大好きだったピアノはいつからか、濁った音しか出なくなっていた。私が出している音だけ、どんどんどんどん濁っていった。そして、少しずつ壊れていく世界の片隅で、私は私の夢を失くした。それは本当に偶然だった。わざとなんかじゃ、なかった。
美術の時間、写生をしていた私の画板に、小さな鉄の玉が投げ込まれた。
「あっ、すいませ~ん」
のんきな声は、体育の授業中だった、他のクラスの誰か。砲丸投げの玉を、有り得ない方向に飛ばしながら、その子が笑っていたのは、私が動かなかったからだと思う。痛いとも言わなかったから、きっとぶつからなかったんだと、そう思ったんだろう。
私は校庭の端っこで、すずかけの木を描いていたはずだったのに、ぐしゃりと変な音がして、ぶらりと下がってしまった手を画板にのせたまま、気がつくと先生の車の中にいた。
病院で見せてもらったレントゲンは、細い細い指の骨。小指と薬指の間接だけ、スプーンのように広がっていた。つぶれてしまった小さな骨。整形して固定して、でも、もう二度と、昔のようには動かない、灰青色に光る指。よくわからない落胆と、少しの安堵。
もう二度と、私はピアノを弾けない。でも、もう二度と、あの濁った音を聞かなくていい。
そしてママは、私にもっと執着した。
(どうして?)
そしてパパは、帰らない事に決めた。
(どうして?)
真実を見ようとしない、認めたくない人と、真実と知っているから見ないことに決めた人。そのどちらにも、本当の私はいない。二人が望む夢の子供は、二人の胸の中。現実の私の居場所は、もう何処にもなかった。
でも、そのことに気づきたくなかった私は、笑いながら鎧を重ねて、いまじゃすっかり本当の自分なんか見えなくなっちゃった。鎧と盾を、毎日毎日磨きながら、震える身体を押さえ込んで「怖い」って思いながら、毎日鎧の中で縮こまっていた。そうして自分自身を守っていたつもりだったのに、なにもかもが、思惑とは別の方向に絡まっていってしまう。私の中で、私自身が、少しずつ、少しずつ、拗じくれていった。
誰かを好きになる。誰かを想う。それはどうしてこんなに痛いんだろう。
想いが届かないから? 相手を信じられないから?
問いながら、本当は答を知っていた。初めての恋を失くしたあの日に、私は私自身の汚さを知った。私は、あの人の口から、「さよなら」なんて聞きたくなかった。だから私は、「さよなら」って、言ったんだ。
傷つきたくないばっかりに、最初に傷つけようとする。それが、私。
誰よりも愛されたいと願うのに、誰よりも誰かを信じることが出来ない。
誰かが私を好きでいてくれるなんて、そんな滑稽なこと、あるわけがない。もしも、もしも一瞬、そんな思い違いがあったとしても、きっと、すぐに気づく。そんな綺麗な想いに見合わない私に気づいて、そして捨てる。きっと、捨てる。それがわかるから、私は絶対に、誰も、愛したりしない。
そう強く思って、いろんなことを、ちゃんと諦めているつもりでも、時々、急に……、不意打ちのようにどうしようもなく泣きたくなる瞬間があって、そんなときはひとりでいると、そんな気持ちが膨らんで、膨らんで、心が破れてしまいそうになるから、ひとりでいたくなかった。
夢は決まって、思い出したくもない過去ばかり連れて、私を生ぬるい闇の底へと引きずり込もうとするから、誰でもいいから、嘘でいいから、その一瞬でいいから、誰かの指先を、握らせて欲しかった。誰かにさわっていて欲しかった。自分の身体や気持ちが、心許なく揺れる時は、誰かに傍にいて欲しかった。
でも、それが、どんなに身勝手なことか気づいたから、今はもう、純の隣にも居られなかった。
だから、何処かに行ってしまいたくなる。真っ暗な夜に溶け込むように、何処かに行ってしまいたくなる。此処以外だったら、何処でもいいから。でも、何処に行けばいいのか、わからない。
