祖母の通夜と告別式の二日間、優菜は学校を休んだ。
次々と家を訪れる顔と名前の一致しない親戚にお茶を出したりしていると、多少は気が紛れた。
「大きくなったわねえ」とか「大学はどこに行くの?」とか聞かれるのには辟易としたけれど。
でも祖母のために最後に会いにきてくれたのだと思うと、無下にはできない。
お棺の中にいる祖母は、まるで眠っているようだった。あの、木のぬくもりを感じさせる緩和ケア病棟の病室でうとうとしているときと、ほとんど変わらない。話しかけたら目を開けてくれるんじゃないだろうか。何度もそう思ってしまって、優菜はひとりぽつぽつと話しかけた。
でも、返事はない。どれだけ声をかけてももう目を開けてくれない。
話しかけるたび、何度も同じことを実感してしまって、優菜は震える唇を噛み締めた。
斎場から戻るとき、まだあたたかい骨壷は優菜が抱いていた。
たまたま広い後部座席に座ったのが優菜だったから、という理由だけど。抱えられるくらいの大きさの箱に祖母が収まってしまった。とても信じられないのに、生々しささえ感じさせるぬくもりが、優菜の呼吸を浅くさせる。
家に帰ってからも泣いて、泣いて。真っ赤に充血した目が、腫れて開かなくなってしまうのではないかと不安になるくらい涙が止まらなかった。
それでも、告別式が終われば、日常に戻らなければならない。
祖母はずっと入院していたから、家のなかは何も変わっていないはずだった。
それでもどこかがらんとしてしまったような家で、制服に着替え、なんとか朝食を少しだけ口にして、家を出た。
当たり前だけど、通り過ぎるひとは、誰も優菜が大事な祖母を失ったことを知らない。けれど優菜もまた、今、目の前を横切ったひとに何があったのかは知らないのだ。
そんな当たり前のことを改めて感じながら、学校へとたどり着く。朝食をまともに食べなかった分、いつもよりだいぶ早い時間に着いた。校門をくぐる生徒はまだまばらで、どこか日常に戻りきれていない感覚になる。
この二日間で優菜の日常は大きく変わったから、そのチャンネルがぴたりとはまっていないような気がしてしまう。
教室に入った瞬間、自分の席に座って頬杖をついている遥馬の姿が、優菜の目に飛び込んできた。
珍しい様子に、どきりと胸が鳴る。これまではホームルームの始まるぎりぎりに登校してくるのが常だった。まだ教室には遥馬と、数人しかいない。
いったいどうしたのだろう。気になったけれど、どうすることもできず優菜はこっそりと遥馬を窺い見た。
と、いつも遥馬を守るように、机の脇に寝かせられていた松葉杖がなくなっていることに気づいた。
少しずつ、けれど確実に良くなっていることに安堵する。しかしその一方で遥馬の表情はまったく晴れていないことが気に掛かった。だけどやはり喋りかけることなんてとてもできず、優菜はどこか居心地の悪い気持ちで自席に座った。
しばらくすると、仲の良い友人たちが続々と登校してくる。休む前と変わらず話しかけてくれる友人たちの存在がありがたい。下手に気を遣われると思い出してしまうから。
「あ、そういえば今日の数学、小テストだって」
「え、うそ……!」
友人のひとりの言葉に、優菜は思わず声を上げた。
数学は一時間目だ。今から公式を見直したって、とても間に合いそうもない。せめて昨日のうちに知っておきたかった。
とはいえ、忌引きで休んだ優菜に、「明日小テストだよ」なんて連絡を送りづらいのはわかるから、文句は飲み込むことしかできない。
「えー、どうしよう。やばいかも……」
小テストで赤点を取ると、課題のプリントが出されるのだ。問題数の多い厄介なその課題は避けたかった。
優菜は慌てて机の中から教科書とノートを取り出した。ふと、手に何かがぶつかって、はらりと落ちてきた。
それは、見覚えのあるファイルだった。ラメ入りのサッカーボールのシールを貼られている。
えっと洩れかけた声を呑み込む。
優菜が遥馬にノートを渡すときに使っていたファイル。渡すだけで返ってくることがなく、何枚か持っていたものはもう優菜の手元にはないはずだった。仕方なく最近はルーズリーフをそのまま机に入れていた。だからそれは、久々に優菜の手元に戻ってきたファイルだった。
首を傾げる。中に、紙が入っていた。ルーズリーフではない、ノートを破ったような――。
え、っと息を呑んだ。それは優菜が休んだ二日分のノートだった。
知らず、口を手で覆っていた。自分の唇が、カサカサに乾いている。
見間違いじゃないだろうかと疑って。
それでも間違いないと確信する。少し右上がりの、細い文字。
書かれているのは、遥馬の字だった。
*
「順調そうだな!」
クラスメイトの男子が、馴れ馴れしく遥馬の肩を抱いた。
つい先日まで、遥馬の存在をまるでないものとして扱っていたような態度を取っていたくせに、と内心毒づいてしまう。側から見ていてもそう感じるのに、遥馬は静かな笑みを浮かべると、そっとその腕から抜け出た。
その態度に拍子抜けしたのだろうか、興味を失った男子は別の友人を見つけて遥馬から離れていく。
最近、こんな風に遥馬が他人に絡まれているところをよく見かけるようになった。
皆、松葉杖が外れて話しかけやすくなったのだろうか。
元々人に囲まれていた遥馬らしい、といえばそうなのだけれど、優菜は素直に喜べなかった。
『良くなってんだろ』
『選手権予選には間に合いそう?』
そんな質問を投げかけられるたび、遥馬の表情は凍ったように固まっていた。
間に合わないのかもしれない。
優菜はそう察したけれど、まわりはそんなこと微塵も思っていないようだ。
『遥馬だったら、超人的な回復力でなんとかなったりするんじゃない?』なんて、祈る気もない安易な言葉が耳に入るたび、優菜の胸はキリキリと痛んだ。
そして楽観的な雰囲気を醸し出すようになった周囲に反論するように、遥馬はまだ部活に出ていなかった。その証拠に、休み時間のたびに玲がやってきては、リハビリはどこまで進んだのか、と細かく確認している。
玲は遥馬のために、怪我の症状やリハビリについてよく調べているようだった。今、どのくらい負荷をかけられるのか、なんて優菜が聞いてもまるでわからない会話を交わしている。
「今日は病院? じゃあ明日は部活出れる?」
玲が勢い込んで聞くと、遥馬はまた無表情になって視線を逸らした。
そのまま教科書に目を落とした遥馬に、玲のため息が響いた。毎日のように同じやりとりを繰り返している。どれだけ冷たい態度を取られても、変わらず言葉をかけ続けられる玲は偉い。
「なによ?」
じっと見ていたからだろうか、教室を出て行く途中、優菜の前で玲が足を止めた。
「何でもないよ」
慌てて目を逸らす。露骨な態度を取ってしまったせいか、玲は優菜の前でも大きなため息をついた。
「深澤さんからも言ってよ。部活出なって」
「え……?」
「私たちが何言っても聞いてくれないけど、深澤さんの言うことなら聞くかもしれないから」
「そんなこと……」
構うな、と言われているのだ。優菜の言葉なんて、遥馬にとってなんの意味もないだろう。聞いてくれるとは思えなかった。
唇を噛み締めた優菜を見て、玲はわざとらしく肩をすくめる。
「まあいいけど」と言って教室を出ていく。玲の後ろ姿を、優菜は慌てて追った。
「あの!」
廊下に出た瞬間、背中に声をかける。振り返った玲は怪訝そうな顔をしている。無理もない。
これまで、優菜から話しかけたことなんて一度もなかった。
制服のスカートをぎゅっと握る。プリーツに皺が寄った。
「ごめん。その、私からは……宮代くんに部活出てって、言えない」
「はあ?」
玲は眉間に皺を寄せた。
そのまま、こちらに距離を詰めてくる。優菜はますます手に力を込めて、
「私、もう構うなって言われてるの」
遥馬にこの前突きつけられた言葉。思い返すだけで胸の奥に冷や水をぶっかけられたような気持ちになる。
目の前までやってきた玲が、「え?」と顔を顰めた。
「何それ」
「わかんない。でも多分、余計なことしてほしくないんだと思う」
自分のしていることは、余計なことでしかないのだ。
口にするとはっきり突きつけられる。
