ここにいる

 その日は、朝から教室内の空気がひりついていた。
 前日のホームルームで担任から「明日から宮代が登校する。しばらく松葉杖で不便だろうから、みんな協力するように」と話があったからだ。

 久しぶりに遥馬が登校してくるということ以上に、松葉杖だということがクラスメイトの――いや学校中の関心を集めていた。
 十日程度だと聞いていた入院が伸びて、退院まで二週間以上かかったこと。
 松葉杖がないとまだ歩くこともできないらしい、という話が、あっという間に校内に広まっていた。

 優菜も遥馬が松葉杖で歩いているところを見たわけではないから、そんな噂を否定することも肯定することもできなかった。
 あれから何度かプリントとノートを届けたけれど、結局言葉は全く交わしていないし、遥馬は毎回、目すら合わないようにベッドに座っていた。

 病室での遥馬と母親の会話を思い返すと、恐らく親が車で送ってくるのだろう。
 交通量の多い大通りを渡らなければならないから、歩いて通うのは難しいのではと思えた。
 それが理由なのか、クラスメイトのほとんどが登校している時間になっても、遥馬はまだ来ていなかった。

 最近一緒に過ごすことが減っていた友人たちがここぞとばかりに近寄ってきて、「優菜、宮代くんのお見舞い行ってるんでしょう? どんな様子なの?」と訊ねてきた。

「どうって……」
「やっぱり、だいぶひどいの?」
「サッカーもうできないって、本当?」

 優菜が言い淀んだからか、矢継ぎ早に質問を重ねられる。

「……わからない。ノートを届けただけで、そんなに詳しく話をしてないから」
「えー……」
「そうなんだ」

 どこか不服そうな友人たちの反応に、頭の中がカッと熱くなるのを感じた。

 接触して倒れたところに居合わせたのに、そんな言い方しかできないなんて、とふつふつと怒りが湧いてくる。喧嘩がしたいわけじゃない。優菜が勝手に怒ったって、遥馬にとっても迷惑なだけだろう。
 なんとか苛立ちを落ち着かせようと細く息をついて、優菜は「じゃあ」と彼女たちの前を通り過ぎて自席についた。


 遥馬が現れたのは、ホームルームが今まさに始まろうかというタイミングだった。

 本鈴が鳴って、席についたクラスメイトたちの話す声でざわめいていた教室が、ふっと静まり返った。
 教室の入り口に、松葉杖二本で身体を支える遥馬が立っていた。

「あ」という誰かの声が響いて、全員がそちらに視線を向けた。
 遥馬は上半身は制服のブレザーなのに、下はジャージを履いていた。

 しかし視線が集中したのは、そのアンバランスな恰好より、不自然なほどに膨らんだ片方の足のせいだった。ジャージの中で、何重にも包帯が巻かれているのだろう。固定用の器具も装着しているのかもしれない。まるでパンパンに腫れ上がったかのように見えるその足に、クラスの誰もが息を呑んだ。

 病院で少しは見慣れたはずの優菜ですら、学校という場でその姿を目の当たりにすると、とっさに目を逸らしてしまうくらい、悲痛さが際立っている。

 静まり返った教室に、カツーン、カツーンという硬い音が響いた。松葉杖の先が床を突く音だ。ごくりと息を呑む音が、教室内にこだまするような錯覚に陥る。

 遥馬はゆっくりと自分の席へ向かうと、その場で立ち止まった。両手が塞がっているからか、いつものスポーツバッグではなくリュックサックを背負っていた。

 前の席の男子が立ち上がり、「持ってようか?」と松葉杖に手を伸ばした。

 しかし、次の瞬間、遥馬は拒絶するように、自分の上半身を杖にかぶせた。

「え……?」

 行き場をなくした男子の手が宙を切る。

「いい」

 冷たい声が響いて、クラス中にさざなみのような動揺が走った。
 自分に向けられたわけではないのに、優菜の背中はぎくりと強張る。
 あの感情のない声は、病院だから向けられたのだと思っていた。そう思いたくて、何度も自分に言い聞かせた。
 けれど、今、教室でも遥馬はあの平坦な声を発している。

「……あ、悪い。触ったら危ないよな」

 ごめん、と頭を掻きながら謝る男子を一瞥して、遥馬は「そうじゃない」と短く言ったかと思うと、片方の松葉杖を椅子に立てかけた。ゆっくりとリュックサックを机におろし、松葉杖を再び持つ。今度は後ろの席の男子が、椅子を引いてあげた。しかし――。

