ここにいる

 自分は決して天才じゃない。でも遅咲きな分、これからはどんな障壁も飛び越えて、軽やかに未来に向かっていくのだと、そう思っていた。

 サッカーを始めたのは幼稚園の頃だった。三つ年上の兄が、小学校に入学すると同時に習い始めたのがきっかけだった。といっても遥馬は最初、ただ練習を見学していただけだった。でも練習を見ているだけの遥馬もまた、気づけばその魅力に取り憑かれていた。

 ジュニアチームのセレクション合格を目指すようなサッカースクールに入っていた兄の練習は本格的で、生活のほとんどがサッカー漬けだった。本人は、最初はそんなつもりじゃなかったらしいけれど、まわりの子どもたちがみな必死にプロを目指すのを見て、触発されたらしい。

 そんな兄を間近で見ていたせいか、自分が同じ境遇になっても「練習ばかりで嫌だ」とか「遊びたい」などと思わなかったのは、よい影響だったのだろう。

 ただジュニアユースまでは順調だった遥馬も、その上のユースチームには上がれなかった。もっとも三年前、遥馬の兄もユースチームには上がれなかった。その結果、遥馬にサッカーを教えるきっかけとなった兄は、中学進学と同時にスパッとサッカー自体をやめてしまった。

 最初はあまりに潔い決断に驚き、「部活でも続ければいいじゃん」という遥馬に、

「俺はプロにはなれない。それなら将来、大人になって楽しくサッカーをやるために、今はやめることにした」

 そう言った兄は、すぐに別の夢をみつけ、今度はそのために進学校入学を目指し始めた。

 そんな兄の姿を見ていたから、自分が切られたこと自体は、意外とすんなり受け入れられた。もちろん悔しくはあったけれど、厳しい道だということはわかっていたから。

 中学三年時点で遥馬は身長が伸びず、クラスどころか学年でも前から数えて三番目だった。
 だから、受け入れられたのかもしれない。足りないのが身長という、どうしようもなくわかりやすい理由だと思えたから。
 やめてしまったとはいえ、論理的に物事を考える兄を間近で見ていた影響もあったかもしれない。
 冷静に自分を見つめることができていた。

 遥馬はすぐに切り替えて、考え始めた。
 今の自分ではユースには上がれない。でも高校三年間で身長は伸びるに決まっている。
 それなら三年間、サッカーを磨くにはどうしたらよいか。

 県内で有数のサッカー強豪校をピックアップし、一番自分に合った学校を選び出した。実力以上に身長で推薦枠を得られないだろう自分が、どうしたら確実に入部できるか。実力も身長も成長したら、認めてもらえる土壌があるか。それだけを考えて選んだ学校だった。

 だから、サッカー以外はどうでも良かった。推薦じゃないから、「こいつやるな」と思わせなければ、試合で使ってもらえない。部内にはサッカー推薦で入学してきた生徒も若干数は存在しており、最初からある程度使ってもらえる。彼らはサッカーエリート的な存在感を醸し出していた。

 そんな推薦組とは違い、一般入試で入った新入部員たちがやることは単純だ。最初のうちは、ほとんどが雑用。そして掃除と片付け。
 ボールを蹴るのは、一日に三十分もあれば良いほうだった。
 技術的な練習は、家でもできる。遥馬はすぐにそう切り替えた。

 この部活の、一年生というこの使いっ走りの状況で、いったいどうしたら成長できるのか。考えた遥馬は、この一年をフィジカル強化に振り切ることにした。


 優菜と出会い、親しくなったのはそんなときだった。

 ただたまたま席が近かったクラスメイト。
 それ以上でもそれ以下でもなかったはずなのに、優菜の存在はいつの間にか遥馬の中で大きなものになった。

 何が特別だったのかわからない。けれど彼女の前では、いつも素直に自分の目標を語ることができた。

「絶対身長は伸びると思うんだ。だから今のうちに相手に負けないフィジカルを手に入れたい」なんて、身長が伸びる気配もない時にそう豪語したのに、彼女は一切笑わなかった。

 それどころか、どうしたら身長を伸ばしながら筋力をつけられるか、なんてことまで一緒に考えてくれた。
 真剣に語っても、最終的にはおどけてごまかしてしまう遥馬にとって、その必要がない相手は新鮮だった。

 いつしか優菜の前で目標を語れば、頭のなかがクリアになる感覚を覚えた。
 自分でつけているサッカーノートに向き合うときよりも、優菜に話しているときの方が素直になれる。気恥ずかしくて、本人に言ったことはないけれど。


 半年ほど前のことだ。同じポジションだった先輩が怪我をして、その代役が遥馬にまわってきた。半年でずいぶん背が伸びたとはいえ、「なぜ宮代なんだ」という疑問の声が方々から浴びせられた。なにくそ、と思う気持ちと同時に、もしここでだめだったら……という不安が過ぎる。

 その時も優菜は「やったね! とうとう努力が認められたね!」と飛び跳ねんばかりに喜んでいた。その姿を見て、まだ出られると決まっただけなのに何を言っているんだ、と遥馬の全身から力が抜けた。

「いやまだ出られるって決まっただけだから」と言う遥馬に、優菜はきょとんと首を傾けた。

「そうだけど、こういう時のためにちゃんと準備してきたでしょう?」

 さも当然のように発せられた言葉に、目が覚めた。

 ――そうだ。なんで弱気になってるんだ。この時を狙ってたはずだろ。
 
 ユースチームに切られたときから、こんな瞬間を待っていたはずだった。


 代役で出場した試合では練習してきたことが面白いくらいに決まって、遥馬は一気にチームの中心選手へとのしあがった。

 すべてが順調だった。練習の辛さも疲れも全部吹き飛ぶほど、どの試合もうまくいった。
 チームメイトの自分を見る目も変わったし、監督の信頼も勝ち得た実感があった。昨年の冬の県予選ではベスト4、次の新人戦では県内で準優勝だった。

 その頃からだ。自分のことをプロのスカウトが注目しているらしい、と噂になったのは。


 遥馬は二年生になった。練習は相変わらず厳しく、スカウトから何か接触があったわけではないから、正直、自分では気づかなかった。
 ただ、各チームのスカウトが地方大会の予選から目ぼしい選手に注目するのは、周知の事実だ。県内でも優勝を争うチームなら、練習の視察に訪れていても何ら不思議はない。