サッカーを何より大事に思っている遥馬の助けには、全然なれない自分、という存在を。
「余計なことって……」
玲は大袈裟なほどはっきりため息をついた。
「私、最初深澤さんのこと気に入らなかった」
はっきりした物言いに、思わず顔を上げた。それでも玲の顔には怒りも苛立ちも見えない。
「宮代に献立考えたり、お弁当作ったりしてたでしょ。ああいうのやられると、マネージャーとしては困るの」
「ごめん……」
そう思われていることを、危惧しないわけではなかった。
だけど――。
「あ、誤解しないでよ。別に怒ってるわけじゃないし。困るっていうのも……ああ、本当は私たちがやるべきだったのに気づかなかったってハッとしただけ」
「え……?」
「強くなるためなら当たり前じゃん。栄養管理って。寮の学校なんかは当然やってるわけだし。でもうちの――私たちマネージャーはやってこなかった。ていうか、気づきもしなかったんだよ。だから、仕事を取られた。それが悔しかった」
「そんな――」
たまたま優菜が遥馬と話して、親しくなったから何かしたいと思っただけで、『仕事を取る』なんて、そんな大層なことを考えていたわけじゃない。
「わかってる。そういうつもりじゃないんだろうなって思ったけど、だから余計に堪えたの」
玲はそう言うと、腕を組んだ。長い指がトントントンと肘を叩く。
「だからそれから、できることを探してる」
ふっとその言葉は胸に飛び込んできた。
そう言われて、初めてきちんと玲のことを正面から見つめる。
すると玲が抱えている本のタイトルがちらりと見えた。
『リハビリ』『膝』『怪我』
その瞬間、思わず玲の顔を見る。
優菜の視線を振り払うように、玲は息をついた。
「私たちマネって、『これやって』『あれやって』って言うのが仕事みたいなところがあるから。それはわかってるんだけど。でもさ、さすがにこの状況は……それだけじゃ、つらいよね」
玲はそう言うと、小さく唇を歪めた。
玲の言葉を優菜は黙って聞いていた。
すると今度は、玲が強く優菜を見つめた。
「じゃあね」
そんな優菜に構わず、玲は踵を返した。立ちすくんでいる間に、玲はあっという間にグラウンドの方へ飛び出していく。
その背中を見ながら、優菜は改めて「自分に何をできるのか考えろ」と突きつけられている気がした。
優菜の家には仏壇がない。
深澤家に同居することになったとき、祖母が処分したのだという。だから祖父の位牌と、祖母が大事に持ち運んでいたという優菜にとって曾祖父曾祖母の位牌は、祖母の部屋にあった。祖母が使っていたチェストの上に、線香と共に飾られていたのだ。
主人のいなくなった部屋に入り、真ん中にぽつねんと座り込んで、優菜は並んだ位牌を見上げた。祖母の骨壺も並べて置いたから、チェストの上はぎゅうぎゅうに詰まっている。
最初、お骨だけはリビングに置こうと話していたけれど、結局みんな一緒の方が安心するのではないか、と言ってこの部屋に置くことになった。
位牌の前には小さな湯呑みが置いてあって、祖母が家にいた頃は毎朝水を取り替えていたことを思い出した。祖母が入院してから誰も触らなくなってしまったから、久しぶりに覗いた湯呑みの中の水は干上がり、中はほこりだらけだった。
きちんと毎日水をかえて、手を合わせていたら、こんなに早く連れていかれることはなかったのだろうか。祖母がしてくれていたように、毎日家の空気を入れ替えて、部屋をきれいに保っていたら? もっと強く、ここに帰りたいと思えるようにしていたら?
終末期の長さは変わっていたのではないか。
考えても仕方ないとわかっているのに、どうしてもそういったひとつひとつの、迷信じみたことが思い浮かんでしまう。
祖母の部屋は畳だ。毎日押し入れから布団を出して寝ていた。今思えば重労働なのに、手伝うこともしなかったな、とまた反省が思い浮かぶ。
優菜はごろんと畳にそのまま寝っ転がった。
天井の木目の曲線を眺めていると、視界がぐにゃりと歪み始めた。
込み上げてくる涙を堪えて目を閉じると、ここ三日ほどのことが克明に思い出された。
祖母の亡骸は家ではなく、直接葬儀場に運ばれた。幸か不幸か、予約が取れてすぐに火葬ができるから、と葬儀屋さんに言われたとき、それは喜んでいいのだろうか、と優菜は真剣に考えた。もちろん、早い方がいいのだろう。頭ではわかっている。
母の親族は遠方に住んでいてすぐには駆けつけることができず、父と相談しながら、ひとつひとつのことを母が決めていくのを、優菜はぼんやりと眺めていた。
祭壇の大きさ、花の種類や数、香典返しは何にするか、精進落としは何人分用意するか――そんなお金と見栄えを気にした話し合いが延々と続いているなか、優菜は祖母の棺をぼんやりと眺めていた。
棺の窓を開けると、まるで眠っているような祖母の顔が見える。何度眺めても今にも起きるのではないかと思ってしまい、そのたびに涙が溢れた。
「優菜、お祖母ちゃんの写真ある?」
真剣な顔で話し合っていた母が、棺の横までやってきて優菜を見た。
「写真?」
「そう。遺影に使う用の写真。アルバムはだいぶ古い写真しか残ってないから。今はデータでも良いんだって」
「待って。ある、と思う……」
優菜は制服のポケットからスマホを取り出して、写真フォルダをスクロールした。
お見舞いに来たときに中庭で撮った写真が何枚か出てきた。病室で、手術前に撮った写真も。それから入院するずっと前、家でおふざけ半分に撮ったものもある。
「ある程度、元気なときの写真がいいわね」
「去年のお正月のとかあるよ」
新年だから、とアイロンのしっかりかかったブラウスを着て、化粧もしている。祖母はそういうひとだった。優菜も「新年なんだから、きちんとした格好をしなさい」と言われたっけ。だからスウェットじゃなくて、朝からお気に入りのワンピースに着替えたことを思い出す。
なんで、こんなに好きだったのに、一緒に謎解き行くのを嫌がっちゃったんだろう。写真を見返せば見返すほど、後悔だけが浮かんで、頬を伝った涙が制服に染みを作った。
告別式を終え、お骨をチェストの上に置いた母は「この部屋も片付けないといけないわね……」と呟いた。
母の祖母への態度がずいぶん冷たいと思っていた。仕事と祖母だったら、仕事を選ぶんじゃないか、と思ってしまうくらいに。
けれど出棺が迫り、棺の蓋を閉める時になって、「やめて……閉めないで……」と母は棺に縋りついた。ほとんど泣いていなかった母が、ぼろぼろと涙を流している姿を見て、本当に祖母の姿形が消えてしまうのだ、と優菜は唐突に実感した。
母は親戚に抱えられ、棺から引き離された。しかし「最後まで見ておかないと後悔するから」と父が母を支えながら顔の近くに連れていった。優菜も手招きされ、ふたり並んで、顔の真横で棺の蓋が閉められるところを見守った。
ごと、と世界が分かれるような重い音が響いた。
あの音が、今でも頭のなかで鳴っている。
「まだ、いいんじゃない?」
その音を振り切るように、優菜は言った。
「え?」
「そんなに早く片付けなくたって」
「……そうね。四十九日が終わるまではお骨もあるしね」
言い聞かせるように、母は意味もなく箪笥の開け閉めを繰り返した。
優菜は洗濯物を持って病院に通っていたから、どこに何が入っているのかだいたい理解していた。
祖母が嫁入り時から使っているという、今では見かけないほど重厚なつくりの箪笥は、最上段にほとんど使わない他所行きの服が入っている。
「取り出しにくいからここに移したのよ」と、入院前の祖母がさりげなく言っていたことを思い出した。あの頃にはもう、お洒落をして出かけるつもりがなかったのかもしれない、と思うと胸が痛んだ。
祖母の棺の中には、途中まで解いてあった数独の問題集を入れた。よく使っていた、お気に入りのボールペンと一緒に。これで向こうで祖父に巡り会うまで、暇になることはないと思う。
謎解きの本は、入れられなかった。
病室のデスクに置いてあった本が消えていることに、母は気づいたかもしれない。けれど何も言われなかったから、あの本は中のメモと一緒に、ずっと優菜の手元にある。
優菜はそれを肌身離さず持ち歩いていた。
