ここにいる

「おー、帰ってきた帰ってきた、このモテ男!」

 男子たちが囃し立てる声が聞こえてきて、優菜は半ば反射的に教室の入り口に目を走らせていた。楽しく昼休みを過ごしていた友人たちの声が聞こえなくなるくらい、そちらに意識を集中してしまう。

「んだよー。揶揄うなよ」

 ツンツンと立てた黒髪を掻きながら教室に入ってきたのは、クラスメイトの宮代遥馬だ。
 身長はクラスの男子の平均値くらいだけど、実際より大きく見える。それは多分、すっと伸びた背筋のせいだ。いつも姿勢がよいのは、それだけ必要な筋肉を鍛えているからだろう。彼が背中を丸めているところなんて、想像がつかない。

「宮代くんって、本当にいつも姿勢良いよね〜」とクラスの女子が感心しながら声をかけるたび、「わざわざ小さく見せるなんて、舐められるだけじゃん」と本人は笑い飛ばしている。

 けれど優菜は知っている。去年の入学当初、クラスの背の順で前から三番目の低さだった遥馬が、それを大層気にしていたことを。

 ふたりは去年も同じクラスだった。たまたま出席番号が近かったこともあり、入学式当日にも言葉を交わしていた。
 見知らぬ人に囲まれて緊張していた優菜に、「どこ中出身? よろしくな」と声をかけてくれたのが遥馬だった。それ以来、毎日、いや休み時間のたびに話すようになった。

「今日、誰が当たると思う? 俺、また一番端から当ててくると思うんだよな」
「えー、この前、次は続きから当てるって言ってたよ」
「いや。絶対覚えてないじゃん。毎回騙されてちゃんと予習してるのに」
「それが先生の作戦だったりして……」
「マジか。みんなハメられてるってことかよ〜」

 げー、と言いながら遥馬は明るく笑い飛ばす。それを聞いて、まわりのクラスメイトもやれ今日は誰が当たるだろう、なんて話しはじめて、あっという間に休み時間が過ぎていく。

 遥馬は笑う時、左右の口端が非対称に上がる。それが皮肉げではなく、人好きな子どものように見えることに気づいて、どきんと胸が鳴った。

 優菜はほのかな予感を抱きながら、黒板に文字を書くたびに裾をすりそうになる遥馬に、まくった袖を留めておくため髪ゴムを貸した。
 サンキュ、と言って受け取った遥馬は「あー、早く背伸びねえかなあ」と思いっきり背伸びをした。

「背、伸びそうだから大きなブレザーを買ったんじゃないの?」
「そうだけど……。ここまで伸びるかどうかは賭けっていうか願望っていうか」
「じゃあもう少し小さなサイズにしようと思ってたんだ?」
「親はそのつもりだったみたい。でもさ、背だけじゃなくて筋肉もつけたいし。そしたらきつくなるじゃん。やっぱり試合中走り回るためには体力も筋力も必要だしな」

 ただ漠然と背が高くなりたい、のではなく、強いフィジカルを手に入れたい、という理由なのだ。

「凄いね」

 ぽつりと呟くと、遥馬は首を傾げた。

「まあサッカー極めようと思ったら当然かな」

 優菜から目を逸らしたまま、真っ直ぐに前を見据えて遥馬は言った。すぐに口をきゅっと固く結ぶ。その横顔から彼の決意を感じて、優菜は思わず息を呑んでいた。

 自分にはなりたいものも、やりたいことも特になかった。小さい頃は漠然と幼稚園の先生になりたいなあなんて考えていたけれど、それも絶対に進みたい道というわけではなかった。実際、ピアノを習うのも辞めてしまったし、実現のために明確な努力をする夢、なんてものじゃなかった。

