店の外に「準備中」の札をかけたとき、利人は彩加のアパートへと続く細い道筋に、沙希の後姿を見かけた。
そのまま店に入り、カウンターに腰かけて、煙草に火をつける。
淡く煙る紫煙の向こう、見慣れた風景に、細い手首の残像が過ぎる。内気な瞳、無口な唇。胸の奥にポツンと残る、寂しい、冷たい、心の欠片。
口に広がる苦さに眉を顰め、利人はつけたばかりの煙草を灰皿で押し潰す。
心がシンと冷えていく無音の空間を掻き消したくて、ガタリと大きな音をたてて立ち上がる。
カウンターの中に入って、むやみやたらと音をたてながら、シンクに溜まった洗い物を片していく。最後のひとつ、薄いグラスを蛇口に持っていったとき、スルリとグラスが、指先から滑り落ちた。
水滴に散る、硝子の欠片。一瞬で砕け散る、透明な破片。
言葉に出来ない苛立ちに、シンクの端を拳で殴りつける。そのままカウンターの中の椅子にドサリと座り込み、流れるままの水飛沫を、ただ見つめていた。
つかみきれない自分の思考。
沙希に、彩加の傍にいてほしいと想う気持ちは本当だった。でも、その現実を見せ付けられると、何かを惜しむように胸が疼くのも本当で、いったい自分は何を望んでいるのか、まるでわからなくなる。
自分でも訳のわからない力に、心だけが引きずられているような気がする。
彩加が、今日も学校を休んだんだろうと思いながら、そう気にしながらも、利人は彩加の家に行けずにいた。返せない問い。どうしてやることも出来ない自分の不甲斐なさ。
そして、なにより利人を引き止めたのは、これ以上近づいてしまうことへの、畏怖に近いためらいだった。
彩加のあの閉じられてしまった世界を押し開くには、今の少し高台から見下ろすような自分のやり方では届かない。それは充分に理解できた。けれど、だからといって、どうすれば彩加と同じ場所に立てるのか、利人にはわからなかった。
十代の季節は早すぎて、今は遠い風の彼方。
あの頃の自分が何に悩み、何を考えていたのか、想い出は遥かに遠く、今の自分では思い出せない。
でも、その儚い世界には、沙希がいる。彩加がずっとその手を望み続けた、沙希がいる。彩加の想いはいつだって、沙希に向かっていた。彩加自身認めることは出来なくても、利人にはそれがはっきりと感じられた。
だから、今の彩加を救えるのは沙希しかいないと思い込もうとしていた。自分では、救えないと。
それが、何もかもを沙希に押し付けようとする、ずるい逃げだと心のどこかで気づいていながら、利人もまた、自分の心の真実を知ることに怯えていた。
心の迷宮は、いくつもの扉を、次々と閉じていく。
帰り支度を済ませ、駅に向かう途中、見知った影が利人の前を横切った。
「沙希ちゃん!」
走り去ろうとする背中を、思わず呼び止めていた。驚いたように振り返った沙希が利人を認め、その視線が眇められる。
「彩加のところに、行ったんじゃなかったの?」
足早に近づく利人に向けられる、険を含んだ視線。けれど既に闇は深く、街灯の灯りだけでは、沙希の視線は利人に届かない。
「彩加、元気だった? 体調、悪そうじゃなかった?」
「知ってるくせに、白々(しらじら)しいこと聞かないでよ!」
その時になって初めて、利人は沙希が泣いていることに気づいた。軽い問いかけに返された、苛立ちを隠そうともしない強い声音に、利人の笑顔がひきつる。
ふたりの横を通り過ぎる車のライトに、沙希の泣きはらした瞳が映し出される。濡れた睫に縁取られた、赤く染まった瞳が、燃えるように揺れている。怒りも露わなその光に、利人は続く言葉を飲み込んだ。
「もう、やめようって、言ってきた」
「えっ?」
「もう離れようって。もう逢わない。もう二度と、彩加の傍にはいかない。そう、言ってきた。マスターだって本当はそうなればいいって、思ってるんでしょっ!」
挑戦めいた言葉。咎めるような瞳。
「何で、そんなことを……」
利人が言い終える前に、沙希の瞳から涙が零れ落ちた。その涙は、沙希の言葉が決して本心ではないことを、訴えるように搾り出された。
残酷で身勝手な「試す」という行為。
きっと沙希は無意識に、彩加を試していた。本当は追いかけてきて欲しくて、冷たい言葉に「違う」と言って欲しくて、わざと辛い結論だけを投げつけた。けれど、今の彩加にそれがわかるだろうか。「好き」だから離れようとしてしまう、沙希の屈折した気持ちがつかめるだろうか。
違う! 彩加は、捨てられることこそを、当たり前だと受け取ってしまう!
