前に話せたろ? もちろん、それだけで解決したとは言えない。けどな、それが出来るんだったら、まだ救いがある。誰かに話せた分だけ、人は楽になれる。もしも泣けたら、泣いた分だけ、心は軽くなってるはずなんだ」
 利人の視線が、伏せられた睫の下で揺らめく。
「だから、彩加ちゃんがあそこまでしてしまった原因は、きっと他にもある」
 利人の耳に、消えそうに儚い呼び声が甦(よみがえ)った。

 ―― ……沙希……

「利人?」
 片桐が身を乗り出す。
 たどたどしい呼び声は、自分に差し出された手を、沙希の手だと信じようとしていた。けれど、その全てがあまりに曖昧すぎて、利人はどう言葉にしたらいいのかわからない。
「どんな小さなことでもかまわない。教えてくれ」
 片桐の縋るような声音が、利人の曖昧な言葉を引き出す。
「彩加には、沙希ちゃんって、友達がいるんだ……」
 迷いながらの言葉は、ぽつぽつと途切れる。切れ切れに繋げられる利人の話に、片桐はじっと耳を傾けていた。
 沙希との喧嘩、彩加の夢、彩加が頑なに信じようとしなかった沙希の想い。そして今日、彩加は沙希から、決定的な別れを告げられた。決して本心からではない、別れを。
「それで、その友達は?」
「多分……、あのまま帰ったと思う。駅は目の前だったし、もう、時間も遅かったから」
「そうか」
 短く応えて片桐の視線が、窓に映る自分に向けられる。
 真一文字(まいちもんじ)に結ばれた口元。自分を睨みつけるような瞳。初めて見る片桐の痛みを堪えるような表情が、掴みきれない答えに焦(じ)れているように見えて、利人が苦笑まじりに問いかける。
「わかりにくい、……よな」
 気弱に笑って、
「僕が、もっと早く、ちゃんと聞いてやればよかったのに」
 自分を責めるように、続ける。
「僕は、彩加を、……問い詰めることが、怖かったんだ」
 問い詰める勇気が、なかった。聞いてしまうことが、怖かった。
 もしも聞けていたとしても、自分はきっと、彩加の想いを、受け止めてやることは出来なかった。彩加の気持ちをわかることと、それらを解放してやることは違う。
 自分の気持ちを言葉にすることはそれだけで、自分の傷を押し開く。膿(う)んでぐじゅぐじゅのままの傷口を、細い針でつっつきまわすように。
 そうまでして、もしも彩加が話してくれたとして、その痛みだけを受け取ったところで、何になるだろう。自分には、何もない。彩加を救える言葉は、わからない。自分は彩加に、何もしてやれない。

 酷い自信の喪失に、自分の両手に顔を埋める利人に、片桐が静かに語りかける。
「お前の話が、もしもわかりにくいとしても、それはお前のせいじゃないよ」
 笑みを含んで続ける。
「言うほど、わかりにくいもんでもないしな」
 ぽんぽんと、利人の丸まった背中を擦る。
「お前がわかりにくいって感じるのは、彩加ちゃんの言葉が断片的だからだろう?」
 彩加の心の中にある、不安で恐ろしげな闇。それは彩加を散らせる。彩加の言葉は、切れ端ばかりになっていく。
「それを筋道立てて話そうってんだから、そりゃ難しくって当然だ。でもな、お前の言いたいことは、多分理解できたと思う。今、考えまとめるから、違ってたら教えてくれ」
 片桐の労わるような声音が、深更(しんこう)の闇に溶けていく。
 無音(むおん)の時間が、ふたりの間を流れていく。暗闇にちらちらと瞬(またた)く雪が、沈黙に降り積んでいく。窓硝子に映るふたつの影は、ぴくりとも動かない。何時間もの時が、過ぎたような気がした。

