羽ばたきの意味

 純の向こう側に見える、夜のしじまは群青が折り重なって、遥か彼方まで続いているように感じる。けれど今、昨日までのキンとした冷たい寂しさが、みるみる溶けていくような感覚がして、私は瞳を瞠って純を見つめた。
 純の膝がかくんとおられて、優しい腕が、冷えた身体を包み込んだ。純のこの、優しい腕の中に、いつまでも居られたらと願う自分も確かにいるけれど、逃げ出したいと思っていたのも本当だった。それでも、抱きしめられた腕の暖かさは、私を心ごと包み込んでくれる。

 ずっと甘えてばかりいた。純がまっすぐに見つめてくれるのに、逃げてばかりいた。自分が傷つきたくないばっかりに、目を瞑ってばかりいた。いままでもずっと。これからもきっと。私は本当の気持ちなんて、言えない。
 それでも純は、こんな馬鹿な私でも、良いと言ってくれる。
「馬鹿だね」
 私の憎まれ口に、純が小さく頷いた。
「ほんと、馬鹿だと思うよ」
 泣き笑いの表情を、純の胸に埋めて、私は言った。純が、くすりと笑ったのが、わかった。

 一方的な毎日は容赦なく過ぎて、私を巻き込んでいく。かわし方を知らない私は、否定することしか出来なかった。自分に与えられる何もかもを。

 臆病で卑怯で、醜く無様な、私。自分が傷つくことだけに敏感な、ずるい生き物。そんな私が望んだのはきっと、このぬくもり。この言葉。私は私で居て良いんだと、誰かにそう言って欲しかった。そして純は、その言葉を、心ごと、私にくれた。嬉しかった。でも、哀しかった。受け入れる痛みに負けて、本当が言えなくなる自分を、知っているから。

 本当は、全部わかっていた。

 いつかの未来が訪れて、思い返す日々が今日であったら、きっと想い出は哀しいくらい綺麗だということを。今まで持っているどれよりも、眩く煌めくだろうことを、知っていた。
 だから、ずっと、待っていた。今日の日を。
 でも、それを知っていると認めてしまうのが怖かった。だってもしも、この思い出まで汚く濁ってしまったら、きっと私はもう、明日を生きられなくなってしまうから。

 でも、でもね、純。少しだけ、時間をくれる?
 今はまだ、素直に頷くことも出来ない私だけれど、ほんの少しだけ、待っててくれる?

 もう少し、もう少しだけ、強さを手に入れるまで。もしも時が過ぎて、いつか純を失うことになっても、笑って見送れるようになるまで。別れる寂しさに負けて、出会ったことまで悔やんでしまうことのないように、純との思い出が、ずっと、ずっと、きらきらしたものであるように。そんなふうに思えるくらい、きっと私、強くなるから。

 羽ばたくことの意味を、生まれて初めて、知ったような気がした。

 泣きながら、私はたった今、生まれたばかりの雛のように、濡れたままの小さな羽を動かしていた。パタパタと、弱々しくぎこちなく。今はまだ羽ばたけない、重い翼。小さすぎて使えない翼。でも、いつかこの頼りない翼が、私を青空に連れて行ってくれるんだと、初めて信じることが出来た。
 ゆっくりと瞼を閉じて、私は私の鼓動に耳を澄ませる。とくとくと刻まれる鼓動が、少しずつ、はっきりと、聞こえてくる。

 ふたり並んで、真夜中の河辺。遠くの山並みが、葡萄色に変わっていくのを、私達は身じろぎもしないで見つめていた。菫青の空は、やがて昇り始める太陽に、その青を濃くしていく。光の粒を撒き散らす朝焼けが、ふたりの頬を、優しく照らし返す。

 陽射しのもと、空気中の水分は存在を留めるために、太陽の光を受けて輝きだしていた。(了)