たまに解いてみようかと問題文を読むけれど、解答の糸口さえ思いつかないまま時間だけがすぎていく。
ヒントの文章や図形を見ても、何をどう考えれば良いのかわからない。
楽しそうに解こうとしていた祖母を思い出しては、微かに笑みが溢れる。けれどそれ以上に、できなかったことばかりが頭を過ぎってしまうのだった。挟まれたメモを見返して、やっぱり後悔が込み上げてくる。
来週からようやく梅雨が本格化します。いよいよ雨が続くでしょう――そんな天気予報を聞いて、優菜は帰り道、ふと思い立って病院へと足を向けた。
当然だが、祖母の死以来訪れていない。
本来、用もないのに立ち入って良い場所ではないが、病棟には入らないから、と心の中で謝ってバスに乗り込む。
もうすぐ面会時間も終わるせいか、車内は誰もいなかった。院内のバス停に着き、運転手から少し目を逸らして「ありがとうございました」と言って降りた。この運転手が、優菜はただの部外者だ、なんて知るはずもないのに。
案の定、バスの運転手は「ありがとうございましたー」と平坦な声で言った。ほっと安堵して優菜が地面に降り立った瞬間、背後の扉が閉じる音がした。
優菜はそのまままっすぐ中庭へと向かった。途中、緩和ケア病棟を通り過ぎる。祖母のいた病室に面した道を通るとき、どうしても病棟を視界に入れることができなくて、じっと俯いたまま足だけを進めた。
中庭には、ほとんど人はいなかった。白衣を着た医師が足早に通り過ぎていったけれど、気分転換に散策するひとも、リハビリがてら歩くひともいない。
それでも真ん中の青々とした芝は、強い西陽に照らされてキラキラと光っている。
歩道のところどころに点在しているベンチのひとつに、優菜は腰掛けた。
芝の上には、花壇や生垣があって、濃い緑の葉の合間から、赤やピンク、白い花が覗いている。
散歩の途中、白い花の咲く木を見て「梔子だわ」と祖母が嬉しそうに言っていたことを思い出した。
「もう少ししたら良い香りでいっぱいになるわね」と。
あたりを見回すと、今は青々とした葉を茂らせている金木犀もあった。梔子といい金木犀といい、香りの強い花を咲かす木を植えているのは、病院独特の消毒液のような匂いを消すためなのかもしれない。
確かに嫌だな、と思った。
祖母との思い出で浮かぶ香りが、消毒液の匂いなのは、嫌だ。
ささくれた木の感触を感じながら、優菜の両手はベンチの座面の縁を掴んだ。
唐突に、気づいてしまった。こうして祖母と過ごした場所にいても、頭のなかに浮かぶ顔も、会話も、声も、全部だんだんと朧げになっていくことに。
あの時、交わした言葉を、もう正確に思い出せない。
言い様のない寂しさに襲われたとき、白くざらついたコンクリートの歩道を、向こうからゆっくりと歩いてくる人影が見えた。
一歩ずつ、確かめるように近づいてくるひとを見て、優菜は息を詰めた。
まっすぐに前を見据えて、遥馬がこちらに向かって歩いていた。
◆
一歩進んでは二歩戻るようなリハビリに、遥馬の気持ちが空回っているのを察したのか、理学療法士が「使ってみようか」と差し出したのは、サッカーボールだった。
椅子に座る遥馬の足元目掛けて転がされたボールを、咄嗟に足裏でトラップする。正確にはトラップというほどでもない、かすかに触れて、ボールの動きを止めただけだ。
それでも、足裏に覚えた感触に、遥馬の全身は総毛立つような衝撃を覚えた。
ボールだ。
当たり前のことを思う。
大きさ、硬さ。膝を直角に曲げられないから、自分よりだいぶ手前で止めたけれど、それでも足を上げなければならない高さは身体が覚えていた。
「足裏と、足の内側だけを使って自由に転がしてみて」
理学療法士に言われた通り、遥馬はボールをころころと転がし始めた。座ったままだから、ほんの狭い範囲でしか動かせない。それでも触れると足裏に吸い付くような感覚は変わらなかった。
調子に乗って、右足の甲にボールを乗せてみる。これまでだったら、ここから高く蹴り上げてリフティングを何度も続けることだってできた。
「待って」
理学療法士の鋭い声が飛んだのと同時だった。
ゆっくりと右足を持ち上げたはずだった。
膝の後ろに、ひびが入るような衝撃が走った。
「え」と声が漏れた。
ボールが重い。跳ね上げるどころか、持ち上げることもできなかった。
バランスを失った足から転がり落ち、ボールはころころとリハビリ室内を転がっていった。
やがて壁にぶつかって、鈍い音を立てる。そのまま止まった。
遥馬は椅子を強く握りしめていた。
まさかあんなに軽い球体の重さに苦しむなんて、想像もしていなかった。
「なんで……」
掠れた声が漏れる。ドンドンと拳で太ももを叩いた。
戻れ、戻れ、戻れよ、戻って――。
太ももを叩いていたはずの手はいつしか座面を叩いていて、室内には鈍い音が響いていた。
◆
なんと声をかけるべきか、迷った。迷っているうちに遥馬は優菜の目の前まで辿り着いていた。横目で、しばらく見下ろされる。
今日もまた、感情の見えない目をしていた。しかしふと気づく。遥馬は、小脇にサッカーボールを抱えていた。
優菜の視線が吸い寄せられるようにボールへ向かう。するとそれに気づいたのか、遥馬はまた一歩優菜に近づいた。まだ遠目にも右足を庇っているのがわかってしまい、優菜は思わず目を逸らした。
しかし遥馬は躊躇いなく近づいてきたかと思うと、優菜の右隣に座った。
「……っ」
座るときに一瞬膝に力が入ったのか、痛みを堪えるような息が響き、優菜は慌てて距離を詰めた。
「だ、大丈夫?」
「……ああ」
ちらりと優菜を見て、遥馬は頷いた。
そのまま正面に向き直り、ボールを足元に落とす。
とん、とんとん、とボールが地面を鳴らす乾いた音が響いた。遥馬は足先でボールを一度止めると、足の間で転がし始めた。わずか三十センチにも満たない両足の合間を、サッカーボールが行き来している。
やがて遥馬は右足で少し強くボールを押した。遥馬の左足はそれをスルーして、ボールが優菜の目の前までやってくる。
「え……」
勢いは殺されているとはいえ、真っ平ではない歩道だ。そのまま優菜の前すら通りすぎていってしまいそうなボールに、慌てて足を伸ばした。
遥馬を見ると、「ん」と左足をパタパタと動かしている。
誘うようなその動きにつられ、優菜は左足で軽くボールを蹴った。ほとんど触ったことのないサッカーボール。左足で触ったのは初めてかもしれない。といっても軽く押した程度だった優菜のボールは、緩やかに跳ねた。不規則なバウンドで移動していくのを、遥馬の右足に止められた。
そしてまた、優菜の足元にボールがやってくる。まったく動く必要のない、優菜の右足の目の前だった。それを左足に変えてまた押し出す。そんなことを何度か繰り返しているうちに、優菜の息は上がっていた。動いてもいないのに、意識を集中するだけでずいぶん神経を使ったようだ。
そのわりに優菜の蹴ったボールは、遥馬のずいぶん手前で止まったり、通り過ぎてしまいそうなほど強かったり、とさんざんだった。遥馬は弱いボールは右足で止め、勢いのついてしまったボールは左足で止めていた。蹴り返してくるのは必ず右足だったけれど、どれも毎回ぴたりと優菜の目の前までやってくる。
「当たり前だけど、上手いね……」
思わず呟くと、遥馬は息を緩めた。
「これ、上手いとか下手とかないし」
「いや、でも私は下手だよ」
「……確かに」
正直に頷かれ、優菜は遥馬を見上げた。すると目が合った。やがて少しだけ気まずそうに、遥馬は視線を宙へ向ける。
「ノート、ありがとう」
そう伝えると、遥馬はびくりと肩を揺らした。よりいっそう目線を逸らされる。
「それを言うなら、俺のほう」
きょとんと目を瞬かせる優菜を見て、遥馬は呆れたような表情を作った。
「持ってきてくれてたの、そっちじゃん」
「あ……」
そっか、と言うと、堪えきれないと言ったふうに遥馬がふっと息を洩らした。
「お礼、するから」
「え?」
「今なら時間あるし」
「時間あるって……リハビリ、忙しいでしょう?」
遠慮がちに問うた優菜に、遥馬は緩く首を横に振る。
「やりすぎても良くないから、前よりは全然ある」
「……そう、なんだ」
「そう。やりすぎると怒られるし。何がいい?」