「彩加ちゃんは、生まれて初めて、母親以外の人を、好きになったんだろうな……」
 自問するような片桐の声が、沈黙にぽつんと放たれた。
「ただでさえ思春期は変化が激しいのに、いきなり盲目的(もうもく)に誰かを好きになって、彩加ちゃんは焦ったろうな。焦って、驚いて、必死になって自分の気持ちを押さえ込んだんじゃないかな」
 片桐の視線はまっすぐに、窓の外へと向けられている。
「彩加ちゃんが、その友達に対して素直になれなかったのは、多分、好きになることそのものに、怯えていたせいだと思うよ」
 背もたれに身体を預け、腕を組んで続ける。
「充分な愛情を得られなかった子供は、目の前にある「好意」を信じることが難しくなる。自分を信じてないからな。だから他人の優しさや、思いやりにも疎くなる。自分にその価値はないと思っているからな。その結果、好きになれば好きになるほど、自身を顧みる機会が増えて、その自己不信(じこふしん)を強めてしまうんだ。だから、誰かを好きになることに、臆病になってしまう。こんな自分に好かれたって、迷惑だろうってな」
 失望と恐れと不安。
 脆弱(ぜいじゃく)なものばかりで埋め尽くされた、彩加の幼い心。冷たい母親とふたりきりで過ごした長い年月が、彩加から多くのものを捥(も)ぎ取り、噛み砕いた。
「多分彩加ちゃんにとって、その友達の存在は、今までなかったものだったんだろうな。それが、どんな想いによるものかは、わからないけどな」
 子供らしさを封印(ふういん)された、無音(むおん)の陽だまり。孤独に慣れさせた、長いひとりきりの時間。
 そんな彩加の、色褪(いろあ)せた世界をあざやかに塗り変えた、沙希の存在。沙希は彩加の淡く無音だった世界に、初めて飛び込んできた原色(げんしょく)だった。
「彩加ちゃんの胸には、「鏡の欠片(かけら)」が刺さってる」
 片桐の比喩(ひゆ)が、利人の視線を引き寄せる。
「ほら、童話であるだろう? 「雪の女王」だったかな? アンデルセンの。心が冷たくなっちゃうヤツ」
 不思議そうな瞳をする利人に、笑いかける。
「俺が童話の話なんかするのは、意外か?」
「……いや」
「無理するな。似合わんことは百も承知だ」
 利人の力無(ちからな)い否定を笑顔で受けて、遠くを見つめる。
「でもな、俺は彩加ちゃんに逢うたびに、あの童話を思い出すんだ」
 片桐の、何処か寂しげな声音に、利人は視線を落として聞き入る。
「彩加ちゃんの表情の乏(とぼ)しさは、彼女を冷たく見せる。でもそれは表面だけで、彩加ちゃんの心の中にはたくさんの感情が揺れている。それを吐き出せないのは、「鏡の欠片」が邪魔するからだ。言っちゃいけない。言ったら怖いことが起きるぞってな」
 昔話の魔法使いのように、しゃがれ声をつくって言う。
「そうやって溜め込まれた感情は、圧縮されて、心を麻痺(まひ)させる。麻痺した心は、自分に与えられる痛みや辛さを曖昧(あいまい)にして、自分が傷ついていることを気づけなくさせる。だから、身体のほうが先にまいってしまう」
 言い終えて、何かの区切りのように片桐が大きく息を吐き出す。
「彩加ちゃんの「鏡の欠片」は、彩加ちゃんの自己イメージだ」
 硝子を見つめる片桐の視線が、きつく眇(すが)められる。
「そのイメージを少しでも変えてやることが出来たら、その欠片は溶ける。でも、子供が持っている自己イメージってのはかなり根深(ねぶか)くってな、他人には簡単に覆(くつがえ)せない。これが母親だったら、たった一言で済む場合もあるのに、あの母親にはこのことを、言うことも出来なかったよ」

