「来週、やっと緩和ケアに移ることになったわ」
夜、仕事を終えて帰宅するなり母は言った。
ようやく、という思いが込み上げると同時に、もう治療ができないという事実が迫ってきて、優菜は「そう……」とだけ答えた。
今の病棟でも、すでに積極的な治療は行っていなかったけれど、まわりの環境が変わらないこともあって、祖母の入院生活は穏やかに続いているように錯覚していた。
けれど実際には、同じ病院内にある緩和ケア病棟に空きが出るのを待っていただけなのだ。
終末期をどう過ごすか、という相談をして、祖母が選んだのはホスピスに移る、という結論だった。
幸いなことに、総合病院内には緩和ケア病棟があるから、移るのも比較的スムーズだろう、と言って、誰の意見も聞かずにあっさりと決めてしまった。
その決断を聞いてからも、本当に治療しなくて良いのだろうか、と優菜は何度も思った。たとえ終末期と宣告されたって、具体的に余命宣告されたわけではない。治療したら少しは長く一緒にいられるのではないか。自らそのチャンスを手放す必要はあるのだろうか、と。
けれど、祖母は「つらい治療に耐える自信はないの。この歳まで生きられたから大満足よ」と意見を変えることはなかった。
母と祖母の間でどんな会話が交わされたのか、優菜は知らない。けれど母から祖母の決断を聞かされた時、ああ祖母はひとりで決めたのだ、と察した。
母の声が細く、掠れていたから。
優菜が思ったことは、きっと、とっくに母が伝えているはずだった。
それでも。
「家に帰ってきたら?」
祖母の決断を聞いてから、一度だけ本人に優菜はそう提案した。祖母は柔らかい瞳を何度か瞬いて、ふっと笑った。
「家に帰っても落ち着かないもの。それなら穏やかな病院で過ごした方が気が楽だわ」
「でも……家だったら色々あるし、できるじゃない。謎解きの本だっていっぱい置いてあるし、洋服だってお気に入りのものがあるでしょ。近所にお出かけもできるかもしれないし」
あの手この手で思い浮かぶことを伝える優菜に、祖母はふるふると首を振った。
「いいの。もうそんなに動く力もないしね。それに意外とこの病院、気に入っているのよ」
本当に?
何度もそう訊ねようとして、ぐっと唇を噛む。
いつもより柔らかいくらいの声音でそう言われてしまったら、それ以上言葉は重ねられなかった。
祖母の言葉がすべて本音だとは思わないけれど、その裏にある気遣いが滲んでいるから。
母親はある程度仕事をセーブしているようだったけれど、それでも毎日出勤している。
祖母が家で過ごすためには、在宅ワークに切り替えるくらいじゃないと厳しいのだろう。病院なら看護師さんもスタッフさんもいてくれるけれど、自宅で二十四時間誰かが付き添うのは、確かに難しい。
でも。
終末期はだいたい半年だという。たったそれだけの期間だけでも、家で一緒に過ごすことは難しいのだろうか。
「おばあちゃん、家に帰りたくないのかな」
そんなわけない、と思いながら、母の前で、優菜はぼそりと言ってみた。母は優菜をちらりと一瞥すると、「……どうかしらね」と答える。
その曖昧な返答に、カチンと来た。
どうもなにもないだろう。帰りたいに決まっている。
けれどそれを言えないのは、母のせいではないのか。
優菜は思わずきっと母を見上げた。
「私、学校終わったら早く帰ってくるし、おばあちゃんのことも家のこともできるよ」
家事だって今はだいぶ手抜きをしているけれど、やろうと思えばもっと頑張れる。
祖母の食べやすいお粥やうどんを用意することだって苦じゃないし、トイレに行くときに手を貸すことだってできる。
半年くらい。いやもっと長く続いたって。
「……それが嫌なんだって」
「え……?」
躊躇いながらもはっきりとした母の口調に、優菜はぴたりと動きを止めた。
「家族に負担を強いるくらいなら、病院のほうが気が楽だって」
「そんな……」
告げられる言葉に、優菜は顔を強張らせた。
気が楽だなんて、本心なのだろうか。家族に気を遣っているだけで、本人の希望は違うのではないか。
「ショートステイも考えてみようかって話したんだけど、そうするとまずベッドを借りたり、家の段差を解消したりしないといけないでしょ。なかなかすぐには難しくて」
「そんなの! そのくらい何とかしてあげればいいのに!」
思わず声を荒げた優菜に、母が息を呑む。
無言で見つめあったあと、つと目を逸らされて、優菜はいっそう強く唇を噛んだ。
わかっている。優菜にできることは少ない。学校に通わなければならないし、自分がどれだけ頑張ると言ったって限界はある。祖母が優菜の時間を奪うことに、罪悪感を覚えてしまうことだって、想像できる。
でも――。
祖母と交わした約束は、ほとんどひとつも達成できていない。
まだ一緒にやりたいことがたくさんあるのに。自分が後回しにしてしまった約束が、いくつも宙に浮いたままなのに。
どうしてあの時、避けてしまったのだろう。謎解きに行こうと言われたとき、曖昧に断ってしまったのだろう。そんな後悔がいくつも浮かんで、優菜の身体を縛るように締め付ける。
――だって、いなくなっちゃったら、もう遅いのに。
結局、優菜の思いつきは誰からの――祖母本人も含めて――賛同を得ることはなく、淡々と時間が経過していった。
*
「ねえ、新しくできた駅前のカフェに行かない?」
教室で友人のひとりにそう声をかけられて、優菜は「……ごめん」と手を合わせた。
こうやって誘いを断るのは、もう何度目だろう。それでも声をかけ続けてくれる友人は有難い。
「えー、最近どうしたの? すぐ帰っちゃうじゃん」
「ちょっと……、まあ、家でいろいろあって」
「へえ。え、なに、やばいの? 揉めてる? うちも親が最近うるさくてさ、そろそろ予備校行けって言われてる」
「やばいっていうか……」
優菜はとっさに苦笑いを返した。両親は優菜の勉強には基本的にノータッチだ。優等生と言われるほどではないけど、心配をかけるほどの成績ではない。可もなく不可もない。進学できないほどではないはずだった。その分、何も考えていなかったとも言えるけれど。
「進路かあ……そうだよね」
むしろ今の話でようやく進路を考えねばならない時期なのだ、と思い至ったくらいだ。
「え、なに、ちがうの?」
「あー、ううん。そんな感じ。ちょっと落ち着くまで、難しくて」
「そっかあ。でもさあ、たまには気晴らししないと、おかしくなっちゃうよ」
「うん。行けたら行くから。また誘って」
じゃあ、と優菜は急いで教室を飛び出した。
「そんな深刻じゃないんだけどね」と嘘をつくのも嫌だし、だからといって、本当の事情を説明して、友人たちに無闇に気を遣われることも避けたかった。
優菜が、祖母の入院を素直に打ち明けることができたのは、遥馬だけだ。そのことに今更ながら気づいて、優菜は歩調を緩めた。
遥馬の応援に行けない理由を説明するためとはいえ、するりと口にできたのは、言っても大丈夫だ、と無意識のうちに思っていたのかもしれない。
遥馬なら、優菜の現状を受け止めてくれる、と。
たかだか一ヶ月ちょっと前のことなのに、もうずいぶん昔の出来事のように感じる。
昇降口にたどり着き、下駄箱の前で靴を履き替えた。ふと目に入った上履きは、全体的に煤けたように汚れている。
持って帰らなければ、と思いながらいつも後回しになってしまっている。
祖母が入院してから、友人たちの誘いはほとんど断っていた。なんとなく、自分のことを優先したり、自分が楽しんだら、そのぶん、祖母の身になにか起こるのでは、と迷信めいた恐怖を感じていた。
そして今では、自分が楽しめばそのぶん、祖母の寿命が短くなるような、そんな気がしていた。
――短くって、どのくらい?