 しかしその噂が事実のように広まり始めたのは、挨拶にきた複数のスカウトが、遥馬の名前を挙げて監督と喋っていたらしい、という理由だった。その会話を聞いていた部員によって、瞬く間に広まったのだ。

 実際、二年生になってからの新体制では、遥馬を中心にメンバーが揃えられた。遥馬の特性を活かしたチーム。その練習を見に来て、遥馬以外の名前が一番に上がることは考えにくく、噂ではなく事実として「宮代遥馬はプロも注目する逸材らしい」と学校中に広まった。

 ――もしここでスカウトの目に留まってプロになれれば。足切りされたジュニアユース時代の悔しさも払拭できる。

 あの時自分を切ったクラブを見返したい。そんな思いも、遥馬の原動力となり、練習にも自ずと力が入った。

 そうして迎えた県大会初戦。悲劇は起きた。


 *


 朝から調子は良かった。目覚ましの力を借りずにすっと目が覚め、窓から見上げた空は抜けるような青空だった。時間が経つにつれ雲が厚くなってきたけれど、日差しを適度に遮ってくれる気候はむしろありがたい。

 母親の用意してくれた朝食を食べながら、行儀が悪いと思いつつこっそりスマホを覗き見る。
 優菜からのメッセージが届いていた。
 彼女は今日、応援に行けないと言っていた。これまで授業のない時は毎回応援に来てくれていたから、そう告げられたときには内心かなりがっかりした。けれど「ごめんね。おばあちゃんが入院してて、もうすぐ手術なんだ」という優菜の横顔は強張っていて、とても無理を言えるような雰囲気じゃなかった。

 それに優菜が身体に良い食べものを調べてくれたとき、「おばあちゃんから教えてもらった」と言うレシピをいくつか教えてくれたことを思い出した。詳しく聞いたことはなかったけれど、同居している祖母とはかなり仲が良さそうだった。
「一緒に作ったんだよ」とおかずの差し入れをもらったこともある。くすぐったくて、思い返すだけでにやけてしまう。
 いつか「弁当作ってほしい」なんて言ってもいいだろうか。
 優菜の作ってくれた弁当があれば、どんな試合でも最高のパフォーマンスができる気がした。

 その反面、授業参観にこようとした祖母と大喧嘩した、という話も聞いたことがあった。

「高校の授業参観なんてどこの親もほとんど来ないじゃん! だから親が仕事なら誰も来なくていいって言ってるのに、おばあちゃんが行くって言い出して。もう本当にやめてほしい」

 語気を強める優菜は珍しい。

「確かに、祖父ちゃん祖母ちゃんが来るってきっついかもな。高校生にもなって」
「でしょう? だからやめてって言ってるのに、おばあちゃん絶対行くって聞かないんだもん。本当にやだ。もう毎日戦争だよ」

 本気で嫌がっているのかもしれないけれど、頬を膨らませる優菜を見ていると微笑ましくなってしまう。

「いいじゃん。俺、見てみたい。来たら手振ってやるよ。『深澤さーん! お孫さんここですよー』って」
「やめて。そもそもおばあちゃん、深澤じゃないし」
「え、そうなの?」
「そうだよ。お母さんの方のおばあちゃんだもん」
「そっか。え、名前は? なにさん?」
「加藤……美春」
「へえ。可愛いじゃん。美春」
「やめて! 変な呼び方しないで!」

 ぽかぽかと腕を叩いてこようとする優菜を避けながら、笑う。
 その手を掴んで、抱き寄せたい気持ちになるけれど、今じゃない、と言い聞かせた。

 どんなやりとりがあったのか聞いていないが、結局、授業参観にそれらしい人は来ていなかった。

「あれ、結局来なかったの? 美春」

 軽口のつもりでそう訊ねれば、優菜の顔がさっと強張った。もしかしたら、相当きつく「来ないでほしい」と言ったのかもしれない。

 自分と親の関係を考えれば、きつい言葉の応酬なんてしょっちゅうだけれど、優菜みたいなタイプは、そんな態度を取らないのかもしれない。

「あんまり気にすんなよ」

 去っていく背にそう声をかければ、びくりと肩を震わせた優菜が振り向いた。その目には今にも溢れそうな涙の膜が張っていて、遥馬は一瞬気圧される。

「悪いと思ったならさっさと謝れ。で、恥ずかしかったんだーとか、正直に言えばいいんだよ。いや俺だってじーちゃんに授業参観来てほしくないし。それが普通なんだから。深澤は悪くないよ」
「うん……ありがとう」

 わかった、と大きく頷いて優菜は駆け出していった。あんなふうに自分の言葉を後悔できるなんて、名前の通り優しいやつだなと思いながら、遥馬はその背を見送った。

 そんなやりとりを思い返す。
 あの時は喧嘩をしただけだと思ったけれど、今思えば入院したから来られなかったのかもしれない。
 今更気づくと、自分の的外れさに顔を覆いたくなった。

 手術がさくっと終わったら、今度は一緒に試合見に来てくれないかな。スタジアムなら人も多いし、別に誰と一緒に来てたって目立たない。

 よし。「今度美春と一緒に来いよ」と誘ってみよう。そう心に決めて、遥馬は集合場所へと急いだ。



 初戦の相手は、正直に言って大したことのない相手だった。もちろん、そんな態度は微塵も出さないけれど、相手だって県内ベスト4に入るような学校とは実力差があることは前もってわかっているはずだ。

 しかし初戦ということもあり、慣れるためにもベストメンバーでスタメンを組むことが決まっていた。前半で勝負を決め、後半に入ったら遥馬は次戦以降のため温存される――そんなゲームプランだった。

 チームメイトたちと入念にアップを繰り返す。チームの雰囲気は悪くない。
 監督も、自分たちを信じて黙って見守っている。

「よし! 気合い入れていくぞ!」

 キャプテンの遠藤の声が響く。全員が力強く返事をした。

 初の優勝。全国大会出場に向けて、チームの状態は最高だった。

 しかし、前半が三十分を過ぎたころ、それは起きた。


 その瞬間、何が起きたのか、正確には理解できなかった。

 トップスピードに乗った遥馬がピッチの中央を駆ける。相手が必死に止めようと追い縋ってくるなか、足元の技術を駆使して、前へ前へと駆け上る。やはり調子は良かった。誰にも止められる気はしなかった。

