ここにいる

 月曜日、教室へ足を踏み入れた瞬間、優菜は思わず顔を顰めてしまった。
 クラスメイトたちの間に、どこか声をひそめるような雰囲気が漂っている。教室の中でいくつかに分かれたグループが、遠慮がちに言葉を交わし合う。みな、ちらちらと同じ場所――一向に誰も座る気配のない遥馬の席を窺っていた。

『怪我しちゃったんでしょ』
『かなり酷いんだって』

 ひそひそと交わされる言葉は、噂の域を出ない。でも誰もが気になって仕方ない。
 そんな浮ついた空気と、故意につくったような重たい雰囲気が、教室中を鬱蒼と覆っている。
 試合を見に行ったクラスメイトたちが、「あそこでぶつかるなんて、まわりが見えてなかったっぽいよ」「びっくりしちゃった。試合中にいきなり凄い音がしてさー」なんて、訳知り顔で嘘か本当かわからない内容を喋っている。
 聞いている方も、まるで映画のワンシーンのような悲劇の瞬間を思い浮かべたのかもしれない。噂は憶測まで拾ってどんどん大きくなっていった。

『後遺症が残るかもって』
『もうサッカーはできないかもしれないらしいよ』
『かわいそうだね……』

 誰も本当の状況は聞いていないはずなのに、怪我の具合も今後の道も、まるでそれが事実のように噂が広まっていく。

 優菜は耳に飛び込んでくる遥馬の話題に、きゅっと唇を噛み締めながらやり過ごした。
 仲の良い友人たちは、優菜を気遣ってくれているのか、ほとんど噂を口にしないのが救いだ。もしそんなことを言われたら、悲しむより前に怒りをぶつけてしまいそうだったから。

 ただ、試合当日に起こったことは、詳しく知りたかった。耳に飛び込んでくる噂でその場面を想像するのは嫌だったし、きちんと理解しておかないと、優菜自身が噂に呑み込まれるのではないか、と不安に駆られた。自分が試合を見ていなかったことが、負い目のように後悔としてのしかかってくる。
 祖母のもとにいる、そう決めたことに後悔はないはずだった。でもまさか、こんなことになるなんて。

 今まさに手術中である祖母のことが、頭をよぎらなかったわけじゃない。
 今は、それよりも――。
 膝を押さえて苦悶する遥馬の表情が、勝手に脳内に思い浮かぶ。その場面を見たわけでもないのに、なぜかはっきりと。



 いつも一緒にお弁当を食べている友人たちに断って、昼休み、優菜はひとり教室を出た。

 担任だったら怪我を負った詳しい状況を知っているだろうか。朝の出席を取る段階では、「宮代はしばらく休みだ」としか言っていなかったけれど、聞いたら少しくらい教えてくれるのではないか。そんな期待も込めて、職員室へ向かう。

 担任教師は自席に座っていたが、そこには先客がいた。優菜は向けかけた足を止めた。
 担任と喋っているのは、サッカー部のマネージャーでもある佐々木玲だった。といっても彼女はクラスが違う。優菜のクラスの担任と、いったい何を話しているのだろう。

「宮代、しばらく休むことになると思うので、授業のノートとかプリントとか、私たちでまとめて届けようと思います」

 凛とした声で玲が言った。

 担任――四十代の男性教師で、いつも髭の剃り跡を気にしている――は、顎を摩って、

「ありがたいけど、サッカー部の活動もあるだろう。出てきたらこっちでまとめて渡せるようにしておくから」
「いえ。宮代は大事なサッカー部員ですから。私たちも様子が気になりますし、マネージャーは何人もいるので、交代でお見舞いに行くことはできます」

 玲のまっすぐな言葉が、優菜の胸に突き刺さった。

 遥馬を心配している気持ちと、彼のために何かせずにはいられないという想いが痛いほど伝わってきて、優菜は目を伏せた。

 何ができるか、なんて考えもしなかった自分を思い知って、情けなさが募る。
 とはいえ他クラスの生徒に頼むわけにもいかないからか、担任はうーんと唸った。

「私たちも、何かしたくて。宮代が心配なんです」

 玲はぐっと身を乗り出し、重ねて言った。

 その真剣な眼差しに気押されたのか、担任が口を開こうとした瞬間――

「あの!」

 優菜は衝動的に口を挟んでいた。

 四つの目が一斉に優菜を捉える。特に玲の射抜くような強い視線に、自然と足が竦んだ。
 手が震える。
 けれどぐっと拳を握ると、優菜は一歩ふたりに近寄った。

「ノートやプリントは私がまとめます。同じクラスだし……。その、宮代くんを心配しているのは私も、なので。私がやります。先生、いいですよね……?」

 そう言うと、玲の瞳がすっと細められた。

 再び彼女が言葉を紡ごうとしたとき、「クラスの子に頼んだ方がいいよ」と落ち着いた声が響いた。そこで優菜は初めて、玲の奥にいる男子生徒に気づいた。

 物腰の柔らかいその生徒は、見覚えがあった。遥馬を応援に行くと、必ずスタンドの観客に向かって挨拶をする選手。
 ひとつ上の先輩、サッカー部のキャプテンの遠藤だ。
 玲だけが喋っていたから気づかなかったけれど、どうやら一緒に、担任のもとを訪れていたらしい。

