夕方になっても店に訪れない彩加を不安に思いながら、利人は閉店の準備をしていた。
そして、「準備中」の札を持ってドアの前に立ったとき、狭い道の向こう側、暗闇の中にたたずむ彩加を見つけた。
「彩加!」
慌てて駆け寄る利人に、少しだけ笑う。
「いつからいたの?」
問いかけても、その問いには応えず、ポツリと言う。
「珈琲、のみたい」
薄く笑ってそれだけ言うと、彩加は利人の横をすり抜けて、店のドアを開く。通り過ぎた彩加に冷たい空気が纏わりついて、随分長いこと、たたずんでいたんだろうことを思わせた。
コポコポというサイフォンの音に耳を傾けながら、彩加はコートを着たままカウンター席に座って、窓の外の闇を見つめている。穏やかに見えるその横顔が、何故か利人を不安にさせる。
「病院、行ったの?」
利人の問いに微かに笑って、首を振る。
「保険証なかったから。……でも、今日、おかあさんが持ってきてくれたから、明日、精算してくるね」
彩加の言葉に驚いて、利人が問いかける。
「連絡、したの?」
また緩く首を振る。その時不意に、片桐の言葉が利人の思考を過ぎった。
―― 俺は、彼女が彩加ちゃんを愛してるとは、どうしても思えなかったんだ。
片桐の言葉が不安と連れ立って、利人の言葉を飲み込ませる。言葉に詰まる利人をちらりと見上げ、薄い笑みを浮かべたまま、彩加が言う。
「……私のおとうさんって、もう、死んじゃったんだって」
空虚な笑みが、口の端にしがみついている。
「なんかね、全然、実感わかないの。他人事みたい」
長い睫が、白い頬に青褪めた影をおとす。
「でもね、恋しいなんて、思ったことなんかなかったくせに、もういないって知ったら、ちょっと残念だな、なんて、思ったりするの」
何かを何処かに置き忘れたような瞳をしているのに、彩加の言葉は続く。
「もういないってわかったから、会いたいって思うなんて、あんまり私らしくて、笑っちゃう」
絶対に叶わないってわかったから、素直に言える。叶いそうな望みはそれだけで、深く心が傷つくから、最初からないものと諦めていることしか、口に出来ない。
彩加の声は明るい。それは不自然なほど。
「でもね、おかあさんは、もう、忘れたいみたい」
遠くを見つめたまま、呟くように言う。
「だから、きっと、私を見たくないんだと、思う」
笑みを象る口元が、微かにゆがむ。
「私はきっと、おかあさんが、忘れたい人に、似ているんだと思う」
無理に笑って、消え入るように、黙ってしまった。
大人の巧みな嘘に、子供は簡単に引っかかる。巧妙に仕組まれた罠とも知らず、無防備に入り込む。其処が二度と抜け出せない、迷宮とも知らずに。
「彩加」
呼びかける利人の声が、力なく漂う。
「お母さんに、……何を言われたの?」
それだけじゃない。お父さんが亡くなったこと、絶対にそれだけじゃない。そう確信できるのに、何をどう問えばいいのかわからない。不用意な言葉はきっと、彩加をもっと追い詰める。
「彩加?」
徐々に薄くなっていく彩加の影を、引きとめるように呼びかける。けれど、彩加の口元は薄く開かれたまま、何かを音にしようとはしない。
利人が聞こうとしている言葉。それは、彩加の心を冷たく凍らせる。
口にしてしまったら、認めたくない言葉は、現実に変わる。それが馬鹿馬鹿しい抗いだと気づいていても、今はまだ、音にしたくない。言葉に出来ない。
自分が此処にいることの、確かにいることの無意味さを、誰に問えば答えが聞けるんだろう。誰にも、誰にもこの切なさは伝わらない。どう言っても伝わらない。