 素早く四方に目線を走らせる。パスの出しどころを探りながらさらに加速し――突然、目の前に壁が現れた。正確には壁ではなかった。ブロックに入った相手選手の身体が、ぬっと目の前に出現したように感じたのだ。

 止まれ。
 自分の身体にそう命を下す。でも、遅かった。
 地面を蹴り上げた右足と、相手が出してきた足が空中でぶつかる。

 音がした。なにかとなにかがぶつかり、弾けるような鈍い音。まるで水分を失った枝が、ぼきりと折れるような、音。

 それが骨と骨がぶつかった音だと気づいたときには、遥馬は右足を抑えて地面に倒れ込んでいた。衝撃は強かったけれど、痛みはさほど感じなかった。打った背中のほうがじんじんと痛む。

 それなのに、膝が熱い。まるで内側から熱湯を沸かしているような熱さに慄いた。

 そしてなにより、重い。足が、身体が動かない。
 笛が鳴り、ベンチから監督が飛び出してくるのが見えた。

 ――嘘だろ。なんで。

 じくじくと熱を持つ膝を抱えながら、遥馬は取り返しのつかない事態になったことを本能的に感じ取っていた。



 救急車がこんなに揺れるのだと初めて知った。車内の低い天井が、ずいぶん遠くに感じられる。背中に振動を感じるたび、それ以上に膝に衝撃が走った。

 さっきはわからなかった痛みが、時間差で襲ってくる。いつもなら気にならないほどの揺れが、膝に響いた。
 必死に歯を食い縛って痛みを我慢しながら、何に耐えているのかわからなくなった。ぼんやり光る照明が異様に眩しい。自分はもしかして夢の中にいるのではないだろうかと考え、そのたび、視界にちらちらと入り込む救急隊員の制服が、遥馬を現実に引き戻した。

 病院に到着し、ストレッチャーに寝かされたまま、わけもわからず院内を移動する。目に映るのは無機質な天井だけ。時々聞こえてくる救急隊員の声は、怪我発生時の状況説明だった。
 患者なのか見舞客なのか付き添いなのかわからないが、周囲から大量の視線を注がれているような気がして、遥馬は腕で顔を覆った。
 そのまま「MRIを撮ります」と言われ、白いかまくらみたいな検査装置に入れられた。
「少し音が響きます」と説明された通り、ガンガンと頭の真横で何かを打ち鳴らすような音が響いていた。

 うるさい。眠りたいのに、音がうるさくて意識は昂ったままだ。眠って起きたら、全部夢かもしれないのに。

 三十分近く検査装置の中にいたらしい。そう説明されても時間の感覚はまるでなく、もう夜になったようにも、数分しか経っていないようにも感じられた。

 そのまま今度はどこかの病室に移され、そこでようやく看護師に支えられて上半身を起こした。

 目に見えた光景に、息を呑んだ。
 膝が、バケモノのようにぶくぶくと膨らんでいた。
 自分の足だとは思えない。その異形さに、胸の奥でひたりと何かが滴ったような気がした。

 突然、吐き気が込み上げてくる。慌てて口を押さえると、年配の看護師が背中をさすったくれた。

「大丈夫大丈夫」

 何を言ってるんだ。大丈夫なわけないだろ。

 そう怒鳴りかけて、看護師はただ吐いても良い、と言いたかっただけだと気がついた。
 そのせいか、足元に大きなバケツが置かれていた。

 すう、と息を吸う。口の中が粘ついて不快だった。



「半月板も割れているんだ」

 車椅子に乗せられ、診察室に連れていかれた。
 五十代だろうか、髪に白いものが目立つ男性医師が、温度を感じさせない声でさらりとそう言った。

「これ、さっき撮った画像ね」と断面図のような写真を指差す。遥馬が見てもレントゲンとの違いはわからない。そもそもこの画像が自分の足を写したものだとは、言われなければわからないだろう。

 ただ、二枚の画像を見比べれば、差は歴然だった。おそらく正常な左足を写した画像には、黒く太い線が伸びているが、もう一枚には、それがなかった。水槽の中を漂うクラゲのような影が写っているだけだ。

 そして。

「これが半月板」

 そう言って医師が指差した部分には、不自然な白い亀裂が入っている。これがどの程度ひどい状態なのかわからなかったが、正常ではないことは理解できた。

 呆然としている遥馬に「詳しいことは、親御さんがいらしたらまた説明するけれど」と前置きして医師が話し始める。
 おそらく、わかりやすい言葉で丁寧に説明してくれているのだろう。ゆっくりとした話し方、穏やかな語尾。そんな輪郭は理解できるのに、話している内容はまるで頭に入ってこなかった。

 ただ理解できたのは、次の試合には出られないだろう、ということ。
 でも、じゃあ、次は? その次は?

 試合に出られない日々が続いたとして、プロ入りは、スカウトはどうなる?

 前十字靭帯断裂。半月板損傷。

 スポーツニュースで耳にしては、「大変だなあ」と思っていた病名が、鎌首をもたげて迫ってくる。

 ――そもそも、サッカーを続けられるのか?

 真っ黒い闇の中に取り込まれそうになったとき、

「少し冷たいよ」

 医師がそう言って、アルミの入った黒い固定具で右足を包んだ。膝どころか太ももから足首までを覆われている。装具を固定するためのマジックテープを剥がす音が、病室内にバリバリと響いて、その音に呑み込まれそうな気がした。



 そのまま入院することになり、遥馬が病室に移ったころ、母親がやってきた。
 膨れ上がって固定された遥馬の足を見るなり、「かわいそうに」と呟いた母に対し、瞬間的に頭に血が昇る。

 声にならない叫び声をあげて、遥馬は枕を投げ飛ばした。母が目を見開いてこちらを見ていたが、そんなことには構っていられなかった。

 なんだ。かわいそうって。なんだ。そんな一言で片付けるな。

 胸の奥をかっ開いて掻きむしりたい衝動に駆られる。

 じくじくと痛みを伝えてくる足に対して、苛立つ。なんで動かない。動かせない。どうしてこんなことになった。
 それもこれも、母親のせいじゃない。そんなことはわかっている。
 でも『かわいそう』と言われた瞬間、自分が本当にかわいそうな惨めな人間になった気がした。