 だから、遥馬を見て余計に強く感じたのだ。
 実際に、夢に向かって一直線に進んでいるひとは、眩しい。

 その光に引き寄せられて、どうか少しでも遥馬の力になりたいと自然に考えていた。

 最初は、身長を伸ばすのに必要な栄養素を調べたり、それにはどんな食材がおすすめなのかを調べるようになった。ノートに書いてまとめては、そのコピーを遥馬に渡した。実際、図書室で調べられる程度の情報に、どれだけ信憑性があるのかわからない。けれどあまりに直向きな横顔を見てしまったら、何もしないではいられなかった。

 それが、遥馬の所属するサッカー部のマネージャーたちから、よく思われていないらしいことはわかっていた。でも、遥馬がにかっと太陽みたいに笑って「深澤のおかげで最近調子いいよ!」と言ってくれた。そのとき、たとえ誰になんと思われようと、遥馬のためにできることをしたい、と強く思ったのだ。

 その甲斐があったのか、遥馬の身長は入学当時と比べて、十センチ以上伸びていた。健康診断のたび、ピースサインをした遥馬がやってきては、「何センチ伸びてた!」と笑顔で報告してくれた。

 入学当時ぶかぶかだった制服のブレザーは、今やぴったりだ。けれど、背丈はまだまだ伸び続けているらしいから、もしかしたらそのうち寸足らずになってしまうかもしれない。
 


「どうだった?」
「告られた?」

 矢継ぎ早に投げかけられる質問に曖昧に頷きながら、遥馬は自席の椅子を引いた。
 友人たちには答えず、遥馬はくるりと後ろを振り返った。遥馬の席は、隣の列の、ふたつ前だ。違いに自席に座って話すには、残念なことに少し遠い。

 つぶらな瞳が、一瞬宙を彷徨った。目が合って、遥馬の口が動く。

 ――し、んぱい、するな。

 見間違いでなければ、そう動いた。優菜が無言で頷くと、遥馬は小さく微笑んだ。

 そして男子たちに向き直ると、

「あー、なんかそれっぽいこと言われたけど、断った」
「えー? またかよ」
「遥馬はどんな美人に告られても、絶対相手にしないよな」
「信じられない」
「もったいねー」

 やれやれと肩をすくめる友人たちに、遥馬は悪戯じみた笑みを向けた。

「俺、今はサッカーのことだけ考えたいし」

 遥馬がそう言うと、まわりの友人たちは「あー」「まあそうだよなあ」と納得の声を上げる。

 でも優菜の胸には少しだけ、ほんの小さな甘い棘のようなものが刺さった。だって、あんな風にフォローされたら、いやでも期待してしまう。好きなのは自分だけじゃないはず、と。

 遥馬のサッカー人生において、今が大事な局面だということはわかっている。夏のインターハイをかけた県予選が、いよいよ今週末から始まるのだ。その大会で優勝し、全国大会に出場する。それがサッカー部の悲願だった。
 去年の冬は準優勝、夏はベスト4。どちらもあと一歩というところで、全国大会出場を逃していた。だから今年こそ、という思いでサッカー部が一致団結しているのは、優菜だけではなく全校生徒が理解していた。

 中学の頃からサッカー部だったものの、さして目立つ選手ではなかった遥馬が一気に輝き出したのは、去年の冬の大会予選だった。元々同じミッドフィルダーでレギュラーだった先輩が、怪我で調子を落とし、空いたポジションに抜擢されたのだ。
 持ち前の運動量と視野の広さを活かして、遥馬は瞬く間にチームの中心選手へと駆け上がった。それはもちろん、普段の基礎練習や肉体改造が身を結んだ瞬間でもあった。

 そして、我が校サッカー部の過去最高位である準優勝の立役者となったのだ。

 もともと全国の中でもレベルが高く、予選から注目されている地域だ。

 そして、遥馬はプロのスカウトの目に留まったのだという。冬の予選以来、プロチームや有力大学のスカウトが入れ替わり立ち替わり練習を見学に来て、遥馬をチェックしていくようになった。サッカー専門誌には注目選手として取り上げられることもあったし、卒業も同時にプロ入りも夢ではないらしい。
 これだけプロに近しい部員は創部以来初めてだそうで、サッカー部はどこか浮き足立っていた。