思うより先に、利人は踵を返していた。
―― 自分は、どうして生まれたんだろうって、考えたことある?
あどけない、澄んだ瞳が問いかけた、哀しい疑問。
自分を育ててくれる大人たちが、自分の誕生や存在を疎ましく思い、最悪なんの興味も持たなくなってしまったなら。そして、それを全部感じ取れる、鋭い感受性を持って生まれてきてしまったとしたなら……。
彩加をとりまく、ひりひりとした危うい感受性。
それは他人を拒絶する。自分に踏み込もうとする何もかもを、頑なに拒み続ける。でも、それは、他人の好意を知った上での高慢さではなく、感情の欠如が生み出した歪んだ自己防衛にすぎない。
だって彩加はいつだって、求めていた。探していた。踏み荒らされた心を救ってくれる誰かを。そして、閉じ込められた真っ暗な闇の中で、固く鎖されたドアを叩き続けていた。
諦め切れない、願いのために。
―― 彩加! ――
あの日、彩加の瞳は凍りついていた。
心を殺されて、もうなにも映そうとしていなかった。日に日に感情を欠落させていった彩加。彩加は今、自分が泣いていることにも気づけないまま、誰もいない場所へ行こうとしている。
誰も知らない場所へ。
―― 彩加! ――
何故、あの時、何も聞かずに帰してしまったんだろう。何故、あの時、彩加の心の痛みの意味を、あえて問い質すことをしなかったんだろう。あんなにも不安に喘いでいた彩加の心を、どうして放り出したままに出来たんだろう。
いくつもの問いが、利人の中で交錯する。
でも、もうそれは、問いなんかじゃなかった。利人は既に、とうの昔に、答えが出ていることを知っていた。
―― 彩加! ――
抜け出せない迷宮は、利人の心の中にもある。今だって、与えられた運命にもがきながら、この現実を認める術を、折り合える場所を、探している。
望まずに与えられた、罅割れて散らばっていく世界は、両手で必死にかき集めても、歪に歪んでしまった世界が出来るだけだった。
それでも、どんなに探しても、欲しがっても、それしかないなら、それしか見つけられないなら、それを諦めだなんて思いたくなくて、それが卑屈さでつくられた紛い物だと知っていても、投げ出せなかった。捨て去ることは出来なかった。
だから、彩加の孤独に気づいてしまうのが、怖かった。同じような傷を持ち続ける自分を、もっとも嫌いな自分を認めたくなかった。だから、見ないふりをしていた。
確信の無い破綻に怯えていたのは、彩加よりもよほど幼い自分だった。
急ぎ走る利人を嘲笑うかのように遮断機が下りてくる。警報の音が、繰り返す。「もう間に合わない」と。
―― 間に合ってくれ! ――
不安な谺を打ち消すように、胸の内で繰り返しながら、利人は彩加のアパートの階段を、けたたましい音をたてて駆け上がる。
「彩加! ……彩加っ!」
やっと辿り着いたドアを、バンバンと叩き、呼びかける。応えはない。さっき、本当についさっきまで、沙希が一緒に居たはずなのに。窓からは灯りが見える。彩加は中に居る。
「彩加ッ!」
叫ぶように呼んで、ドアノブを回すと、ドアはあっけなく開いた。
ダイニングには硝子や食器の欠片が散乱し、その向こうの部屋もありとあらゆるものが壊されている。あまりの惨状に言葉を失い、おそるおそる部屋を見渡す利人の瞳に、シンクの下で胎児のように丸くなっている、彩加が映った。
「彩加!」
駆け寄って抱き上げた身体は血溜まり、じっとりと濡れている。腹部に握られた両手に、小さなナイフの柄が見える。
「……彩、加、」
息が、喉に詰まる。がくがくと震える掌を、彩加の唇にかざす。
―― まだ、息がある!