 気づけば自らの膝を殴ろうとしていたらしい。慌てて飛び寄ってきた母親に両腕を抑えられる。その腕から逃げようと、必死に上半身を暴れさせた。

「遥馬! 足を動かしたら余計悪化するから!」

 半ば叫ぶような母の声に、遥馬はようやく動きを止めた。肩で大きく息をつく。
 しかし苛立ちはおさまらず、敷布団に強く拳を立てた。布団はばすんと鈍い音を立てただけだったが、指の骨はやけに痛んだ。



 母親とふたり、医師から病状と今後の治療方針の説明を受ける間、遥馬はうつろな目で床を見下ろしていた。
 医師の目の前には、ついこの前見せられた画像がまた並べられている。とても視界に入れたくはなかった。

 手術。入院。リハビリ。これからのスケジュールが淡々と説明される。といってもそれはまだ、松葉杖を外し、歩行ができるようになるまでの道筋だった。杖なしで歩くだけで、二ヶ月近くかかるという現実を改めて説明された。

 それは病室でひとり、手元に戻ってきたスマホで検索した結果と同じだった。だから驚くことではない。ただ絶望を再確認するだけの時間だった。

 二ヶ月。地区予選は終わってしまう。それどころか、インターハイまでカウントダウン、という時期だ。
 そんな時にようやく歩けるかどうか、だなんて。

 一通り説明が終わり、隣で母親が深く頭を下げたときだった。

「先生。また、サッカーできますか?」

 遥馬の平坦な声が響いて、隣で母が息を呑んだのが伝わってきた。
 じっと正面の医師を見上げる。彼は遥馬を見返すと、はっきりと頷いた。

「もちろん」

 力強い声に、ふっと意識が引き上げられた。
 けれど次の瞬間。
 しかし、と医師は続けた。

「時間はかかる。正直、かなりかかる。焦って悪化させたら意味がないからね。それだけは覚悟しておいてほしい」

 時間が、一番足りないのに。
 一歩一歩、確実に上っていたはずの階段が、砂のように崩れていく。
 それは思い描いていたはるか上段からさらさらと砂粒と化して、あっという間に目の前まで迫ってきた。
 そして、自分が今立っている場所さえも、呆気なく。

 遥馬は頷くこともできず、ただじっと自分の骨を写した画像を見つめていた。


 *


「こんなんで元に戻んのかよ……」

 遥馬はひとり、病院のベッドで頭を垂れた。

 一晩経っても、状況は変わらなかった。鈍い痛みと熱さを訴えてくる膝。
 四人部屋の一角、窓際が遥馬のベッドだった。同室は遥馬より年嵩の男性ひとりで、あとのふたつは空いていた。その男性はスポーツが好きらしく、いつもテレビでスポーツ中継やニュースを見ていた。イヤホンを使っているから音声は聞こえない。けれど画面にサッカーのピッチが映っているのを見るだけで、頭を掻きむしりたい衝動に駆られるから、遥馬はカーテンを閉め切りにしたうえで、なるべくその男性の方を向かないようにしていた。

 県大会優勝、インターハイ出場。それが目標だった。そのために辛い練習も乗り越えてきた。

 けれどもし、このままサッカーができなかったら。いや、以前と同じようにプレーできなかったら。果たして生きている意味はあるのだろうか。動ける感覚がはっきり残っているからこそ、自由にならない身体が疎ましかった。

 どんなトレーニングもサッカーのためだと思えば頑張れた。でもこれから待っている日々はサッカーのためじゃない。身体を元に戻すため、だ。サッカーには繋がっていない。

 焦燥感とやるせなさに包まれながらベッドに横になっていると、カーテン越しに声をかけられた。


「宮代くん? 深澤だけど、入ってもいい?」

 予想外の声に、思わず姿勢を正した。固まっていた背中にぴしりと痛みが走る。

 ――なぜ深澤がここに?

 こんな姿を一番見られたくない人間が、現れるなんて。

 遥馬は一瞬居留守を使おうかと、口を固く閉ざした。しかしカーテン越しに感じる優菜の気配は動く様子がない。
 そっと手を伸ばし、わずかにカーテンに触れる。開けるほどの力は入らなかったけれど、かすかに揺れたカーテンに気づいたのか、優菜はその隙間から顔を覗かせた。
 目は、合わなかった。優菜の目は遥馬の足に向けられていて、そのひどく腫れた箇所に目が釘付けになっているのがわかった。

 嫌だ。見られたくない、彼女には。
 見るな。

 遥馬はいっそう目を逸らした。

 それでも我に返った優菜が、自分の鞄の中身をひっくり返す勢いで漁り始めたのがわかった。
 しばらく、鞄の中でものを移動させるがさごそとした音だけが響いていた。遥馬が重いため息をつきそうになったとき、優菜がファイルを差し出してきた。

「宮代くん、これ……」

 優菜が差し出したファイルを、ぼんやりと見下ろす。

 一番上に、数学の公式が見えた。
 今この時まで、学校のことなど何ひとつ考えていなかったと気づいた。
 必要ないからだ。サッカーができないのに、学校に行く意味なんて見出せない。
 ぴくりとも動かずにいたのに、優菜もまたファイルを差し出したまま動かなかった。
 じっと見下ろしてくる視線から逃れたくて、遥馬はファイルに触れた。優菜の手が離れた瞬間、自らも指を離し、わざとベッドの上に取り落とした。かすかな音を立ててファイルが布団の上に落下したのがわかったが、拾うつもりはなかった。

「プリントと、ノート写したの、入れておいたから、よかったら――」
「いらない」

 優菜の動きがぴたりと止まった。
 固まった表情がやがて歪んでいくのを視界の隅にとらえながら、

「そういうの、いい」

 小さく、けれど確かに聞こえるように、遥馬はそう言い放った。

 そんなことを言いたいわけじゃなかった。
 本当は、来てくれてありがとう、とか、心配かけてごめんな、とか、そんな言葉を言いたかった。
 優菜を安心させるように、ほんの少しでいいから笑いたい。

