硝子のラビリンス

 時は記憶の中でたたずみ、もう一歩も、前へは行こうとしない。
 ―― カツーン…… カツーン……
 何かが刻まれる音がする。規則正しくゆっくりと、遠くに聞こえるばかりのその音は、徐々に、徐々に、彩加に近づく。
 ―― サク…… サク……
 スッと肌に、切れ込む音。切り刻まれているのは自分自身だと、朧気(おぼろげ)に感じていた。

 学校を休んではみたものの、結局病院へも行けず、彩加はぼんやりと窓の外を眺めていた。ベッドの上で膝を抱えて、暗くなっていく空を、ただ見つめていた。
 その時、不意にインターホンが鳴った。無意識に動いた身体がけれど、ドアの前で躊躇する。もしも、母だったら、今日は逢いたくなかった。そっと後ずさりしようとした彩加の耳に、逢いたくてたまらなかった人の声が届く。
「彩加? いるんでしょ?」
 その声にビックリして、鍵を開け、チェーンを外した。そして、ゆっくりと開くドアを、ただ見つめていた。
 沙希の声が信じられなくて、自分でドアを開けることが出来なかった。でも、開いたドアの向こうに沙希を見つけたとき、ようやく安堵するような気持ちがして、彩加はほっと息を吐いていた。
 でも、次の瞬間にはもう、安堵した自分に後悔していた。
「部活、終わったの?」
 さりげなく聞いたつもりなのに、沙希からいつもの返事は返らない。
「あがれば?」
 玄関につっ立ったままの沙希に背を向けて、コンロの火を点ける。
「珈琲で良い?」
 衣擦(きぬずれ)れの音がして、沙希が、隣に立つのがわかる。
「それとも、紅茶にする?」
「彩加」
「あっち座ってて。今、持って行くから」
「彩加」
 入ってくるなり、なぜか沙希は苦しそうにしていて、そのいつもと違う様子に、彩加は殊更のように目を背(そむ)けていた。
 けれど、いきなり手首をつかまれて、彩加が沙希を振り返る。
「何?」
 平淡(へいたん)な声で問う彩加を見つめ、沙希がもどかしげに唇を噛む。
「離して」
 低く言って離そうとする彩加の手首が、きりきりと締め付けられる。
「痛いから、離して」
 咎(とが)めるように言った瞬間、彩加の身体がドンと腕ごと、壁に押し付けられた。
「沙希!」
 彩加の身体が壁にぶつかる音と、彩加の呼び声が重なった。彩加の責める視線を、沙希の辛そうな表情が受け止める。
「な……、に?」
 沙希の乱暴な行動と相反する表情に、彩加は戸惑う。その戸惑いに、声が途切れる。
 すると沙希が、ぎゅっと握りしめていた手首を放して、そっと彩加の両手を握った。
「……どう、したの?」
 必死さを感じさせる表情とは裏腹に、思いのほか優しく包まれた両手に、彩加の言葉が上ずる。沙希の思いつめたような表情が、彩加の心をじりじりと追い詰めていく。
「彩加」
 その硬(かた)い呼び声に、彩加の中で、スイッチが切り替わった。