詰めた息を吐き出し、もう一度、呼びかける。
「彩加?」
彩加の睫が震えて、ゆっくりと瞼が上がった。けれど、開いた瞳は、もうぼんやりとしか見えていないようだった。
「彩加?」
「……沙、希……?」
夢見るように、うっとりと、彩加が微笑んだ。
その瞬間、利人の背筋が、ゾクリと凍った。間違えようもない、自分と沙希を重ねる彩加の混濁した瞳が、利人を心底震え上がらせる。
彩加を抱いたまま、利人は携帯電話を取り出し、アドレス帳を開く。スクロールで探すのは、片桐の直通番号。もしものときにと渡されていた名刺から、登録したばかりの番号。呼び出し音を聞きながら、利人は唇を噛み締める。
もしものとき。それは決して、こんなことの為じゃなかったはずだった。どうしてもっと早く、こんなことになる前に、片桐に電話をしなかったんだろう。消せない後悔に、利人の視界が潤んでいく。
「片桐!」
看護師に呼び出されて電話口に出た片桐に、混乱した利人が、意味の成さない言葉を投げつける。それでも片桐は利人の言葉を素早く引き取り、宥めるように言った。
「利人、落ち着け。大丈夫だから、すぐに救急車の手配はする。こっちの受け入れ態勢も整えておく。お前は彩加ちゃんをしっかり抱いててくれ。ナイフは絶対に抜くなよ! それから、意識が途切れないように、ずっと、話しかけてやってくれ!」
携帯を胸元に滑り込ませ、腕の中の彩加を見下ろす。
「なんで……、」
呟いて、彩加の頬にふれる。すると彩加の血だらけの小さな手が、利人の手にそっと重ねられ、人形のような眦から、ひとつぶの雫が、零れ落ちた。
「戻って……、来て……」
呼気を縫う、
「……沙希……」
消え入るような呼びかけに、利人は彩加の小さな頭を自分の胸にかき抱いていた。
「もうすぐ、救急車が来るから、大丈夫だから……」
自分の声が、まるでうわ言のように力なく聞こえる。こんなにも不安を抱えたままで、何が大丈夫だと言うんだろう。自分の言葉の虚しさに奥歯を噛み締める利人の胸に、彩加の額が押し付けられた。
―― 沙希 ――
ずっと、待ってたんだよ。
―― 沙希 ――
同情でもかまわないって、今なら言えるよ。私は、この手が欲しかったって。
―― 沙希? 知ってる? ――
沙希は私を初めて好きになってくれた人だった。私を寂しさから救ってくれた人だった。
好きだった。大好きだった。本当は、もっと上手に、話したかった。伝えたかった。誰にも言えない、私の全部を、聞いて欲しかった。
―― 沙希 ――
沙希と出逢ってから、私が沙希のことを、思わない日はなかったよ。
言葉にならない想いを抱えて、黙ったまま隣にいれたあの頃に、もっと素直に沙希の話を聞けていたなら、もっと素直に自分の気持ちを伝えていたなら、ふたりには違う未来があったんだろうか。今足元に崩れ落ちたなにもかもを見失わずにすむ、何かを見つけられただろうか。
ゆうるりと霞んでいく意識の中、柔らかな感触が、彩加の頬に落とされる。
「愛してる」
求め続けた言の葉の、掠れる声音が、はっきりと聴こえた。
「愛してるよ」
繰り返される言葉。繰り返される優しいキス。
「……愛してる……」
彩加の蒼褪めた頬に、微かな笑みが浮かんだ。
「……愛して…… ……」
彩加の細い声が、途切れる。彩加の指先が、パサリと落ちる。
「彩加!」
知らぬまにせりあがってきた利人の涙が、彩加の唇を濡らす。
「駄目だ、彩加!」
乾いた唇にきらめきが降立ち、赤く染まった。
「たのむ、目を開けてくれ。……彩加!」
遠くから、サイレンの音が近づいてくる。それはまるで、遠い海鳴りのように寂しげに響く。どこかで、誰かが、泣いているように。
そのまま店に入り、カウンターに腰かけて、煙草に火をつける。
淡く煙る紫煙の向こう、見慣れた風景に、細い手首の残像が過ぎる。内気な瞳、無口な唇。胸の奥にポツンと残る、寂しい、冷たい、心の欠片。
口に広がる苦さに眉を顰め、利人はつけたばかりの煙草を灰皿で押し潰す。