「深澤」

 少し顰めた声に、驚いて優菜は振り返った。いつの間にやってきたのか、すぐ近くに遥馬が立っていた。

「どうしたの?」

 頭の毛束を何度も摘み直しながら、遥馬は声をかけた優菜からつと目を逸らす。

「そんなんじゃないから」

 首を傾げた優菜にぽつりとそれだけ言うと、再び自席へと戻っていった。
 昼休みを一緒に過ごしていた友人たちが、にやにやと笑みを浮かべながら去っていく遥馬を見送る。優菜は思わず顔を伏せた。

「ねえ、本当に付き合ってないの?」

 口端を上げた友人のひとりが、顔をぐっと近づけてくる。

「付き合ってないってば」
「えー、でもあんなこと言ってきて告白もしないって、それはそれで酷くない?」
「それは……」

 自分が抱いている期待と不安をまさに言い当てられたようで、優菜は口を噤んだ。そりゃあ、期待しないといえば嘘になる。でも。

「宮代くん、今一番大事なときだから」
「ふーん。両思いだから余裕ってわけね〜」

 友人たちはそう言って、順番に優菜の背中を叩いた。

「そんなのじゃないから」

 そう否定しながらも、胸の奥に少しだけ優越感が滲む。

 遥馬がこんな風に「誤解するな」と説明してくるのは、優菜にだけだったから。


 ◆


「ごめん、日曜はどうしてもいけなくて」

 放課後、練習に向かう遥馬を呼び止めて、優菜は目を伏せた。
 遥馬は相変わらず人好きのしそうな明るい笑みを浮かべると、

「いいっていいって。まだ初戦だし。それより……、お祖母ちゃん大丈夫か?」

 最後の一言だけ声を顰めた遥馬に、優菜の胸はきゅんと疼いた。そういうところが、好きだなと思って。

「手術は月曜なんだけど、学校があって付き添えないから、その分、日曜は私が一緒にいてあげたいと思って」
「それがいいよ。深澤が来たら喜ぶと思うし。こっちはまだその次も試合あるから」
「ごめんね、初戦なのに」
「気にすんなって。あ、でも決勝は空けといてくれよ」
「もちろん! ていうか、その前の試合だって、あとは全部行くよ」
「サンキューな。俺はこんなところで躓くつもり、ないから。深澤はお祖母ちゃんの不安、取り除いてやれよ」
「うん。ありがとう。宮代くんも頑張って」

 小さく右手でガッツポーズを作ると、遥馬はこつんとそこに自分の拳を合わせてきた。
 また月曜な、と軽く手を上げて去っていく後ろ姿を見送りながら、優菜は胸を撫で下ろした。

 良かった。直接頑張って、と伝えられて。

 インターハイに向けた県大会初戦。ああは言っていたけど、大事な試合だ。優菜も当然、応援に行くつもりだった。

 でも――仕方ないよね。

 優菜は上履きのつま先を見つめる。だいぶ黒ずんできているから、そろそろ持って帰って洗わなければ。けれど今週末はきっと慌ただしいから、来週にしよう。そう決めて、優菜は自分も帰路についた。


  *


「お祖母ちゃん、入るよ」

 クリーム色のカーテン越しに声をかける。返事の前に、内側からカーテンが開け放たれた。
 淡いピンクのパジャマ姿の祖母が、ベッドに腰掛けている。

「来てくれたの?」

 心から驚いたように目を見開いた祖母に、「行くって連絡したでしょ」と優菜は笑う。

「そうだけど、こんなに早く来てくれると思わなかったから」
「今日は一日ここで過ごそうと思って。宿題も持ってきた」
「じゃあ、後で食堂に行きましょうか」

 祖母はそう言ってくれるけれど、優菜は首を横に振った。
 手術を明日に控え、祖母は食事制限をしている。食べ物に満ちた空間に連れていくのは酷だと思った。

「いいよ。ここで」
「でも、優菜ちゃんがお腹空くでしょ」
「おにぎり持ってきたから、大丈夫」

 祖母がよく作ってくれた、ご飯に天かすと昆布や鰹節を混ぜたおにぎりだ。お稲荷さん、ならぬたぬきさん、と呼んで、お弁当の日にはよく「今日はたぬきさんが良い」と強請った。

