本よりも、大切なもの

 教室の窓の外を見ると、九月の空はドブネズミ色をしていた。
 最近、教室の中にいると苦しい感じがする。
 理由は、よく分からない。うまく言語化できない。
 いじめられているわけじゃない。
 ただ、休み時間になると、斜め右上の席の下川(しもかわ)さんが、話しかけてくる。
 僕が、図書室で借りた小説を読んでいても、下川さんは、長く、怖いくらい美しい黒髪を揺らして、やって来る。
 「青空(あおぞら)くん」
 下川さんは、僕を下の名前で呼ぶ。
 別に、友達でもないのに。
 「何読んでるの?見せてー」
 そして、僕は、自分の読んでいた小説を、下川さんに見せてしまう。
 ストレスといえば、これくらいだ。
 下川さんは、しゃべり続ける。 
「青空くんって優等生だしイケメンだよねー」
「別に、そんなことないよ」
 なぜか、僕は声が震えた。
 下川さんは、僕が嫌がっていることには全く気づかず、話し続ける
「えーっ!青空くんってイケメンだよー。モテるでしょ?いじめられたこと、ないでしょ?あ、この小説なんだけどさー、これってミステリー?あたしには難しくて分かんないやー」
 じゃあ、話しかけるなよ、という言葉を僕は飲み込む。
 毎日これだ
 クラスの女子たちは勝手に盛り上がっている
「天野(あまの)くんと下川さんって仲いいよね」
 仲は良くないと僕は思う
 ちなみに天野というのは僕の名字だ。
 クラスの女子たちは、ウワサし始めた
「天野くんと下川さんって、もしかして付き合っているのかな」
 「下川さんって、キラキラログで、小説紹介の投稿でフォロワー百万人なんでしょ?」
「キラキラログって何?」
 「SNSだよ!写真や文章を投稿できるの」
 「あ、下川さんのキラキラログ、私も見た!名刺代わりの小説十選!」
 僕は、小説を名刺代わりにはしないな、と思うと心が冷たくなっていくのを感じた。
 女子たちはトークし続ける
「下川さんって歩き読書するくらい本好きなんだって」
「あ、それ知ってる!だから危なくないように友達の道田さんが登下校、付き添ってるんだよね!」
「先生も一目置いているし、本当すごいよね。下川さん」
 なんだそれ、歩き読書なんて、自分の命を危険にさらすだけだろ
 冷めた感情が僕の中に生まれた
 僕は、下川さんを見ながら思った
(こんな人に、なつかれても、全く、うれしくない) 
 辛い
 いつまで我慢すればいいんだ、と僕が思った、その時だった。
 「そのへんにしておいたら?天野くん、困ってるから。下川さん」
 クラスでも友達が多い女子の桃田(ももた)さんが、下川さんに、そう言ってくれた。
 桃田さんは、内気な僕とは違って、明るい性格だ。
 なのに、僕を助けてくれた......
 ーー下川さんは、渋々といった感じで、僕から離れてくれた
 「あ、ありがとう。桃田さん」
 僕が、お礼を伝えると、桃田さんは、僕の方を向いて、真剣な表情で言った
「あのね、天野くん、嫌なことは嫌って言おう!別に言えないからダメってわけじゃないけど、天野くんは、自分をもっと守ったほうがいいよ」
 「うん......」
 桃田さんのあまりの真剣さに、僕は、うなずいた。
 明日から、ちゃんと下川さんに嫌だって言おう。
 でも、言えるかな
 僕は不安になった
 すると、桃田さんが、教室内のカバンを入れるロッカーのところへ行き、何かを持って戻ってきた。
 「はい」
 持ってきたのはピンクのくまのぬいぐるみキーホルダーだった。
 桃田さんは、それを僕に渡して言った。
「これ、貸してあげる。名前は、くまきち。私のお守りだけど特別に貸してあげる。くまきち相手に下川さんに嫌だって言う練習をするといいよ。出来るようになったら返して」
 「......分かった。やってみるよ」
 僕は、くまきちを受け取った。