「でも遠藤先輩!」

 非難の色が混じった玲の声に、優菜はびくりと肩を竦ませる。
 と同時に、先輩でありキャプテンでもある遠藤にこんな風に物申せる玲の強さに驚いた。
 けれど。

「佐々木、クラスが違ったら先生が違う科目もあるだろ? そのノートはあんまり役に立たないし。授業のことは任せて、俺たちはサッカー部のことを報告したほうがいい」

 いなすような冷静な発言に、優菜はぽかんと遠藤を見上げた。
 一見大人しそうなのに、さすがはキャプテンを務める先輩だ。

「でも……お見舞いだって、行くの大変だろうから……」

 正論で諭され、引き下がるしかないとわかっているのだろう。ぎゅっと唇を噛み締める玲に、優菜は首を振ってみせる。

「大丈夫。私、家族が総合病院に入院してるから、毎日のように通ってるし。届けるくらい、なんてことない」

 担任と遠藤が同時に「え?」と優菜を見た。
 予想以上に気遣うような目線を向けられて、逆に慌ててしまう。

 簡単に、祖母が入院しているので、と伝えると、遠藤が小さく息を吐いた。

「そっか。それなら助かるよ。宮代は明日手術だから、明後日以降に寄ってもらえたら。俺たちも様子を見に行くつもりだけど、練習後だと何時になるかわからないし」

 手術。
 そのひと言に、胸に重しを鎮められたような感覚に陥る。
 優菜が口を噤んだからか、「手術後、順調に行けば十日くらいで退院できるらしい。その後もリハビリなんかはあるけど」と担任が付け加える。

「そう、なんですね……」

 果たしてそれは良い話なのだろうか。
 手術。リハビリ。
 すぐにはサッカーができないことは、素人の優菜にもわかった。

「ちなみに……その、怪我の具合って」

 躊躇いがちに訊ねると、担任と遠藤が素早く目線を交わした。

 やがて。

「本人は全治三ヶ月、としか知らない。でも……競技に戻れるようになるには、早くて十ヶ月はかかるだろうって」

 遠藤はそう言って目を逸らした。

 十ヶ月。がつんと殴られたような衝撃が走る。

 喉がひりつくように痛んで、上手く言葉が紡げない。

 今、自分たちは高校二年生で。十ヶ月後なんて――。
 頭の中がめまぐるしく動いて、月日を数える。遥馬に必要な時間は途方もなく長い。まだ衣替えもしていないのに、夏が終わって、秋が来て。グラウンドに凍てつく風の吹く冬になっても、まだ十ヶ月には足りない。

 そんなこと、数えても数えても信じがたく、何度も頭のなかで計算し直す。

 それでも結果は変わらない。
 十ヶ月。自分たちの学年がひとつ上がるころ。最上級生になるかというころに、ようやく治るかも(・・)しれない。そうだ、早くて(・・・)十ヶ月なのだから。治るかどうか、保証もない。

 その事実に、優菜の視界が揺れた。
 


 ちょうど授業が終わるタイミングで、母から連絡があった。祖母の手術が無事に終わったという。
 優菜は深く息をついた。

 まだ麻酔から醒めてないから今日は来なくていい、という母に「顔が見たいから帰りに寄る」と返信する。
 祖母を理由にするのは気が引けたが、これもタイミングだ、と言い聞かせた。
 担任に断って、遥馬の机から配られたプリントを取り出す。ルーズリーフに写した今日の授業分のノートとまとめてファイルに差した。ノートはコピーすれば早いのだろうけど、自分の手で遥馬のためだけに書きたかった。

 手術が終わるまで、会いに行くのは待った方が良いのかもしれない。そう思いながらも、一刻も早く、一目でいいから会いたかった。自分の中の最悪の想像を早く打ち消したかったのかもしれない。

 なんとなく、お見舞いに行くことは言い出しづらくて、ホームルームが終わると、友人たちにも何も告げず、教室をそろりと抜け出した。

 総合病院は街の中心から少し外れた小高い丘の上にある。駅から病院行きのバスに乗った。もうすぐ外来も終わる時間だからなのか、車内は空いていた。
 それでもまだ陽の光が窓ガラスを通って、車内を明るく照らしている。

 ひとり、母親と同じくらいの年齢の女性が、大きなバッグを小脇に抱えて最後列に座っていた。着替えや荷物を届けるのだろうか。

 幸いなことに、優菜自身はこれまで入院したことがなかった。病院でひとり過ごす夜がどれだけ不安なのか、想像もつかない。
 決して優菜には見せなかったけれど、祖母も不安だっただろう、と初めて気づいた。