「お母さん、出かけてるの」

 少しだけ祖母の表情が曇る。
 優菜はわざとらしくならないように、声のトーンを上げた。

「仕事行ってるけど、今日は早く帰ってくるって。顔出せたら出すってさ。もちろん明日は朝一番に病院行くって言ってた」
「別に良いのに。手術は午後なんだから」

 実の母が初めて手術を受けるというのに、さすがに仕事に行っている場合じゃないだろう。
 遠方に住んでいるならまだしも、同居しているのだ。

「私だって学校休もうかと思ったよ」
「何言ってるの。どっちにしろあとは先生に任せるしかないんだから」
「それは、わかってるけど……」

 執刀医は物腰の柔らかい男性医師らしく、祖母はすっかり信頼している。優菜はお見舞いに来ているときに一瞬会っただけだけれど、確かに感じの良い先生だった。だからその点は心配していない。

 ただ――。

「悪性腫瘍の可能性が、高いんだって」

 祖母に付き添って検査結果を聞いた母が、ぽつりと呟いたひと言が、優菜の心に重く響いた。しん、と沈黙が満ちて、鼓膜が音を拾う方法を忘れたような感覚に陥った。

「もちろん、悪性でもきちんと取りきれれば問題ないらしいけど……。開けてみないとわからないって」

 あけてみないとわからない。

 まるで、冷蔵庫を開いてみないと、どんな食材が残っているのかわからない。
 そんなニュアンスで母は言った。

 だから、優菜は実感するのに時間がかかったのだ。

「取りきれなかったら、どうなるの」

 優菜の疑問に、母は額を抑えた。

「どうなのかしら。薬とか、また手術とか……? でもとにかくまずは見てみないとって」
「そうなんだ……」

 スマホで『悪性腫瘍』『術後』と母から聞いた言葉をひたすら検索してみるけれど、結局どれを読んでも素人にはきちんと理解できなかった。いや、理解したくないことが書いてあるばかりだった。
 だから優菜は、確かなことだけを受け入れた。

 わかっているのは、祖母は手術をして、その結果によって、これからの治療方法が決まる、ということ。


 ここ数ヶ月ですっかり痩せ細った祖母の手を、優菜はぎゅっと握った。
 たぬきさんを握ってくれていた記憶のなかの手は、もっとふっくらぽってりしていたけれど、骨ばった今の手も温かかった。

 日曜だからか、院内は静かだった。まずは検査のために入院した祖母の病院滞在はもう一週間近くになるけれど、「こんなに静かな日は今日が初めてよ」と少しだけ嬉しそうに辺りを見回した。

「静かより、活気があるほうが良くない?」

 優菜の質問に祖母は「そうねえ」と唇を少しだけ尖らせながら考えている。

「活気があるのは良いことなんだけど、病院に人がいるって、決して良いことじゃないじゃない? それなら静かな方が良い気がするわね」
「なるほど……」

 確かに、溢れんばかりの患者がいる、という現実は直視したくない。

 祖母は持ち込んだクロスワードパズルに精を出し、優菜はベッド脇の小さなテーブルを借りて英語のプリントを終わらせた。合間にお喋りをしているから進みは良くないけれど、時間はたっぷりある。
 昼時には人気のない外来病棟を意味もなくぐるりとめぐって、外に出て中庭を散歩し、その途中でベンチに並んで座って、優菜はおにぎりを食べた。