そう考えるたび、自分の呼吸が浅くなるのを感じる。
だって優菜が高校を卒業するころには、祖母はこの世にはいないのだ。おそらく。
それどころか、三年生に上がるころには。
半年なんて、年を越えることもできないかもしれない。
急に終末期という言葉のイメージが明確になって、口を手で覆った。きつく目を閉じる。
込み上げてきた涙を必死に堪えて、優菜は屋外へと駆け出した。
緩和ケア病棟は、それまで祖母がいた一般病棟とは雰囲気がまるで違った。
自動ドアを潜ると、穏やかなオルゴールの調べが耳に届く。リラックスさせるような、ゆったりした柔らかい音に包まれる。
一般病棟ではいつも聞こえてきたモニター音や、ナースコールの鳴り響く音は一切聞こえない。看護師さんたちも、きびきびとしている様子は同じだけれど、歩調は穏やかだし、仕事の手つきもどこかゆったりしているように見える。
建物内の白い壁にはところどころ淡いピンクで花や蝶の模様が描かれていて、優菜は思わず何度か足を止めた。
廊下には大きな窓があり、明るい日差しがふんだんに取り込まれている。廊下を行き交う看護師さんたちは優しく患者さんに話しかけていて、まるでここが病院だということを忘れてしまいそうになった。
一階にはレクリエーションなども行われる共有の談話室や見舞客が宿泊するときに使用する家族室。二階には食堂があり、さらに利用者やその家族が簡単に料理できるようなキッチンまであるらしい。入院中に好物を食べられるように、という配慮なのだという。
ただそう聞いたとき、優菜はふと暗い気持ちになった。最期くらい、好きなものを好きなように食べられるように、という意味なのかもしれない。そう思うとここがどんな場所なのか、いやでも実感させられる。
病室は三階より上階で、すべて個室なのだという。
エレベーターホールに向かう途中、車椅子に乗った患者とすれ違った。祖母と同じくらいの年齢だと思われる女性は、付き添いもいないのに、ひとりですいすいと車椅子を操っている。優菜を見てふっと微笑んだ。
「偉いわねえ。お見舞い?」
突然話しかけられて、思わず肩を震わせる。
「は、はい……」
「そう。お孫さんが来てくれるなんて羨ましい」
そう言ってくったくのない笑顔を向けられ、優菜はあいまいに笑みを返した。
ただ通うことしかできない自分への自己嫌悪を見破られたような気がしてしまう。
それに、とても健康そうに見えるこの女性だって、ここに入院しているということは――そこまで考えて、優菜は思わず目を逸らしてしまった。
結局、たいした言葉も返せないままそそくさとエレベーターに乗り込み、慌ててボタンを押したのだった。
祖母の病室にも、穏やかな光が差し込んでいた。
窓際にベッドが置かれている。窓は透かし模様の入ったレースのカーテンがかかっていた。
壁際には木製のデスクが設置されていて、ぱっと見は優菜の部屋とそう変わらない。床は明るいフローリングで、全体的に森のなかの家のような、木のあたたかみを感じる。
「優菜ちゃん、来てくれたの」
祖母はちょうど、部屋に併設された洗面台で手を洗っていたところだったらしい。
「うん、あ。スリッパね、可愛いのあったから持ってきたよ」
優菜は持ってきた紙袋の中から、ボア素材のスリッパを取り出した。ピンクで、ふわふわの生地が気持ち良い。
「あら。ありがとう」
「私も家で使ってるの、お揃い」
「じゃあ履き心地は間違いないわね」
祖母はぱっと顔を明るくし、ベッドに腰掛けると「それでは早速」と言ってスリッパに足を入れた。
「確かに、これなら裸足でも気持ちよいわね」
「うん。でも靴下履いてね。冷えちゃうから」
「はいはい」
そう言った祖母は、そのままベッドに上がった。優菜は細くなった足を覆うように布団をかける。
「すごく綺麗なところだね」
「そうなの。でもまあすることがないから、結局朝から寝てばっかりいるわ」
「そっか……何か欲しいものはある?」
そう訊ねると、祖母はじっと宙を見てから緩く首を振った。
「大丈夫。思いついたらお願いするわ」
そう言って目を閉じてしまう。しん、と静まり返った部屋のなかは、まるで時が止まってしまったようだ。
それなのに目に映る祖母はどんどん弱っていくのが感じられて、優菜の足元からひたひたと恐怖が込み上げてきた。
このまま眠った祖母が起きなかったらどうしよう。
起きたとしても、これまでの祖母と変わってしまったら、どうしよう。
そんな不安に追い立てられるように、優菜は必死に話題を探した。
「今度、下のキッチン借りたいね。予約すれば使わせてもらえるんだって」
「そうみたいね。たぬきさん、作ってくれる?」
祖母から答えが返ってきて、ほっと力が抜ける。
追いかけてくる不安に呑み込まれないように、大きく息を吸った。
「もちろん! 材料持ってこないといけないから、土日かな」
「そうね。楽しみにしてるわ」
うっすらとした笑みを浮かべる祖母が、まるで自分に言い聞かせているように感じられた。
ゆったりした空間の流れに身を任せようとする祖母に、そうはさせまいと優菜はめまぐるしく考える。
この場所に身を委ねたら、祖母をそのまま拐っていかれるような気がしていた。
*
「土曜日、キッチンの予約しておいたわよ。十時から十二時だから、時間内にちゃんと片付けて。終わったら一階の受付に声かけてね」
母が『共有キッチンの使用について』と書かれたプリントを差し出す。それを流し読みしながら、優菜は「わかった」と頷いた。
キッチンを使うといっても、優菜が作ろうとしているのはおにぎりだから、大した作業ではない。ご飯は炊いたものを持って行って、電子レンジで温めるつもりだった。
あとは麺つゆと塩を少しずつ、それからおにぎりの具材である昆布・鰹節・天かす、そしてしその葉を持っていけばいいだけだ。作るのだって、さほど時間はかからないだろう。
「あ、ラップ持っていかなきゃ」
『消耗品はありません』という一文に、優菜は持ち物リストに書き加える。
本当はその日の昼食をまるまる作りたかったけれど、食の細くなった祖母は、ほとんど食事を摂っていないらしい。
おにぎりを作るね、と約束した日の会話を思い出して、優菜は小さくため息をつく。最近、ふとした時にため息をついてばかりだ。
「お腹、空かないの?」
「なんだか胸もお腹もいっぱいなのよ。食べたいって思わなくて」
「でも、少しでも食べたほうがいいんじゃないかな。栄養つけたほうが良いし……」
やんわりと優菜が言っても、祖母は穏やかな笑みを浮かべるだけだ。
「お菓子とか、持ってこようか?」
「ううん。大丈夫」
気にしないで、と言って祖母は目を閉じてしまう。
祖母はベッドで、うとうとしていることが増えた。つい先日まで、「あんなに回復が早い」と褒められていたのに。