 祖母は、今夜は病室には帰れないと聞いていた。術後の状態が安定するまで、高度治療室で過ごすのだという。

 いつも通り面会の手続きを済ませ、一般病棟を抜けると一気に人の気配がなくなった。初めて訪れるエリアに、緊張感が高まる。しんと静まり返った渡り廊下を抜けると、重厚な扉が現れた。その前のベンチに、母が座っていた。歩いてきた優菜に気づき、顔を上げる。
 終電に近い深夜に帰ってくる仕事終わりより、ずいぶん疲れているように見えた。

「待っててくれたの」
「名前を名乗らないと入れないから」

 問う優菜にそう答えるやいなや、母は壁についているインターフォンを押した。くぐもった声で反応がある。母が祖母の名前を伝えると、重たい自動ドアが開いた。

「意識はちゃんと戻ってないから、話したりはできないけど」

 扉から一歩入ると、不自然なほど明るい通路が続いていた。ただでさえ床が白いのに、ギラギラと照明に照らされて余計に眩しく感じる。通路は片側がガラス張りで、その向こうにはベッドや機材が並んでいた。意識がないのだろうか。横になったままぴくりとも動かない患者が眠るベッドが何台も連なっていて、まるで近未来に迷い込んだようだった。
 患者の容態の変化を見過ごさないためなのだろうけれど、まるで上空から監視されているような錯覚を覚えて、一瞬、優菜の足が竦む。人の声はまったく存在しない反面、絶え間なく続くモニターの電子音と、廊下を忙しなく歩き回る看護師の足音がやけに大きく響いていた。

 しかし優菜の戸惑いには構わず、母は慣れた様子で通路を歩いていく。

 そして半分くらい進むと足を止めた。ガラス越しに見えるベッドに、祖母が寝ていた。酸素マスクをつけているから、表情はわからない。息をしているのかどうかも確証が持てず、優菜は思わずスクールバッグの持ち手を強く握りしめた。
 しかしベッド脇のモニター画面は、淡々と一定の波形を描いていた。それだけが、祖母が無事であることの証明のように思える。

「手術は無事に終わって、腫瘍も取り切れたって」
「……そう」

 ガラスに手のひらをつける。もっと近くで祖母の顔を見たかった。

「成功したってこと?」

 自分よりわずかに背の高い母を見上げるようにそう訊ねると、「多分ね」と曖昧な言葉が返ってくる。

「正確なことは、病理検査が終わってからって言われた。でもそれ以前に高齢者だから、術後の回復にどの程度時間がかかるか、わからないんだって」
「じゃあ、しばらくこの部屋にいるの?」
「どうかしら……。長くても三日くらい、って聞いたけど。お祖母ちゃんの様子次第だって」

 母の目が不安げにちらちらと揺れている。
 確実に、何日で良くなる、とわからないのは不安だ。
 足元の道が本当に続いているのか、わからないまま前に進むようなものだから。

「そう……。ここにいる間は、話したりできないんだもんね」
「時間によっては面会できるけど、平日の日中しか許されてないから、優菜は無理かもね」

 ごくわずかの決められた時間に、指定されたガウンを着て徹底的に消毒をしないと、ガラスの向こう側には入れないらしい。
 優菜が長くいられるのはどうしても週末になってしまうから、それまでにどうか一般病棟に移っていてほしい。
 もう一度小さく頷くと、母は入ってきた自動ドアを指し示した。

「すぐには起きないだろうから、今日はもう帰るしかないわね。お母さん、ちょっと看護師さんに挨拶してくるから――」
「私、寄りたいところがあるから、先に帰ってて」
「え?」
「そんなに遅くはならないから!」

 祖母の顔をもう一度見つめ、優菜は素早く踵を返した。足早に廊下を抜ける。

 背後で母が呼び止める声が聞こえたけれど、気づかなかったふりをして、優菜はそのまま重い自動ドアを抜けた。


 担任から聞いた遥馬の病室を目指し、一般病棟へ戻る。
 祖母が入院していた建物とは別の棟だった。どうやら怪我の治療をしている患者が主に入院している区域のようだ。病棟を繋ぐ廊下を通り、エレベーターで目的の階へたどり着くと、どくん、と心臓が音を立てる。

 優菜はなんとか明るい表情を作ろうと、唇のまわりの皮膚を指で押した。
 遥馬には祖母がこの病院に入院していることも話してあった。優菜がお見舞いにやってきても、そう驚きはしないはずだ。

 まず、「具合どう?」とさりげなく聞いて、返事が戻ってくる前に「先生に頼まれたプリント持ってきたよ。あとノートもよかったら」と言って、ファイルを渡す。

 遥馬が怪我の具合を教えてくれれば聞くし、言いたくないようだったら「元気出して。応援してるから、またお見舞い来るね」と言って、帰る。今日の目的はファイルを渡すことと、遥馬の顔を一目見ることなのだから、それで十分だ。

 何度もその状況を頭のなかでシミュレートしながら、教えられた病室へ向かった。

 一般病棟は、先ほどまでいた空間より活気がある。点滴スタンドを押しながらフロアを歩いている入院患者が何人も通り過ぎていく。リハビリも兼ねているのだろうか、通路をぐるぐるとまわったり、院内のコンビニ帰りらしき人もいて、その雰囲気に、優菜の気持ちも若干緩む。