愛されないことを哀しいと思うわけじゃなく、愛されないことを当然と感じてしまう自分が哀しい。それが当たり前だと、信じてしまう心が痛い。この寂しさを、手放したくても手放せない卑屈な心を、飼い馴らしてしまった自分は、いったい何になれば許されるんだろう。
この伸ばしきれない手を、誰か、思い切り引っ張って、そうして「もう大丈夫だよ」と言って欲しい。この現実から、目を覚ましたい。「もう大丈夫だよ」という声が聴きたい。そのままで良いんだと、今のままの自分で大丈夫だと。
そして、その声が本当なんだと、信じさせて欲しい。
珈琲を見つめる彩加の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。無表情のまま零れる雫は、彩加の白い頬を伝っていく。
「ねぇ、彩加」
俯くだけの彩加に呼びかける。
「親ってさ、いったいなんなんだろうね」
カウンターに両肘をついて、彩加の瞳を覗き込む。
「僕ね、母親に言われたことがあるんだ。「お前さえいなかったら」ってさ」
自嘲気味に利人が笑う。
「何かの口喧嘩のついでだったのかな? そこのところはよく思い出せないんだけど、でも、その言葉だけは忘れられなくて、何かの拍子で思い出しちゃうんだ。きっとショックだったんだろうね。なのにさ、僕の母は翌日には何事もなかったみたいに、普通に話しかけてくるんだよ。どう思う?」
問いかけにも、彩加はピクリとも動かない。
「僕は、そう言ったあの人の、本心が知りたいって思ったけど、怖くてね、聞けなかった。そうしているうちに、もう直接聞くことなんか、出来なくなっちゃったけどね」
俯く視線を、なんとかして上げさせたくて、利人が続ける。
「でもさ、それを確かめたからってどうなるわけでもないって、最近思うようになったんだ。聞いたって、きっと何も変わらない。だってあの人は、何の気なしに言ったんだから」
今でも思い出せば胸が痛む。口にすれば尚更辛い。それでも、
「だからさ、僕はもう、あの人の言葉は思い出さない。思い出しても、世間話で済ませてしまおうって、決めたんだ」
殊更に明るく、励ますように言う。
「親だって、僕達と同じ人間なんだから、間違うことだってある。ただ少し長く生きてるだけの彼らの言葉なんか、気にしてたってしょうがない。だって、彼らの言うことが全部正しいなんて、きっと誰にも言えないよ。そう思わない?」
けれど利人の言葉は、彩加にどれほど虚しく響いたんだろう。薄い琥珀の瞳は、揺らめきさえしなかった。
少しの沈黙の後、店に流れるピアノの曲に、彩加が不意に口をひらいた。
「マスター、この曲、憶えてる?」
「えっ?」
突然の問いかけに、利人が問い返すような声を出す。有線から流れる哀切をおびたピアノの曲に耳を傾けながら、彩加がひとり言のように言う。
「この曲、私、……弾けたんだよ」
その言い方に、利人は遠い日の、春の陽光を思い出す。
「今も、弾けるんだよね?」
そう言うと、彩加にとっては思いがけない答えだったのかもしれない。ちらりと視線を利人に向けて、今にも泣きそうな、けれど笑っているような、形容しがたい表情をした。
「……うん、……今も、……弾ける」
途切れ途切れに言葉を繋いで、また潤んでしまった瞳を隠すように俯いた。
小学校の頃、誰もいない家に帰るのが嫌で、彩加はいつも教室の隅にあったオルガンを弾いていた。それを聴いた教師が、文化祭のピアノ奏者に彩加を推薦してくれた。
そのことを教師から伝えられた日、彩加は喜び勇んで自宅に帰った。
学年全部で行う大合奏で、グランドピアノに座る自分を、母に見せてあげられる。それだったら、母はきっと来てくれる。仕事があるからと、一度も、授業参観にも来てくれたことのない母に、初めて言える。「特別」だから来て欲しいと、お願いできる。