だから私は、夜を歩いていた。
美術の時間、写生をしていた私の画板に、小さな鉄の玉が投げ込まれた。
「あっ、すいませ~ん」
のんきな声は、体育の授業中だった、他のクラスの誰か。砲丸投げの玉を、有り得ない方向に飛ばしながら、その子が笑っていたのは、私が動かなかったからだと思う。痛いとも言わなかったから、きっとぶつからなかったんだと、そう思ったんだろう。
私は校庭の端っこで、すずかけの木を描いていたはずだったのに、ぐしゃりと変な音がして、ぶらりと下がってしまった手を画板にのせたまま、気がつくと先生の車の中にいた。
病院で見せてもらったレントゲンは、細い細い指の骨。小指と薬指の間接だけ、スプーンのように広がっていた。つぶれてしまった小さな骨。整形して固定して、でも、もう二度と、昔のようには動かない、灰青色に光る指。よくわからない落胆と、少しの安堵。
もう二度と、私はピアノを弾けない。でも、もう二度と、あの濁った音を聞かなくていい。
そしてママは、私にもっと執着した。
(どうして?)
そしてパパは、帰らない事に決めた。
(どうして?)
真実を見ようとしない、認めたくない人と、真実と知っているから見ないことに決めた人。そのどちらにも、本当の私はいない。二人が望む夢の子供は、二人の胸の中。現実の私の居場所は、もう何処にもなかった。
でも、そのことに気づきたくなかった私は、笑いながら鎧を重ねて、いまじゃすっかり本当の自分なんか見えなくなっちゃった。鎧と盾を、毎日毎日磨きながら、震える身体を押さえ込んで「怖い」って思いながら、毎日鎧の中で縮こまっていた。そうして自分自身を守っていたつもりだったのに、なにもかもが、思惑とは別の方向に絡まっていってしまう。私の中で、私自身が、少しずつ、少しずつ、拗じくれていった。
誰かを好きになる。誰かを想う。それはどうしてこんなに痛いんだろう。
想いが届かないから? 相手を信じられないから?
問いながら、本当は答を知っていた。初めての恋を失くしたあの日に、私は私自身の汚さを知った。私は、あの人の口から、「さよなら」なんて聞きたくなかった。だから私は、「さよなら」って、言ったんだ。
傷つきたくないばっかりに、最初に傷つけようとする。それが、私。
誰よりも愛されたいと願うのに、誰よりも誰かを信じることが出来ない。
誰かが私を好きでいてくれるなんて、そんな滑稽なこと、あるわけがない。もしも、もしも一瞬、そんな思い違いがあったとしても、きっと、すぐに気づく。そんな綺麗な想いに見合わない私に気づいて、そして捨てる。きっと、捨てる。それがわかるから、私は絶対に、誰も、愛したりしない。
そう強く思って、いろんなことを、ちゃんと諦めているつもりでも、時々、急に……、不意打ちのようにどうしようもなく泣きたくなる瞬間があって、そんなときはひとりでいると、そんな気持ちが膨らんで、膨らんで、心が破れてしまいそうになるから、ひとりでいたくなかった。
夢は決まって、思い出したくもない過去ばかり連れて、私を生ぬるい闇の底へと引きずり込もうとするから、誰でもいいから、嘘でいいから、その一瞬でいいから、誰かの指先を、握らせて欲しかった。誰かにさわっていて欲しかった。自分の身体や気持ちが、心許なく揺れる時は、誰かに傍にいて欲しかった。
でも、それが、どんなに身勝手なことか気づいたから、今はもう、純の隣にも居られなかった。
だから、何処かに行ってしまいたくなる。真っ暗な夜に溶け込むように、何処かに行ってしまいたくなる。此処以外だったら、何処でもいいから。でも、何処に行けばいいのか、わからない。
だから私は、夜を歩いていた。