 でも、できなかった。
 そうすべきだと思っているはずなのに、表情筋も、身体も、声も、すべてが正直な反応を示してしまう。

 優菜の前では、いつもの明るい自分でいたかった。そんな自分を応援してほしかった。
 でもそれはもう、叶わない。
 そう思ったら、もうどうでもよくなってしまった。
 力が入らない。

 逃げられない。でも、逃げたい。こんな姿を見られたくない。
 いつも励ましてくれた優菜には一番、見られたくなかった。

 ただの八つ当たりだ。それでも抑えることができなかった。やがてぱたぱたと足音が響き、我に返った。
 床に転がったファイルから、ルーズリーフが見えた。
 丁寧で、几帳面な文字。読むたびにあんなに嬉しかった優菜の文字なのに、視界に入るだけで胸を掻きむしりたくなるくらい、苦しい。

「くそ、くそ……っ」

 泣いたってなにも変わらない。でも涙は止まらなかった。

 *

 手術が終わった。
 病室を覗いた医者は「成功だ。あとは良くなるだけ」と言っていたが、それはつまり、完治するのかどうか先の見えない長い道のりが始まったということだった。

 術後、腫れはいっそうひどくなった。パンパンに膨れ上がった膝は、自分のものだと思えない。何度も触って感触を確かめようとしたけれど、何重にも巻かれた装着具の厚みに押し返されただけだった。
 膝になにか重しでも入れられたかのように痛い。背中から通された管によって、強力な痛み止めが流れ込んでいるはずなのに、鈍い痛みに襲われ続けている。

「明日からは飲み薬になるからね」と言われたけれど、それは逆に痛みと格闘することになるのではないだろうか。鈍痛が頭まで響いて、なかなか眠ることもできないというのに。

 しんと静まり返った病棟で、何度も手元のスマホで時間を確認した。眠れないまま日付は変わる。どこの病室の患者も寝静まった気配がするのに、モニター音や点滴の滴るわずかな音が耳につく。結局、うとうとしては起きてを繰り返しているうちに、空は白んでいた。


 飲み薬だけになっても、鈍い痛みの質は大して変わらなかった。激痛に苛まれなくてすんだことは救いでもあったが、それだけではなかった。痛みがなくなれば良くなるのかも、という希望も抱かせてもらえなかったからだ。
 術後、いっそうひどくなった腫れは徐々に治まってきたように思える。少しずつ良くなっていくように見える身体に、「何か超人的な力が働いて、奇跡が起きないだろうか」と願ってしまう。

 しかし、その願いはリハビリが始まると同時に打ち砕かれた。リハビリといってもまだ膝を曲げるだけの段階だ。サッカーどころか歩くことすらままならない。
 理学療法士がわずかに膝を押し下げるだけで、びりびりとした痛みが走る。額に脂汗が浮かんだ。

「っ……」

 決して泣き言を言いたくないと思っているのに、無理だやめてくれ、と叫びたくなってしまう。ぶるぶると上半身を震わせ、痛みに耐える。歯を食いしばっていると、やがて遥馬の膝を押さえていた腕が離れていった。

「今日はここまで」

 曲がった、とはとても言えない。少し膝に角度をつけるだけで、必死だ。
 しかもたった数秒の動作で、膝はあっという間にまた熱を持ち、腫れてしまう。
 一進一退どころではない。ただスタートのずっと後ろに引き摺り下ろされただけ。

 遥馬はそう思い知った。

 トイレに行くのすら、看護師を呼んで車椅子に乗せてもらわなければならない。自由どころか、尊厳すら奪われたような気がした。
 気分転換に病院をまわってみる? と提案されたけれど、いちいち車椅子に乗せてもらうのも億劫で、遥馬はほとんどの時間をベッドに横になって過ごした。
 怪我をしていない足も、鍛えた筋力が落ちていくのを感じる。
 けれど、何をする気にもならなかった。

 遥馬の気持ちとは裏腹に、「松葉杖を支えるのにも必要だから」と上半身のリハビリメニューも始まった。サッカーのトレーニングに比べたら、お遊戯みたいなものだ。

 けれど今の自分には、それがお似合い。鏡に映った自分の身体はわずか数日でひどく貧相になったように見えた。
 今までの努力が、すべて泡となって消えていく。
 砂となってさらさらと自分の指の隙間から溢れ落ちていくようだった。


 一週間ほどすると、優菜はほとんど毎日のように病室に現れるようになった。

 しかし顔を合わせる機会はさほど無かったのが救いだった。学校終わりに寄っているのだろう。その時間は遥馬がリハビリに行っていることも多く、病室に戻ってくるとファイルが置いてあった。何の変哲もないクリアファイルの下に、キラキラ光るサッカーボールのシールが貼ってあった。
 ファイルを手に取ってはそのシール部分を爪で弾く。毎回違うファイルで持ってくるから、遥馬のもとには同じものがどんどん溜まっていく。

 あれだけはっきり拒絶したのだ。進んで来たいと思うわけがないのに、何を考えているのだろう。
 手元に溜まったファイルを重ね、虚しいほど自由に動く手で揃える。
 貼られたサッカーボールのシールを剥がそうと爪を立て、その度に何もせず戸棚に突っ込んだ。

 枕元に置いたスマホはほとんど鳴らなかった。おそらく、部員や学校にも遥馬の病状が伝わっているのだろう。気を遣っているのか気まずいのか、ほとんど誰からもメッセージは届かなかった。こうして一日中病院にいると、まるで世界が自分のことを忘れたような気がしてくる。仲が良いと思っていた友人も、チームメイトも、みな本当は自分のことなんて興味がなかったのだろう。ただ少しサッカーが上手いから、それで仲良くしていただけ。

 サッカーを失ったら、友人でいる意味もないに違いない。

 もはや生きているのかもわからない自分を、一番見せたくない相手なのに。優菜がやってくる時だけ、自分はまだこの世に存在しているのだ、と遥馬は感じるのだった。


 松葉杖での歩行が問題ないと判断され、退院することになった。

 他にも、傷口の状態やリハビリの進捗など、さまざまな条件が整って退院が認められたらしいが、遥馬にとってはどうでも良かった。

 入院して、二週間が経っていた。最初に聞いていた予定より、少し後ろ倒しになっている。順調ではないのかもしれない。ただ、それすら興味をもてなかった。

 走るなんてとんでもない。ただ杖を繰るのが上手になっただけで、元通りになるかどうかなんて、まだわからなかったから。
 気づけば慣れ親しんでしまった病室を後にした。といっても二日に一度はリハビリで病院は訪れるのだから、何の感慨もなかった。

