羽ばたきの意味

 いくつもの言葉を飲み込んだまま、歩き続ける夜の道。

 通いなれた中学校までの通学路は、土手から見下ろす川面に月がさざめいて、まるで夢の中の一場面のように揺らいでいた。
「……ごめん」
 長い沈黙の後、純が口にした言葉はあまりにも唐突で、私は思わず問い返す。
「何が?」
 見上げた純は、頼りない空気を纏っている。
「なんか、謝りたかった。俺、問い詰めるような口のきき方した。だから……」
 ビックリしたよね? なんて笑って聞くくせに、その笑顔が寂しそうで、たまらない気持ちになって、私はゆるく握られた指先を解いて、川岸に広がる芝生の上に腰をおろした。離れた指先が、瞬く間に凍えていく。
「純ちゃん」
 背中越しに、呼びかける。子供の頃の、淡い思い出のまま。
「私のほうこそ、……ごめん」
 背中に感じる視線に、今にも涙がこぼれそうな気がしたけれど、それは気のせいだった。涙は、生まれなかった。不安な夜に取り残された心は、今、誰を求めているんだろう。
 背中に、視線を感じる。言おうか言うまいか、悩んでいるだろう純の表情が、はっきりと、瞼の裏に浮かぶ。
 誰も居ないその場所はただ静かで、無理をして話す必要も無く、苦痛ではない沈黙があった。ずっと昔から、大切にしていた空気が思い出されて、胸が痛んだ。

「俺、さ、」
 ぽつんと放たれた純の声が、潤んでいるように聞こえた。
「いまさらなんだけど、ずっと、美香のこと、好きだったよ」
 薄い硝子で出来たシャボン玉が、パリンと、胸の中で弾けたような気がした。
「だけど、俺にはまだ何もないから、美香が望むことを知っても、どうしてやることも出来ないから、……言えなかった」
 きっと純は知っている。私の家の全て。粉々に壊れてしまった私の全て。ずっとずっと傍にいて、隣にいて、何もかもを知っている。私が今すぐにでも、逃げ出したいと思っていることまで。
 そのことを、私は、知っていた。知っていて、そのことに甘えていた。だって純はいつも、決して拒みはしないまま、一歩離れたところから、私を見ていてくれたから。
「私なんか、好きになっても、痛いだけだよ」
「うん」
「私は、好きになっても、どうすればいいのか、わからないから」
「うん」
「私なんか好きになったら、純はいつかきっと、酷い目にあうよ」
 言いながら、とうとう涙が零れた。ぼろぼろと、立てた膝の上に零れていく。

「美香に、なにかして欲しくて、好きになるわけじゃない」
 後ろ向きのままで聞く、純の声が優しい。
「ただ俺は、もうずっと長いこと、美香が好きなんだ」
 何かを諦めたような声音。
「月日がたてば、俺も変わるし、美香も変わる。だからこの気持ちも、いつか消えると思ってた」
 ほっと息を吐き出す音が、聞こえた。
「でも美香が、他の誰かを本気で好きになって、そのせいで哀しんでることを知っても、それでもこの気持ちは変われなかった」
 淡く笑んでいるような純の声が、藍の闇に透き通って溶けていく。
「馬鹿みたいだろう? それでも俺は、美香が好きなんだ」

 思わず振り返って、純を見上げた。
「私のことなんて、何も知らないくせに」
 何かが、堰を切って溢れていく。
「私の気持ちだって、何もわかってないくせに」
 何も知らない? そうは思っていないくせに、私は頑是無い子供のように、同じ言葉を連ねていく。
「うん」
 それなのに、純があまりにあっけなく頷くから、私は言葉を継げなくなる。
「美香は俺に、いつもはっきりとは言ってくれないから、俺は美香のこと、きっと本当には知らない」
 そう言った純の顔は、いつもとかわらなかった。卑屈でもなく、哀しそうでもなく、普段と少しもかわらない表情をしていた。
「でも、そんなこと、俺には関係ないんだ」
 そして、臆面もない笑顔になって、
「たとえばそれが、美香の一部分でしかないとしても、俺は美香を知っている」
 嬉しそうに言った。そして、
「身勝手な話だよ。でも、俺にはそれで充分なんだ」
 満足気に、ほっとしたように、頷いた。