冷笑系の僕が、花火を見る君の横顔に恋をした

「あ……ごめんなさい」

 僕の声で我に返った柚希は、反射的に手にしていた原稿を素早く茶封筒の中へと戻した。夕日に照らされているせいか、ほんのり朱に染まった柚希の美しい側顔を目にして、僕の心臓がどっと嫌な跳ね方をする。

「あの……それ、どこに?」
「……教卓の中にあったの。偶然見つけちゃって……つい」
「そ、そうだったんだ……」

 気まずい沈黙が教室を支配すると同時に、西澤先生に対する猛烈な苛立ちが湧き上がってきた。どうして大切な原稿を、教室の教卓なんかに置き去りにしていくんだ……。
 イライラを隠すように、僕はつむじあたりを人差し指でガシガシと掻いた。

(……待てよ。書いた内容、変じゃなかったよな? 見られて恥ずかしいセリフとか、イタすぎる展開は……ないはず……)

 脳内で自分の執筆したストーリーを大急ぎで反芻し、密かに胸を撫で下ろす。返却された茶封筒を胸元で大事そうに抱え直したものの、柚希はその場から立ち去ろうとはしなかった。
 いつもクラスの輪の中心で堂々としている柚希が、どこかモジモジとした様子で僕の顔を伺うように見つめてくる。

(何だ……まだ何かあるのか? どうして柚希は、そんな目で僕の顔をじっと見つめてくるんだ……)

 沈黙に耐えかねて、僕は探るように問いかけた。

「あの、何か?」

 柚希は華奢な手のひらをそっと口元に当て、どこか躊躇うように、けれど意を決したように小さく息を漏らした。

「すごく、面白かったよ」
「……ええ!?」

(今……面白かったって言ったか?)

 その素朴でまっすぐな言葉が、僕の耳の奥で何度も強く反響する。面白かったってことは……柚希はあの原稿用紙を、ただパラパラとめくっただけじゃない。
 最初から最後まで、集中して全部読んだということだ。
 そして読み終えた感想を、作者である僕に照れながら伝えてくれている……。

「あ、ありがとう」

 まさかクラスカーストトップの柚希に、面と向かって褒められるなんて……。
 油断すると口角がゆるゆると緩んでしまいそうになるので、奥歯を噛みしめて必死に耐えた。
 だけど、こんなのはただの社交辞令に過ぎないことは知っている。僕は一喜一憂しないということだけを腹に決めて、努めて無表情を装った。
 作家気取りだと思われたくもないので、絶妙な声色の「ありがとう」が必要だった。狙い通りの声を出せたような気がすると、僕は内心で小さな満足感を得る。

(いやいや、それどころじゃない。柚希はただの好奇心で、暇つぶしに読んだだけかもしれない。最悪の場合、明日には『倉科陸斗がキモい小説書いてたんだけど』ってクラス中に言いふらされて馬鹿にされるんじゃ……)

 一人で勝手に最悪のシナリオを描き、どんどん不快な汗をかいていた僕をよそに……柚希はあっけらかんとした声を出す。

「実は私、小説を読むのが好きなんだよね」
「……は?」

 まさかスクールカースト最上位の陽キャグループに、読書好きが潜んでいるなんて思いもしなかった。
 面白半分なんかではなく……柚希は本当に純粋な文芸への興味から、僕の原稿を読んでくれたというのか……。

「倉科君の小説、高校生が書いたとは思えないくらい深みがあったよ」
「……深み?」
「うん。最近のライトノベルみたいにテンポ重視で流し読みできる文章っていうよりは……すごく読み応えがあって、読者側の読解力が試されるような重厚な作風だなって」

(……それ、西澤先生にも似たようなことを言われたことがある)