「なにがって……別にそんなの」
自分がしたくて、しなければ、と思って勝手に続けていたことだ。
何もいらない――そう言おうとして、優菜は腕のなかの本に気づいた。
「あのね、お願い、やっぱりあるかも」
「なに?」
「時々、で全然良いんだけど、一緒に謎解きしてほしい」
「……は?」
遥馬が眉間に皺を寄せて、優菜を見下ろしている。
「これ、私まったく解けないの」
優菜は手元の本をぺらぺらとめくってみせた。覗き込んできた遥馬も顔を顰めている。
「俺も、全然わかんないけど」
「うん。でもいいの。あと、おにぎり一緒に食べてほしい」
探るような視線を向けられる。遥馬は何かを言いかけて、「わかった」と頷いた。
「ありがとう。宮代くんは? してほしいこと、ある?」
「別に……」
特にない、と言いかけたらしい遥馬が、動きを止めた。
「何もしてほしくない」
「え……?」
「何もしないでほしい」
じっとこちらを見据える瞳は、瞬きひとつしていなかった。
遥馬にしてあげられることなんて、本当になにひとつない。
慰めの言葉も励ましの言葉も、なんの意味もない。
そう改めて思い知る。でも、それは口にしなかった。
「わかった」
優菜は、静かに頷いた。
はらりと、開きっぱなしだった手元の本からメモが落ちた。
慌てて拾い上げる。祖母の、最後の文字が記されたメモ。
謎解きの予定の裏には、日付と文章が書かれていた。
部屋は居心地が良くて、気持ちよく過ごせそう。今日も学校が終わったら優菜ちゃんが来てくれた。
ずっと眠くて昼寝をしてしまった。せっかく優菜ちゃんが来てくれたのに。
今日も優菜ちゃんが来てくれた。おやすみなのに。
優菜ちゃん来た。
ゆうなちゃん、きてくれた。
ゆうな きた
皺にならないように、大事に大事に本にメモを挟む。
喉の奥がつんと痛む。祖母の声を思い出した。
何かをしなければ、遥馬の助けにはなれないと思っていた。そばにいる意味も、ないと思っていた。
でも、違うのかもしれない。
違ったのだと、信じたい。
「でもね――」
優菜は、不自然に震える唇を一度だけ噛み締めた。
それでもいい。勝手な言い分、ただの自己満足かもしれない。
「私、ここにいる」
それは、独白に近かった。
何があっても私はここにいる。いたいのだ。
芝を揺らすような風がそよぎ、ふたりの間を吹き抜けた。
遥馬の肩が揺れて、優菜に触れた。
それが合図だったかのように、遥馬は再びボールを自分の足の間で転がし始める。
「さっそく謎解きの問題、出していい?」
優菜は本のページを捲りながら、そう訊ねた。
「いいよ」
何度読んでも意味さえわからない問題文を読み上げると、遥馬がボールを操りながら器用に首を傾げた。
「全然意味わからない」
「だよね。もう一回読むね」
「ん」
「五人の証言者のうち、ひとりだけ嘘をついています。あとの四人は本当のことしか言っていませんが――」
「待って。もうわからない」
「え!?」
まだ肝心の中身に到達してもいないのに。
「は、早くない……? ていうか、考えてくれる気、ある?」
「あるよ……。一応」
遥馬はそう言うと、再びボールを優菜の前まで転がした。
「あ、ちょっと……!」
慌てて足を伸ばし、それを遥馬に戻す。すると再び、ボールが転がってきた。これじゃあ謎解きを考えるどころか、問題文も読めない。
「え、謎解きは?」
「ちょっと休憩」
「まだ始まってもいないのに……!」
「ていうかそれ、かなり難しいやつじゃない?」
遥馬はそう言って、優菜の手から本を取った。表紙をとんとんと小突く。
そこには、確かに『上級編』と書かれていた。
「本当だ……」
「俺らが解くなら初級じゃないと難しいと思うんだけど?」
「……確かに」
ぐっと唇を噛み締めた優菜を見て、遥馬は続けた。
「もっと簡単なところから始めて、慣れたらこれに挑戦しよう。美春ならいろんな種類の問題、持ってるでしょ」
「え……?」
「そもそも俺たちが筋金入りの美春レベルにいきなり到達できるわけないし」
「もう……やめてよ、変な呼び方」
「じゃあ何で呼べばいいの。まあ俺はそもそも、謎解きじゃなくて、まずおにぎりの方がいいけど」
けろりとそう言う遥馬に、優菜の口元が自然と緩む。
「仕方ないなあ」と小さく頷いた。
きっと、祖母の部屋を探せばもっと簡単な問題集もあるはず。だって、解き終わった本を並べておくのが趣味だったのだから。
――ごめんね。一緒に謎解き行けなくて。
思い返すと、後悔ばかりが浮かぶ。それはいつまで経っても変わらなくて、優菜は眦から零れた涙を指で拭った。
遥馬はそんな優菜をちらりと横目で見て、絶え間なくボールを送り続ける。
「あ……」
遥馬の押し出したボールが珍しく逸れて、歩道から芝に転がっていった。
優菜は反射的に立ち上がり、本をベンチに置いてボールを追いかけた。ころころと転がったボールは、生垣にぶつかって止まっている。
ボールを拾うために屈むと、そのまま空を見上げた。夏に向かう中庭は、まだまだ明るい。
「今日はそろそろ帰ろうかな」
ベンチに戻った優菜はそう言いながら、ボールを遥馬に手渡した。代わりに本を手に取っていた遥馬が、交換するように渡してくれる。
「俺も帰る」
小さく頷いた遥馬もまた、ゆっくりと立ち上がった。
祖母と散歩するときと同じような速度で、優菜は歩き始めた。
遥馬の歩く速度は、祖母よりもさらに穏やかだった。左足を踏み出して、右足を揃える。何度も繰り返すのを見ているうちに、やがて優菜の歩く速度が遥馬とぴったり重なるようになった。
病棟から、面会帰りらしき親子連れが出てきた。小学校低学年くらいの男の子と、その母親らしき女性だった。
建物を出た途端、駆け出し始めた男の子に、母親が「走らないの!」と声をかけているが、彼は勢いを増して近寄ってくる。遥馬は立ち止まって、歩道の隅に避けた。優菜もそれに気づき、立ち止まる。
「すみません」と言って通り過ぎていく母親と、そのまわりを何度もぐるぐると走りまわる男の子を、ふたり並んで見送った。
親子がだいぶ遠ざかったとき、遥馬はボールを地面に置いた。そして次の瞬間、ボールを右足で蹴り上げようとして、遥馬の顔が歪んだ。身体がぐらりと揺れる。
優菜はとっさに腕を差し出した。その手が遥馬によって荒々しく掴まれる。
もつれるように腕を取り合うふたりの足にぶつかって、ボールはころころと転がっていった。
傾いた遥馬が真っ直ぐに立てるように両腕を強く支えると、すぐ近くで視線が絡んだ。
シャツ越しに、遥馬の腕の熱さを感じる。どくどくと、自分の心臓が早鐘を打っているのがわかった。
深く息をついて、優菜は遥馬が両足でバランスを取り戻すのを見守る。体勢を立て直した遥馬は、突然の出来事に驚く優菜をよそに、転がっていくボールをじっと見送っていた。
「ごめん、深澤」
しばらくして、遥馬が両手を合わせながら優菜を見下ろした。
「え?」
「ボール取りに行くの、付き合って」
気まずそうに頬をかく遥馬と目が合う。
「それはもちろん、いいけど……」
大丈夫? と目線で問いかけた優菜に、遥馬は小さく頷いた。
ボールが転がっていった方に方向転換したところで、「いや」と遥馬が言い直した。
「やっぱり、蹴りたかった」
「……うん」
ボールは途中で芝生に入り込んだようで、歩道には見当たらなかった。
「やばい」
「えっ」
「あれ、リハビリの先生のボールなんだ。借りたやつ」
「うそ。じゃあ早く探さなきゃ」
あたりをきょろきょろと見回しながら、ふたりは歩いた。
緩やかな歩道を下っていくと、緩和ケア病棟の前あたりにボールはあった。入り口前の生垣には、真っ白い梔子の花が、太陽の光を受け降りたての雪のように輝いている。
優菜はそのまま引き寄せられるように近づいて、けぶるような甘い香りを胸に吸い込んだ。
「宮代くん、いい匂いするよ」
優菜が振り返ると、遥馬はちょうどボールを拾い上げたところだった。
ゆっくりと優菜の隣までやってきた遥馬も、同じように梔子の花に顔を近づけて、深く呼吸する。
「鼻が生き返った気がする」
その言葉に、優菜は小さく笑った。それからもう一度、梔子に顔を近づける。