 遥馬の病室は三階の、ナースステーションの目の前だった。四人部屋らしいが、病室前の表示には、遥馬ともうひとりの名前しか掲示されていなかった。

 部屋の扉は開いていた。壁を軽くノックして、病室内に入る。手前のベッドはカーテンが開け放たれており、大学生くらいの青年がベッドに半身を起こしていた。
 目が合って、ぺこりと小さく会釈をする。興味深そうな目線が追ってきて、気まずさを覚えながら優菜は足早に室内を進み、奥――窓際のカーテンがかかったベッドへと近寄った。

 ぴっちりと閉じられたカーテンの向こうは、静かだった。この奥に誰かが――遥馬がいると、確証が持てないほど。ただ耳を澄ますと、かすかにモーター音が聞こえてきた。

 いる。

 そう理解した瞬間、自分の心臓が飛び出そうなほど跳ね上がったのを、優菜は感じた。唾を飲み込む。

「宮代くん? 深澤だけど、入ってもいい?」

 意識していつもより明るく声をかけると、カーテンの向こうでわずかに身じろぎする気配がした。返事はない。
 沈黙はおそらく数秒だったと思うけれど、優菜にとってはとてつもなく長く感じられた。

 やがて、ちらりとカーテンが揺れた。隙間から、包帯につつまれた足が見えた。
 思わず息を呑んでしまい、ひゅっと音を漏らさないよう必死で堪える。
 少しだけカーテンを開け、覗く。

 ベッドの上に、右足を投げ出すようにして遥馬は横になっていた。背もたれが持ち上がっているから半身を起こしているように見えるけれど、実際はだらりと上半身の力も抜けている。幾重にも巻かれた包帯とギプスで、足は原型がわからない。

 一瞬で、頭のなかが真っ白になった。

 取り繕うこともできず、顔が強張ってしまう。
 用意していた言葉なんて、何も思い出せなかった。
 頭の中で、とにかく急げ、早く、という警報が鳴っている。

 それなのに、ファイルを取り出すために鞄を開ける手が震えた。手前に入れたはずなのに、渡すべきファイルが見つからない。焦りと混乱で余計にわからなくなり、鞄の中身をひっくり返す勢いで漁った。

 ようやく見つけ出したファイルを手に、一歩遥馬に近寄る。
 しかし遥馬の目はうつろな色をしたまま、じっとベッドの上の自分の右足をみつめていた。

「宮代くん、これ……」

 優菜が差し出したファイルを、力のない宮代の手が掴むまで、痛いくらい時間がかかった。
 ようやく手にしたかと思うと、遥馬はそれを取り落とすようにベッドの上に放った。ふぁさりと柔らかい音を立てて、布団の上にファイルが落ちる。しかし遥馬の目線はそれを確認することもなかった。

「プリントと、写したノート、入れておいたから、よかったら――」
「いらない」

 え、っと言う声が、自分の口から零れたかどうか、優菜はわからなかった。

 平坦な、何の感情も含んでいない呟きが遥馬の口から漏れて、その衝撃があまりに大きかったから。その声音に、胸を一突きされたような錯覚を覚えた。

「そういうの、いい」

 ぼそぼそと小さな声で続けられて、優菜は目を見開いた。

「ご、ごめん」

 咄嗟に目を伏せて謝ったけれど、遥馬からの返事はなかった。ばくばくと心臓が嫌な音を立てている。そっと遥馬を窺うと、彼は自分の足からそっと視線を動かし、窓の外を見つめていた。
 身体を決して優菜のほうに向けまい、という意思を感じる。

 抑揚のない声。交わらない視線。

 これは、拒絶だ。

 思い描いていた会話も、励ましのひと言も、何も言えない。伝えられない。

 脳内が混乱で赤く塗りつぶされていく。ただそのなかで、自分が用意していた言葉なんて、何の意味もなかったのだと痛感していた。

 こんなこと、何の慰めにもならないのだ。

 と、同時に、自分がいかに思い上がっていたかと気づかされた。
 自分が顔を出したら、喜んでもらえるのではないか。遥馬にとって、励ましになるのではないか。そんな淡い欲を抱いていた。なんて浅はかなことを考えていたのだろう。

 十ヶ月。

 聞かされた長さが頭を過ぎる。
 そして、察した。遥馬はそれだけの長い間、競技に戻れないことを、もう知っている。

 そして競技に戻れたとしても、これまでの自分と同じプレーができるかどうかわからない、ということも。
 そんなことって。優菜は思わず口元を手で覆った。目が痛い。熱いものが溢れでてきそうになって、必死に堪えた。泣くな。泣くのは、自分じゃない。