本を読もうと手に取っても、気づけば睡魔に襲われてしまうのだという。
あんなに好きだった謎解きや数独をしている姿も見なくなった。
そもそも本が重くて、持っているのも辛いようだった。
あたたかいぬくもりを感じさせる部屋。でもここにやってきたことで、祖母の身体から生気が失われていくのを、露骨に感じるようになってしまった。
一般病棟にいても、同じだったのかもしれない。けれどこの静かな空間は、ゆっくりと時が過ぎていくのに反して、身体の変化がはっきりと見えすぎる。
気づけばまた夢と現実の間を揺蕩うようにとろんとした目で天井を見上げる祖母の隣で、優菜もまたただぼんやりと窓の外を眺めていた。
だんだんと日が伸びてきて、夕方でもまだだいぶ強い日差しが室内に差し込んでくる。レースのカーテンを引いてから窓を細く開けると、むわっとした空気が頬に触れた。
湿っているからではなく、中庭の草花のむせかえるような匂いだ、と気づいて、優菜は目を凝らした。
この建物の入り口前に茂っている生垣はなんだろう。背の低い木々だ。
優菜の知っているのは、椿とつつじくらいだけれど、どちらでもないような気がした。つつじよりは色が濃いような気がするし、椿ほど葉がしっかりしていないように見える。
すぐそこにある植物の名前さえ、わからない。その事実に、この緩和ケアにやってきてから優菜は祖母と一度も散歩をしていないことに、ようやく気づいた。
中庭の植物は、祖母と散歩をするたびに教えてもらったり、一緒にラベルを確認した。話に夢中になって、すべてを覚えているわけではないけれど。
「ねえ、お祖母ちゃん、」
散歩でも行かない? と声をかけようとして、優菜は口を噤んだ。
祖母は静かに眠りに落ちていた。開いた口から微かに呼吸音が聞こえてくる。
穏やかなのに、その寝息からは年相応に老いた気配が感じられて、優菜の胸は痛んだ。
オレンジ色の日差しに照らされる祖母の姿を見ながら、優菜は遥馬のことを思い出していた。
相変わらず、優菜は気づけば遥馬の姿を見つめてしまう。それは遥馬が怪我を負う前から変わらない。
遥馬が時々振り返って、優菜にだけ笑ってくれるのが好きだった。微かに口端を上げるような自信に満ちた笑み。自分に向けられる好意をまったく疑っていない、ある種の傲慢さすら感じさせるような。
けれど優菜自身も、遥馬がその表情を向けるのが自分だけだとわかっていた。胸の奥がくすぐったくて、ざわつくような喜び。手に届くところにあるのに、何度も確かめたくなるような、そんな感覚。
まわりの目なんて気にしたこともなかったし、きっとこの関係は続いていくのだと、一ミリも疑っていなかった。
けれど今は決して視線が交わることはない。遥馬はもう振り返らないから。
以前のように視線が絡まなくとも、優菜は遥馬を目で追ってしまう。
最近、遥馬の背中か横顔しか見ていない。常に大きくみせたいと胸を張っていた遥馬は、今は背中を曲げて過ごしている。
勝ち気だった瞳は、伏せられていることが多くなった。
初めて出会った時、また背の低かった遥馬は、クラスではお調子者の男子、という扱いだった。決してふざけているわけではないけれど、まわりを巻き込むような遠慮のなさがあった。
でもその明るさに惹かれた。それはサッカーが上手くなりたいという目標があったからだと思っていたけれど、それだけなのだろうか。遥馬自身の性質によるものではなかっただろうか。
夢をみた人が、みんな同じように夢を追うわけではない。優菜が憧れたあの強烈な光は、遥馬ならではの考え方のおかげではないのか。
サッカーに出会わなかった遥馬は、優菜の世界に存在しない。けれどサッカーを経験した遥馬は、最終的にどんな人間になっても遥馬本人なのではないか。
もちろん、サッカーを続けられるくらい、プロ選手になれるくらい完治してほしい。
けれどこれから先、遥馬がサッカーをやめたら、嫌いになるだろうか。
――そんなわけない。
もしサッカーを続けなかったとしても、自分は遥馬のことが好きだ。
すっと胸のつかえが取れた気がした。喉に詰まっていたなにかを飲み込んで、ようやく息がしやすくなる。
それでも遥馬の態度は頑ななままで、優菜は自分の思いをどう伝えたら良いのかわからなかった。
伝えたって、今の遥馬が受け入れてくれるとは思えない。
信じてもらえる方法なんて、まったく思い浮かばなかった。
しかも、あんな風に「構うな」と言われた以上、代わりに取ったノートを本人に直接渡すことも、できなかった。
だから仕方なく、放課後誰もいなくなったタイミングでこっそり教室に戻った。遥馬の席に向かい、そっと椅子を引く。素早く数枚のルーズリーフを机の中に滑り込ませようとして、手が止まった。覗き込むと、遥馬の机のなかには教科書やノートが隙間なくめちゃくちゃに突っ込んであった。勝手に触れてよいだろうか。多分、以前の遥馬だったら笑って許してくれただろう。むしろ「整理してくれてサンキュー」とさえ言ってくれたように思う。でも今は、優菜に触れられることを嫌がるかもしれない。
表情のない冷たい顔でこちらを見下ろす遥馬を思い返すと、触るべきではないに決まっている。
けれど、これ以上遥馬が困るところは見たくない。
ふと、遥馬が見せた、皮肉に満ちた笑みが思い浮かんだ。
自分には価値がない。あれはそう思い込もうとしている顔ではないか。
「違うよ……」
優菜はぽつりと呟いた。
誰もいない教室で、自分の声が床に落ちる。
遥馬は遥馬だよ。
続きは、心のなかで呟いた。
けれど意気地がない。本人に言えないなんて。
そんな自分に嫌気がさすけれど、これで諦めてノートを渡さないのは、もっとだめだ。それよりは行動するだけマシだ、と言い聞かせる。
優菜は机のなかに詰まった教科書をまとめて抜き取ると、科目ごとに仕分けて重ね直した。トントンと机に合わせて揃える音が響く。まるで自分の気持ちを揃えるように何度か繰り返すと、一番上にルーズリーフを重ねて、机の中に一緒に戻した。
余計に嫌われるかもしれない。そんな不安が胸に兆す。それでもやらない後悔よりやって後悔したほうがいい。そっけない態度を取られても、負けじと話しかける玲の姿が思い浮かんだ。玲は本心から遥馬に部活に戻ってほしいのだ。
――私は、遥馬がサッカー部に戻って戻らなくても、どちらでも良い。
ただ、また明るい顔で笑ってくれればそれで。
それだけは、本心だった。
優菜は振り返らずに、教室を後にした。
翌日、登校してきた遥馬が机のなかに手を突っ込んで、かすかに顔を顰めたことに、優菜は気づいた。やがて取り出したファイルを見て、一瞬止まる。そして小さく息をついた。