 ーーその日の帰宅後、僕は、自分の部屋で、くまきちを相手に、練習した。
「下川さんが、どうして、僕に話し続けるのか分からないけど、もうやめて」
「僕が読む小説を、下川さんには見せたくないから」
 くまきちは、静かに僕の練習に付き合ってくれた
 ーーがんばって、下川さんに嫌だって言おう
 僕は、そう決意した
 
 しかし、次の日、予想外のことが教室で起きた。
 なんと、下川さんが、僕が借りているミステリー小説と同じ小説を持って、僕のところに、やって来たのだ。
 大きすぎる瞳で、下川さんは、僕を、じっと見る。
「ねぇ、青空くん、あたしさー、青空くんが読んでた小説と同じ小説、買っちゃった。偶然だね。かぶっちゃったね」
 偶然ではないだろう
 下川さんはミステリーは難しいと言っていた
 僕は震えながら言った。
「下川さんが、どうして、教室内で、僕に、つきまとうのか分からないけど、やめてほしい......」
 下川さんは、首をかしげた。
 「私、可愛い?」と言いたげな表情で、下川さんは訊ねた。
「なんで?なんでダメなの?ねぇ、なんで?なんで?読書することは、えらいことでしょ?なんでダメなの?」
 僕は、吐きそうになった。
 すると、桃田さんが、なぜか僕と下川さんの間に入ってくれて、下川さんに、また言ってくれた
「天野くんが、嫌がっているから、ダメなの!」
 すると、あろうことか下川さんは泣き出した 「うわぁぁーん!!」
 下川さんの友達の道田さんが、すぐに彼女のもとに駆けつけた。 
「まりん、大丈夫?」
 下川さんの下の名前って、まりんなんだ、と僕は、どうでも良く思った。
 道田さんは、キッと僕を睨んで言った。
「まりんのこと、嫌がるなんて最低!許さないから!」
 ーー僕は、くまきちを桃田さんに返した。
「ごめん。嫌だって言っても、ダメみたいだ」
 桃田さんは、心配そうな表情をして、僕を見ていた。
 
 その日から、女子たちによる僕への、いじめが始まった。
 女子たちがヒソヒソと僕を見て、聞こえるように言った。
「あいつ、自分はイケメンって勘違いしてるんだってー」
「は?マジで死ねばいいのに、あんなやつ」
「性格悪いよね。あいつ」
「あいつは、よくいる、ただの中二病だよ」
「高校生なのに、ダサいよね」
 僕の心が、ボロボロに傷付いて、ぐしゃぐしゃになっていった。
 
 ノートは破られて、教科書は、どこかに消えた。
 多分、女子たちに隠されたか捨てられた。
 桃田さんだけが、僕に話しかけてくれた。
 下川さんに話しかけられるのは、あんなに嫌だったのに、桃田さんに話しかけられるのは嫌じゃなかった。
「天野くん、おはよう」
「今日も、天気、良くないね」
「お昼ごはん、パンだけ?足りる?」
 桃田さんの明るい声は、僕を癒やしてくれるようだった。
 
 だけど、机に書かれた、おそらく女子からの「死ね」という文字を見ると、僕は、絶望的な気分になった。
 僕は、読書は、休憩時間にするものだと思っていた。
 でも、みんなは、下川さんが、すごいって言う。
 歩き読書をして、自らの命を危険にさらしている下川さんを、すごいって言う。
 僕は、間違っていたのかな......
 本を読むことより、生きることが大事だ。
 僕は、そう思う。
 そのはずなのに、なぜか、死にたい、とつぶやいていた。
 僕は、限界を感じて、泣き崩れてしまった。
 休憩時間でのことだった。
 すぐに、桃田さんが、僕のところに来てくれた。 
「天野くん、大丈夫?保健室、行こう。保健室」
 そして、桃田さんは、少し強引に僕の腕を掴み、保健室へ連れ出してくれた。
 