 それよりも、学校に登校するようになって思い知った。

 いっそ入院していたときの方が楽だった、と。

 松葉杖で階段や段差だらけの校舎を移動するのは、ひどく骨が折れる。席に座って鞄を机の横にかけるだけで一苦労だ。
 そして何より、周囲から向けられる目が嫌だった。
 同情するような目。そしてその中にちらほら、こちらを吟味するような強い瞳を見つけた。彼らは隙あらば自分に悪意を向けようとしてくる。自分はいつのまにそれだけの恨みを買っていたのだろうか。
 スタメンになり、サッカー部で注目されることで、実はやっかみを買っていたのかもしれない。そんなこと、まったく考えていなかった。

 サッカー部は順調に勝ち進んで、県予選の決勝まで進んだらしい。自分がいなくても、インターハイへの切符を手に入れるかもしれない。喜ばしいことのはずなのに、ただ胸にぽっかりと穴が空いたように感じてしまう。
 上手くいかないすべてのことから逃れたい。けれど現実は――。



 一度、優菜にひどく当たってしまった。教室で自分を庇ってくれた彼女に対し、そんなことは望んでいないと突き放すようなことを伝えたのだ。その瞬間の優菜の凍りついた表情は、脳裏にこびりついている。
 自分がそんな顔をさせたのだ。忘れられるわけもなかった。

 それでも、自分が欠席した授業のノートは優菜から届き続けた。彼女はいったい何を考えているのだろう。こんなこと、なんの意味もないのに。


 術後、一ヶ月以上経ち、ようやく松葉杖が外れる日がやってきた。もはやそれにいったい何の意味があるのかわからなかったけれど、何をするにも人目を集めていた松葉杖がなくなるのは、喜ばしかった。

 授業を終え、病院へと向かう。もう通い慣れてしまった整形外科のある病棟に行くため、中庭を通り抜けようとしていると、ふいに向こうから駆けてくる人影が視界に映った。ただでさえゆっくりと進めていた歩みがさらに遅くなる。

 遥馬の入ったことがない病棟から出てきたらしい。脇目も振らずに走っているのは、優菜だった。前髪が額に張り付き、スカートの裾が翻るようにはためいていた。

 思わず足を止める。いつもと様子が違う。自然と眉を顰めていた。

 しかし遥馬に気づいてすらいないようで、優菜は一目散に横を駆け抜けていく。
 だが、すれ違った瞬間、遥馬の口から「え?」と声が漏れた。

「おい」

 思わず声をかける。けれど優菜の耳には届かなかったのか、彼女は止まることなく駆け抜けていった。伸ばした手は、まったく届かなかった。当然だが、追いかけることもできない。

「くそ」

 遥馬の口から小さな声がこぼれた。
 優菜は病棟の角を折れ曲がり、あっという間に後ろ姿が見えなくなった。
 遥馬は思わず追いかけようと、松葉杖を優菜が去っていったほうに向けた。

 だが、二歩は続かなかった。走っている人間に、今の自分が追いつけるわけがない。
 ただ――。
 優菜は、泣いていたように見えた。一瞬だったから、見間違いかもしれない。確証はない。遥馬は自分にそう言い聞かせる。

 どちらにせよ、自分には関係ない。

 *

 長らく相棒と化していた松葉杖を壁に立てかける。
 理学療法士に言われるがまま、そっと立ち上がった。右足の裏で、地面――といっても病院の床だけれど――を踏む。久しぶりの感覚に、足が痺れているような感覚を覚える。まるでずっと正座をしていたようだ。何の支えもなく歩くのは心許なく、壁に手をつきながら一歩ずつ進む。右足は思ったように前に出ない。まるで自分のものではないような感覚だ。
 それでも「上手い。すごいよ」と褒める理学療法士に、緩く首を振る。

 ここまでで一ヶ月。まだ膝はうまく曲がらない。この状態から走れるようになるなんて、想像もつかなかった。
 それでも松葉杖がなくても動けるようになると、少しだけ心が晴れた。

 いつも机の真横に立てかけていたそれを、教室の後ろの壁際に置いて、席に座る。ゆっくりではあるが、杖がなくても座れるし、立ち上がれる。
 ホームルームのためにやってきた担任にも、松葉杖が外れることは母親が連絡していたのだろう。ちらりとこちらを確認すると、担任はふっと表情を緩めた。しかしすぐにその顔をひきしめ、

「えー、今日、深澤は忌引きで休みだ。それでは出席を――」

 クラスメイトの名を呼び始めた担任の顔を、ぽかんと見上げた。

 きびき。

 上手く漢字を思い浮かべることができなくて、でも聞き覚えのある音が先に状況を思い起こさせる。

 誰か、亡くなったのだろうか。
 そして同時に、昨日すれ違った優菜の表情を思い出した。
 どうして入院中の自分をあんなに頻繁に見舞ってくれたのか。
 考えて、思い至る。それはあの病院に、優菜自身の用があるからに違いなかった。

 そうだ。祖母の手術がある、と言っていた。
 なぜ、忘れていたのだろう。優菜はあんなに祖母の話を聞かせてくれていたのに。

 もしや、と思い浮かんだ仮定に、じわりと嫌な予感が迫ってくる。遥馬はその想像を追いやろうとして、緩く頭を振った。
 ただひとつだけわかった。昨日すれ違った優菜は、やっぱり泣いていたのだ。


 二日後、登校してきた優菜は特段変わらないように見えた。仲の良い友人たちと笑い、授業中に当てられればハキハキとした声で解答した。
 ただ時々――例えば授業と授業の合間の休み時間、ふとひとりになったときに、ペンを片手に本を読んでは、何かを書き込んでいた。そしてたまにそっとページを撫でている。
 その横顔が今にも消えてしまいそうで、遥馬は思わず息を呑んだ。友人に話しかければまたすぐにふっと雰囲気は緩むけれど、その目は常に潤んでいるように見えた。