 愛情だけで形作(かたちづく)られていく暖かな家族という枠組(わくぐみ)みから、まだ容(かたち)さえ覚束ない頃に放り出されて、傷つくことも上手に出来ないうちに、不完全な自分を凝視(ぎょうし)させられる現実に追い立てられ、痛みを痛みとして受け取ることさえ満足に出来なくなってしまった彩加が、片桐の言葉の中にいる。
「あの母親には、彩加ちゃんを救える言葉は言えない。でも、今のままじゃ彩加ちゃんの自己イメージは変わらない。このままじゃ、彩加ちゃんは誰かを好きになるたびに、同じように苦しむことになる」
 片桐が、硝子の中から利人を見つめる。
「俺は、彩加ちゃんの中にある、歪(ゆが)んだ自己イメージを、なんとしても変えてやりたい」
 ぐっと背筋を伸ばし、自分を鼓舞(こぶ)するように言い切る。
「お前も、そう思うだろ?」
 不意に求められた同意に、利人が硝子ごしに頷く。
「だったら、協力してくれるか?」
 おもむろに、片桐が利人を振り返る。突然の話の転換についていけなくて、利人が驚いたように瞳を瞠(みは)る。
「彩加ちゃんの欠片を溶かすには、今は、お前の協力が必要なんだ」
 硝子をかいさない片桐の視線の強さに、利人が弱々しく頭を振る。
「僕は、……なにも出来ないよ」
「そんなことはない。第一お前は、彩加ちゃんとその友達、両方知ってる。その上、多少なりでもふたりの気持ちも聞いてる。それに、な、一番大切なのは、お前が彩加ちゃんを好きだってことなんだ」
 頷くことも、首を振ることも出来ずにいる利人に、片桐が言葉を重ねる。
「今は、それだけで充分なんだ。世の中に、たった一人でも、自分の為に泣いてくれる誰かがいる。それを、彩加ちゃんに教えてあげられる」
 その一瞬、利人はいい歳をした自分が、人目もはばからず泣き出してしまったことを思い出し、恥じ入るような気持ちになる。けれど片桐はそんな利人に、懇願するように言う。
「言っていいだろう? お前が泣いてくれたって。今の彩加ちゃんには現実の積み重ねが必要なんだよ」
 困惑したような瞳をする利人に、言い聞かせるように続ける。
「彩加ちゃんは、幸福を知らない。帰るべき場所も知らない。知らないものは望めない。知らないものを、見つけることなんか出来っこない」
 言い切ることに苦さを感じるのか、片桐が悔しげに唇を噛む。
「でも、少しずつでも、それを教えることが出来たら、そしてもしもそれを信じることが出来たら、そしたらきっと、彩加ちゃんは、自分のまわりの人たちの愛情に、気づくことが出来るようになる。自分に向けられる好意を、好意として、受け取れるようになる」
 片桐の視線が、まっすぐに利人に向けられる。
「そうしたら、もう、死のうなんて、思わなくなる。きっと、そうなる」

 利人は今、驚くほど空(から)っぽな自分と向き合っていた。
 掴みそこねた幸せにいつまでも拘(こだわ)って、自分を可哀想がって、自分の不幸に酔って、そんな自分自身への後ろめたさでなにひとつ言葉に出来ないまま、其処から一歩も動けずにいる、そんな自分。
 こんな自分には堪えられない。そう思うのに、なのにどうしても、目の前にある自分自身を乗り越えることが出来ない。自分を直視することが出来ない。
 この弱さを、いったいどうすればいいのか。この幼さを、どうすればいいのか。自問自答の答えは、見つからない。弱さは弱さのまま、幼さも幼さのまま、自分の根底(こんてい)に深々と根付いている。
 けれど片桐は、そんな利人で良いと言う。今の利人が必要だと。今の気持ちだけで、充分だと。そして呼びかける。一緒に、戦ってくれないか、と。
 それはきっと、長い戦いになる。幾度(いくど)も同じ過ちを繰り返し、何度も同じ場所に立ち戻り、そのたび自分の不甲斐無(ふがいな)さに悩むだろう。
 でも、それでも……、
 不安な夢、混沌(こんとん)に巻き込まれていく心。
 彩加はそこから逃げ出したいと思っている。それらを振り切りたいと。
 そして利人は、それらから彩加を守ってやりたい、飛び立たせてやりたい。