けれど……、
「ピアノ?」
面倒くさそうに問われて、彩加は続く言葉を飲み込んだ。
「いつなの?」
母の不機嫌そうな声音に、やっとの思いで日にちだけ伝えた。
「……時間があったら、のぞいてみるわ」
文化祭の日は祝日だった。仕事は休みのはずなのに、母は時間さえ聞いてくれなかった。
それでも諦めきれなくて、文化祭当日、その日のプログラムをテーブルの上に置いて、彩加は家のドアを閉めた。休みの日は遅くまで寝ている母を起こすことは出来なくて、ただ気づいて欲しいとだけ願いながら、学校に向かった。
スポットライトに照らされた舞台の上、ピアニカや縦笛を担当する生徒たちの真ん中に、グランドピアノは置かれていた。緞帳が上がり、一生懸命に練習した曲を弾き終えたとき、みんなの周りにはお父さんやお母さんがいた。
ひとり取り残された彩加は、暗幕の中、母を捜して歩き回った。
もしかしたら、もしかしたらと、微かな希望を捨て切れず、グルグルと同じ場所を廻り続けた。凝らす瞳に映る風景が、揺れてぼやけて、自分の涙に気づいた。慌てて体育館の横の、用具置き場に駆け込んだ瞬間、堪えていた涙がどっと溢れ出した。
丸められたマットレスの上で、抱えた膝に瞼を押し付けて「止まれ! 止まれ!」と、涙に言い聞かせながら、声を潜めて泣き続けた。
―― どうすれば、おかあさんに好きになってもらえるんだろう?
いつも、いつも、思っていた。
―― もっと、良い子にならなきゃ。もっと、もっと、頑張らなきゃ
そう思い続けて、ずっと頑張ってきた。なんの確信もないけれど、なんでもちゃんと出来れば、きっと喜んでもらえる。いつか愛してもらえる。そう思っていた。けれど、哀しい願いは叶うことなく、彩加を囲った冷たい枠だけが残された。
―― 自分は、……本当の自分は、……消えちゃえばいい
母が見る自分が、きっと本当の自分だから、本当の自分は絶対に、誰にも愛されない。だから、ふりをし、つくろい、彩加を演じる。優等生で一目置かれる、そんな自分でいるために。
でも、それは全部、見当外れの無駄な努力。全部、全部でたらめ。馬鹿な思い込みだった。
それでも、いつか知らない間に翻ってしまった花びらが、もう一度翻ることを望んでいた。憎しみが愛に変わる瞬間を、待っていた。けれどそれは夢でしかなかった。
ひとり暮らしの話をした時、本当は反対して欲しかった。「まだ子供なんだから」と、引き止めて欲しかった。本当は、離れたくなんかなかった。まさかあんなに簡単に決まるなんて、思いもしていなかった。
アパートの下見に来た時、アパートから学校までの距離を知りたいなんて言いながら、父と母を先に帰して、たったひとりで日曜の学校に向かった。誰もいない教室の廊下から、中庭をはさんで見えた音楽室に、思うともなく歩を進めた。
人っこひとりいない校舎に、彩加の靴音だけが響いていた。
そっと音楽室のドアを開け後ろ手に閉めて、瞳の前に置かれたグランドピアノを随分と長いこと、ただ見つめていた。そして、ゆっくりと近づいて、その鍵盤にふれた。
忘れようとしても忘れられない曲は、何度も何度も練習したその曲は、難なく彩加の指先によみがえった。けれど、弾けるというそのことが、どれ程の思いで練習したのかを思い出させて、来てもらえなかった文化祭のことが、今、母の元から離れようとする自分が、そんな何もかもが彩加を追い詰めていった。
堪えきれない想いは溢れて、彩加は誰もいない音楽室で、ただ泣いた。涙は幼い頃のまま、どうしても、止めることが出来なかった。
沈黙を縁取るピアノの音は、ゆるやかに闇をふるわせていた。春を待つ雪が、凍てつく空に、微かなきらめきを灯していた。