「いいって言ってんだろ」

 先ほどより固い声に、椅子を持った男子の表情がこわばった。

「んだよ、その態度」

 遠くの席から、誰かが呟く。その一言が呼び水になったかのように、教室のあちこちで囁き合う声が聞こえる。

『宮代くんってあんな人だっけ?』
『性格変わっちゃったんじゃない?』
『えー、こわ』

 クラス中の空気が一気に殺伐としたものに変わって、優菜は思わず顔を手で覆った。遥馬はそれでも何も言わず、椅子に腰掛けると、ギブスの巻かれた足を通路に投げ出した。近くの席の女子が顔を顰める。

 ――どうして。

 学校に来られれば、遥馬の気持ちも変わると思ったのに。
 それどころかいっそう頑なになった遥馬の態度に、嫌な予感しかない。優菜の心臓は痛いほど速く鼓動を打っていた。

 *

 遥馬は、学校で誰とも話そうとしなかった。自分から話しかけないだけではなく、寄ってきた生徒全員に対して、同じように冷たく接した。

 これまで遥馬と仲の良かった友人たちが気遣う声をかけても、返事すらしない。そんな態度に、やがて進んで近寄るクラスメイトがいなくなった。

 孤立していく遥馬を見ているのも辛かったけれど、それだけならまだマシだったのかもしれない。
 まるで人間に慣れない野生動物みたいにまわりを拒絶し続ける遥馬に対し、だんだんと不満の声が上がるようになったのだ。

『アイツ、なんなの?』
『怪我したからって、悲劇の主人公気取りかよ』

 誰が最初にそう言ったのか、わからない。ただ誰からともなくぽつぽつとそういう言葉を発し始めて、やがてクラスメイトだけではなく、学校中が冷めた目で遥馬を見始めた。
 むしろ、同じ教室で過ごしていない分、他の生徒たちのほうが辛辣だった。

『ちょっとサッカーが上手いくらいで調子乗ってたから、罰が当たって当然だよ』
『自分だって先輩が怪我したから出られただけのくせに』

 サッカー部の歴史のなかで、一番のプレーヤーだ! ここまでサッカー強豪校として有名になったのは宮代遥馬のおかげだ、と称賛していたくせに、今ではまったく真逆の、中傷が学校内飛び交っている。

 さすがに面と向かって暴言を吐くような生徒はいないようだけれど、本人にも聞こえるくらいの音量で交わされる陰口が飛び込んでくるたび、優菜は耳を塞いで逃げ出したくなる。

 なんでそんなことを言うの、と問い詰めたくなる反面、なぜ遥馬があれだけ他人を拒絶する態度を取るのか、それも理解できなかった。
 怪我を負って傷つくのも、ショックを受けるのも当然だ。人と話したくない、話す余裕がないのもわかる。
 だけど、自分から悪人ぶらなくたっていいのに。
 心配してくれる人に噛みつくような態度をとって、いったい何の得になるというのだろう。
 頑なな態度をとれば取るほど、遥馬自身が返す刀で傷を負っていくように見えて、仕方なかった。


 遥馬はリハビリのため、学校を休んだり、早退することがままあった。
 それすらも、遥馬を目の敵にしはじめた生徒にとっては気に食わなかったようだ。

『学校休めるなんて得だよな〜』なんて、子どもみたいな声が聞こえよがしに投げつけられる。
 聞こえないわけないのに、どんなことを言われても遥馬は顔色さえ変えなかった。本当に気に留めていないのか、無理をしているのか、優菜にはもうわからない。

 松葉杖での移動はやはり億劫なのだろう。教室移動の時以外、遥馬はずっと教室にいた。
 昼休みもひとり自席で過ごしているけれど、早退する日だけはさっさと校舎を出て、校門前につけられたタクシーに乗り込み、あっという間に去っていく。
 その様子を教室の窓から見送りながら、優菜は遥馬の胸中を想像した。

 遥馬にとってのサッカーのような存在は、優菜にはない。すべてを投げ打ってそのために努力しようと打ち込んでいるものから強制的に離されたとき、いったいどんな気持ちになるのだろう。
 どれほどつらいのだろう。どうやって自分を保つのだろう。

 何度考えても、優菜には想像もつかなかった。

 ただ遥馬の心中を想像すらせずに、彼の頑なな態度を批判する人間にだけはなりたくなかった。
 遥馬の本心は、遥馬にしかわからない。

 そんななかで、自分にできることはなんだろうか。
 考えても考えても、答えは出ない。
 どれだけ祈っても遥馬の傷ついた足が劇的に良くなることはないし、遥馬の気持ちが前向きになることはない。自分の励ましなんて、なんの意味も持たない。
 子どもの頃に見たアニメでは、ヒロインが「頑張って」と声をかければ、主人公はどんな苦境からでも立ち上がった。でもそんなのは、夢物語だ。