心がシンと冷えていく無音の空間を掻き消したくて、ガタリと大きな音をたてて立ち上がる。
カウンターの中に入って、むやみやたらと音をたてながら、シンクに溜まった洗い物を片していく。最後のひとつ、薄いグラスを蛇口に持っていったとき、スルリとグラスが、指先から滑り落ちた。
水滴に散る、硝子の欠片。一瞬で砕け散る、透明な破片。
言葉に出来ない苛立ちに、シンクの端を拳で殴りつける。そのままカウンターの中の椅子にドサリと座り込み、流れるままの水飛沫を、ただ見つめていた。
つかみきれない自分の思考。
沙希に、彩加の傍にいてほしいと想う気持ちは本当だった。でも、その現実を見せ付けられると、何かを惜しむように胸が疼くのも本当で、いったい自分は何を望んでいるのか、まるでわからなくなる。
自分でも訳のわからない力に、心だけが引きずられているような気がする。
彩加が、今日も学校を休んだんだろうと思いながら、そう気にしながらも、利人は彩加の家に行けずにいた。返せない問い。どうしてやることも出来ない自分の不甲斐なさ。
そして、なにより利人を引き止めたのは、これ以上近づいてしまうことへの、畏怖に近いためらいだった。
彩加のあの閉じられてしまった世界を押し開くには、今の少し高台から見下ろすような自分のやり方では届かない。それは充分に理解できた。けれど、だからといって、どうすれば彩加と同じ場所に立てるのか、利人にはわからなかった。
十代の季節は早すぎて、今は遠い風の彼方。
あの頃の自分が何に悩み、何を考えていたのか、想い出は遥かに遠く、今の自分では思い出せない。
でも、その儚い世界には、沙希がいる。彩加がずっとその手を望み続けた、沙希がいる。彩加の想いはいつだって、沙希に向かっていた。彩加自身認めることは出来なくても、利人にはそれがはっきりと感じられた。
だから、今の彩加を救えるのは沙希しかいないと思い込もうとしていた。自分では、救えないと。
それが、何もかもを沙希に押し付けようとする、ずるい逃げだと心のどこかで気づいていながら、利人もまた、自分の心の真実を知ることに怯えていた。
心の迷宮は、いくつもの扉を、次々と閉じていく。
帰り支度を済ませ、駅に向かう途中、見知った影が利人の前を横切った。
「沙希ちゃん!」
走り去ろうとする背中を、思わず呼び止めていた。驚いたように振り返った沙希が利人を認め、その視線が眇められる。
「彩加のところに、行ったんじゃなかったの?」
足早に近づく利人に向けられる、険を含んだ視線。けれど既に闇は深く、街灯の灯りだけでは、沙希の視線は利人に届かない。
「彩加、元気だった? 体調、悪そうじゃなかった?」
「知ってるくせに、白々(しらじら)しいこと聞かないでよ!」
その時になって初めて、利人は沙希が泣いていることに気づいた。軽い問いかけに返された、苛立ちを隠そうともしない強い声音に、利人の笑顔がひきつる。
ふたりの横を通り過ぎる車のライトに、沙希の泣きはらした瞳が映し出される。濡れた睫に縁取られた、赤く染まった瞳が、燃えるように揺れている。怒りも露わなその光に、利人は続く言葉を飲み込んだ。
「もう、やめようって、言ってきた」
「えっ?」
「もう離れようって。もう逢わない。もう二度と、彩加の傍にはいかない。そう、言ってきた。マスターだって本当はそうなればいいって、思ってるんでしょっ!」
挑戦めいた言葉。咎めるような瞳。
「何で、そんなことを……」
利人が言い終える前に、沙希の瞳から涙が零れ落ちた。その涙は、沙希の言葉が決して本心ではないことを、訴えるように搾り出された。
残酷で身勝手な「試す」という行為。
きっと沙希は無意識に、彩加を試していた。本当は追いかけてきて欲しくて、冷たい言葉に「違う」と言って欲しくて、わざと辛い結論だけを投げつけた。けれど、今の彩加にそれがわかるだろうか。「好き」だから離れようとしてしまう、沙希の屈折した気持ちがつかめるだろうか。
違う! 彩加は、捨てられることこそを、当たり前だと受け取ってしまう!