 その思いは、変わらない。その思いだけは、まだ、此処にある。

「利人?」
 黙りこんでしまった利人に、片桐が呼びかける。見上げた瞳は少しだけ、潤んでいるようにも見える。その瞳を見つめながら、利人が問いかける。
「本当に、……そう、思うのか?」
 利人の言葉に片桐は、問うように瞬(まばた)き、次の瞬間、力強く頷く。
「あぁ」
「……彩加は、……幸せになれる?」
「あぁ」
「生まれてきて、……良かったっ……」
 その時、利人の言葉を詰まらせたのは、

 ―― 自分は、どうして生まれたんだろうって、考えたことある?

 彩加の、哀しい問いかけだった。
 思いがけず溢(あふ)れそうになる涙を、利人は片手で口元を覆(おお)って飲み込む。たまらない気持ちが胸に込み上げて、利人の意思を全く無視する、壊れてしまった涙腺(るいせん)がゆるむ。
 あの小さな部屋で、粉々になった何もかもの隅で、彩加はどんな気持ちで、何を思って、時を止めたんだろう。ひっそりと寂しく、ひとりきりの部屋にいる彩加の姿が、鮮明に思い浮かんだ。
 堪えきれず、涙を零す利人の肩に、片桐の温かい掌が乗せられる。
「なぁ、利人」
 元気付けるように、呼びかける。
「お前の名前、「リヒト」ってさ、ドイツ語でどんな意味か知ってるか?」
 唐突な問いかけは、利人の頭の中で意味を成(な)さない。
「単語で言うと単純に「光」って意味なんだけどな、宗教的な意味もあるんだ」
 わからなくて、考えることも出来なくて、俯いたまま頭を振る利人に、片桐が続ける。
「Es werde Licht!(エズ ヴェーデ リヒト!)」
 流ちょうなドイツ語の後、片桐が厳かに言う。
「光、あれ」
 思いがけない言葉に、おもむろに利人が顔を上げる。
「聖書を読んだことがなくても、この言葉は聞いたことがあるだろう?」
 利人の視界が揺れる。
「今の俺達に、ぴったりだと思わないか?」
 瞳に映る片桐の顔が、みるみる滲(にじ)んでいく。
「どんなに大人になっても、幸せな結末だけを望みたいときはあるだろ?」
 それはきっと、童話のような世界。
「それが自分に都合のいい思い込みだっていいじゃないか。その一瞬は、幸せな未来を夢見れるだろう?」
 御伽噺(おとぎばなし)を無心で信じた、幼い頃の、夢。
「俺達は今、それを信じよう」

 涙に潤んだ利人の瞳に、群青の空が映る。ゆっくりと流れる時の中、群青はあえかに光る菫青(きんせい)に変わる。その色は、時を断ち切ったナイフに似ている。
 彩加の中にある、冷たく鋭い鏡の欠片は、これからもあらゆる場面で彩加自身に刃(やいば)を向けるだろう。
 けれどその「あらゆる失望」に、僅かずつでも光がさすなら、彩加は時をつなぎ留めてくれるだろうか。諦めだけで見捨てたこの世界に、もう一度、還(かえ)ってきてくれるだろうか。
 春の兆(きざ)しを含んだ眩(まばゆ)い陽光が、銀砂(ぎんさ)に降りそそぐ。
 雪原(せつげん)をわたる透徹(とうてつ)とした風は、やがて花を呼ぶ、春風に変わる。全ての現実は、たゆたいながら消えていく。記憶に寄り添う、他愛ない会話の切れ端に、その姿を変えながら。

 だとしたら、いまはただ、夢を見よう。
 生まれ変わる、いつかの日を。紗幕(しゃまく)が織り成す、美しい場面を。

 幸せを願う希望の為に紡がれる、新しい物語の夢を。