ふたりで一緒に、深く息を吸い込んだ。
次々と家を訪れる顔と名前の一致しない親戚にお茶を出したりしていると、多少は気が紛れた。
「大きくなったわねえ」とか「大学はどこに行くの?」とか聞かれるのには辟易としたけれど。
でも祖母のために最後に会いにきてくれたのだと思うと、無下にはできない。
お棺の中にいる祖母は、まるで眠っているようだった。あの、木のぬくもりを感じさせる緩和ケア病棟の病室でうとうとしているときと、ほとんど変わらない。話しかけたら目を開けてくれるんじゃないだろうか。何度もそう思ってしまって、優菜はひとりぽつぽつと話しかけた。
でも、返事はない。どれだけ声をかけてももう目を開けてくれない。
話しかけるたび、何度も同じことを実感してしまって、優菜は震える唇を噛み締めた。
斎場から戻るとき、まだあたたかい骨壷は優菜が抱いていた。
たまたま広い後部座席に座ったのが優菜だったから、という理由だけど。抱えられるくらいの大きさの箱に祖母が収まってしまった。とても信じられないのに、生々しささえ感じさせるぬくもりが、優菜の呼吸を浅くさせる。
家に帰ってからも泣いて、泣いて。真っ赤に充血した目が、腫れて開かなくなってしまうのではないかと不安になるくらい涙が止まらなかった。
それでも、告別式が終われば、日常に戻らなければならない。
祖母はずっと入院していたから、家のなかは何も変わっていないはずだった。
それでもどこかがらんとしてしまったような家で、制服に着替え、なんとか朝食を少しだけ口にして、家を出た。
当たり前だけど、通り過ぎるひとは、誰も優菜が大事な祖母を失ったことを知らない。けれど優菜もまた、今、目の前を横切ったひとに何があったのかは知らないのだ。
そんな当たり前のことを改めて感じながら、学校へとたどり着く。朝食をまともに食べなかった分、いつもよりだいぶ早い時間に着いた。校門をくぐる生徒はまだまばらで、どこか日常に戻りきれていない感覚になる。
この二日間で優菜の日常は大きく変わったから、そのチャンネルがぴたりとはまっていないような気がしてしまう。
教室に入った瞬間、自分の席に座って頬杖をついている遥馬の姿が、優菜の目に飛び込んできた。
珍しい様子に、どきりと胸が鳴る。これまではホームルームの始まるぎりぎりに登校してくるのが常だった。まだ教室には遥馬と、数人しかいない。
いったいどうしたのだろう。気になったけれど、どうすることもできず優菜はこっそりと遥馬を窺い見た。
と、いつも遥馬を守るように、机の脇に寝かせられていた松葉杖がなくなっていることに気づいた。
少しずつ、けれど確実に良くなっていることに安堵する。しかしその一方で遥馬の表情はまったく晴れていないことが気に掛かった。だけどやはり喋りかけることなんてとてもできず、優菜はどこか居心地の悪い気持ちで自席に座った。
しばらくすると、仲の良い友人たちが続々と登校してくる。休む前と変わらず話しかけてくれる友人たちの存在がありがたい。下手に気を遣われると思い出してしまうから。
「あ、そういえば今日の数学、小テストだって」
「え、うそ……!」
友人のひとりの言葉に、優菜は思わず声を上げた。
数学は一時間目だ。今から公式を見直したって、とても間に合いそうもない。せめて昨日のうちに知っておきたかった。
とはいえ、忌引きで休んだ優菜に、「明日小テストだよ」なんて連絡を送りづらいのはわかるから、文句は飲み込むことしかできない。
「えー、どうしよう。やばいかも……」
小テストで赤点を取ると、課題のプリントが出されるのだ。問題数の多い厄介なその課題は避けたかった。
優菜は慌てて机の中から教科書とノートを取り出した。ふと、手に何かがぶつかって、はらりと落ちてきた。
それは、見覚えのあるファイルだった。ラメ入りのサッカーボールのシールを貼られている。
えっと洩れかけた声を呑み込む。
優菜が遥馬にノートを渡すときに使っていたファイル。渡すだけで返ってくることがなく、何枚か持っていたものはもう優菜の手元にはないはずだった。仕方なく最近はルーズリーフをそのまま机に入れていた。だからそれは、久々に優菜の手元に戻ってきたファイルだった。
首を傾げる。中に、紙が入っていた。ルーズリーフではない、ノートを破ったような――。
え、っと息を呑んだ。それは優菜が休んだ二日分のノートだった。
知らず、口を手で覆っていた。自分の唇が、カサカサに乾いている。
見間違いじゃないだろうかと疑って。
それでも間違いないと確信する。少し右上がりの、細い文字。
書かれているのは、遥馬の字だった。
*
「順調そうだな!」
クラスメイトの男子が、馴れ馴れしく遥馬の肩を抱いた。
つい先日まで、遥馬の存在をまるでないものとして扱っていたような態度を取っていたくせに、と内心毒づいてしまう。側から見ていてもそう感じるのに、遥馬は静かな笑みを浮かべると、そっとその腕から抜け出た。
その態度に拍子抜けしたのだろうか、興味を失った男子は別の友人を見つけて遥馬から離れていく。
最近、こんな風に遥馬が他人に絡まれているところをよく見かけるようになった。
皆、松葉杖が外れて話しかけやすくなったのだろうか。
元々人に囲まれていた遥馬らしい、といえばそうなのだけれど、優菜は素直に喜べなかった。
『良くなってんだろ』
『選手権予選には間に合いそう?』
そんな質問を投げかけられるたび、遥馬の表情は凍ったように固まっていた。
間に合わないのかもしれない。
優菜はそう察したけれど、まわりはそんなこと微塵も思っていないようだ。
『遥馬だったら、超人的な回復力でなんとかなったりするんじゃない?』なんて、祈る気もない安易な言葉が耳に入るたび、優菜の胸はキリキリと痛んだ。
そして楽観的な雰囲気を醸し出すようになった周囲に反論するように、遥馬はまだ部活に出ていなかった。その証拠に、休み時間のたびに玲がやってきては、リハビリはどこまで進んだのか、と細かく確認している。
玲は遥馬のために、怪我の症状やリハビリについてよく調べているようだった。今、どのくらい負荷をかけられるのか、なんて優菜が聞いてもまるでわからない会話を交わしている。
「今日は病院? じゃあ明日は部活出れる?」
玲が勢い込んで聞くと、遥馬はまた無表情になって視線を逸らした。
そのまま教科書に目を落とした遥馬に、玲のため息が響いた。毎日のように同じやりとりを繰り返している。どれだけ冷たい態度を取られても、変わらず言葉をかけ続けられる玲は偉い。
「なによ?」
じっと見ていたからだろうか、教室を出て行く途中、優菜の前で玲が足を止めた。
「何でもないよ」
慌てて目を逸らす。露骨な態度を取ってしまったせいか、玲は優菜の前でも大きなため息をついた。
「深澤さんからも言ってよ。部活出なって」
「え……?」
「私たちが何言っても聞いてくれないけど、深澤さんの言うことなら聞くかもしれないから」
「そんなこと……」
構うな、と言われているのだ。優菜の言葉なんて、遥馬にとってなんの意味もないだろう。聞いてくれるとは思えなかった。
唇を噛み締めた優菜を見て、玲はわざとらしく肩をすくめる。
「まあいいけど」と言って教室を出ていく。玲の後ろ姿を、優菜は慌てて追った。
「あの!」
廊下に出た瞬間、背中に声をかける。振り返った玲は怪訝そうな顔をしている。無理もない。
これまで、優菜から話しかけたことなんて一度もなかった。
制服のスカートをぎゅっと握る。プリーツに皺が寄った。
「ごめん。その、私からは……宮代くんに部活出てって、言えない」
「はあ?」
玲は眉間に皺を寄せた。
そのまま、こちらに距離を詰めてくる。優菜はますます手に力を込めて、
「私、もう構うなって言われてるの」
遥馬にこの前突きつけられた言葉。思い返すだけで胸の奥に冷や水をぶっかけられたような気持ちになる。
目の前までやってきた玲が、「え?」と顔を顰めた。
「何それ」
「わかんない。でも多分、余計なことしてほしくないんだと思う」
自分のしていることは、余計なことでしかないのだ。
口にするとはっきり突きつけられる。
サッカーを何より大事に思っている遥馬の助けには、全然なれない自分、という存在を。