 院内には大きな棟が二つと小さな棟がひとつあり、その真ん中に中庭があった。丘、というほどではないけれどなだらかな曲線を描く芝生が敷かれていて、その中を放射線状に何本かコンクリートの歩道が走っている。リハビリ患者の歩くルートを増やすために、わざと歩道を多く作ってあるらしい。さらに歩行しやすいように柔らかいコンクリートを使っています、という看板が立っていた。

「ちょっと、味濃かったかも」

 おにぎりを一口食べて、優菜は顔を顰めた。

「味見したいけど、怒られちゃうから無理ね」
「お祖母ちゃんが帰ってきたらまた作るから、味見して。その時はもう少し麺つゆを減らしてみる」
「昆布と鰹節、両方入れるならその方がいいかもしれないわね」

 どちらからも出汁が出るから、とのんびり言う祖母の言葉に無言で頷く。今日は省略したけど、祖母に作る時にはおにぎりをしその葉で包もう、と決めて。

 天気予報は一日晴れだったけれど、空は薄い雲に覆われている。水色のキャンバスに、斑らに塗りたくったような白い雲の合間から、細い陽の光が差し込んでいた。

 寒くなく、暑くない。この時期でも真夏日になることもあるから、それよりは随分過ごしやすい。きっと、サッカーの試合にも適した気候だろう。

 試合開始は十四時だった。
 朝、迷いに迷って「頑張って!」と遥馬にひと言だけ送った。猫がサッカーボールと戯れているスタンプとともに。
 すぐに「任せとけ」というスタンプが返ってきたけれど、それ以来やりとりはしていない。きっと、集中しているだろうから、余計なことはしたくなかった。

 一応優勝候補に挙げられているわけだから、さすがに一回戦負けなんてことはないだろうけれど、それでも万が一ということはある。胸にざわざわと風が吹き込むようで、優菜は何度もスマホを確認してしまった。


「用があるなら帰ってもいいのよ」

 落ち着きのない優菜を見かねて、祖母がそう言った。優菜は慌てて首を振る。

「ごめん。何でもないから、気にしないで」
「何でもないことないでしょう」

 ふふっと小さく笑う祖母にすべてを見透かされているような気がして、優菜は顔を赤らめた。

 確かに、正直なことを言えば、今すぐ試合会場に飛んでいきたい。
 でも、今日は行かないと決めたのだ。それは祖母のことを思っているからでもあり、遥馬を信じているからでもある。

「とにかく、いいの。そろそろ戻ろっか。残りの宿題も終わらせたいし」

 ごまかすように立ち上がった優菜を、祖母は眩しそうに見上げた。

 祖父が亡くなってもう五年になる。つまり、祖母が優菜の家で暮らすようになって五年、ということだった。元々仕事で出張の多い父や、泊まりはないものの土日関係なく働く母は、同居の煩わしさより、誰かが家にいてくれる利点を取ったらしい。

 おかげで食事をはじめとした優菜の日常生活は、祖母との同居前より整った。細部にこだわりを感じさせるひと手間かけた料理、パリッとノリの効いた洗濯物。掃除のためとはいえ、勝手に部屋に入られるのは抵抗があったものの、そのうち祖母に見られたくないものは丁寧に片付ける習慣がついた。

 つまるところ、祖母との同居は優菜にとって良いことしかなかった。そもそもひとりで過ごしていた時間に、誰かが家にいてくれるというのは心強い。

 そして何より、温和で優しい祖母が、大好きになっていた。何でも生み出せる手も、些細なことに親身になって相談に乗ってくれるところも、お年寄りの枠にはまらない洒落の効いたところも。

 祖母はクロスワード以外に数独やパズルも好きで、暇さえあればダイニングテーブルで問題集を広げていた。スマホでやればいいのに、と提案したけれど、解き終わった本をずらりと棚に並べるのが気持ち良いらしい。


「謎解きっていうの? いつか行ってみたいわねえ」
「ええっ。謎解きって歩き回るし、結構大変だって言うよ」
「いいじゃない。健康的で。お友達で一緒に行こうって言ってくれる人、いないのよ。優菜ちゃん、一緒に行ってくれない?」