 けれど遥馬の前で、優菜はあまりに無力だった。なにも、できなかった。


 *


 黒板の板書を写しながら、優菜はふと手を止めた。誰かが留め忘れたカーテンが、吹き込む風で大きく広がる。麗らかな日差し。穏やかな風が頬を撫でていく。
 あれ以来欠かすことなく、自分用と遥馬に渡す用、ふたつノートを取っていた。授業中だけでは追いつかないこともあって、休み時間もひとり教室で机に向かっていることが多くなった。

 祖母が入院してから弁当は持ってきていないので、昼食は昼休みにやってくるパンの購買で済ませていた。朝、早起きして自分で作るのはさすがに面倒だ、と訴えたら、母が小遣いとは別に、パンを買う分のお金を追加で渡してくれたのだった。
 決して自分が作る、と言わないところが母らしい。元々母は、家事全般が嫌いだとよく言っていた。
「必要なのはわかるけど、やらなくて済むなら一生やりたくない」
 そうスパッと言い切る母に、祖母が苦言を呈することはなかった。

 具材の挟まっていないコッペパンを齧りながら――これが一番人気がなくて、どんなに出遅れても確実に買えるのだ――、優菜はノートを写し続ける。

 遥馬はまだ入院中だ。教室のほぼ中央、前から二列目の遥馬の席はもう一週間空席で、クラスメイトもその不在に慣れてしまったようだった。
 故意に避けているのか、遥馬の話題に触れる者も減っていた。

 手術は無事に成功した――と、優菜は遠藤から聞いた。

 あの日、「いらない」と拒絶されてから、優菜は遥馬のもとを訪れていない。
 ただ遠藤は、手術当日だから優菜が遠慮した、と思ったらしかった。

 翌日わざわざ教室を訪ねてきて、「手術は無事に終わったらしいから」と教えてくれたのだ。
 思わず曖昧に笑って「良かったです」と返したけれど、遠藤にしてみれば「無事に終わったのだから届けものはきちんと持っていってほしい」という意味だったのかもしれない。自分から手を挙げたのだ。ノートは届けなければならない。

 そう思いながらも、優菜は二の足を踏んでいた。もう数日分のルーズリーフが溜まっている。
 あの日、虚な目をした遥馬は優菜のほうを見ようとしなかった。あの表情を思い出すだけで、呼吸が浅くなるのがわかる。
 自分がお見舞いにいったら少しでも勇気づけられるのではないか――そんな浅はかな考えを持っていたことを自覚させられた。そしてそれが、とんだ思い上がりだったことも。
 けれど担任にも「自分が持っていく」と言い切った以上、このまま手元に保管しておくわけにはいかない。さすがに週が変わる前に届けなければ。

「先生に頼まれたから」という体で、プリントだけさっさと手渡してきてしまえばいいのだ。
 あの生気のない表情を思い返すと身体が竦んでしまうけれど、そう言い聞かせてなんとか自らを奮い立たせる。

 放課後、遥馬の机から取り出したプリントやルーズリーフをファイルにひとまとめにして、教室を出る。
 廊下の向こうから、ジャージ姿の女子が数人歩いてくるのが見えて、優菜は足を止めた。先頭に玲がいる。どうやらサッカー部のマネージャーたちのようだ。
 咄嗟に、空き教室の中に飛び込んだ。息を顰めているうちに、玲たちが優菜のいる教室の外を通り過ぎていく。

「私、今日病院行ってくるから、あとよろしくね」

 玲の声が聞こえてきて、優菜はファイルを持つ手にぎゅっと力を込めた。

「何か差し入れまとめましょうか?」
「ううん。余計なことしたら宮代が気にしそうだからやめとく」

 玲の口ぶりから、もうお見舞いに行って会話を交わしたのだろうことが察せられた。
 優菜は満足に会話もできなかった。そんな自分が行くより、玲が届けたほうが遥馬も助かるのかもしれない。
 それならば。
 一瞬、優菜の頭に、手元のファイルを託してしまおうか、という思いが過ぎる。
 どうせ自分は渡すだけなのだ。誰が持っていったって関係ないはず。むしろ来訪者は少ないほうが良いかもしれない。

 ただ、拒絶されるのが怖いだけなのだと心の奥底でわかってはいる。
 それでも自分を正当化してしまいたくなるくらい、遥馬の病室に行くのは気が重かった。
 お願いしたら良い。その方が、みんなにとって、きっといい。
 ファイルをじっと見つめていると、頭のなかでもうひとりの自分が囁く。
 教室を飛び出そうとして――止まった。
 
 渡すだけと言いながら、誰かに頼むなんて。
 逃げ以外のなにものでもない。

 優菜はふう、と小さく息をついて、廊下へ出た。
 玲たちの姿はもう見えない。「よし」と気合いを入れ直す。

 遥馬の病室には顔を出していないが、祖母の元へは毎日通っていた。
 手術の三日後には一般病棟に移ったので、自由に面会もできる。

 祖母は「体力があって素晴らしいですね」と看護師さんに褒められる回復ぶりで、ゆったりした足取りではあるものの、病室のあるフロアを散歩するほどだった。

 それを見て母はすっかり安心したのか、毎日は顔を出していないらしく、洗濯物を預かったり届けたりするのはすっかり優菜の役目になっていた。我が母ながら薄情だな、と思う。