「余計なことって……」
玲は大袈裟なほどはっきりため息をついた。
「私、最初深澤さんのこと気に入らなかった」
はっきりした物言いに、思わず顔を上げた。それでも玲の顔には怒りも苛立ちも見えない。
「宮代に献立考えたり、お弁当作ったりしてたでしょ。ああいうのやられると、マネージャーとしては困るの」
「ごめん……」
そう思われていることを、危惧しないわけではなかった。
だけど――。
「あ、誤解しないでよ。別に怒ってるわけじゃないし。困るっていうのも……ああ、本当は私たちがやるべきだったのに気づかなかったってハッとしただけ」
「え……?」
「強くなるためなら当たり前じゃん。栄養管理って。寮の学校なんかは当然やってるわけだし。でもうちの――私たちマネージャーはやってこなかった。ていうか、気づきもしなかったんだよ。だから、仕事を取られた。それが悔しかった」
「そんな――」
たまたま優菜が遥馬と話して、親しくなったから何かしたいと思っただけで、『仕事を取る』なんて、そんな大層なことを考えていたわけじゃない。
「わかってる。そういうつもりじゃないんだろうなって思ったけど、だから余計に堪えたの」
玲はそう言うと、腕を組んだ。長い指がトントントンと肘を叩く。
「だからそれから、できることを探してる」
ふっとその言葉は胸に飛び込んできた。
そう言われて、初めてきちんと玲のことを正面から見つめる。
すると玲が抱えている本のタイトルがちらりと見えた。
『リハビリ』『膝』『怪我』
その瞬間、思わず玲の顔を見る。
優菜の視線を振り払うように、玲は息をついた。
「私たちマネって、『これやって』『あれやって』って言うのが仕事みたいなところがあるから。それはわかってるんだけど。でもさ、さすがにこの状況は……それだけじゃ、つらいよね」
玲はそう言うと、小さく唇を歪めた。
玲の言葉を優菜は黙って聞いていた。
すると今度は、玲が強く優菜を見つめた。
「じゃあね」
そんな優菜に構わず、玲は踵を返した。立ちすくんでいる間に、玲はあっという間にグラウンドの方へ飛び出していく。
その背中を見ながら、優菜は改めて「自分に何をできるのか考えろ」と突きつけられている気がした。
優菜の家には仏壇がない。
深澤家に同居することになったとき、祖母が処分したのだという。だから祖父の位牌と、祖母が大事に持ち運んでいたという優菜にとって曾祖父曾祖母の位牌は、祖母の部屋にあった。祖母が使っていたチェストの上に、線香と共に飾られていたのだ。
主人のいなくなった部屋に入り、真ん中にぽつねんと座り込んで、優菜は並んだ位牌を見上げた。祖母の骨壺も並べて置いたから、チェストの上はぎゅうぎゅうに詰まっている。
最初、お骨だけはリビングに置こうと話していたけれど、結局みんな一緒の方が安心するのではないか、と言ってこの部屋に置くことになった。
位牌の前には小さな湯呑みが置いてあって、祖母が家にいた頃は毎朝水を取り替えていたことを思い出した。祖母が入院してから誰も触らなくなってしまったから、久しぶりに覗いた湯呑みの中の水は干上がり、中はほこりだらけだった。
きちんと毎日水をかえて、手を合わせていたら、こんなに早く連れていかれることはなかったのだろうか。祖母がしてくれていたように、毎日家の空気を入れ替えて、部屋をきれいに保っていたら? もっと強く、ここに帰りたいと思えるようにしていたら?
終末期の長さは変わっていたのではないか。
考えても仕方ないとわかっているのに、どうしてもそういったひとつひとつの、迷信じみたことが思い浮かんでしまう。
祖母の部屋は畳だ。毎日押し入れから布団を出して寝ていた。今思えば重労働なのに、手伝うこともしなかったな、とまた反省が思い浮かぶ。
優菜はごろんと畳にそのまま寝っ転がった。
天井の木目の曲線を眺めていると、視界がぐにゃりと歪み始めた。
込み上げてくる涙を堪えて目を閉じると、ここ三日ほどのことが克明に思い出された。
祖母の亡骸は家ではなく、直接葬儀場に運ばれた。幸か不幸か、予約が取れてすぐに火葬ができるから、と葬儀屋さんに言われたとき、それは喜んでいいのだろうか、と優菜は真剣に考えた。もちろん、早い方がいいのだろう。頭ではわかっている。
母の親族は遠方に住んでいてすぐには駆けつけることができず、父と相談しながら、ひとつひとつのことを母が決めていくのを、優菜はぼんやりと眺めていた。
祭壇の大きさ、花の種類や数、香典返しは何にするか、精進落としは何人分用意するか――そんなお金と見栄えを気にした話し合いが延々と続いているなか、優菜は祖母の棺をぼんやりと眺めていた。
棺の窓を開けると、まるで眠っているような祖母の顔が見える。何度眺めても今にも起きるのではないかと思ってしまい、そのたびに涙が溢れた。
「優菜、お祖母ちゃんの写真ある?」
真剣な顔で話し合っていた母が、棺の横までやってきて優菜を見た。
「写真?」
「そう。遺影に使う用の写真。アルバムはだいぶ古い写真しか残ってないから。今はデータでも良いんだって」
「待って。ある、と思う……」
優菜は制服のポケットからスマホを取り出して、写真フォルダをスクロールした。
お見舞いに来たときに中庭で撮った写真が何枚か出てきた。病室で、手術前に撮った写真も。それから入院するずっと前、家でおふざけ半分に撮ったものもある。
「ある程度、元気なときの写真がいいわね」
「去年のお正月のとかあるよ」
新年だから、とアイロンのしっかりかかったブラウスを着て、化粧もしている。祖母はそういうひとだった。優菜も「新年なんだから、きちんとした格好をしなさい」と言われたっけ。だからスウェットじゃなくて、朝からお気に入りのワンピースに着替えたことを思い出す。
なんで、こんなに好きだったのに、一緒に謎解き行くのを嫌がっちゃったんだろう。写真を見返せば見返すほど、後悔だけが浮かんで、頬を伝った涙が制服に染みを作った。
告別式を終え、お骨をチェストの上に置いた母は「この部屋も片付けないといけないわね……」と呟いた。
母の祖母への態度がずいぶん冷たいと思っていた。仕事と祖母だったら、仕事を選ぶんじゃないか、と思ってしまうくらいに。
けれど出棺が迫り、棺の蓋を閉める時になって、「やめて……閉めないで……」と母は棺に縋りついた。ほとんど泣いていなかった母が、ぼろぼろと涙を流している姿を見て、本当に祖母の姿形が消えてしまうのだ、と優菜は唐突に実感した。
母は親戚に抱えられ、棺から引き離された。しかし「最後まで見ておかないと後悔するから」と父が母を支えながら顔の近くに連れていった。優菜も手招きされ、ふたり並んで、顔の真横で棺の蓋が閉められるところを見守った。
ごと、と世界が分かれるような重い音が響いた。
あの音が、今でも頭のなかで鳴っている。
「まだ、いいんじゃない?」
その音を振り切るように、優菜は言った。
「え?」
「そんなに早く片付けなくたって」
「……そうね。四十九日が終わるまではお骨もあるしね」
言い聞かせるように、母は意味もなく箪笥の開け閉めを繰り返した。
優菜は洗濯物を持って病院に通っていたから、どこに何が入っているのかだいたい理解していた。
祖母が嫁入り時から使っているという、今では見かけないほど重厚なつくりの箪笥は、最上段にほとんど使わない他所行きの服が入っている。
「取り出しにくいからここに移したのよ」と、入院前の祖母がさりげなく言っていたことを思い出した。あの頃にはもう、お洒落をして出かけるつもりがなかったのかもしれない、と思うと胸が痛んだ。
祖母の棺の中には、途中まで解いてあった数独の問題集を入れた。よく使っていた、お気に入りのボールペンと一緒に。これで向こうで祖父に巡り会うまで、暇になることはないと思う。
謎解きの本は、入れられなかった。
病室のデスクに置いてあった本が消えていることに、母は気づいたかもしれない。けれど何も言われなかったから、あの本は中のメモと一緒に、ずっと優菜の手元にある。
優菜はそれを肌身離さず持ち歩いていた。
たまに解いてみようかと問題文を読むけれど、解答の糸口さえ思いつかないまま時間だけがすぎていく。