 ―― いけない。沙希にこんな声を出させては、いけない

「なんなのよ、いったい」
 突き放すように言って、握られた手を振り払うと、途端に沙希の顔が傷ついたようにゆがんだ。ふたりの横で、放っておかれたポットがシューっと音をたてる。その音に身じろぎもせず、彩加が冷たく問う。
「用件は何? 何か伝言? それとも試験範囲が変わったの?」
 沙希の横をすり抜け、ガスを消す。
「理由がなきゃ、来ちゃいけない?」
「用がないんだったら、別に話すこともないでしょう?」
「ただ逢いたいって思うだけで、来ちゃいけない?」
「言っている意味がわからないんですけど」
 冷淡に言い放った彩加の肘がつかまれる。そのまま、また壁に押しやられてしまう。
「意味がわからない?」
 沙希の尖(とが)った声音に、視線を向ける。
「逢いたいって言葉の意味が、彩加にはわからないの?」
 声は明らかに険(けん)を帯びているのに、沙希の瞳には縋るような色が浮かんでいる。
「答えてよ」
 言葉が見つからない。
「なんで黙っちゃうの」
 沙希の声が、潤みはじめる。
「彩加はいつもそうだね。私には、何も言ってくれない」
 沙希につかまれた肘が、どくどくと脈打つ。そこから隠せない本当が伝ってしまいそうで、怖くて、腕をねじって沙希の手を振りほどいた。
「言ってどうするの?」
 沙希の瞳を、正面から見据(みす)える。
「言ったら何かが変わるの? 変えられるの? 沙希にはそれができるの?」
 一緒にいて、本当のことを隠しているのは辛い。
「出来ないんだったら、言うだけ無駄じゃない」
 でも、言ってしまったら、もっと苦しいことが、待っている。
「無駄?」
「そうだよ!」
 言ってしまったら、取り返しがつかないほど、たくさんのものを、失くす。失くしてしまうのは、彩加ではなく、沙希のほうだと、彩加は思っている。だから……、
「もう、私にかまわないで!」
 突き放すように、叫んだ。
 叫ぶように言った彩加の瞳が、燃えるように揺らぐ。

 その時、沙希は……、
 思ってもみなかった険(けわ)しい声に言葉を失くしながら、今まで見たこともない彩加の、意思を持った瞳に見入っていた。自分をまっすぐに射抜く、彩加の瞳。これまでのどこか冷めた視線とは、まるで違う。濃い睫に縁取られた薄茶の瞳は、彩加の心を内側から反射していた。
 綺麗だと、そう思った。

 自分のその、あまりにもこの場に不釣り合いな言葉を、沙希はなかば陶然(とうぜん)と受け止めていた。
 彩加の、冷たい言葉は何度も聞いた。突き放すような言葉も。けれど、こんなふうに感情を爆発させたのは、初めてのことだった。この輝きに比べれば、今までの彩加の瞳が、どれほど心を持たないモノだったのかが、よくわかる。
 沙希の瞼の裏に、夕闇に寄り添いあう、彩加と利人の姿がよみがえる。

「それが、彩加の望み?」
 ―― 私には、彩加をこんなふうに、変えることは出来なかった
「彩加は、私に離れて欲しいって、本気で思ってたんだね」
 ―― わかってもらえなかった、なにひとつ
「そうじゃないって思いたかったけど、そうだったんだね」
 ―― 彩加に、私の気持ちは、届かない

 彩加の瞳に映る沙希は、ただただ寂しそうで、彩加は言葉を見つけられない。今、頷くだけで沙希は納得して、自分から離れていくんだろう。そうわかっているのに、どうしても頷けない。……どうしても。
 黙ったままの彩加から、沙希の視線が逸(そ)らされる。天井を見上げ、諦めたように笑う。
「最後まで、彩加は私に、自分の気持ちは言ってくれないんだね」
 ―― 最後……?
 彩加の心に、波紋が散った。
「でも、もういい。もう、彩加の邪魔はしないよ。もう、いきなり来たりなんかしないから、安心して」
 それは、沙希の精一杯の強がりだった。
 結局、自分には彩加の言葉を待つことは出来ない。彩加の口から、決定的な何かを言われるのが辛い。それを聞いてしまったら、もう二度と、話しかけることさえ出来なくなる。
 けれど、そんな沙希の気持ちを、彩加は見抜けない。
 ―― ……最後……
 終わりを告げる言葉だけが、彩加の心を揺する。朦朧とする彩加の瞳に、自分に背を向け、この部屋を出て行こうとする、沙希が映る。
「すごいね。沙希は私の気持ちが読めるんだ」
 ふっと笑って、
「だったら、何も私に確認する必要なんて、ないじゃない」
 からかうように彩加が言った瞬間、沙希がくるりと振り返る。
「自分のことだけ、信じていればいいんだから」
 彩加の呆れたような言い方に、沙希の瞳が鋭(するど)く光った。
 沙希の中で、必死になって抑え込んでいた感情が、彩加の言葉ひとつで瞬く間に膨れ上がっていく。心の中に、澱(おり)のように積もりに積もっていたものが、激しく掻(か)き乱される。
「じゃあ、彩加にわかる?」
 もう、感情を抑え込んでいた支えは、今にも折れそう。
「そうしなきゃいけない、私の惨(みじ)めさが、彩加にわかる?」
 弓なりに反った支えが、ミシミシと罅割(ひびわ)れていく。
「彩加はいつだって、何も言ってくれない。私には、何も話してくれない」
 決壊する。感情が、何もかもを押し流そうとする。
「それがどんなに辛いか、彩加にわかる? わからないでしょう!」
 沙希の声音には、哀願(あいがん)するような響きがこもっていた。