 祖母がそんな母に何の文句も言わないから、優菜も何も言わないようにしていたけれど。
 自分だったら、母が入院していたら毎日通うのに。
 学校にも持って行くようになった大きなボストンバッグから、洗濯したタオルを病室の棚にしまっていく。

「いつまで入院するかの話、あった? なんか聞いた?」

 そう訊ねると、祖母は真剣に読んでいた本から視線を上げた。術後、解き始めた謎解きの問題集らしい。「頭のリハビリにちょうど良いのよ」と言って、暇さえあれば鉛筆片手に取り組んでいる。
 鉛筆をゆらゆらと揺らしながら、祖母は首をすくめた。

「さあねえ。先生は、もう少しって仰っていたけど」
「えー。もう少しって、曖昧だね」
「優菜ちゃんに迷惑かけるから、早く退院したいんだけど」
「それは別にいいんだけど……」

 優菜は振り返って、慌てて首を横に振る。
 術後の流動食でさらに体重が減ったのか、皮と骨だけになったような祖母の腕を取った。

「でもひとりでご飯食べるのも寂しいし、早く帰ってきてほしいかも」
「お父さんとお母さんは相変わらず外食ばかりなの?」
「うーん、お父さんは食べて帰ってくることが多いかな。お母さんは帰ってきてから食べてるけど、遅いから自分で適当につまんでるみたい」
「優菜ちゃんは?」
「私は適当に作ってるよ。昨日は豚丼とサラダ。ほら」

 優菜はスマホを取り出すと、写真を見せた。

「あら。彩りも綺麗」
「温玉乗せたからね。その前はサラダうどんで……」

 よくよく見ればほとんどどんぶりものなのだが、祖母は優菜がスワイプしていく写真に目を輝かせた。

「優菜ちゃんのご飯見てるとお腹空いてくるわね。帰ったら作ってもらおうかな」
「えー……適当に作ってるから、同じものはもう二度とできないよ」
「いいのいいの。作ってもらうってことに意味があるんだから」

 くすくすと笑う祖母が、スマホから視線を上げた。ベッドが高い位置にあるせいで、穏やかな瞳が優菜を見下ろす。

「優菜ちゃんの心配事は解決したの?」

 突然そう訊ねられ、「え?」と声が漏れた。

「毎日、ここに来るたびに考え事してるでしょ。だいたい、窓の外を見てるとき」

 ずばり言い当てられて、優菜はおろおろと視線を彷徨わせた。

 確かに窓の向こうには、遥馬のいる病棟があった。
 今日こそ会いに行こうと思っているのに、なかなか踏ん切りがつかない。祖母の病室を訪ねる前に、さっとプリントだけ渡して立ち去ろうと思っていたのに、今日も結局まっすぐこちらにやってきてしまった。

 聞いてもらいたい気持ちが湧き上がってくるものの、なにから話して良いのかわからない。

 優菜ははっきりと窓の外に視線を遣った。指先で窓ガラスに触れる。つるつるした表面をなぞっても、向こうには届かない。

「苦しんでるひとに、なんて声をかけたら良いんだろうね……」

 頑張って、なんて間違っても言えない。
 大丈夫だよ、なんて何も知らない自分が言えることではない。
 落ち込んでいる遥馬を見ることは辛い。
 けれどそれ以上に、何もできない自分を痛感するのが嫌なのだ。そう気づいてしまったら、余計に遥馬のもとを訪ねづらくなってしまった。

 また窓の外をぼんやり眺めていると、

「そうねえ……」

 祖母がどこか遠くを見ながら口を開いた。

「苦しんでるときは、何を言われても受け入れられないかもしれないわね」
「……え?」
「でもいつか気づくと思うのよ。自分のことを思ってくれるひとがいてくれるだけで、ありがたいなあって。いつになるかは、わからないけどね」
「そう、なのかな」
「もちろん。お祖母ちゃんみたいに歳を重ねれば、苦しいときにもそのありがたさに気づけるけどね。若い頃は多分、わからなかったと思うわ」
「お祖母ちゃんも?」
「そりゃそうよ。辛いことがあったら、なんで私がこんな目に遭うのって思ってたもの。今は手術を受けられて、孫がお見舞いにきてくれて、これだけで幸せものよ」
「もう。そんなこと言わないでよ。お見舞いに来るのは当たり前でしょ」
「ふふ。看護師さんたちにも『いいですね』って言われるのよ。『あんなに熱心にお見舞いに来てくれるお孫さん、珍しいですよ』って」
「それは……」

 同居していて、たまたま来やすい場所に病院があるからだ。きっと頻繁にはお見舞いにいけない孫だって、行きたいとは思っているはず。
 けれどそれは口にせず、優菜はベッド脇の椅子に腰掛けた。