そして、「準備中」の札を持ってドアの前に立ったとき、狭い道の向こう側、暗闇の中にたたずむ彩加を見つけた。
「彩加!」
慌てて駆け寄る利人に、少しだけ笑う。
「いつからいたの?」
問いかけても、その問いには応えず、ポツリと言う。
「珈琲、のみたい」
薄く笑ってそれだけ言うと、彩加は利人の横をすり抜けて、店のドアを開く。通り過ぎた彩加に冷たい空気が纏わりついて、随分長いこと、たたずんでいたんだろうことを思わせた。
コポコポというサイフォンの音に耳を傾けながら、彩加はコートを着たままカウンター席に座って、窓の外の闇を見つめている。穏やかに見えるその横顔が、何故か利人を不安にさせる。
「病院、行ったの?」
利人の問いに微かに笑って、首を振る。
「保険証なかったから。……でも、今日、おかあさんが持ってきてくれたから、明日、精算してくるね」
彩加の言葉に驚いて、利人が問いかける。
「連絡、したの?」
また緩く首を振る。その時不意に、片桐の言葉が利人の思考を過ぎった。
―― 俺は、彼女が彩加ちゃんを愛してるとは、どうしても思えなかったんだ。
片桐の言葉が不安と連れ立って、利人の言葉を飲み込ませる。言葉に詰まる利人をちらりと見上げ、薄い笑みを浮かべたまま、彩加が言う。
「……私のおとうさんって、もう、死んじゃったんだって」
空虚な笑みが、口の端にしがみついている。
「なんかね、全然、実感わかないの。他人事みたい」
長い睫が、白い頬に青褪めた影をおとす。
「でもね、恋しいなんて、思ったことなんかなかったくせに、もういないって知ったら、ちょっと残念だな、なんて、思ったりするの」
何かを何処かに置き忘れたような瞳をしているのに、彩加の言葉は続く。
「もういないってわかったから、会いたいって思うなんて、あんまり私らしくて、笑っちゃう」
絶対に叶わないってわかったから、素直に言える。叶いそうな望みはそれだけで、深く心が傷つくから、最初からないものと諦めていることしか、口に出来ない。
彩加の声は明るい。それは不自然なほど。
「でもね、おかあさんは、もう、忘れたいみたい」
遠くを見つめたまま、呟くように言う。
「だから、きっと、私を見たくないんだと、思う」
笑みを象る口元が、微かにゆがむ。
「私はきっと、おかあさんが、忘れたい人に、似ているんだと思う」
無理に笑って、消え入るように、黙ってしまった。
大人の巧みな嘘に、子供は簡単に引っかかる。巧妙に仕組まれた罠とも知らず、無防備に入り込む。其処が二度と抜け出せない、迷宮とも知らずに。
「彩加」
呼びかける利人の声が、力なく漂う。
「お母さんに、……何を言われたの?」
それだけじゃない。お父さんが亡くなったこと、絶対にそれだけじゃない。そう確信できるのに、何をどう問えばいいのかわからない。不用意な言葉はきっと、彩加をもっと追い詰める。
「彩加?」
徐々に薄くなっていく彩加の影を、引きとめるように呼びかける。けれど、彩加の口元は薄く開かれたまま、何かを音にしようとはしない。
利人が聞こうとしている言葉。それは、彩加の心を冷たく凍らせる。
口にしてしまったら、認めたくない言葉は、現実に変わる。それが馬鹿馬鹿しい抗いだと気づいていても、今はまだ、音にしたくない。言葉に出来ない。
自分が此処にいることの、確かにいることの無意味さを、誰に問えば答えが聞けるんだろう。誰にも、誰にもこの切なさは伝わらない。どう言っても伝わらない。
愛されないことを哀しいと思うわけじゃなく、愛されないことを当然と感じてしまう自分が哀しい。それが当たり前だと、信じてしまう心が痛い。この寂しさを、手放したくても手放せない卑屈な心を、飼い馴らしてしまった自分は、いったい何になれば許されるんだろう。