思うより先に、利人は踵を返していた。
―― 自分は、どうして生まれたんだろうって、考えたことある?
あどけない、澄んだ瞳が問いかけた、哀しい疑問。
自分を育ててくれる大人たちが、自分の誕生や存在を疎ましく思い、最悪なんの興味も持たなくなってしまったなら。そして、それを全部感じ取れる、鋭い感受性を持って生まれてきてしまったとしたなら……。
彩加をとりまく、ひりひりとした危うい感受性。
それは他人を拒絶する。自分に踏み込もうとする何もかもを、頑なに拒み続ける。でも、それは、他人の好意を知った上での高慢さではなく、感情の欠如が生み出した歪んだ自己防衛にすぎない。
だって彩加はいつだって、求めていた。探していた。踏み荒らされた心を救ってくれる誰かを。そして、閉じ込められた真っ暗な闇の中で、固く鎖されたドアを叩き続けていた。
諦め切れない、願いのために。
―― 彩加! ――
あの日、彩加の瞳は凍りついていた。
心を殺されて、もうなにも映そうとしていなかった。日に日に感情を欠落させていった彩加。彩加は今、自分が泣いていることにも気づけないまま、誰もいない場所へ行こうとしている。
誰も知らない場所へ。
―― 彩加! ――
何故、あの時、何も聞かずに帰してしまったんだろう。何故、あの時、彩加の心の痛みの意味を、あえて問い質すことをしなかったんだろう。あんなにも不安に喘いでいた彩加の心を、どうして放り出したままに出来たんだろう。
いくつもの問いが、利人の中で交錯する。
でも、もうそれは、問いなんかじゃなかった。利人は既に、とうの昔に、答えが出ていることを知っていた。
―― 彩加! ――
抜け出せない迷宮は、利人の心の中にもある。今だって、与えられた運命にもがきながら、この現実を認める術を、折り合える場所を、探している。
望まずに与えられた、罅割れて散らばっていく世界は、両手で必死にかき集めても、歪に歪んでしまった世界が出来るだけだった。
それでも、どんなに探しても、欲しがっても、それしかないなら、それしか見つけられないなら、それを諦めだなんて思いたくなくて、それが卑屈さでつくられた紛い物だと知っていても、投げ出せなかった。捨て去ることは出来なかった。
だから、彩加の孤独に気づいてしまうのが、怖かった。同じような傷を持ち続ける自分を、もっとも嫌いな自分を認めたくなかった。だから、見ないふりをしていた。
確信の無い破綻に怯えていたのは、彩加よりもよほど幼い自分だった。
急ぎ走る利人を嘲笑うかのように遮断機が下りてくる。警報の音が、繰り返す。「もう間に合わない」と。
―― 間に合ってくれ! ――
不安な谺を打ち消すように、胸の内で繰り返しながら、利人は彩加のアパートの階段を、けたたましい音をたてて駆け上がる。
「彩加! ……彩加っ!」
やっと辿り着いたドアを、バンバンと叩き、呼びかける。応えはない。さっき、本当についさっきまで、沙希が一緒に居たはずなのに。窓からは灯りが見える。彩加は中に居る。
「彩加ッ!」
叫ぶように呼んで、ドアノブを回すと、ドアはあっけなく開いた。
ダイニングには硝子や食器の欠片が散乱し、その向こうの部屋もありとあらゆるものが壊されている。あまりの惨状に言葉を失い、おそるおそる部屋を見渡す利人の瞳に、シンクの下で胎児のように丸くなっている、彩加が映った。
「彩加!」
駆け寄って抱き上げた身体は血溜まり、じっとりと濡れている。腹部に握られた両手に、小さなナイフの柄が見える。
「……彩、加、」
息が、喉に詰まる。がくがくと震える掌を、彩加の唇にかざす。
―― まだ、息がある!