 彩加はその時、今、この期に及んで、沙希を振り向かせたがった自分を、悔やんでいた。
 けれど、どうしたらいいのか、わからない。どうしようもないんだということしか、わからない。何より、自分の心と身体はバラバラで、なにをどう言葉にすればいいのか、まるでわからなかった。
 揺れて、揺れて、振り子のように行き来する心が、出逢いの場面を連れてくる。
 春風に揺れる陽だまりの中で、秘密のように囁き合った場面が、つい今しがたの事のように、彩加の脳裏をよぎる。

「彩加は、私の気持ちを知ろうとしてない。わかろうとしてない」
 思えば、初めて言葉を交わしたあの時に、
「私の気持ちなんて、どうだっていいの?」
 いつもどおりに振る舞えていたなら、
「私は、彩加が好きなんだよ!」
 この胸が焦げていく痛みは、なかったんだろうか。

 沙希に逢いたかった。沙希が恋しかった。沙希は悪くない。沙希は少しも悪くない。この恋しがる気持ちさえ消せたら、元に戻れるのに。
 でも、消えない……。
 だとしたら、叶うはずのないこの恋は、壊すしかない。それがあったことさえ忘れてしまえるほど、粉々に。

「バカじゃない」
 途端に、沙希の周りの温度が、下がったような気がした。とてつもなく冷たいものを飲み込んだように、沙希の顔色が変わった。
「自分は自分なんだから、他人の気持ちなんて、わからなくて当然じゃない」
 それでも、彩加は口調を変えない。
「それを沙希は決め付けたんだよ。私が何も言わないってことを、言い訳にしてね」
 見下(みくだ)すような視線を、沙希に向ける。
「なんにもわからないくせに、わかったつもりになって、いい気にならないで!」
 彩加の言葉の冷たさが、最後の楔(くさび)となって、ふたりの間に振り落とされた。

「彩加……っ」
 沙希の、奥歯を噛み締める音が、聞こえたような気がした。
「彩加は全部、何もかも、……終わりにしたいんだね」
 沙希の声が、怒りにふるえている。
「彩加は私が嫌い、だから離れて欲しい」
 くっと頤(おとがい)を上げ、彩加に視線を据(す)える。
「今のって、そういう意味だよね?」
 念を押すように、言う。
「嫌いな人の気持ちなんて、知りたくもない。そういう意味でしょ? だったら、今までの事、全部納得するよ!」
 思いつめた唇が、信じたくなかった言葉を弾きだす。
「彩加は私のことが嫌いなんだよ。だからそんな態度がとれるんだよ。じゃなきゃ、説明がつかない!」
 沙希が、なんとかして繋ぎとめておきたいと願った最後の糸が、ぷっつりと途切れた。
「彩加が、望む通りにするよ」
 沙希の声が、冷ややかにその場に響く。
「もう二度と、此処には来ない」
 きっぱりと、言い切る。
「彩加の傍には行かない」
 沙希の瞳が大きく揺れる。
「もう二度と、話しかけもしない」
 涙が零れる。
「それでいいんでしょう!」
 叫ぶように、言い放つ。
「何か、……何か、言うことないの?」
 投げつけられたのは、恐ろしく絶望的な言葉。

 ―― これが、私の、望んだこと?
 彩加は心の中で、問いかけた。呆然と。誰にともなく。

「私は彩加を許さない」
 沙希の涙に洗われた双眸(そうぼう)には、憎しみの炎が唸(うな)っている。
「彩加になんて、近づかなきゃ良かった。好きになんて、ならなきゃ良かった!」
 ダンと目の前で、空気が引き裂かれたような気がした。
 背を向ける沙希に向かって、彩加の身体から、血が流れていく。身体中の血が、足元から、指先から、流れ出していく。身体が、凍りついていく。瞬(まばた)きひとつ出来ない彩加の瞳に映るのは、ドアに向かう沙希の、振り返らない背中だけ。
 沙希が、消えていく。スローモーションのようにゆっくりとドアが開いて、沙希が消えていく。