これまで渡していたのと同じルーズリーフだから、優菜が入れたのだとすぐに気づいたはずだった。
しかし遥馬は優菜を振り返ることなく再び机にそれを突っ込むと、頬杖をついて窓の外に視線をやった。
*
金曜日。昼休みを迎え、あと少しで週末に突入するという浮かれた空気が教室内に満ちていた。遊びに行く予定を立てる声が聞こえてくる。優菜にはそんな予定はないけれど、長年同じ気持ちを繰り返してきたからか、この時間になれば自然と喜ぶように身体はインプットされているみたいだ。
遥馬の通院は週の真ん中が多いらしく、今日は早退することもなく登校していた。相変わらずひとりで机に向かっている。
蓋を開けた弁当が、ほとんど手付かずに見えるのが気になったけれど、なんと声をかければ良いのか相変わらずわからない。またはっきりと拒絶されるのではないかと思うと、余計に。
怪我をする前の遥馬は、お弁当だけじゃ足りないと言って、昼休み前にパンを食べたりおにぎりを早弁したりしていた。今はほとんど動いていないから、お腹が空かないのかもしれない。
空気にさらされたままのお弁当を見ながら、思い返すのは祖母のことだった。
食欲がなくなるというのは、生気がなくなるということなのかもしれない。ふたりとも生きようとする意志が薄まっているように感じられて、優菜はぎゅっと自分の指先を握った。
午後は化学だった。実験だから化学室に集まるように、と言われていたことを思い出して、優菜は友人たちと席を立った。
遥馬の横を通り過ぎるとき、やはりほとんど手付かずの弁当箱の蓋が、そのまま閉じられるのを見てしまって、思わず目を逸らした。
教科書を抱える腕に力をこめて廊下に出たところで、担任が駆け寄ってくる。普段から「廊下は走るな」と口をすっぱくして言っている担任が、珍しい。
焦った様子を隠しもせず近寄ってきて、
「深澤。お母さんから連絡があった。病院に来るようにって」
告げられた言葉の意味を理解する前に、腕の中から教科書が滑り落ちる。
ついで落としたペンケースが床にぶつかる硬い音が響いた。
「……え」
拾う、という簡単な動作さえ思い浮かばず、すぐ横の壁を掴もうとして、指先が滑った。病院に来るように。思い当たる理由なんて、ひとつしかない。心臓がどくんどくんと嫌な音を立てている。
「とにかく急いで。早く」
急かされるまま、鞄を持って校門へと向かう。母が手配してくれたのか、そこにはタクシーが待っていた。担任が運転手に行き先を告げて、支払いはああだこうだと伝えている声が、どこか別の世界の出来事のように感じられた。
気づけばタクシーは発車していた。車内の独特の匂いが、つんと鼻の奥を刺激してくる。何とも言えない不快感に顔を顰めた。
窓の外で通り過ぎていくのはよく知った街の景色のはずなのに、どこを走っているのかわからなくなる。
手先が冷たい。ローファーの中の足の指も、今にも凍ってしまうのではないかというくらい、冷たい。まるで雪に素足を置いているような感覚がして、優菜は靴のなかで忙しなく指を動かした。
その後のことはよく覚えていない。
いや、覚えているけれど、どこか靄がかかっているようで、どこからが現実で夢なのか、わからない。
相変わらずどこかで聞いたことのあるメロディをオルゴール音が奏でる廊下を通り抜け、エレベーターを待つのももどかしく階段を駆け上った。
祖母の部屋にたどり着き、三回、息をついてから引き戸をあけた。
そこには、誰もいなかった。
窓が開けっぱなしだ。まず、そう思った。レースのカーテンが、窓から吹き込む風でかすかに揺れている。
ベッドサイトの小さな棚には、空っぽの花瓶が置いてあった。ああこれは病院の備品だったのだな、と場違いなことを優菜はぼんやりと考えた。
オレンジの日差しが差し込む窓際のベッドは、マットレスだけの状態になっていて、祖母の姿はおろか、昨日まで存在していた布団もなくなっていた。
壁際のデスクに、身覚えるのあるボストンバッグが置かれている。一歩、部屋の中に入った優菜は、ベッドを視界に入れないようにして、デスクに近寄った。
閉じられたバッグを開ける。見覚えのある祖母のパジャマや、使っていたタオルが詰められていた。優菜が何度も洗濯して、病院と家を行き来させた祖母のもの。
優菜は慌てて開けたチャックを閉めた。途中で一番上に置かれたタオルを噛んでしまって、一度戻ってもう一度閉める。
バッグの横に、本が一冊置いてある。祖母が解いていた、謎解きの問題集だった。
そっと手を伸ばし、触れる。ぺらぺらと捲ると、あいだに何枚か、小さな紙が挟まっていた。ノートを千切ってメモ帳にしていたらしい。黒いインクで文字が書いてある。
優菜は自分の口を押さえた。それは間違いなく、祖母の字だった。力が入らなくなっていたのか、ところどころ、かすんだり歪んだりしていたけれど、見間違うわけがない。
迷って、一度ページを閉じる。ふうっと細く、息をついた。もう一度捲ると、今度はページから紙がはらはらと落ちた。小さく切られたメモを拾い上げ、ひとつひとつ目を通していく。
そこには、各地で開催されている謎解きイベントが挙げてあった。
タイトルの他に、それぞれメモが書かれている。
近い。
大変そう。
半日くらいかかりそう。
これは手軽。
どの謎解きも、優菜も見覚えがあった。祖母と行けるだろうか、と調べたものだったからだ。同じものを、見ていた。
ゆうなちゃんが好きそう。
ひたり、と雫が紙に落ちてインクが滲んだ。喉が、焼けるように熱い。
次々に込み上げる涙を堪えることができず、優菜はその場にうずくまったまま本を抱えた。
唇がわななく。どれだけ力を入れても、震える唇を止めることはできなかった。
「う……うう……」
次から次へと溢れ出る涙で、視界が霞む。
これ以上濡らしてしまう前に、メモを重ねてページに挟み直した。
本を胸に抱える。小さくて固くて、冷たかった。
夜、仕事を終えて帰宅するなり母は言った。
ようやく、という思いが込み上げると同時に、もう治療ができないという事実が迫ってきて、優菜は「そう……」とだけ答えた。
今の病棟でも、すでに積極的な治療は行っていなかったけれど、まわりの環境が変わらないこともあって、祖母の入院生活は穏やかに続いているように錯覚していた。
けれど実際には、同じ病院内にある緩和ケア病棟に空きが出るのを待っていただけなのだ。
終末期をどう過ごすか、という相談をして、祖母が選んだのはホスピスに移る、という結論だった。
幸いなことに、総合病院内には緩和ケア病棟があるから、移るのも比較的スムーズだろう、と言って、誰の意見も聞かずにあっさりと決めてしまった。
その決断を聞いてからも、本当に治療しなくて良いのだろうか、と優菜は何度も思った。たとえ終末期と宣告されたって、具体的に余命宣告されたわけではない。治療したら少しは長く一緒にいられるのではないか。自らそのチャンスを手放す必要はあるのだろうか、と。
