羽ばたきの意味

 私の隣には、いつも同い年の幼馴染がいた。

 家に帰りたくなくて、でも、誰かと何処かに遊びにいけるくらい、気持ちが楽じゃない時。そんな日は、自分のことをよく知っている……、きっと知っている、彼の部屋にいた。
 彼の名前は、純。
 私はずっと彼のことを、「純ちゃん」って呼んでいた。彼の名前を初めて呼び捨てにしたのは、私が初めての恋を失くした日。その日のことは、ぼんやりとしか思い出せない。ただその日は、夕焼けが、怖いくらい綺麗だった。そのことだけ、憶えている。
 
 恋はあまりに突然で、私は自分の気持ちが理解できなかった。

 ただ、目が離せなかった。ただ、鼓動ばかりが響いていた。抱きしめられて、耳に響くような鼓動が、自分のものなのか、彼のものなのか、それすらわからない。ただ、その腕の中で感じる陶酔は眩暈のようにおしよせて、なにもかもが見えなくなった。その人しか、見えなかった。心の振り子の波動が強すぎて、いつも振り落とされそうだった。自分の感情に、自分がついていけなくて、心はいつも子供のように地団駄を踏んでいた。素直になれるだけの強さが持てなくて、優しい言葉ひとつ言えなかった。喧嘩して、仲直りして、喧嘩して、仲直りする。馬鹿みたいに同じことを繰り返しながら、意味さえわからない想いを育て続けていた。恋なんて、たった一瞬の麻疹みたいなものに、一生懸命しがみついていた。

 その人と初めて言葉を交わしたとき、私は身体の奥底で「ポン」と、何かが弾ける音をきいた。

 入学式直後の教室は、雑多な人影がぎこちなく交じり合っていた。同じ中学からの友人を見つけられなかった私は、見慣れない制服の波に入っていけなくて、出席番号順に並べられた自分の席に座っていた。
 その時、不意に視界が真っ黒に鎖されて、ドスンと大きな音がした。パチリと瞬く間に、真っ暗になった視界が、今度は空色に染まった。それが、見るともなく眺めていた外の景色だと気づくのに、数秒かかった。
「ごめん、びっくりした?」
 人懐っこい声をたよりに見下ろす瞳は、きっと驚きに瞠られていた。だって、その瞳いっぱいに、満面の笑みが飛び込んできたから。その笑顔が眩しくて、私は声も出せないまま、ただぷるぷると首を横に振った。
「ドンくさぁ!」
 教室の後ろのほうに陣取っていた、数人の男子グループが明るく囃し立てている。私の足元に倒れこんでいたその人は、立ち上がって私の横を通りしなに、ポンと軽く、私の肩にふれた。私の肩が一瞬、ふわりと熱を持った。
 先生が教壇に立った時、その人は私の隣に座った。私の心臓が、とくんとひとつ大きく跳ねた。とくとく、とくとく。心臓が、ゴム鞠のように弾んで、鼓動で視界が揺れていた。私は小さな眩暈を繰り返しながら、その人の隣にいた。
 触れられただけの肩が、また、熱くなった。熱くて、熱くて、そこから何かが溢れ出てしまいそうに、ズキズキしていた。でも、そのあふれだそうとするモノがなんなのか、わからなかった。ただ、いつまでも消えないその熱は、熾き火のようにちりちりと、肩のずっと奥で燻っていた。

 わけのわからない気持ちが通り過ぎるまで、放っておいて欲しかった。でも、「毎日」は変わらず来てしまうから、熱に浮かされた頭のまま、また、その人に逢ってしまう。冷め切れない熱は、私の中でどんどんどんどん、湿度を高めていった。
 何もかもが目新しい毎日の中で、私は数人の女子グループに混ざり、隣の席のその人を含む男子グループと、よく話をするようになっていた。そしてゴールデンウィーク明けてすぐ、私はその人から告白された。

 呼び出されたのは、陽射しが燈色に散らばる屋上近くの踊り場。放課後の、どこか気だるい陽光が、オレンジの欠片を含んで、甘酸っぱく胸を疼かせていた。
「俺、美香のこと、好き、みたいなんだけど」
 冗談交じりの告白。
「だからさ、付き合って、くんない?」
 軽い誘い。その問いかけに、私は反射的に頷いていた。
 弾かれたようにコクンと首を縦に振った私を、その人は驚いたように見つめて、次の瞬間、照れくさそうに笑った。その笑顔は、初めて逢ったあの日と同じ、無邪気で、小さな子供みたいに綺麗だった。

 ふわふわと、宙に浮くように軽やかな毎日は、とても楽しかった。
 優しい声に目覚める朝のように、瞳に映る何もかもが眩く煌めいていた。モノクロばかりだった毎日が、仄かな光を帯びながら、淡い薔薇色に色づいていった。
 皆でいても、その人の隣は私のために空けられて、いつも傍にいるのが当たり前になって、ふたりの距離がどんどん縮んでいく。ふざけて抱き合うだけで、熱くなる身体を持て余していた。指先に触れるだけで逸る鼓動に、溜息していた。でも、触れ合うだけで戸惑っていた指先が、握り締められ、やがて絡み合うようになるまでに、それほど時間はかからなかった。私達はわずかに許される時間を掻き集めながら、ふたり寄り添いあっていた。たくさんの愛から離されて、互いしかいなくなってしまった、まだ母親が恋しい仔猫のように、抱きしめあって眠っていた。