 お世辞や社交辞令では絶対に言えない、本物の読書家ならではの鋭い批評眼。柚希の真摯な言葉が、僕の歪んだ警戒心を内側から解きほぐしていく。

「ふ、船越さんは……日頃どんな本を読むの?」
「いろいろ読むかなー。安部公房とか、特に好きだよ」
「そ、そうなんだ……」

 柚希が僕の目をまっすぐに見つめて話しかけてくる。急な近距離でのコミュニケーションに脳が追いつかず、僕の視界は泳ぎっぱなしだ。
 それにしても、安部公房という前衛的で不条理な世界観を描く純文学の巨匠が好きだなんて。見た目やスクールカーストだけでなく、文学センスまでもが無駄に洗練されているとでもいうのか。

(……いや、待てよ。騙されるな)

 ざわつく心を落ち着かせるように、僕は心の中で必死に冷や水を浴びせる。

(あんなチャラチャラした一軍グループにいるんだ。どうせ『純文学を読んでる自分カッコいい』みたいな、ファッション感覚の趣味に決まってる)

 読むだけなら、誰でもできる。仮に柚希が本当に本が好きだったとしても、僕のように、小説だけが唯一の救い……であるはずがないのだ。
 僕にとって読書や執筆は、惨めな現実から逃避するための唯一の居場所であり、自分が息を吸える酸素そのものだ。
 友達に囲まれてキラキラした青春を満喫しているマドンナに、この暗闇の心地よさや本質なんて、わかりっこないだろう。

「……私も書いてみようかな」

 柚希の言葉が、夕暮れの教室の静寂にふわりと浮遊する。その言葉の意味を完全に脳が理解した瞬間、僕は情けないほど呆然と口を半開きにしていた。

「え、何その顔。私には書けなさそうって思ってる?」

 首を少し傾げ、目尻を下げて尋ねてくる柚希の愛くるしい表情に、一瞬吸い込まれそうになる。問いかけのバトンを渡されたことに遅まきながら気づき、僕は慌てて首を左右に激しく振った。

「い、いやいや! 書くほうにまで興味があるなんて思わなかったから、純粋に驚いただけ……」
「ふふ、まあこんなキャラだしね。そう思われても仕方ないか」

 僕の不器用なリアクションが面白かったのか、柚希は口元を左手で隠してクスクスと嬉しそうに笑った。
 僕の言動で、あのスクールカーストの頂点が笑っている……こんな奇跡みたいな瞬間が僕の高校生活に訪れるなんて、夢にも思わなかった。
 どう答えていいかわからず苦笑していると、柚希は「あっ」と何かを思いついたように目を輝かせた。

「そうだ。私、何か書いてみるから、倉科君読んでよ」
「……ええ?」

(何だ、この展開は……僕が柚希の小説を、読む……だと?)

「急にやる気湧いてきた! ちょっと時間はかかっちゃうかもしれないけど、絶対読んでもらうからね!」
「え、ちょ、ちょっと待っ……」

 柚希は僕の反論も聞かず一方的に言い捨てると、軽やかな足取りで教室を走り去っていった。静まり返った放課後の教室には、変わらず橙色の夕光だけが寂しく差し込んでいる。

(……今まで全然話したことなかったのに、何でこんなことになったんだ)

 あんなにも眩しくて完璧な存在が、僕の唯一の聖域である文学の世界にまで足を踏み入れてきた。それは僕にとって興奮というよりも、一種の不安要素でもあった。
 僕が誰の目も気にせず、自由に羽を伸ばせていた暗がりの安全地帯に、光そのもののような存在が飛び込んでくるのだ。もし万が一、柚希が僕なんかよりも遥かに素晴らしい良作を書き上げてしまったら……僕の唯一の存在価値は、跡形もなく崩れ去ってしまう。

(……いや、どうせ書けっこない。どうせ、小説を書いている自分というシチュエーションに酔いたいだけだ。最初の数ページだけ書いて、筆が止まったら途中で投げるに決まってる)

 柚希という存在と会話ができたという、不思議な優越感。そして、自分の畑が荒らされるかもしれないという、一抹の不安。
 二つの矛盾した感情を胸の底にくすぶらせながら、僕は一人、夕暮れの教室に取り残されていた。