 現実に打ちのめされながらも、優菜は遥馬が早退して受けられなかった授業では、変わらずふたり分のノートを取った。

 あんなにクラスの中心的存在だった遥馬に対して、クラスメイトも友人たちですら、彼が透明人間になったかのように過ごしている。

 教室での遥馬は明らかに孤立していて、真ん中の席にいるというのに、不自然なほど誰も近寄らなかった。そこだけぽっかりと、別の時空に切り取られたように、色がくすんでみえた。

 だから、遥馬に話しかけるのはとても勇気がいる。
 話しかければ自ずと教室中の注目が集まるし、優菜まで揶揄われたり、きつい言葉が飛んでくるかもしれない。そう思うと、怖い。

 そのくせ、そこにいるのに、まるでいないものとして振る舞われている様子を見るたび、心が痛んだ。
 仕方なく、ノートは遥馬の席を通りかかる時、さりげなく机の上に置いた。遥馬は毎朝ギリギリに登校してくるから、予鈴の鳴る直前を狙って、なるべくクラスの注目を集めないように、そっと。


 ある日、授業の一環でグループ学習があり、六人ひと班として分けられた。授業の最後にグループごとに発表するテーマが割り振られ、その日は六人全員で相談するようにとの指示だった。
 六人の中では一番席が遠いけれど、優菜と遥馬と同じグループになった。
 喜んで良いのだかわからないまま、グループに割り振られた者同士が続々と机を寄せ合うけれど、松葉杖を使う遥馬が同じように机を移動させられるわけがない。

「あーあ。さっさと机持ってこいよ」

 同じ班の男子ひとりがそう吐き捨てた。遥馬は表情ひとつ変えず、松葉杖の片方を置くと、片手で机を押し始めた。反対の手は松葉杖を持ち、それだけで身体を片手で支えているのだから、力はほとんど入らない。

 押しても微々たる動きしか見せない机に、優菜は慌てて駆け寄った。
 
 顔は見れない。立てかけてあった松葉杖を遥馬に押し付けるように渡し、机を持ち上げた。そのまま班の形に移動させる。遥馬の机は隣とぴたりとくっつき、大きな長方形の一部に加わった。

 遥馬が座りやすいように椅子を引いて、そのまま自分の席に戻る。優菜の席はちょうど対角線上だ。

 自席でテキストを開くと、

「ていうかさ、せめてお礼くらい言えないわけ?」

 優菜の隣の女子が声を上げた。クラスでも派手で目立つ子だ。優菜は大袈裟なまでに肩を震わせてしまった。

 遥馬はなにも言わない。すると彼女は標的を優菜に変えたらしかった。

「深澤さんもさ、やってあげるのはいいけど、こんな態度取られて許さない方がいいよ」
「……許すっていうか……」

 メイクでばちばちに伸びたまつ毛に彩られた目に見下ろされ、言葉に詰まる。
 言ってしまって、良いのだろうか。もっときつい言葉をぶつけられるかもしれない。恐怖で全身がぞわりとする。
 それでも優菜は意を決して口を開いた。

「困ってたら協力するよ。見ないふりする人にはなりたくないから」

 ひゅっと教室中の空気が凍った気がした。

 言ってしまった。つい、思わず。
 隣の席の女子は口端を歪めたかと思うと「へえ。いい子ちゃんだね」と笑った。

 ついで、同じグループの男子が声を上げて笑う。

 顔がカッと熱くなるのを感じた。
 心臓がばくばくと音を立てている。

 でも。優菜は密かに拳を握った。
 後悔するくらいなら、これで良いんだ。そう自分に言い聞かせる。

 いい子ちゃんだって構わない。失うとわかってからじゃ遅いのだから。
 教師がとりなすように手を打つのを聞きながら、優菜はそっと窓から病院の方を見やった。病院は見えないけれど、心のなかで祖母に問いかける。

「私、間違ってないよね?」と。



「おい」

 低い平坦な声に呼び止められ、優菜は慌てて振り向いた。
 放課後、早く病院に向かおうと鞄を手にしたところだった。

 振り返った先には、松葉杖で身体を支えた遥馬が立っていた。
 クラスメイトたちは、ちらちらとふたりを見ながらも、足早に教室を出ていく。
 久しぶりに真っ直ぐに向かい合った。遥馬が松葉杖を使っているせいか、ふたりの間には不自然な距離が生じている。