この伸ばしきれない手を、誰か、思い切り引っ張って、そうして「もう大丈夫だよ」と言って欲しい。この現実から、目を覚ましたい。「もう大丈夫だよ」という声が聴きたい。そのままで良いんだと、今のままの自分で大丈夫だと。
そして、その声が本当なんだと、信じさせて欲しい。
珈琲を見つめる彩加の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。無表情のまま零れる雫は、彩加の白い頬を伝っていく。
「ねぇ、彩加」
俯くだけの彩加に呼びかける。
「親ってさ、いったいなんなんだろうね」
カウンターに両肘をついて、彩加の瞳を覗き込む。
「僕ね、母親に言われたことがあるんだ。「お前さえいなかったら」ってさ」
自嘲気味に利人が笑う。
「何かの口喧嘩のついでだったのかな? そこのところはよく思い出せないんだけど、でも、その言葉だけは忘れられなくて、何かの拍子で思い出しちゃうんだ。きっとショックだったんだろうね。なのにさ、僕の母は翌日には何事もなかったみたいに、普通に話しかけてくるんだよ。どう思う?」
問いかけにも、彩加はピクリとも動かない。
「僕は、そう言ったあの人の、本心が知りたいって思ったけど、怖くてね、聞けなかった。そうしているうちに、もう直接聞くことなんか、出来なくなっちゃったけどね」
俯く視線を、なんとかして上げさせたくて、利人が続ける。
「でもさ、それを確かめたからってどうなるわけでもないって、最近思うようになったんだ。聞いたって、きっと何も変わらない。だってあの人は、何の気なしに言ったんだから」
今でも思い出せば胸が痛む。口にすれば尚更辛い。それでも、
「だからさ、僕はもう、あの人の言葉は思い出さない。思い出しても、世間話で済ませてしまおうって、決めたんだ」
殊更に明るく、励ますように言う。
「親だって、僕達と同じ人間なんだから、間違うことだってある。ただ少し長く生きてるだけの彼らの言葉なんか、気にしてたってしょうがない。だって、彼らの言うことが全部正しいなんて、きっと誰にも言えないよ。そう思わない?」
けれど利人の言葉は、彩加にどれほど虚しく響いたんだろう。薄い琥珀の瞳は、揺らめきさえしなかった。
少しの沈黙の後、店に流れるピアノの曲に、彩加が不意に口をひらいた。
「マスター、この曲、憶えてる?」
「えっ?」
突然の問いかけに、利人が問い返すような声を出す。有線から流れる哀切をおびたピアノの曲に耳を傾けながら、彩加がひとり言のように言う。
「この曲、私、……弾けたんだよ」
その言い方に、利人は遠い日の、春の陽光を思い出す。
「今も、弾けるんだよね?」
そう言うと、彩加にとっては思いがけない答えだったのかもしれない。ちらりと視線を利人に向けて、今にも泣きそうな、けれど笑っているような、形容しがたい表情をした。
「……うん、……今も、……弾ける」
途切れ途切れに言葉を繋いで、また潤んでしまった瞳を隠すように俯いた。
小学校の頃、誰もいない家に帰るのが嫌で、彩加はいつも教室の隅にあったオルガンを弾いていた。それを聴いた教師が、文化祭のピアノ奏者に彩加を推薦してくれた。
そのことを教師から伝えられた日、彩加は喜び勇んで自宅に帰った。
学年全部で行う大合奏で、グランドピアノに座る自分を、母に見せてあげられる。それだったら、母はきっと来てくれる。仕事があるからと、一度も、授業参観にも来てくれたことのない母に、初めて言える。「特別」だから来て欲しいと、お願いできる。
