羽ばたきの意味

「美香!」
 純の声が、夜の静寂を揺らした。振り返った私の瞳に映るのは、灯りの燈る純の部屋。
 窓が、パシンと音をたてて閉じられた。真夜中の刺すような静けさを打ち消して、ドタドタと階段を駆け下りる音が、門の外まではっきりと聞こえる。純の家の玄関が勢いよく開いて、私に駆け寄る純がひどく焦っているように見えて、驚いた。その黒い瞳に、苛立ちや、疑問のようなものまで感じて、私はわざとふざけて言った。

「やめてよね、ばれちゃうじゃん」
 笑いながら、涙が零れそうになった。
「なにやってんの?」
「ん? 散歩」
「こんな真夜中に?」
「うん」
 頷きながら、なんのあてもない、明日を思った。何の目的もなく、ただ逃げ出す為だけの明日を思った。
「……毎日?」
 純の問いかけに、緩く首を振って、私は嘘を吐く。
「今日だけだよ。だって、今日、明るいじゃん。月が大きいからかな?」
 笑顔を貼り付けて見上げる私の瞳に、純の黒目がちな瞳が映る。その瞳が淡く潤んで、切なげに歪む。
「嘘だろ?」
 純の声は、思いがけず強くて、私の心が怯える。
「美香、毎日歩いてたじゃん。昨日も、その前も、その前も」
 今日は、月明かりが綺麗に映えている。昨日も明るかった。でも、その前の日は雨が降っていた。暗闇に散る雨粒が、街灯に銀色に浮いていた。
「……なんで、そんな嘘吐くんだ?」
 純の搾り出すような問いかけが苦しくて、目を逸らして投げやりに言う。
「無視していいのに、こんな意味不明な奴」
「……美香」
「ごめん、色々。勝手で。でも、私は、そんなおせっかいな純が、嫌いじゃないよ。むしろ、好……き……」
 何気なく言おうとした「好き」という言葉に、どくんと心臓がひとつ、高く鳴った。たった二文字が、純に対してはこんなに意味を持つなんて、苦くて苦しい。
「ごめん、また訳わかんないね」
 自分でも情けないほどの声が出て、今まで必死で守り続けたものが、この気持ちの前ではまったく力を持たないことに、初めて気づかされていた。
「……ちっとも説明になってないんだけど、ほんとごめん。……それじゃ、」
「美香」
「……なに?」
「もう、家、帰る?」
 問われて、灯りの消えた自分の家を見上げる。鎖された闇ばかりの小箱に、今はまだ帰りたくなくて、そっと視線を外した。
「まだ、帰らないんだったら、ちょっと散歩しよ」
 子供の頃と変わらない、懐っこい声で、純が言う。
「いつも行ってた川原まで。其処から海、眺めようよ」
 明るい笑顔のまま、私の握って、軽い足取りで歩き出す。