「深澤、俺に構うな」
「……え?」

 言われたことがすぐに理解できず、優菜は小さく首を傾げた。その反応のせいか、遥馬は細く息をつく。

「サッカーが出来ない俺を庇う価値なんて無いから」

 今日の、グループ学習の時の話をしているのだとわかった。でも、遥馬はなぜそんなことを言うのだろう。言葉の意味が理解できない。遥馬の顔は相変わらず無表情で、なにを考えてるのかわからない。

「そんなこと――」
「そういうことだろ、これは」

 遥馬は初めてうっすらと口元に笑みを浮かべた。
 怪我をしてから初めて見る笑みだった。でも、優菜が見たかったのは、こんな顔じゃない。まるで自分を嘲るような、そんな悲しい笑みを浮かべられて、優菜は咄嗟に言葉を返せなかった。

 なにも言えずにいるうちに、遥馬は松葉杖をついてその横を通り過ぎていった。

 カツンカツン、と響く床を突く音は、最初に聞いた時よりだいぶスムーズに感じられる。それでまた優菜の胸は痛んだ。

 サッカーの出来ない宮代遥馬に価値はない。
 そう言いたかったのだろうか。それが、いつまで経っても優菜の胸に残っていた。

 確かに、サッカーをしている時の遥馬は魅力的だ。どんなにチームが劣勢でも、彼にボールが渡ったらなんとかしてくれるのではないかと思わせる突破力。チーム全体を勢いづかせる推進力。
 まるで遥馬が光の中心なんじゃないかと思うほど、眩しかった。
 けれど。
 優菜は考える。自分はサッカーが強いから遥馬が好きなのだろうか、と。

 もちろんプレー中の遥馬はとびきり格好良く見えるけれど、果たして遥馬が今のように活躍していなかったら、彼のことを好ましく思っていなかったのだろうか。
 違う。
 優菜は心に浮かんだ疑問をすぐに否定した。

 だって自分が遥馬に好感を抱いたのは、入学してすぐのことで、その時の遥馬はレギュラーでもなかった。けれど、サッカーに真剣に打ち込んでいた。その姿が眩しかったのだ。

 上手さや強さは関係ない。自分の全てを投げ打って取り組んでいる姿から目が離せなかったのだから。

 ではやはり、サッカーをしてない遥馬には惹かれないのだろうか。優菜はそう自問する。
 今でも自分は遥馬が好きだ。そう思っている。
 けれどもし、遥馬がもう二度とサッカーに打ち込めなかったとしたら?

 考えないようにしていた仮定と、向き合わなければならないのかもしれない。そんなことを想像するのは、不謹慎で不実だと思っていた。でも――。


 *


 ある日、昼休みにマネージャーの玲が現れた。違うクラスだというのに躊躇いなく教室に入ってくると、彼女はまっすぐに遥馬の元へ向かった。
 クラスの中が、しん、と静寂に包まれる。不自然に静まり返った教室で、彼女はあっさりと口を開いた。

「いつから部活に出られるの?」

 単刀直入にそう訊ねた彼女に、教室にいた全員が息を呑んだ。

 遥馬はだいぶスムーズになったとはいえ、まだ二本の松葉杖を駆使している。直視するのも躊躇われるくらい包帯で膨らんだ右足もそのままだった。

「……さあ」

 遥馬の低い声が響いた。

「松葉杖は、そろそろ外れるらしい」
「そうなんだ。順調じゃない」

 果たしてそれが本当に順調なのか、優菜にはわからなかった。遥馬はぴくりと眉をあげたかと思うと、再び口を閉ざす。

「トレーニングのプラン考えたいから、今度私も病院についていって良い? 無理なことはさせられないでしょ」

 そう続けた玲に、遥馬がかすかに顎を引いたように見えた。
 それで満足したのか、「じゃあ、よろしくね」と玲は言い残して教室を出ていく。

 松葉杖がもうすぐ外れる。きちんと前進しているのだ。

 そのことに安堵しながらも、優菜は苦いものを口に放り込まれたような感覚に陥っていた。

 玲は、教室中の冷たい視線をものともせず遥馬に話しかけ、自分のできることを提案している。それはとても強く、遥馬にとって大きな支えになるのだろう。遥馬のことを応援して、味方になってくれる人がいる。それは何より喜ばしいことのはずなのに、優菜の胸のなかには、靄のように重たいものが広がっていた。

 ――私はいったい、彼のために何ができる?

 もうずっと答えの出ない問いが、再び優菜のなかに浮かんで、じっとそこに居座っている。