 念の為、と病院から借りっぱなしにしていた松葉杖を、初めて家に置いてきた。もう杖を使わなくても良いというお墨付きは出ているのに、一本とはいえ松葉杖を持ち歩いていたのは、あった方がいろいろと便利だ、ということに気づいてしまったからだ。
 松葉杖をついていれば、遠くからでも怪我をしているのだとわかる。よっぽど悪意のある人間でなければ、道を譲ってくれるし、わざわざぶつかってくるような人はいない。

 けれど杖なしでは、行き交う人の『普通』についていけない。足早に通り抜けるひとを避けるのもひと苦労だし、特に朝は歩みが遅いのにイラつくのか、わざとぶつかってくるような人もいる。
 これまでは何とか避けられているけれど、本当に衝突したら取り返しがつかないだろう。何しろまだ膝は十分に曲がらないし、とっさに受け身を取るのも難しいのだ。まだ右足を庇わないと歩けないのだから。

 広い道を選んで通学しているものの、通り過ぎたり背後から抜かれるときは、今でもどきりとして立ち止まってしまう。
 だから朝は、だいぶゆとりを持って家を出発していた。それでも、朝練があったときと比べればだいぶ遅いのだが。
 ゆっくりと、まるで亀のように進む。両足を交互に前に出すことはできない。常に健康である左足から前に出し、それに右足を揃える。
 一歩踏み込むと、膝に突き刺すような痛みがあるからだ。季節が進んで湿気のこもった空気がまとわりつくようになった今、ゆっくり歩くだけで汗をかく。

 いっそ雨が降れば、その日は諦めて車で送ってもらうのに。今年の梅雨はどこかへ行ってしまったのだろうか、というくらい快晴続きだった。
 校門からグラウンドの真横を通り過ぎ、俯いたまま校舎へと向かう。松葉杖が外れても、ここを通るときだけは、顔を上げられなかった。
 グラウンドでは、サッカー部の部員たちが朝練に励んでいる。自分も当たり前のように参加していた基礎練習。この時期は、気温がだんだん高くなり、朝練を切り上げる頃にはグラウンドは土埃で蜃気楼のように烟る。
 脳裏にそんな光景が蘇って、遥馬はいっそう深く下を向いた。
 制服を着ていれば、太ももが細くなったことはわからない。けれどみるみるうちに筋力は落ちていき、今では九十分走り切る自信なんて、微塵も無かった。

 そもそもボールが蹴れるのだろうか。この足で。

「ねえ。リハビリのない日は部活出られるんでしょう?」

 松葉杖が外れたと聞きつけたのか、教室にやってくるなり玲はそう訊ねてきた。
 その瞬間、クラスのざわめきが途切れる。どことなく皆が息を潜めたような空気が漂っていた。

「……まあ」

 医者からは、部活に出るなとは言われていなかった。理学療法士からも、今の時点でできるリハビリは教わっている。

「ボールにはさわれないけど」

 本当は、座った状態で足裏でボールを転がすくらいはしても良いらしい。ただ、触れると蹴りたくなるものだからもう少し止めておいた方がいいと思う、と言われていた。

「……そうなんだ」

 玲が、努めて明るい口調を保とうとしているのが見て取れた。けれど落ちた肩は落胆の色を隠しきれていない。

「だから、部活は出るつもりない」
「え」

 遥馬が断言すると、玲が驚いたように見つめてきた。

「なんで」
「家で十分だろ」
「でも、補助が必要な動きとかあるでしょ。部活だったらマネージャーで手伝えるし――」
「いい」

 玲の説得を遮って言い切る。もう話すつもりはない、と遥馬は玲に背を向けた。

「ちょっと!」

 玲が声を荒げている。しかし遥馬は決して振り返らなかった。
 そのうち予鈴が鳴り、「あとでまた来るからね!」と言い残して玲は去っていく。
 遥馬はイライラと教科書を机に叩きつけた。
 舌打ちだけは、なんとか堪えた。


 県予選は今年も準優勝という結果だった。
 途中でスタメンの入れ替えをせざるを得なかったことを考えれば、上々の結果だった。
 遥馬のポジションは試合ごとに選手を変えて臨んだらしい。それが相手チームの撹乱を呼んだ、という評判もあるようだ。遥馬の代わりに試合に出た彼らは、絶対的なスタメンに選ばれるよう、努力しているだろう。一度試合に出てハマれば、化ける。それは遥馬が一番よく理解していることだった。

 まだボールに触れることさえできない自分が、彼らに勝てるのか?

 これまで自分が前を走っていたはずなのに、追いかけられるどころか、一瞬で追い抜かれてしまった。
 リハビリの強度は変わっていない。
 本当は、学校に来ている時間さえもどかしい。ただ机に座っている間に、足がどんどん固まっていく感覚に陥る。良くなるどころか、悪化している気がした。
 教師の声を聞き流しながら、右足だけを机の下で前に伸ばし、右手で膝をぐりぐりと押しながら動かす。せめて固くならないように、膝の動きを取り戻せるように。
 休み時間には廊下の手すりを掴んで、そっと左足を上げる。すぐに右足の膝がぐらついてバランスを崩した。慌てて両手で手すりにすがりつく。
 心臓がばくばくと嫌な音を立てていた。たかがこれだけの動きで。

「お、宮代! 松葉杖取れたんだって?」
「そろそろ部活復帰するのか?」

 背後からやってきたのは、同じ学年のサッカー部員だった。久しく顔を合わせていなかった彼らをぽかんと見上げる。スタメンではなかった彼らだが、わずかひと月ほどで、ずいぶん日に焼けた気がする。

「やっぱりお前がいないと俺らの代は始まらないからさ」
「早く戻ってきて、またキラーパス出しまくってくれよ」

 何の邪気もない、仲間の復帰を疑っていない言葉が、遥馬の胸に突き刺さった。

「……いや」

 遥馬が目を逸らすと、ふたりは顔を見合わせて首を傾げた。

「なんだ、まだ無理なの?」
「……まあ」
「そうか。やっぱり時間かかるんだな」

 わざと明るい言葉をかけているのだと、思おうとした。それでも顔が引き攣って、固まったように動かなかった。
 何も言おうとしない遥馬に飽きたのか、

「まあいいや」
「無理すんなよ〜」

 ひらひらと手を振りながら通り過ぎていく。
 まさか、まだまともに歩けもしないとは思ってもいないようだった。
 ふたりの後ろ姿が瞬く間に見えなくなっていくのを見送りながら、遥馬は唇を噛み締めた。