けれど、祖母は「つらい治療に耐える自信はないの。この歳まで生きられたから大満足よ」と意見を変えることはなかった。
母と祖母の間でどんな会話が交わされたのか、優菜は知らない。けれど母から祖母の決断を聞かされた時、ああ祖母はひとりで決めたのだ、と察した。
母の声が細く、掠れていたから。
優菜が思ったことは、きっと、とっくに母が伝えているはずだった。
それでも。
「家に帰ってきたら?」
祖母の決断を聞いてから、一度だけ本人に優菜はそう提案した。祖母は柔らかい瞳を何度か瞬いて、ふっと笑った。
「家に帰っても落ち着かないもの。それなら穏やかな病院で過ごした方が気が楽だわ」
「でも……家だったら色々あるし、できるじゃない。謎解きの本だっていっぱい置いてあるし、洋服だってお気に入りのものがあるでしょ。近所にお出かけもできるかもしれないし」
あの手この手で思い浮かぶことを伝える優菜に、祖母はふるふると首を振った。
「いいの。もうそんなに動く力もないしね。それに意外とこの病院、気に入っているのよ」
本当に?
何度もそう訊ねようとして、ぐっと唇を噛む。
いつもより柔らかいくらいの声音でそう言われてしまったら、それ以上言葉は重ねられなかった。
祖母の言葉がすべて本音だとは思わないけれど、その裏にある気遣いが滲んでいるから。
母親はある程度仕事をセーブしているようだったけれど、それでも毎日出勤している。
祖母が家で過ごすためには、在宅ワークに切り替えるくらいじゃないと厳しいのだろう。病院なら看護師さんもスタッフさんもいてくれるけれど、自宅で二十四時間誰かが付き添うのは、確かに難しい。
でも。
終末期はだいたい半年だという。たったそれだけの期間だけでも、家で一緒に過ごすことは難しいのだろうか。
「おばあちゃん、家に帰りたくないのかな」
そんなわけない、と思いながら、母の前で、優菜はぼそりと言ってみた。母は優菜をちらりと一瞥すると、「……どうかしらね」と答える。
その曖昧な返答に、カチンと来た。
どうもなにもないだろう。帰りたいに決まっている。
けれどそれを言えないのは、母のせいではないのか。
優菜は思わずきっと母を見上げた。
「私、学校終わったら早く帰ってくるし、おばあちゃんのことも家のこともできるよ」
家事だって今はだいぶ手抜きをしているけれど、やろうと思えばもっと頑張れる。
祖母の食べやすいお粥やうどんを用意することだって苦じゃないし、トイレに行くときに手を貸すことだってできる。
半年くらい。いやもっと長く続いたって。
「……それが嫌なんだって」
「え……?」
躊躇いながらもはっきりとした母の口調に、優菜はぴたりと動きを止めた。
「家族に負担を強いるくらいなら、病院のほうが気が楽だって」
「そんな……」
告げられる言葉に、優菜は顔を強張らせた。
気が楽だなんて、本心なのだろうか。家族に気を遣っているだけで、本人の希望は違うのではないか。
「ショートステイも考えてみようかって話したんだけど、そうするとまずベッドを借りたり、家の段差を解消したりしないといけないでしょ。なかなかすぐには難しくて」
「そんなの! そのくらい何とかしてあげればいいのに!」
思わず声を荒げた優菜に、母が息を呑む。
無言で見つめあったあと、つと目を逸らされて、優菜はいっそう強く唇を噛んだ。
わかっている。優菜にできることは少ない。学校に通わなければならないし、自分がどれだけ頑張ると言ったって限界はある。祖母が優菜の時間を奪うことに、罪悪感を覚えてしまうことだって、想像できる。
でも――。
祖母と交わした約束は、ほとんどひとつも達成できていない。
まだ一緒にやりたいことがたくさんあるのに。自分が後回しにしてしまった約束が、いくつも宙に浮いたままなのに。
どうしてあの時、避けてしまったのだろう。謎解きに行こうと言われたとき、曖昧に断ってしまったのだろう。そんな後悔がいくつも浮かんで、優菜の身体を縛るように締め付ける。
――だって、いなくなっちゃったら、もう遅いのに。
結局、優菜の思いつきは誰からの――祖母本人も含めて――賛同を得ることはなく、淡々と時間が経過していった。
*
「ねえ、新しくできた駅前のカフェに行かない?」
教室で友人のひとりにそう声をかけられて、優菜は「……ごめん」と手を合わせた。
こうやって誘いを断るのは、もう何度目だろう。それでも声をかけ続けてくれる友人は有難い。
「えー、最近どうしたの? すぐ帰っちゃうじゃん」
「ちょっと……、まあ、家でいろいろあって」
「へえ。え、なに、やばいの? 揉めてる? うちも親が最近うるさくてさ、そろそろ予備校行けって言われてる」
「やばいっていうか……」
優菜はとっさに苦笑いを返した。両親は優菜の勉強には基本的にノータッチだ。優等生と言われるほどではないけど、心配をかけるほどの成績ではない。可もなく不可もない。進学できないほどではないはずだった。その分、何も考えていなかったとも言えるけれど。
「進路かあ……そうだよね」
むしろ今の話でようやく進路を考えねばならない時期なのだ、と思い至ったくらいだ。
「え、なに、ちがうの?」
「あー、ううん。そんな感じ。ちょっと落ち着くまで、難しくて」
「そっかあ。でもさあ、たまには気晴らししないと、おかしくなっちゃうよ」
「うん。行けたら行くから。また誘って」
じゃあ、と優菜は急いで教室を飛び出した。
「そんな深刻じゃないんだけどね」と嘘をつくのも嫌だし、だからといって、本当の事情を説明して、友人たちに無闇に気を遣われることも避けたかった。
優菜が、祖母の入院を素直に打ち明けることができたのは、遥馬だけだ。そのことに今更ながら気づいて、優菜は歩調を緩めた。
遥馬の応援に行けない理由を説明するためとはいえ、するりと口にできたのは、言っても大丈夫だ、と無意識のうちに思っていたのかもしれない。
遥馬なら、優菜の現状を受け止めてくれる、と。
たかだか一ヶ月ちょっと前のことなのに、もうずいぶん昔の出来事のように感じる。
昇降口にたどり着き、下駄箱の前で靴を履き替えた。ふと目に入った上履きは、全体的に煤けたように汚れている。
持って帰らなければ、と思いながらいつも後回しになってしまっている。
祖母が入院してから、友人たちの誘いはほとんど断っていた。なんとなく、自分のことを優先したり、自分が楽しんだら、そのぶん、祖母の身になにか起こるのでは、と迷信めいた恐怖を感じていた。
そして今では、自分が楽しめばそのぶん、祖母の寿命が短くなるような、そんな気がしていた。
――短くって、どのくらい?