 気がついたとき、彩加は玄関のドアの前に、座り込んでいた。
 それはほんの少しの時間だったのに、彩加は途方もなく長い時間、そうしているような気がしていた。膝を抱え、小さく小さく縮みこんで、動くことのないドアノブを、ただ見つめていた。
 ―― どうして、楽になれないんだろう?
 誰からも求められず、いっそ失望されたなら、この息苦しさはやわらぐと、そう思っていたのに、彩加はドアの前から一歩も動けずにいた。
 慣れたはずの部屋が、この小さな部屋が、どうしようもなく広く感じて、振り返ることも出来ず、だからといってドアを開けることも出来ないまま、ただ、ひたすら待ち続けた。あてもなく。
 ―― 私は、なにを待っているんだろう?
 聞こえるはずのない足音に、耳を澄ませながら。
 ―― もう誰も、此処には来ないのに……
 眩暈(めまい)のように押し寄せてくる、沈黙。
 ―― この指先は、もう何にも触れない。呼んでも誰も応えない。何も、誰も、いない
 心全部を浸(ひた)していく、孤独。
 ―― もう誰も、私を、いらない
 ピシリと、亀裂(きれつ)が走る音がした。
 ―― いらない
 膝に置かれた指先が、ぽとりと落ちた。

 脱力した指先が、コンと何かにぶつかる。指先にキンと走った冷たさに、怒りよりももっと激しい何かが、胸の奥から突き上げてくる。たまらず彩加は、指にぶつかったそれを、ドアに向かって投げつけていた。
 力任せに投げつけられたのは靴。跳ね返った靴に弾かれたのは花瓶。硝子の花瓶は目の前のコンクリートで、粉々に砕け散る。硝子の破片が、彩加の頬を掠める。
 チリッと頬が、焼けたように痛んだ。その瞬間、彩加の中で、何かが決壊した。
 自分を閉じ込めた、鳥籠(とりかご)のような部屋。その何もかもを壊したくて、彩加は振り返る。窓硝子に鞄を投げつけ、鳴らない電話をテレビに投げつける。本棚の本を硝子のテーブルに投げつけ、周りにあった壊せそうな物、全部壊して、それでも足りなくて、キッチンの食器棚に駆け寄った。扉を開けることさえわずらわしく、力任せに殴りつけると硝子は呆気なく割れて、破片がまわりに飛び散った。崩れ落ちる破片が、握り締めた拳の上に、素足の上に、バラバラと落ちていく。
 割れた硝子の隙間から食器を取り出して、床に投げつける。窓枠(まどわく)に残った硝子が、腕を掠めて、肌が切れる。でも、そんなことはもう、どうでも良かった。今はただ、何もかもを壊したかった。何もかも。全部。
 自分の身体が、自分のもののように感じなかった。
 今はもう、痛みも感じない。痛みは感じないのに、真っ赤な血はあふれ出て、そこらじゅうに散らばる。くぐもった、荒い息使いが、耳に残る。でも、自分のことがわからない。部屋の中を歩くと硝子の破片が足に刺さるのに、もう、何も感じなかった。
 もう、何もない。冷たい空気が、部屋を満たしていく。
 壁際に、ずるずるとしゃがみこむ彩加の指先が、ぬるりと滑る。その指先を、目の前に翳す。

 すーっと流れ落ちる、赤い糸。ぽちゃんと零れる、血珠(ちだま)。

 瞳に映るなにもかもが、まるで水の中の風景のように揺らぐ。そのゆらいだ風景に、出しっぱなしになっていた、フルーツナイフが映りこむ。奇妙(きみょう)に引き寄せられるその光は、彩加を誘うように冷たく煌く。
 ふらりと立ち上がり、キッチンの前に立ち、その青白く光るナイフを手に取る。左手でナイフの刃先(はさき)に触れたとき、その冷たさに、涙が零れた。

 窓の外は、嫌になるほど見慣れた、暗い空の色。
 孤独を溶かし込んだ灰色の、終わりだけの世界。