けれど……、
「ピアノ?」
面倒くさそうに問われて、彩加は続く言葉を飲み込んだ。
「いつなの?」
母の不機嫌そうな声音に、やっとの思いで日にちだけ伝えた。
「……時間があったら、のぞいてみるわ」
文化祭の日は祝日だった。仕事は休みのはずなのに、母は時間さえ聞いてくれなかった。
それでも諦めきれなくて、文化祭当日、その日のプログラムをテーブルの上に置いて、彩加は家のドアを閉めた。休みの日は遅くまで寝ている母を起こすことは出来なくて、ただ気づいて欲しいとだけ願いながら、学校に向かった。
スポットライトに照らされた舞台の上、ピアニカや縦笛を担当する生徒たちの真ん中に、グランドピアノは置かれていた。緞帳が上がり、一生懸命に練習した曲を弾き終えたとき、みんなの周りにはお父さんやお母さんがいた。
ひとり取り残された彩加は、暗幕の中、母を捜して歩き回った。
もしかしたら、もしかしたらと、微かな希望を捨て切れず、グルグルと同じ場所を廻り続けた。凝らす瞳に映る風景が、揺れてぼやけて、自分の涙に気づいた。慌てて体育館の横の、用具置き場に駆け込んだ瞬間、堪えていた涙がどっと溢れ出した。
丸められたマットレスの上で、抱えた膝に瞼を押し付けて「止まれ! 止まれ!」と、涙に言い聞かせながら、声を潜めて泣き続けた。
―― どうすれば、おかあさんに好きになってもらえるんだろう?
いつも、いつも、思っていた。
―― もっと、良い子にならなきゃ。もっと、もっと、頑張らなきゃ
そう思い続けて、ずっと頑張ってきた。なんの確信もないけれど、なんでもちゃんと出来れば、きっと喜んでもらえる。いつか愛してもらえる。そう思っていた。けれど、哀しい願いは叶うことなく、彩加を囲った冷たい枠だけが残された。
―― 自分は、……本当の自分は、……消えちゃえばいい
母が見る自分が、きっと本当の自分だから、本当の自分は絶対に、誰にも愛されない。だから、ふりをし、つくろい、彩加を演じる。優等生で一目置かれる、そんな自分でいるために。
でも、それは全部、見当外れの無駄な努力。全部、全部でたらめ。馬鹿な思い込みだった。
それでも、いつか知らない間に翻ってしまった花びらが、もう一度翻ることを望んでいた。憎しみが愛に変わる瞬間を、待っていた。けれどそれは夢でしかなかった。
ひとり暮らしの話をした時、本当は反対して欲しかった。「まだ子供なんだから」と、引き止めて欲しかった。本当は、離れたくなんかなかった。まさかあんなに簡単に決まるなんて、思いもしていなかった。
アパートの下見に来た時、アパートから学校までの距離を知りたいなんて言いながら、父と母を先に帰して、たったひとりで日曜の学校に向かった。誰もいない教室の廊下から、中庭をはさんで見えた音楽室に、思うともなく歩を進めた。
人っこひとりいない校舎に、彩加の靴音だけが響いていた。
そっと音楽室のドアを開け後ろ手に閉めて、瞳の前に置かれたグランドピアノを随分と長いこと、ただ見つめていた。そして、ゆっくりと近づいて、その鍵盤にふれた。
忘れようとしても忘れられない曲は、何度も何度も練習したその曲は、難なく彩加の指先によみがえった。けれど、弾けるというそのことが、どれ程の思いで練習したのかを思い出させて、来てもらえなかった文化祭のことが、今、母の元から離れようとする自分が、そんな何もかもが彩加を追い詰めていった。
堪えきれない想いは溢れて、彩加は誰もいない音楽室で、ただ泣いた。涙は幼い頃のまま、どうしても、止めることが出来なかった。
沈黙を縁取るピアノの音は、ゆるやかに闇をふるわせていた。春を待つ雪が、凍てつく空に、微かなきらめきを灯していた。