 しかし、保健室の先生は、ヒステリックに、言った。
「体調不良以外で、ここに逃げ込むなんて、すごく、わがままだよ!!」
 ーー僕たちは保健室の先生からも、逃げた。
「もう、早退しよっか。無断で」
 困ったように、桃田さんは、そう笑いかけてくれた。
 九月なのに、桜の花のような笑顔だと僕は思った。

 僕と桃田さんは、無断で早退して、少し歩いたところにある公園に、避難した。
 桃田さんが、心配そうな表情で、僕に伝えた。 
「天野くん、我慢しないで。話したいことや、聴いてほしいことがあったら言って」
 僕は、静かに話し始めた。
「下川さんに、教室内で、話し続けられるのが辛いのって、そんなにダメなことなのかな。下川さんみたいに、歩き読書して、歩くの危なくなる方がいいのかな。みんな、下川さんを、認めている......。僕は、命のほうが大事だと思うのに、なのに、死にたくなる......」
 すると、桃田さんは、少し赤くなった目を、僕に向けて言った。
「やめて。死なないで。歩き読書して、自分の命よりも、自分の好きなものを優先するなんて、良くないに決まってるよ。天野くんが、自信を失っても、私は、私だけは、天野くんが正解って言うから。私は、天野くんが、読書より、生きることを大切にするところが正解って言い続けるから」
 僕は、感動してしまった。
「ありがとう。自分から死ぬのは、やめるよ」
桃田さんは、うなずいた。
「学校、休もうかなー」
なにげなく、僕は、つぶやいた。
いや、やっぱり、自分のために、学校には、行ったほうがいいかな。
 自分の中で迷いが出た。
 しかし、桃田さんは、やさしく、ほほ笑んで、うなずいていた。
 僕の胸が高鳴った。
 なんとなく、恥ずかしくなり、僕は、うつむいた。
 桃田さんは、「学校には、行こう」とは、言わなかった。
 そのことが、なんだか、僕にとっては、ありがたかった。
「青空って呼んで」
 僕は、気がつくと、桃田さんに、そう伝えていた。
 言ってしまってから、僕の顔が熱くなった。
「い、いや、あの、ほら、僕は、その、友達が、今、いないし、友達が、ほしくて!友達が!」
 やたら「友達」を強調してしまった。
 コクハラ(告白ハラスメント)をされていると思われて、不快感を、桃田さんに与えたくなかった。
 僕は、不安になった。
 しかし、桃田さんは、あっさりと、いいよと言った。
「私のことは、姫空(ひめあ)って呼んで。私の下の名前......」
「姫空......さん」
 僕は、異性を下の名前で呼ぶのは初めてだった。
 どうしても、さん付けになってしまう。
 ずっと友達が、いなかったためだ。
 姫空さんは、ふふっと笑って言った。
「なんで、さん付け?まあ、いいや」
 ーー僕と姫空さんは、友達になった。
 空は、あいかわらず、灰色だった。
 最近、ずっと天気が良くない。
 でも、僕は、負けない。
 理由は、よく分からないけど、そんな気がした。

 ーー僕が、不登校になってから、姫空さんが、教科書やノートを放課後や土日に時々、見せに来てくれるようになった。
 いろいろと、姫空さんが、勉強を、教えてくれた。
 しかし、最終的に、出席日数が足りず、僕は、退学となった。
 先生と話し合いは、僕の通っていた高校では、なかった。
 僕が、退学になっても、姫空さんとはメッセージアプリで、メッセージを交換していた。
 〈元気ー?〉と姫空さん
それに対して、〈まあまあ〉とか〈元気はない〉と返す僕
 そんな日々が続いて、季節は春になった。
 僕は、このままじゃ良くないと勇気を出して、調理のアルバイトに応募した。
 怖かったけれど、奇跡的に受かった。
 