そう考えるたび、自分の呼吸が浅くなるのを感じる。
だって優菜が高校を卒業するころには、祖母はこの世にはいないのだ。おそらく。
それどころか、三年生に上がるころには。
半年なんて、年を越えることもできないかもしれない。
急に終末期という言葉のイメージが明確になって、口を手で覆った。きつく目を閉じる。
込み上げてきた涙を必死に堪えて、優菜は屋外へと駆け出した。
緩和ケア病棟は、それまで祖母がいた一般病棟とは雰囲気がまるで違った。
自動ドアを潜ると、穏やかなオルゴールの調べが耳に届く。リラックスさせるような、ゆったりした柔らかい音に包まれる。
一般病棟ではいつも聞こえてきたモニター音や、ナースコールの鳴り響く音は一切聞こえない。看護師さんたちも、きびきびとしている様子は同じだけれど、歩調は穏やかだし、仕事の手つきもどこかゆったりしているように見える。
建物内の白い壁にはところどころ淡いピンクで花や蝶の模様が描かれていて、優菜は思わず何度か足を止めた。
廊下には大きな窓があり、明るい日差しがふんだんに取り込まれている。廊下を行き交う看護師さんたちは優しく患者さんに話しかけていて、まるでここが病院だということを忘れてしまいそうになった。
一階にはレクリエーションなども行われる共有の談話室や見舞客が宿泊するときに使用する家族室。二階には食堂があり、さらに利用者やその家族が簡単に料理できるようなキッチンまであるらしい。入院中に好物を食べられるように、という配慮なのだという。
ただそう聞いたとき、優菜はふと暗い気持ちになった。最期くらい、好きなものを好きなように食べられるように、という意味なのかもしれない。そう思うとここがどんな場所なのか、いやでも実感させられる。
病室は三階より上階で、すべて個室なのだという。
エレベーターホールに向かう途中、車椅子に乗った患者とすれ違った。祖母と同じくらいの年齢だと思われる女性は、付き添いもいないのに、ひとりですいすいと車椅子を操っている。優菜を見てふっと微笑んだ。
「偉いわねえ。お見舞い?」
突然話しかけられて、思わず肩を震わせる。
「は、はい……」
「そう。お孫さんが来てくれるなんて羨ましい」
そう言ってくったくのない笑顔を向けられ、優菜はあいまいに笑みを返した。
ただ通うことしかできない自分への自己嫌悪を見破られたような気がしてしまう。
それに、とても健康そうに見えるこの女性だって、ここに入院しているということは――そこまで考えて、優菜は思わず目を逸らしてしまった。
結局、たいした言葉も返せないままそそくさとエレベーターに乗り込み、慌ててボタンを押したのだった。
祖母の病室にも、穏やかな光が差し込んでいた。
窓際にベッドが置かれている。窓は透かし模様の入ったレースのカーテンがかかっていた。
壁際には木製のデスクが設置されていて、ぱっと見は優菜の部屋とそう変わらない。床は明るいフローリングで、全体的に森のなかの家のような、木のあたたかみを感じる。
「優菜ちゃん、来てくれたの」
祖母はちょうど、部屋に併設された洗面台で手を洗っていたところだったらしい。
「うん、あ。スリッパね、可愛いのあったから持ってきたよ」
優菜は持ってきた紙袋の中から、ボア素材のスリッパを取り出した。ピンクで、ふわふわの生地が気持ち良い。
「あら。ありがとう」
「私も家で使ってるの、お揃い」
「じゃあ履き心地は間違いないわね」
祖母はぱっと顔を明るくし、ベッドに腰掛けると「それでは早速」と言ってスリッパに足を入れた。
「確かに、これなら裸足でも気持ちよいわね」
「うん。でも靴下履いてね。冷えちゃうから」
「はいはい」
そう言った祖母は、そのままベッドに上がった。優菜は細くなった足を覆うように布団をかける。
「すごく綺麗なところだね」
「そうなの。でもまあすることがないから、結局朝から寝てばっかりいるわ」
「そっか……何か欲しいものはある?」
そう訊ねると、祖母はじっと宙を見てから緩く首を振った。
「大丈夫。思いついたらお願いするわ」
そう言って目を閉じてしまう。しん、と静まり返った部屋のなかは、まるで時が止まってしまったようだ。
それなのに目に映る祖母はどんどん弱っていくのが感じられて、優菜の足元からひたひたと恐怖が込み上げてきた。
このまま眠った祖母が起きなかったらどうしよう。
起きたとしても、これまでの祖母と変わってしまったら、どうしよう。
そんな不安に追い立てられるように、優菜は必死に話題を探した。
「今度、下のキッチン借りたいね。予約すれば使わせてもらえるんだって」
「そうみたいね。たぬきさん、作ってくれる?」
祖母から答えが返ってきて、ほっと力が抜ける。
追いかけてくる不安に呑み込まれないように、大きく息を吸った。
「もちろん! 材料持ってこないといけないから、土日かな」
「そうね。楽しみにしてるわ」
うっすらとした笑みを浮かべる祖母が、まるで自分に言い聞かせているように感じられた。
ゆったりした空間の流れに身を任せようとする祖母に、そうはさせまいと優菜はめまぐるしく考える。
この場所に身を委ねたら、祖母をそのまま拐っていかれるような気がしていた。
*
「土曜日、キッチンの予約しておいたわよ。十時から十二時だから、時間内にちゃんと片付けて。終わったら一階の受付に声かけてね」
母が『共有キッチンの使用について』と書かれたプリントを差し出す。それを流し読みしながら、優菜は「わかった」と頷いた。
キッチンを使うといっても、優菜が作ろうとしているのはおにぎりだから、大した作業ではない。ご飯は炊いたものを持って行って、電子レンジで温めるつもりだった。
あとは麺つゆと塩を少しずつ、それからおにぎりの具材である昆布・鰹節・天かす、そしてしその葉を持っていけばいいだけだ。作るのだって、さほど時間はかからないだろう。
「あ、ラップ持っていかなきゃ」
『消耗品はありません』という一文に、優菜は持ち物リストに書き加える。
本当はその日の昼食をまるまる作りたかったけれど、食の細くなった祖母は、ほとんど食事を摂っていないらしい。
おにぎりを作るね、と約束した日の会話を思い出して、優菜は小さくため息をつく。最近、ふとした時にため息をついてばかりだ。
「お腹、空かないの?」
「なんだか胸もお腹もいっぱいなのよ。食べたいって思わなくて」
「でも、少しでも食べたほうがいいんじゃないかな。栄養つけたほうが良いし……」