「だから、ここにいるからねって伝えるだけで、十分意味があると思うわよ」

 祖母の手が、柔らかく優菜の頭を撫でた。涙が込み上げそうになるのを、唇を噛んで必死に堪える。

 確かに、今一番辛いのは遥馬だ。なのに自分が避けていても仕方ない。

 祖母の手のあたたかさを感じながら、優菜はぐっと拳を握りしめた。



 バッグから取り出したファイルは、この前よりだいぶ分厚い。
 手に汗をかいていて、プラスチックのそれがつるつると滑った。
 スムーズに渡したくてだいぶ前に鞄から取り出してしまったことを後悔しながら、優菜は病棟の廊下を進んだ。

 目的の遥馬の病室にたどり着く。どうやら同室の人が入れ替わったようで、ネームプレートには、遥馬の他に見覚えのない男性の名前がふたつ並んでいた。

「お邪魔します……」

 小さな声で囁いて、病室内に足を踏み入れる。
 今日は使っているベッド、すべてのカーテンが閉まっていた。音を立てないようにそっと歩き、遥馬のベットサイドから声が聞こえることに気づいた。
 一瞬、玲とタイミングが被ったのだろうか、と複雑な気分になった。
 しかし耳を澄ますと聞こえてきたのは覚えのない声だった。

「退院後のリハビリスケジュール、先生から説明あった?」
「……」
「遥馬?」
「……あった」
「日程教えておいてね。送り迎えするから」
「いい」
「え?」
「別に」
「別にって……車がないと、ここまで通えないでしょう」

 遥馬の声は最低限しか聞こえてこない。会話の相手は母親だろうか。

 出直した方が良いだろうか、と思ったその時、手にしたファイルがつるりと手から床に滑り落ちて、小さな音が響いた。
 慌てて床にしゃがみこみ手を伸ばしたその時、カーテンが開いて、向こうにいた女性と目が合った。
 自分の母親と同じ年頃だろか。淡いブルーの服は柔らかそうで、母とはずいぶん印象が違うな、と感じた。

「こ、こんにちは……」

 カーテンに手をかけたまま目を見開いた女性に挨拶する。その奥で、遥馬がかすかに息をついた気配がした。

「こんにちは。もしかして遥馬の……?」
「クラスメイトです。学校で配られたプリント、預かっているので」

 立ち上がって埃を払ったファイルを差し出すと、母親は「わざわざ? ありがとう」と受け取った。

「いえ。ついでなので。それではすみません、失礼しました」

 ぺこりとお辞儀をして、踵を返す。ベッドサイドの遥馬は視線を逸らして床を見つめており、優菜を視界に入れることはなかった。

 足早に廊下を抜けながら、どくどくと心臓が鳴っているのを自覚する。
 しかし、ファイルを渡すという目的は達成したのだから、良しとしなければ。

 ふたりの会話から想像するに、もうすぐ、遥馬は退院する。
 待ち望んでいたはずなのに、接する機会が増えることへの戸惑いも覚えてしまって、優菜はそんな自分にため息をついた。


 自宅に戻ると、珍しくすでに母が帰宅していた。

「ちょっとそこ座ってくれる?」と言われ、ダイニングテーブルにつくと、母も向かいの席に座った。

 何かを言おうと開きかけた口を、母はいったん閉じる。不自然な沈黙が落ちて、冷蔵庫の立てるぶうんという低いモーター音がやけに大きく響いた。

「お祖母ちゃんのことなんだけど」

 優菜の目の前に、不自然なほどなみなみと中身の注がれたマグカップが置かれていることに気づいた。柔らかく香るその中身は、祖母の好きなお茶に違いなかった。
 自分には何も用意していないらしい母は、空いたテーブルの上でぎゅっと両手を組んだ。

「癌が転移してたんだって」

 そう言うと、母の唇が一瞬大きく歪んだ。

 とっさに「嘘」と言いかけたのを、その動きで思い留まる。
 予想もしていなかった言葉が、頭の中でぐるぐるとまわった。脳が理解するのを拒否して、言葉だけがまったく腑に堕ちないまま何度も何度も目の前を旋回している。

 返事すらできずにいる優菜に、母は再び口を開いた。

「手術が終わったのになかなか数値がよくならなくて、どんどん痩せていくでしょう。いろいろ検査したらリンパのあたりにも転移していて。多分、他のところにも。もう手術のしようがない。手の施しようがないって」

 一気にそう言い切った母の目から一筋涙が溢れて、優菜は口を手で覆った。

 嘘。嘘だ。だってあんな順調に回復しているって――。

「どうして……」

 そこまで病状が進んでいるなら、なぜもっと早くわからなかったのだろう。手の施しようがないなんて、そんな状態になるまで、なぜ。
 祖母が信頼している担当医の顔を思い浮かべる。脳内の彼に向かって、なんで、なんでと胸ぐらを掴む勢いで問いかけた。
 答えの出るはずのない疑問が、頭のなかに次々と浮かんでは、消えることなく渦巻いている。喉の奥が焼けるように熱い。ひゅっと引き攣ったような息が漏れて、優菜は自分も泣いていることに初めて気づいた。