ヒントの文章や図形を見ても、何をどう考えれば良いのかわからない。
楽しそうに解こうとしていた祖母を思い出しては、微かに笑みが溢れる。けれどそれ以上に、できなかったことばかりが頭を過ぎってしまうのだった。挟まれたメモを見返して、やっぱり後悔が込み上げてくる。
来週からようやく梅雨が本格化します。いよいよ雨が続くでしょう――そんな天気予報を聞いて、優菜は帰り道、ふと思い立って病院へと足を向けた。
当然だが、祖母の死以来訪れていない。
本来、用もないのに立ち入って良い場所ではないが、病棟には入らないから、と心の中で謝ってバスに乗り込む。
もうすぐ面会時間も終わるせいか、車内は誰もいなかった。院内のバス停に着き、運転手から少し目を逸らして「ありがとうございました」と言って降りた。この運転手が、優菜はただの部外者だ、なんて知るはずもないのに。
案の定、バスの運転手は「ありがとうございましたー」と平坦な声で言った。ほっと安堵して優菜が地面に降り立った瞬間、背後の扉が閉じる音がした。
優菜はそのまままっすぐ中庭へと向かった。途中、緩和ケア病棟を通り過ぎる。祖母のいた病室に面した道を通るとき、どうしても病棟を視界に入れることができなくて、じっと俯いたまま足だけを進めた。
中庭には、ほとんど人はいなかった。白衣を着た医師が足早に通り過ぎていったけれど、気分転換に散策するひとも、リハビリがてら歩くひともいない。
それでも真ん中の青々とした芝は、強い西陽に照らされてキラキラと光っている。
歩道のところどころに点在しているベンチのひとつに、優菜は腰掛けた。
芝の上には、花壇や生垣があって、濃い緑の葉の合間から、赤やピンク、白い花が覗いている。
散歩の途中、白い花の咲く木を見て「梔子だわ」と祖母が嬉しそうに言っていたことを思い出した。
「もう少ししたら良い香りでいっぱいになるわね」と。
あたりを見回すと、今は青々とした葉を茂らせている金木犀もあった。梔子といい金木犀といい、香りの強い花を咲かす木を植えているのは、病院独特の消毒液のような匂いを消すためなのかもしれない。
確かに嫌だな、と思った。
祖母との思い出で浮かぶ香りが、消毒液の匂いなのは、嫌だ。
ささくれた木の感触を感じながら、優菜の両手はベンチの座面の縁を掴んだ。
唐突に、気づいてしまった。こうして祖母と過ごした場所にいても、頭のなかに浮かぶ顔も、会話も、声も、全部だんだんと朧げになっていくことに。
あの時、交わした言葉を、もう正確に思い出せない。
言い様のない寂しさに襲われたとき、白くざらついたコンクリートの歩道を、向こうからゆっくりと歩いてくる人影が見えた。
一歩ずつ、確かめるように近づいてくるひとを見て、優菜は息を詰めた。
まっすぐに前を見据えて、遥馬がこちらに向かって歩いていた。
◆
一歩進んでは二歩戻るようなリハビリに、遥馬の気持ちが空回っているのを察したのか、理学療法士が「使ってみようか」と差し出したのは、サッカーボールだった。
椅子に座る遥馬の足元目掛けて転がされたボールを、咄嗟に足裏でトラップする。正確にはトラップというほどでもない、かすかに触れて、ボールの動きを止めただけだ。
それでも、足裏に覚えた感触に、遥馬の全身は総毛立つような衝撃を覚えた。
ボールだ。
当たり前のことを思う。
大きさ、硬さ。膝を直角に曲げられないから、自分よりだいぶ手前で止めたけれど、それでも足を上げなければならない高さは身体が覚えていた。
「足裏と、足の内側だけを使って自由に転がしてみて」
理学療法士に言われた通り、遥馬はボールをころころと転がし始めた。座ったままだから、ほんの狭い範囲でしか動かせない。それでも触れると足裏に吸い付くような感覚は変わらなかった。
調子に乗って、右足の甲にボールを乗せてみる。これまでだったら、ここから高く蹴り上げてリフティングを何度も続けることだってできた。
「待って」
理学療法士の鋭い声が飛んだのと同時だった。
ゆっくりと右足を持ち上げたはずだった。
膝の後ろに、ひびが入るような衝撃が走った。
「え」と声が漏れた。
ボールが重い。跳ね上げるどころか、持ち上げることもできなかった。
バランスを失った足から転がり落ち、ボールはころころとリハビリ室内を転がっていった。
やがて壁にぶつかって、鈍い音を立てる。そのまま止まった。
遥馬は椅子を強く握りしめていた。
まさかあんなに軽い球体の重さに苦しむなんて、想像もしていなかった。
「なんで……」
掠れた声が漏れる。ドンドンと拳で太ももを叩いた。
戻れ、戻れ、戻れよ、戻って――。
太ももを叩いていたはずの手はいつしか座面を叩いていて、室内には鈍い音が響いていた。
◆
なんと声をかけるべきか、迷った。迷っているうちに遥馬は優菜の目の前まで辿り着いていた。横目で、しばらく見下ろされる。
今日もまた、感情の見えない目をしていた。しかしふと気づく。遥馬は、小脇にサッカーボールを抱えていた。
優菜の視線が吸い寄せられるようにボールへ向かう。するとそれに気づいたのか、遥馬はまた一歩優菜に近づいた。まだ遠目にも右足を庇っているのがわかってしまい、優菜は思わず目を逸らした。
しかし遥馬は躊躇いなく近づいてきたかと思うと、優菜の右隣に座った。
「……っ」
座るときに一瞬膝に力が入ったのか、痛みを堪えるような息が響き、優菜は慌てて距離を詰めた。
「だ、大丈夫?」
「……ああ」
ちらりと優菜を見て、遥馬は頷いた。
そのまま正面に向き直り、ボールを足元に落とす。
とん、とんとん、とボールが地面を鳴らす乾いた音が響いた。遥馬は足先でボールを一度止めると、足の間で転がし始めた。わずか三十センチにも満たない両足の合間を、サッカーボールが行き来している。
やがて遥馬は右足で少し強くボールを押した。遥馬の左足はそれをスルーして、ボールが優菜の目の前までやってくる。
「え……」
勢いは殺されているとはいえ、真っ平ではない歩道だ。そのまま優菜の前すら通りすぎていってしまいそうなボールに、慌てて足を伸ばした。
遥馬を見ると、「ん」と左足をパタパタと動かしている。
誘うようなその動きにつられ、優菜は左足で軽くボールを蹴った。ほとんど触ったことのないサッカーボール。左足で触ったのは初めてかもしれない。といっても軽く押した程度だった優菜のボールは、緩やかに跳ねた。不規則なバウンドで移動していくのを、遥馬の右足に止められた。
そしてまた、優菜の足元にボールがやってくる。まったく動く必要のない、優菜の右足の目の前だった。それを左足に変えてまた押し出す。そんなことを何度か繰り返しているうちに、優菜の息は上がっていた。動いてもいないのに、意識を集中するだけでずいぶん神経を使ったようだ。
そのわりに優菜の蹴ったボールは、遥馬のずいぶん手前で止まったり、通り過ぎてしまいそうなほど強かったり、とさんざんだった。遥馬は弱いボールは右足で止め、勢いのついてしまったボールは左足で止めていた。蹴り返してくるのは必ず右足だったけれど、どれも毎回ぴたりと優菜の目の前までやってくる。
「当たり前だけど、上手いね……」
思わず呟くと、遥馬は息を緩めた。
「これ、上手いとか下手とかないし」
「いや、でも私は下手だよ」
「……確かに」
正直に頷かれ、優菜は遥馬を見上げた。すると目が合った。やがて少しだけ気まずそうに、遥馬は視線を宙へ向ける。
「ノート、ありがとう」
そう伝えると、遥馬はびくりと肩を揺らした。よりいっそう目線を逸らされる。
「それを言うなら、俺のほう」
きょとんと目を瞬かせる優菜を見て、遥馬は呆れたような表情を作った。
「持ってきてくれてたの、そっちじゃん」
「あ……」
そっか、と言うと、堪えきれないと言ったふうに遥馬がふっと息を洩らした。
「お礼、するから」
「え?」
「今なら時間あるし」
「時間あるって……リハビリ、忙しいでしょう?」
遠慮がちに問うた優菜に、遥馬は緩く首を横に振る。
「やりすぎても良くないから、前よりは全然ある」
「……そう、なんだ」
「そう。やりすぎると怒られるし。何がいい?」
「なにがって……別にそんなの」