やんわりと優菜が言っても、祖母は穏やかな笑みを浮かべるだけだ。
「お菓子とか、持ってこようか?」
「ううん。大丈夫」
気にしないで、と言って祖母は目を閉じてしまう。
祖母はベッドで、うとうとしていることが増えた。つい先日まで、「あんなに回復が早い」と褒められていたのに。
本を読もうと手に取っても、気づけば睡魔に襲われてしまうのだという。
あんなに好きだった謎解きや数独をしている姿も見なくなった。
そもそも本が重くて、持っているのも辛いようだった。
あたたかいぬくもりを感じさせる部屋。でもここにやってきたことで、祖母の身体から生気が失われていくのを、露骨に感じるようになってしまった。
一般病棟にいても、同じだったのかもしれない。けれどこの静かな空間は、ゆっくりと時が過ぎていくのに反して、身体の変化がはっきりと見えすぎる。
気づけばまた夢と現実の間を揺蕩うようにとろんとした目で天井を見上げる祖母の隣で、優菜もまたただぼんやりと窓の外を眺めていた。
だんだんと日が伸びてきて、夕方でもまだだいぶ強い日差しが室内に差し込んでくる。レースのカーテンを引いてから窓を細く開けると、むわっとした空気が頬に触れた。
湿っているからではなく、中庭の草花のむせかえるような匂いだ、と気づいて、優菜は目を凝らした。
この建物の入り口前に茂っている生垣はなんだろう。背の低い木々だ。
優菜の知っているのは、椿とつつじくらいだけれど、どちらでもないような気がした。つつじよりは色が濃いような気がするし、椿ほど葉がしっかりしていないように見える。
すぐそこにある植物の名前さえ、わからない。その事実に、この緩和ケアにやってきてから優菜は祖母と一度も散歩をしていないことに、ようやく気づいた。
中庭の植物は、祖母と散歩をするたびに教えてもらったり、一緒にラベルを確認した。話に夢中になって、すべてを覚えているわけではないけれど。
「ねえ、お祖母ちゃん、」
散歩でも行かない? と声をかけようとして、優菜は口を噤んだ。
祖母は静かに眠りに落ちていた。開いた口から微かに呼吸音が聞こえてくる。
穏やかなのに、その寝息からは年相応に老いた気配が感じられて、優菜の胸は痛んだ。
オレンジ色の日差しに照らされる祖母の姿を見ながら、優菜は遥馬のことを思い出していた。
相変わらず、優菜は気づけば遥馬の姿を見つめてしまう。それは遥馬が怪我を負う前から変わらない。
遥馬が時々振り返って、優菜にだけ笑ってくれるのが好きだった。微かに口端を上げるような自信に満ちた笑み。自分に向けられる好意をまったく疑っていない、ある種の傲慢さすら感じさせるような。
けれど優菜自身も、遥馬がその表情を向けるのが自分だけだとわかっていた。胸の奥がくすぐったくて、ざわつくような喜び。手に届くところにあるのに、何度も確かめたくなるような、そんな感覚。
まわりの目なんて気にしたこともなかったし、きっとこの関係は続いていくのだと、一ミリも疑っていなかった。
けれど今は決して視線が交わることはない。遥馬はもう振り返らないから。
以前のように視線が絡まなくとも、優菜は遥馬を目で追ってしまう。
最近、遥馬の背中か横顔しか見ていない。常に大きくみせたいと胸を張っていた遥馬は、今は背中を曲げて過ごしている。
勝ち気だった瞳は、伏せられていることが多くなった。
初めて出会った時、また背の低かった遥馬は、クラスではお調子者の男子、という扱いだった。決してふざけているわけではないけれど、まわりを巻き込むような遠慮のなさがあった。
でもその明るさに惹かれた。それはサッカーが上手くなりたいという目標があったからだと思っていたけれど、それだけなのだろうか。遥馬自身の性質によるものではなかっただろうか。
夢をみた人が、みんな同じように夢を追うわけではない。優菜が憧れたあの強烈な光は、遥馬ならではの考え方のおかげではないのか。
サッカーに出会わなかった遥馬は、優菜の世界に存在しない。けれどサッカーを経験した遥馬は、最終的にどんな人間になっても遥馬本人なのではないか。
もちろん、サッカーを続けられるくらい、プロ選手になれるくらい完治してほしい。
けれどこれから先、遥馬がサッカーをやめたら、嫌いになるだろうか。
――そんなわけない。
もしサッカーを続けなかったとしても、自分は遥馬のことが好きだ。
すっと胸のつかえが取れた気がした。喉に詰まっていたなにかを飲み込んで、ようやく息がしやすくなる。
それでも遥馬の態度は頑ななままで、優菜は自分の思いをどう伝えたら良いのかわからなかった。
伝えたって、今の遥馬が受け入れてくれるとは思えない。
信じてもらえる方法なんて、まったく思い浮かばなかった。
しかも、あんな風に「構うな」と言われた以上、代わりに取ったノートを本人に直接渡すことも、できなかった。
だから仕方なく、放課後誰もいなくなったタイミングでこっそり教室に戻った。遥馬の席に向かい、そっと椅子を引く。素早く数枚のルーズリーフを机の中に滑り込ませようとして、手が止まった。覗き込むと、遥馬の机のなかには教科書やノートが隙間なくめちゃくちゃに突っ込んであった。勝手に触れてよいだろうか。多分、以前の遥馬だったら笑って許してくれただろう。むしろ「整理してくれてサンキュー」とさえ言ってくれたように思う。でも今は、優菜に触れられることを嫌がるかもしれない。
表情のない冷たい顔でこちらを見下ろす遥馬を思い返すと、触るべきではないに決まっている。
けれど、これ以上遥馬が困るところは見たくない。
ふと、遥馬が見せた、皮肉に満ちた笑みが思い浮かんだ。
自分には価値がない。あれはそう思い込もうとしている顔ではないか。
「違うよ……」
優菜はぽつりと呟いた。
誰もいない教室で、自分の声が床に落ちる。
遥馬は遥馬だよ。
続きは、心のなかで呟いた。
けれど意気地がない。本人に言えないなんて。
そんな自分に嫌気がさすけれど、これで諦めてノートを渡さないのは、もっとだめだ。それよりは行動するだけマシだ、と言い聞かせる。
優菜は机のなかに詰まった教科書をまとめて抜き取ると、科目ごとに仕分けて重ね直した。トントンと机に合わせて揃える音が響く。まるで自分の気持ちを揃えるように何度か繰り返すと、一番上にルーズリーフを重ねて、机の中に一緒に戻した。