「……くそっ」

 手すりにガン、と拳を叩きつける。
 憤っても仕方ないと理解はしていた。それでもあっさりサッカーに戻れると思っているふたりの肩を掴んで訴えたかった。

「もう、これまでのようには動けないかもしれないのだ」と。

 なんで。なんで、なんで。
 また言葉にならない黒い靄が迫り上がってくる。
 衝動が突き上げそうになって、遥馬が眉間をおさえたときだった。

「宮代? 大丈夫か?」

 ひと月ほど前まで嫌というほど聞いていた声がして、振り返る。
 キャプテンの遠藤が、どこか不安そうにこちらを見ていた。
 遥馬の今にも泣き出しそうな表情を見たからか、どこか窺うように近寄ってきた遠藤は「とりあえず松葉杖は外れたんだってな」と笑みを浮かべた。

「……はい」
「まだ部活に出るのは厳しいか」
「……すみません、キャプテン――」

 出たくないのだ。そのひと言が喉まで出かかった。上へ上へと練習しているチームメイトの隣で、黙々とリハビリに励むなんて、できそうもない。
 そんな弱さを曝け出そうとした。

 けれど遠藤はふっと息をこぼした。

「宮代、俺はもうキャプテンじゃないよ」

 あ、と気づいた。
 準優勝とはいえ、県予選敗退。つまり、大方の三年生は引退だ。そして部活動は二年生が中心になる。
 サッカー推薦で大学に進む生徒は残るが、遠藤は大学受験組だと聞いていた。
 自分の知らない間に、時間は確実に進んでいる。

「と言っても、まだ次のキャプテンは決まってないけどな」
「そう、なんですか……?」
「そりゃ、お前がいないからな。それじゃ決められないだろ」
「え……?」
「普通に考えたら、次のキャプテンはお前だろ」

 遥馬は目を見開いていた。そして、力なく首を横に振る。

「無理です」
「無理ではないだろ」
「いえ。だって――」

 このまま辞めるかもしれない。
 喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
 漠然と抱いていた思いが形になる寸前で、口を閉ざしていた。

 けれど、遠藤は遥馬の言おうとしたことを、理解したようだった。

「俺、卒業前にもう一度宮代とサッカーするの、諦めてないからな」

 弾かれたように遠藤の顔を見上げた。ぽかんと口を開けていたのかもしれない。
 遠藤はまっすぐに遥馬を見つめていた。

「公式戦は無理だろうけど、卒業生の追い出し試合、忘れてないよな?」
「……はい」

 三年生の進路が決まった頃に行われる、部内試合。練習試合とはいえ、三年生と最後に行う試合は、毎年外部からの観客も押しかけ、グラウンドのまわりがいっぱいになるくらい盛り上がる。
 遠藤は、遥馬の病状を聞いて妥当な目標を出してくれたのだろう。ただそれは、冬の選手権予選は、間に合わない、と認めることだ。三月の練習試合ですら、確実に出られるとはいえない現実に、気が遠くなる。

「すみません……」

 頑張ります、とは言えなかった。


 病院で、理学療法士に診てもらいながらリハビリをする日は、まだ良い。
 自分ではまったく実感がないけれど、「前回より曲がるようになってるよ。もう少し負荷を強くしても大丈夫そうだ」と良くなっている、と思えるような言葉をかけてもらえる。

 自宅で、ひとりで行うリハビリは、孤独だ。
 膝の横に走った傷の痕は、まだ赤みを帯びている。視界に入るたび、戻らないあの瞬間への後悔が重く立ち込めるから、遥馬は丈の長い服しか着なくなった。夏が近づき寝苦しくなってもハーフパンツなんて履く気にならず、クローゼットから引っ張り出してきたそれらは全部ゴミ袋に突っ込んだ。
 部屋のゴミ袋を回収しようとやってきた母が、それに気づいて目を見張った。その瞬間、遥馬はわざとらしく目を逸らしたが、母は何も言わずにゴミ袋を掴むと出て行った。
 これまでだったら、「ゴミくらい自分で持ってきなさい」と怒られていたのに。

 遥馬はふっと息を漏らした。サッカーの練習がどんなに厳しくても、「出してない練習着は洗濯しない」「弁当箱は自分で洗え」と口を酸っぱくして言っていた母が、今ではなんでも先回りしてやってくれる。いっそ「自分でやれ」と言ってくれた方がすっきりするのに。

 足を伸ばして座り、膝の下に丸めたタオルを差し込んだ。ぎゅっと力を込めて、膝を床に押し付ける。1、2、3、4、5。時計の秒針よりゆっくり数えながら、膝の横側の筋肉がかすかに盛り上がっていることを確認する。半月板の損傷と同時に消えてなくなってしまったのかと思っていた膝の筋肉は、まだ一応存在しているらしい。

 すぐにもう一度数字を数えはじめ、息を細く吐き続ける。もう一度。素早く三秒数える間だけ休んで、もう一度。
 何度繰り返しても、筋肉はわずかにしか動かない。歯を食いしばりながら、遥馬は淡々と膝裏に力を入れ続ける。



「ちょっと腫れてるね。今日は膝のトレーニングはやめておこう」

 さらりと言った理学療法士の言葉に耳を疑った。

「……なんで!」

 座ったままきっと見上げると、彼は屈んで目線を合わせてきた。

「家で相当頑張ってるんじゃない? その姿勢は素晴らしいけれど、言ったよね。やりすぎは良くないって。また断裂したらどうするの?」

 恐ろしい仮定に遥馬は息を呑んだ。
 もし、また――。
 ふるふると首を横に振る。そんなこと、想像もしたくない。
 理学療法士はすっと立ち上がると、リハビリ用の椅子を運んできた。

「膝に負荷はかけられなくても、他に鍛えなきゃいけないところはたくさんあるから。大丈夫。休んでる暇はないよ」

 少しおどけるように言う彼に従って、ゆるゆると立ち上がる。膝にぴしりと痛みが走って、顔を顰めた。