自分がしたくて、しなければ、と思って勝手に続けていたことだ。
何もいらない――そう言おうとして、優菜は腕のなかの本に気づいた。
「あのね、お願い、やっぱりあるかも」
「なに?」
「時々、で全然良いんだけど、一緒に謎解きしてほしい」
「……は?」
遥馬が眉間に皺を寄せて、優菜を見下ろしている。
「これ、私まったく解けないの」
優菜は手元の本をぺらぺらとめくってみせた。覗き込んできた遥馬も顔を顰めている。
「俺も、全然わかんないけど」
「うん。でもいいの。あと、おにぎり一緒に食べてほしい」
探るような視線を向けられる。遥馬は何かを言いかけて、「わかった」と頷いた。
「ありがとう。宮代くんは? してほしいこと、ある?」
「別に……」
特にない、と言いかけたらしい遥馬が、動きを止めた。
「何もしてほしくない」
「え……?」
「何もしないでほしい」
じっとこちらを見据える瞳は、瞬きひとつしていなかった。
遥馬にしてあげられることなんて、本当になにひとつない。
慰めの言葉も励ましの言葉も、なんの意味もない。
そう改めて思い知る。でも、それは口にしなかった。
「わかった」
優菜は、静かに頷いた。
はらりと、開きっぱなしだった手元の本からメモが落ちた。
慌てて拾い上げる。祖母の、最後の文字が記されたメモ。
謎解きの予定の裏には、日付と文章が書かれていた。
部屋は居心地が良くて、気持ちよく過ごせそう。今日も学校が終わったら優菜ちゃんが来てくれた。
ずっと眠くて昼寝をしてしまった。せっかく優菜ちゃんが来てくれたのに。
今日も優菜ちゃんが来てくれた。おやすみなのに。
優菜ちゃん来た。
ゆうなちゃん、きてくれた。
ゆうな きた
皺にならないように、大事に大事に本にメモを挟む。
喉の奥がつんと痛む。祖母の声を思い出した。
何かをしなければ、遥馬の助けにはなれないと思っていた。そばにいる意味も、ないと思っていた。
でも、違うのかもしれない。
違ったのだと、信じたい。
「でもね――」
優菜は、不自然に震える唇を一度だけ噛み締めた。
それでもいい。勝手な言い分、ただの自己満足かもしれない。
「私、ここにいる」
それは、独白に近かった。
何があっても私はここにいる。いたいのだ。
芝を揺らすような風がそよぎ、ふたりの間を吹き抜けた。
遥馬の肩が揺れて、優菜に触れた。
それが合図だったかのように、遥馬は再びボールを自分の足の間で転がし始める。
「さっそく謎解きの問題、出していい?」
優菜は本のページを捲りながら、そう訊ねた。
「いいよ」
何度読んでも意味さえわからない問題文を読み上げると、遥馬がボールを操りながら器用に首を傾げた。
「全然意味わからない」
「だよね。もう一回読むね」
「ん」
「五人の証言者のうち、ひとりだけ嘘をついています。あとの四人は本当のことしか言っていませんが――」
「待って。もうわからない」
「え!?」
まだ肝心の中身に到達してもいないのに。
「は、早くない……? ていうか、考えてくれる気、ある?」
「あるよ……。一応」
遥馬はそう言うと、再びボールを優菜の前まで転がした。
「あ、ちょっと……!」
慌てて足を伸ばし、それを遥馬に戻す。すると再び、ボールが転がってきた。これじゃあ謎解きを考えるどころか、問題文も読めない。
「え、謎解きは?」
「ちょっと休憩」
「まだ始まってもいないのに……!」
「ていうかそれ、かなり難しいやつじゃない?」
遥馬はそう言って、優菜の手から本を取った。表紙をとんとんと小突く。
そこには、確かに『上級編』と書かれていた。
「本当だ……」
「俺らが解くなら初級じゃないと難しいと思うんだけど?」
「……確かに」
ぐっと唇を噛み締めた優菜を見て、遥馬は続けた。
「もっと簡単なところから始めて、慣れたらこれに挑戦しよう。美春ならいろんな種類の問題、持ってるでしょ」
「え……?」
「そもそも俺たちが筋金入りの美春レベルにいきなり到達できるわけないし」
「もう……やめてよ、変な呼び方」
「じゃあ何で呼べばいいの。まあ俺はそもそも、謎解きじゃなくて、まずおにぎりの方がいいけど」
けろりとそう言う遥馬に、優菜の口元が自然と緩む。
「仕方ないなあ」と小さく頷いた。
きっと、祖母の部屋を探せばもっと簡単な問題集もあるはず。だって、解き終わった本を並べておくのが趣味だったのだから。
――ごめんね。一緒に謎解き行けなくて。
思い返すと、後悔ばかりが浮かぶ。それはいつまで経っても変わらなくて、優菜は眦から零れた涙を指で拭った。
遥馬はそんな優菜をちらりと横目で見て、絶え間なくボールを送り続ける。
「あ……」
遥馬の押し出したボールが珍しく逸れて、歩道から芝に転がっていった。
優菜は反射的に立ち上がり、本をベンチに置いてボールを追いかけた。ころころと転がったボールは、生垣にぶつかって止まっている。
ボールを拾うために屈むと、そのまま空を見上げた。夏に向かう中庭は、まだまだ明るい。
「今日はそろそろ帰ろうかな」
ベンチに戻った優菜はそう言いながら、ボールを遥馬に手渡した。代わりに本を手に取っていた遥馬が、交換するように渡してくれる。
「俺も帰る」
小さく頷いた遥馬もまた、ゆっくりと立ち上がった。
祖母と散歩するときと同じような速度で、優菜は歩き始めた。
遥馬の歩く速度は、祖母よりもさらに穏やかだった。左足を踏み出して、右足を揃える。何度も繰り返すのを見ているうちに、やがて優菜の歩く速度が遥馬とぴったり重なるようになった。
病棟から、面会帰りらしき親子連れが出てきた。小学校低学年くらいの男の子と、その母親らしき女性だった。
建物を出た途端、駆け出し始めた男の子に、母親が「走らないの!」と声をかけているが、彼は勢いを増して近寄ってくる。遥馬は立ち止まって、歩道の隅に避けた。優菜もそれに気づき、立ち止まる。
「すみません」と言って通り過ぎていく母親と、そのまわりを何度もぐるぐると走りまわる男の子を、ふたり並んで見送った。
親子がだいぶ遠ざかったとき、遥馬はボールを地面に置いた。そして次の瞬間、ボールを右足で蹴り上げようとして、遥馬の顔が歪んだ。身体がぐらりと揺れる。
優菜はとっさに腕を差し出した。その手が遥馬によって荒々しく掴まれる。
もつれるように腕を取り合うふたりの足にぶつかって、ボールはころころと転がっていった。
傾いた遥馬が真っ直ぐに立てるように両腕を強く支えると、すぐ近くで視線が絡んだ。
シャツ越しに、遥馬の腕の熱さを感じる。どくどくと、自分の心臓が早鐘を打っているのがわかった。
深く息をついて、優菜は遥馬が両足でバランスを取り戻すのを見守る。体勢を立て直した遥馬は、突然の出来事に驚く優菜をよそに、転がっていくボールをじっと見送っていた。
「ごめん、深澤」
しばらくして、遥馬が両手を合わせながら優菜を見下ろした。
「え?」
「ボール取りに行くの、付き合って」
気まずそうに頬をかく遥馬と目が合う。
「それはもちろん、いいけど……」
大丈夫? と目線で問いかけた優菜に、遥馬は小さく頷いた。
ボールが転がっていった方に方向転換したところで、「いや」と遥馬が言い直した。
「やっぱり、蹴りたかった」
「……うん」
ボールは途中で芝生に入り込んだようで、歩道には見当たらなかった。
「やばい」
「えっ」
「あれ、リハビリの先生のボールなんだ。借りたやつ」
「うそ。じゃあ早く探さなきゃ」
あたりをきょろきょろと見回しながら、ふたりは歩いた。
緩やかな歩道を下っていくと、緩和ケア病棟の前あたりにボールはあった。入り口前の生垣には、真っ白い梔子の花が、太陽の光を受け降りたての雪のように輝いている。
優菜はそのまま引き寄せられるように近づいて、けぶるような甘い香りを胸に吸い込んだ。
「宮代くん、いい匂いするよ」
優菜が振り返ると、遥馬はちょうどボールを拾い上げたところだった。
ゆっくりと優菜の隣までやってきた遥馬も、同じように梔子の花に顔を近づけて、深く呼吸する。
「鼻が生き返った気がする」
その言葉に、優菜は小さく笑った。それからもう一度、梔子に顔を近づける。
ふたりで一緒に、深く息を吸い込んだ。