 少しずつ、調理のアルバイトを覚えていき、僕は、自分で、家で料理をするようになった。
 春は晴れが続いて、なんとなく、僕の気分も、上向きになっていた。
 そんなある日、姫空さんから、メッセージがスマートフォンに届いた。
 〈青空、おはようー!今度、お花見に行こう!気分転換になるよ!きっと〉
〈あ、突然、言われても、困るかな〉
 僕は、メッセージを確認してから、返事した。
〈うん。行く〉
〈お弁当、作る。僕、調理のアルバイトしていて、料理するように、なったんだ〉
 すると、姫空さんは、びっくりマークを返してきた。
 僕は、スマートフォンの画面を閉じて、メニューを考えた。
(うーん、何がいいかな)
 白いごはんと、たこさんウインナーと、星型のにんじんのゆでたのと、ポテトサラダ!これで行こう
 メニューは、少し考えれば決まってしまった。
 なんとなく、色鮮やかなほうがいい気がしたのだ。
 日時は姫空さんと相談して、今週の土曜日の午前十一時ということになった。
 場所は、少し遠くの花見スポットだ。
 
 ーー土曜日は、気持ちのよい快晴だった。
 僕は、黒のエコバッグに、レジャーシートを入れた。
 そして、保冷の弁当バッグを二つ持った。
 僕のと、姫空さんの、お弁当だ。
 電車に乗って、降りて、少し歩いて、僕は、花見スポットに、たどり着いた。
 姫空さんは、もう来ていた。
 桜色のシャツに、デニムをはいていた。
「青空!やっと来たね!桜、めっちゃきれいだよー」
 姫空さんが、見上げる先には、桜の木があった。満開だ。
「そうだね」
 僕たちは、しばらく一緒に歩いて、桜をながめた。
 そろそろ正午という時分に、僕は、レジャーシートを、しいた。
「あ、あんまり、美味しくないかもしれないけど、僕、お弁当、作ったんだ!」
「ありがとうー」
そう言って、姫空さんは、レジャーシートに座った。
 僕も、レジャーシートに座った。
 姫空さんは、崩れた姿勢だが、僕は、なぜか、正座をしてしまった。
 ーー二人で、お弁当を食べた。
 姫空さんは、美味しいと、ほほ笑んでくれた。
 まるで、ピンクの空が広がるような笑顔だった。
 近くを歩いていた大人の女性二人が、僕たちを見て言った。
「わー!カップルだー」
「なんだか、ほっこりする二人だね」
 僕は、自分が赤面していることに気づいた。
 体温の上昇で分かる。
「カップル!?」
 すると、姫空さんは、あはは、と笑って言った。
「カップルじゃないよ。友達。約束だからね。私たちは友達」
 そう言って、美味しそうに、僕の作った弁当を食べる姫空さんを見て、僕は思った
 友達でも充分だ
 僕が、読書より、自分の命を大事にすることが正解って言ってくれたのが、姫空さんなんだから。
 だから、友達でも充分だ。
 そのはずなのに、僕は、告白してしまった。
「好きです」
 言った後、僕は、ハッとした。
 姫空さんが、悲しそうにしていたからだ。
「姫空さん?」
「友達だって言ったのに.....。私には、恋愛感情がないのに......」
 姫空さんは、涙を流していた。
 姫空さんは、泣きながら伝えてくれた。
 自分は、男子たちから、中学時代に、悪口を言われていたこと、そのため、男子が怖くて恋愛感情がなく、女子の友達しか、いないこと、僕のことは、例外で、同じように、教室で悪口を言われていたり、下川さんに、つきまとわれたりしていたから、放っておけなかったこと......
 「姫空さん、ごめん!ありがとう」
 僕は、必死で、姫空さんに、そう伝えた。
 姫空さんは、男子が怖いのに、僕が、人間関係で困っているからって守ってくれたのだ。
 それなのに、僕は、告白なんて、してしまった。
 僕が、間違っていた。
 「ごめん。話してくれて、ありがとう。友達でいいよ。大丈夫だから」
 姫空さんは、本当?と訊ねた。
 僕は、うなずいた。
「僕で、良ければ、ずっと友達でいるよ」
 助けてくれた人を、変な目で見てはいけない。
 僕の間違った恋愛感情は、後で処理しておこう。
 大丈夫。問題ない。