 入場料はもちろん、途中でパフェを食べさせてあげるから、と言われて優菜の心は揺れた。

「うーん、また今度、ね」

 優菜の暮らす街でも、時々地域をあげて謎解きが催されている。祖母もその告知を見かけたらしい。けれど、祖母と一緒に回るのは躊躇われた。カフェや古民家なんかが協力しているその謎解きは、街のあちことを回らなければならない。
 友人とばったり出会して、「なにしてるの?」と聞かれたらなんとなく気まずいし。
 だって、「うちのお祖母ちゃん謎解き好きで……」って説明するの、なんか恥ずかしい。
 
 もしばったり遭遇するのが遥馬だったら、笑って「謎解きやってるんだ」と言えたかもしれない。
 ただ、年がら年中サッカーの練習に勤しんでいる遥馬と、休日の街中で会うなんてことはあり得ない。

「残念だわ……」
「面白そうなやつ、調べておくから」

 少し遠出して、誰にも会わなそうなところで開催されている謎解きだったら、まあ一緒に行っても良いかもしれない。
 そう思ったのは確かだ。ただその後、特に調べることもなく今日まで来てしまった。


「退院したら、今度こそ謎解き行こうね」

 ぽつりとそう言うと、隣で祖母がふっと息を吐いた。

「そうね。歩き回れるように体力つけなきゃ」
「そうだよー。全部回るのに、丸一日かかったりするんだって」
「大変。優菜ちゃんに置いていかれちゃう」
「ええっ。私一人じゃ謎解けないからそれじゃ困る」

 だから早く元気になって。

 本当は、大して歩き回らなくて良い謎解きだってあるのだと、優菜も、おそらく祖母だって知っている。
 それでも。なにかひとつ、約束を交わしたかった。

 それが祖母の生きる理由になるなんて、そんな大それたことを考えないほうが良いのかもしれない。けれど思い上がりでも良いから、何か縋る約束が優菜は欲しかった。

 雲がいくつも重なり、視界が翳り始めた。吹き付ける風からひんやりと冷たさを感じるようになり、二人は急いで病室へと戻った。
 サイドテーブルに再び課題を広げたけれど、やっぱりどうしても気になってしまい、優菜は何度もスマホのロックを解除した。
 試合開始まで、あと二分。一分……始まった。

 十四時になった瞬間、心臓が今までにないくらい、ドクンと大きく鳴った気がした。
 大丈夫。絶対に勝てる。そう信じているはずなのに、なんでこんなに不安になるのだろう。

 それからも五分――いや二分に一度の割合で、優菜はスマホを確認してしまった。別に試合経過が送られてくるわけでもないのに、どうしても集中出来ない。
 試合の主導権は握れているだろうか。シュートは決まった? 遥馬は自分で決めにいくというより、味方を生かすタイプだ。だから彼のアシストが冴えれば冴えるほど、チームの得点が増える。

 クラスの友人たちはみな、今日の試合を応援に行っている。結果を教えて、とお願いしてあるけれど、さすがに試合の流れまでは送られてこないだろう。

 シャーペンを握った指先が冷たい。
 去年の予選は、ここまで緊張しなかったのに。
 自分の目で確かめられないから、余計に気になってしまうのだろうか。
 忙しなくスマホのロックを解除するたびに、祖母が自分を見るのを感じながら、それでも同じ動作を止めることができなかった。
 そして試合開始から三十分が過ぎた頃。小刻みにスマホが震えた。