余計に嫌われるかもしれない。そんな不安が胸に兆す。それでもやらない後悔よりやって後悔したほうがいい。そっけない態度を取られても、負けじと話しかける玲の姿が思い浮かんだ。玲は本心から遥馬に部活に戻ってほしいのだ。
――私は、遥馬がサッカー部に戻って戻らなくても、どちらでも良い。
ただ、また明るい顔で笑ってくれればそれで。
それだけは、本心だった。
優菜は振り返らずに、教室を後にした。
翌日、登校してきた遥馬が机のなかに手を突っ込んで、かすかに顔を顰めたことに、優菜は気づいた。やがて取り出したファイルを見て、一瞬止まる。そして小さく息をついた。
これまで渡していたのと同じルーズリーフだから、優菜が入れたのだとすぐに気づいたはずだった。
しかし遥馬は優菜を振り返ることなく再び机にそれを突っ込むと、頬杖をついて窓の外に視線をやった。
*
金曜日。昼休みを迎え、あと少しで週末に突入するという浮かれた空気が教室内に満ちていた。遊びに行く予定を立てる声が聞こえてくる。優菜にはそんな予定はないけれど、長年同じ気持ちを繰り返してきたからか、この時間になれば自然と喜ぶように身体はインプットされているみたいだ。
遥馬の通院は週の真ん中が多いらしく、今日は早退することもなく登校していた。相変わらずひとりで机に向かっている。
蓋を開けた弁当が、ほとんど手付かずに見えるのが気になったけれど、なんと声をかければ良いのか相変わらずわからない。またはっきりと拒絶されるのではないかと思うと、余計に。
怪我をする前の遥馬は、お弁当だけじゃ足りないと言って、昼休み前にパンを食べたりおにぎりを早弁したりしていた。今はほとんど動いていないから、お腹が空かないのかもしれない。
空気にさらされたままのお弁当を見ながら、思い返すのは祖母のことだった。
食欲がなくなるというのは、生気がなくなるということなのかもしれない。ふたりとも生きようとする意志が薄まっているように感じられて、優菜はぎゅっと自分の指先を握った。
午後は化学だった。実験だから化学室に集まるように、と言われていたことを思い出して、優菜は友人たちと席を立った。
遥馬の横を通り過ぎるとき、やはりほとんど手付かずの弁当箱の蓋が、そのまま閉じられるのを見てしまって、思わず目を逸らした。
教科書を抱える腕に力をこめて廊下に出たところで、担任が駆け寄ってくる。普段から「廊下は走るな」と口をすっぱくして言っている担任が、珍しい。
焦った様子を隠しもせず近寄ってきて、
「深澤。お母さんから連絡があった。病院に来るようにって」
告げられた言葉の意味を理解する前に、腕の中から教科書が滑り落ちる。
ついで落としたペンケースが床にぶつかる硬い音が響いた。
「……え」
拾う、という簡単な動作さえ思い浮かばず、すぐ横の壁を掴もうとして、指先が滑った。病院に来るように。思い当たる理由なんて、ひとつしかない。心臓がどくんどくんと嫌な音を立てている。
「とにかく急いで。早く」
急かされるまま、鞄を持って校門へと向かう。母が手配してくれたのか、そこにはタクシーが待っていた。担任が運転手に行き先を告げて、支払いはああだこうだと伝えている声が、どこか別の世界の出来事のように感じられた。
気づけばタクシーは発車していた。車内の独特の匂いが、つんと鼻の奥を刺激してくる。何とも言えない不快感に顔を顰めた。
窓の外で通り過ぎていくのはよく知った街の景色のはずなのに、どこを走っているのかわからなくなる。
手先が冷たい。ローファーの中の足の指も、今にも凍ってしまうのではないかというくらい、冷たい。まるで雪に素足を置いているような感覚がして、優菜は靴のなかで忙しなく指を動かした。
その後のことはよく覚えていない。
いや、覚えているけれど、どこか靄がかかっているようで、どこからが現実で夢なのか、わからない。
相変わらずどこかで聞いたことのあるメロディをオルゴール音が奏でる廊下を通り抜け、エレベーターを待つのももどかしく階段を駆け上った。
祖母の部屋にたどり着き、三回、息をついてから引き戸をあけた。
そこには、誰もいなかった。
窓が開けっぱなしだ。まず、そう思った。レースのカーテンが、窓から吹き込む風でかすかに揺れている。
ベッドサイトの小さな棚には、空っぽの花瓶が置いてあった。ああこれは病院の備品だったのだな、と場違いなことを優菜はぼんやりと考えた。
オレンジの日差しが差し込む窓際のベッドは、マットレスだけの状態になっていて、祖母の姿はおろか、昨日まで存在していた布団もなくなっていた。
壁際のデスクに、身覚えるのあるボストンバッグが置かれている。一歩、部屋の中に入った優菜は、ベッドを視界に入れないようにして、デスクに近寄った。
閉じられたバッグを開ける。見覚えのある祖母のパジャマや、使っていたタオルが詰められていた。優菜が何度も洗濯して、病院と家を行き来させた祖母のもの。
優菜は慌てて開けたチャックを閉めた。途中で一番上に置かれたタオルを噛んでしまって、一度戻ってもう一度閉める。
バッグの横に、本が一冊置いてある。祖母が解いていた、謎解きの問題集だった。
そっと手を伸ばし、触れる。ぺらぺらと捲ると、あいだに何枚か、小さな紙が挟まっていた。ノートを千切ってメモ帳にしていたらしい。黒いインクで文字が書いてある。
優菜は自分の口を押さえた。それは間違いなく、祖母の字だった。力が入らなくなっていたのか、ところどころ、かすんだり歪んだりしていたけれど、見間違うわけがない。
迷って、一度ページを閉じる。ふうっと細く、息をついた。もう一度捲ると、今度はページから紙がはらはらと落ちた。小さく切られたメモを拾い上げ、ひとつひとつ目を通していく。
そこには、各地で開催されている謎解きイベントが挙げてあった。
タイトルの他に、それぞれメモが書かれている。
近い。
大変そう。
半日くらいかかりそう。
これは手軽。
どの謎解きも、優菜も見覚えがあった。祖母と行けるだろうか、と調べたものだったからだ。同じものを、見ていた。
ゆうなちゃんが好きそう。
ひたり、と雫が紙に落ちてインクが滲んだ。喉が、焼けるように熱い。
次々に込み上げる涙を堪えることができず、優菜はその場にうずくまったまま本を抱えた。
唇がわななく。どれだけ力を入れても、震える唇を止めることはできなかった。
「う……うう……」
次から次へと溢れ出る涙で、視界が霞む。
これ以上濡らしてしまう前に、メモを重ねてページに挟み直した。
本を胸に抱える。小さくて固くて、冷たかった。