詰めた息を吐き出し、もう一度、呼びかける。
「彩加?」
彩加の睫が震えて、ゆっくりと瞼が上がった。けれど、開いた瞳は、もうぼんやりとしか見えていないようだった。
「彩加?」
「……沙、希……?」
夢見るように、うっとりと、彩加が微笑んだ。
その瞬間、利人の背筋が、ゾクリと凍った。間違えようもない、自分と沙希を重ねる彩加の混濁した瞳が、利人を心底震え上がらせる。
彩加を抱いたまま、利人は携帯電話を取り出し、アドレス帳を開く。スクロールで探すのは、片桐の直通番号。もしものときにと渡されていた名刺から、登録したばかりの番号。呼び出し音を聞きながら、利人は唇を噛み締める。
もしものとき。それは決して、こんなことの為じゃなかったはずだった。どうしてもっと早く、こんなことになる前に、片桐に電話をしなかったんだろう。消せない後悔に、利人の視界が潤んでいく。
「片桐!」
看護師に呼び出されて電話口に出た片桐に、混乱した利人が、意味の成さない言葉を投げつける。それでも片桐は利人の言葉を素早く引き取り、宥めるように言った。
「利人、落ち着け。大丈夫だから、すぐに救急車の手配はする。こっちの受け入れ態勢も整えておく。お前は彩加ちゃんをしっかり抱いててくれ。ナイフは絶対に抜くなよ! それから、意識が途切れないように、ずっと、話しかけてやってくれ!」
携帯を胸元に滑り込ませ、腕の中の彩加を見下ろす。
「なんで……、」
呟いて、彩加の頬にふれる。すると彩加の血だらけの小さな手が、利人の手にそっと重ねられ、人形のような眦から、ひとつぶの雫が、零れ落ちた。
「戻って……、来て……」
呼気を縫う、
「……沙希……」
消え入るような呼びかけに、利人は彩加の小さな頭を自分の胸にかき抱いていた。
「もうすぐ、救急車が来るから、大丈夫だから……」
自分の声が、まるでうわ言のように力なく聞こえる。こんなにも不安を抱えたままで、何が大丈夫だと言うんだろう。自分の言葉の虚しさに奥歯を噛み締める利人の胸に、彩加の額が押し付けられた。
―― 沙希 ――
ずっと、待ってたんだよ。
―― 沙希 ――
同情でもかまわないって、今なら言えるよ。私は、この手が欲しかったって。
―― 沙希? 知ってる? ――
沙希は私を初めて好きになってくれた人だった。私を寂しさから救ってくれた人だった。
好きだった。大好きだった。本当は、もっと上手に、話したかった。伝えたかった。誰にも言えない、私の全部を、聞いて欲しかった。
―― 沙希 ――
沙希と出逢ってから、私が沙希のことを、思わない日はなかったよ。
言葉にならない想いを抱えて、黙ったまま隣にいれたあの頃に、もっと素直に沙希の話を聞けていたなら、もっと素直に自分の気持ちを伝えていたなら、ふたりには違う未来があったんだろうか。今足元に崩れ落ちたなにもかもを見失わずにすむ、何かを見つけられただろうか。
ゆうるりと霞んでいく意識の中、柔らかな感触が、彩加の頬に落とされる。
「愛してる」
求め続けた言の葉の、掠れる声音が、はっきりと聴こえた。
「愛してるよ」
繰り返される言葉。繰り返される優しいキス。
「……愛してる……」
彩加の蒼褪めた頬に、微かな笑みが浮かんだ。
「……愛して…… ……」
彩加の細い声が、途切れる。彩加の指先が、パサリと落ちる。
「彩加!」
知らぬまにせりあがってきた利人の涙が、彩加の唇を濡らす。
「駄目だ、彩加!」
乾いた唇にきらめきが降立ち、赤く染まった。
「たのむ、目を開けてくれ。……彩加!」
遠くから、サイレンの音が近づいてくる。それはまるで、遠い海鳴りのように寂しげに響く。どこかで、誰かが、泣いているように。