 二度、続けて。

 優菜はびくりと肩を揺らした。
 ロックを解除している間にも、スマホはさらに立て続けにメッセージを受信している。心臓が、どろりと溶けたような錯覚に陥った。

 震える指先で画面を開くと、友人から連続してメッセージが届いていた。アプリを開いて、息が止まった。うまく、呼吸ができない。

 ――宮代が、怪我で交代した

 ――かなり痛そう

 ――担架で運ばれてった

 画面をスクロールしながら、視界が真っ黒に塗り潰されていく。

 しかし続いて表示された画像に、優菜はがつんと殴られたような気がした。
 担架の上で寝転んだ遥馬が、右膝を抱えて、苦悶の表情を浮かべている。
 なんで。どうして。

 頭の中が混乱して、自分が見ているものが理解できない。
 思わず口元を手で覆った。スマホがテーブルに当たって、がこんと鈍い音を立てた。

 何が起きているの。

 ――救急車で病院だって

 友人からは次々と状況が送られてくる。
 それは、現地に行けなかった優菜としてはありがたいことのはずなのに。
 傷ついた遥馬の写真なんて撮らないでよ。こんなに、苦しそうなのに。
 よってたかってカメラを向けているのだという事実に、今度は怒りが湧いてくる。

 理不尽な思いで張り裂けそうになったその時、救急車のサイレンが遠くに鳴り響いた。

 この病院には、救急がある。
 そんなはずはないのに、遥馬が運び込まれてきたように思えて、優菜は窓に駆け寄った。
 敷地内に走り込んできた救急車が、専用の出入り口に吸い込まれていく。
 気づけば窓ガラスについた指先は、引っ掻き傷でも作りそうなほど強く力がこもっていた。

「優菜ちゃん?」

 祖母が気遣うように声をかけてくる。
 こんなふうに動揺しちゃ、だめだ。お祖母ちゃんに心配をかけちゃいけない。
 そう思うのに、顔を上げられなかった。

 ハーフタイムに入った瞬間、友人は続報を送ってくれた。とはいえ怪我は一瞬の出来事で、見ている友人たちには何が起きたのか、よくわからなかったらしい。

 勢いよくピッチを駆け上がっていた最中、相手選手と接触し、気づけば遥馬が足を押さえて地面に倒れ込んでいたそうだ。チームメイトが駆け寄っても起き上がることができず、そのまま担架で運ばれたのだという。
 会場は騒然としたまま試合は再開した。遥馬が退場した衝撃はあったものの、代わりに入った選手もなんとか食いつき、最終的に試合は一対〇で勝利した、という連絡は、試合後しばらくしてから届いた。

 ――総合病院に運ばれたみたい

 そのひと言に、優菜の胸が冷えていく。

 やはり、この病院だ。市内でも一番大きなここに運ばれたということは、相当酷い怪我なのかもしれない。
 救急車のサイレンが鳴るたび、病室を飛び出していきたい気持ちに駆られた。
 顔面蒼白になった優菜を見た祖母は、何度も「早く帰って休んで」と言ったけれど、誰もいない家にひとりになるほうが怖かった。

 明日手術を控える祖母に縋るなんて情けない。それでも一緒にいてほしかった。

 遥馬がレギュラーに定着したのは、同じポジションの先輩が怪我を負ったせいだ。
 わかっていたのに、遥馬にも同じことが起こる可能性を一ミリも考えていなかったことに気づく。胸が締め付けられるように痛くて、苦しい。

 遥馬はいったいどうしているだろう。きっと不安に苛まれているはずだ。だって。

 ――かなり、ヤバいみたい

 サッカー部員たちの言葉を拾った友人が送ってきた。何がどうヤバいのか、優菜にわかるわけがない。ただそのひと言が重くのしかかって、どうすればよいのかわからなかった。
 
 夜、自室に閉じこもった優菜は、ただただスマホを眺めていた。開きっぱなしのトーク画面に、何度も文字を打ち込む。

 怪我はどう?
 痛みはある?
 大丈夫?

 どれもしっくりこなくて、入力しては消して、を繰り返す。
 そして日付が変わる直前に、ようやく送信ボタンを押した。

『大丈夫? ゆっくり休んで』

 当たり障りのない言葉。でもそれが既読になることはなかった。
 翌日も。その次の日も。