「……お祖母ちゃんは、知ってるの」
「今日の午前中、一緒に先生から話を聞いたわ」

 がつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。
 優菜が放課後病室を訪れたときには、祖母はすべてを聞いていたのだ。

 それなのに――。
 交わした会話を思い出す。

 何も知らず、なんて呑気な話をしてしまったのだろう。祖母は、どんな思いで聞いていたのだろう。退院したら優菜の作ったご飯を食べたいと言ってくれた。いったい、どんな気持ちで――。

 溢れる思いを言葉にすることもできない優菜に、母は続けた。

「これからのことは、また明日病院に行って相談するから」
「これからって?」
「治療をどのくらいするか、とか、緩和ケアに移るかどうか、とか。終末期をどう過ごすのか、ご相談くださいって言われたわ。なるべく本人の希望を尊重したいから」

 終末期。
 しゅうまつ、き。

 音で聞いただけでも、終末という言葉の衝撃は大きかった。まるで、この世が終わるような響き。

「私も行きたい」

 とっさに口から零れていた。母が目を見開いている。
 やがて、緩やかに首を横に振った母は、

「大丈夫よ。学校だってあるでしょう」
「大丈夫とかじゃなくて――」
「それに、優菜がいるとお祖母ちゃん強がるかもしれないから」

 そう言われて、優菜は思わず俯いた。

 何度もお見舞いに行ったけれど、一度たりとも弱音を吐かなかった祖母の姿を思い出して。
 ぐっと黙った優菜に、「お母さんにだって、本当のことは言ってくれないけどね」と母は続ける。

「つらい話はお母さんがしてくるから。優菜には違う存在でいてほしいのよ」

 それはつまり、祖母の前ではいつも明るく振る舞ってほしいということなのだろう。
 期限があるとわかっていながら、自分にそんな態度が取れるのだろうか。自信がない。

 けれど優菜は頷いた。

「わかった。私は、お祖母ちゃんと楽しいことだけ話す」

 ありがとう、という母の声が、涙で滲んでいた。

 *

 それから、優菜の日常は色を失ったように淡々としたものになった。

 祖母の前で無理やり笑顔を作り、振る舞う。しかし叶わない望みばかりを口にするのは躊躇われて、当たり障りのない会話に終始するようになってしまった。自分がこんなに上手く行動できない人間だったなんて、初めて知った。

 それでも毎日、どこかで開催される謎解きイベントがないかどうかを調べていた。

 もし病院から外出許可が出れば。
 歩き回らないものだったら、一緒に挑戦できるのではないか。
 そんなにうまい話があるわけがないと思いながらも、優菜は毎日スマホで同じ検索を繰り返していた。

 クラスメイトと笑い合うことも減った。何をしていても祖母のことが過ってしまって、明るい話にはとてもついていけなかった。
 目を閉じただけで、涙が溢れそうになる。その度に何度も何度も瞬きを繰り返しては必死にごまかした。

 そして、遥馬の病室にも通い続けていた。
 相変わらず会話はない。それどころか優菜が声をかけても反応はなく、持って行ったノートを直接受け取ってもらえることもなかった。目も合わない現実に、その度心が折れそうになる。けれどそのたび、祖母の言葉を思い返して自分を奮い立たせた。

 リハビリに行っているのか、訪ねた病室に遥馬がいないときのほうが安堵してしまう自分に気づいて、呆然とした。
 でも遥馬がいなければ、そっとノートを置いていくだけで良い。自分を拒絶する遥馬の顔も見なくて済む。まるでただ義務をこなしているだけのようで、それじゃ意味がないとわかっているのに。それでもカーテンから覗いてベッドが空だと、自然と安堵の息が漏れてしまうのだった。

 あれからも何度か、遥馬の母親が来ているときに訪ねてしまったこともあったけれど、そちらの方がむしろ気が楽だった。こんな場合でなければ、遥馬の親に自分がどう思われるかひどく気にしたはずなのに、今は優しく「ありがとう」と受け取ってもらえるだけで、有り難かった。

 その日も母親がベッドサイドにいて、棚の開け閉めを繰り返していた。その仕草に、はっと思い至る。
 目を瞬かせる優菜に、遥馬の母親は「毎日ありがとう。明日、退院が決まったの」と告げた。

 思わず遥馬を見る。しかし遥馬はぼんやりと窓の外を眺めていて、視線は合わなかった。
 その一方通行な目線を追って、遥馬の母は取り繕うように続けた。

「学校には明後日から登校する予定だから、よろしくね」
「は、はい……。待ってます」

 遥馬の背中に声をかける。その背は、この入院期間にずいぶん薄くなったような気がする。
 あれだけ自分の身体に気を遣っていた遥馬の変化に、優菜の胸は締め付けられた。
 ただ気づいてしまったら遥馬を見ていることができなくて、優菜は簡単に挨拶を済ませると足早に病室を飛び出した。

 学校に来たら、きっと良くなる。
 クラスメイトも、サッカー部の仲間だっているのだから。
 そう信じていた。