けがれのまにまに

「綺麗に死のうとするな。死にたがり」
ため息をついた俺に、悠が放った。
教科書も、漫画も、ゲームも。部屋にあるものを少しずつ捨てていた。
周りにはミニマリストだと言っていたが、悠にはすぐに見抜かれていた。
「趣味のものも、生活に必要なもんも全部捨てて、最後にお前まで捨てる気かよ」
俺は何も言えなかった。
「綺麗にしなきゃ死ねないなら、俺がずっと汚してやる」
悠の声は低く、でもどこか熱を帯びていた。俺は俯いたまま、ただ黙っていた。

俺たちは高校二年生だった。
勉強はうまくいかなかった。
テストでいい点を取った記憶も、先生に褒められた記憶もほとんどない。
家に帰っても、そこが居場所だと思えたことはなかった。
親と顔を合わせるのが嫌で、できるだけ家にいる時間を減らしていた。
学校でも、家でも、自分の居場所がない。
何をやってもうまくいかない。
昔から成功体験らしい成功体験なんてなかった。
だから俺は、十七歳のくせに、自分の人生にはもう何も残っていないような気がしていた。
夏休みになっても、それは変わらなかった。

悠は習い事をいくつも掛け持ちしていた。
勉強もできて、周りからも期待されていた。
俺とは正反対の人だった。

そんな俺を、悠はよく海に連れ出した。
悠は海が好きだった。
「海行こうぜ」
そう言って、夏休みになると何度も俺を誘った。

「暑いのによく行くな」
そう言うと、
「夏の海っていいだろ」
と、当たり前みたいに笑った。
悠は海が好きだった。暇さえあれば海岸に足を運び、波の音を聴いていることが多かった。

俺に向かって、何度も言っていた。
「泳げるようになれよ。俺が教えてやるから」
その言葉は優しさに聞こえた。
でも時々、悠の目がどこか遠くを見ているように感じることがあった。何かを隠しているような、ふとした沈黙。
俺は深く聞かないことにしていた。
聞かれたくないことは、自分にもあると知っていたから。

ある日、二人でコンビニに寄った。
外に出ると、蝉の声が耳を塞ぎたくなるほど響いていた。
2人でベンチに座り買ったばかりのアイスを袋から取り出したが、暑さですぐに溶け始めた。
「早く食わないと溶けるぞ、俊」
「分かってるって」
俺が急いで食べていると、悠が自分のアイスを差し出してきた。
「これも食う?」
「いや、お前のだろ」
「もう溶けてるし。半分食ってよ」
仕方なく受け取ると、一本のアイスを2人で食べた。
「俺ばっかりベトベトじゃん」
俺が笑うと、悠も笑った。
「いいじゃん。涼しくなったろ?」
その笑顔を見ていると、今が楽しいと思えた。

世界を終わらせようとしている俺に、悠は捨てられない思い出と、小さなプレゼントを贈り続けてくる。
最初は重く感じた。受け取ること自体が、どこか申し訳なかった。
それでも、彼が黙って差し出すものを、次第に拒めなくなっていった。

ある日、悠は小さな箱を差し出してきた。
中には、二つで一つのハートになるイルカの形をしたストラップが入っていた。
「……カップルかよ」
俺は照れながら受け取った。
馬鹿にしているつもりはなかった。ただ、こんなものを渡される自分が、妙に恥ずかしかった。
そのストラップを、俺はいつしか鞄に下げていた。

ある夏の夜、悠は静かに言った。
「そばにいて」
少し間を置いて、ぼそっと続けた。
「俺がいなくなっても、元気にしろよ」
冗談めかした口調だった。
俺は戸惑いながらも、結局は頷いてしまった。
こんな俺でいいのかと、何度も胸の中で問いかけたのに。

昨夜の「そばにいて」という言葉が、まだ胸の奥に残っていた。

翌日。
「今日、習い事は?」
俺が聞くと、悠は悪びれもせず笑った。
「ズル休み」
「は?」
「今日は俊と海に行く」
悠は行く気満々でサンダルを履いていた。
「親に怒られるぞ」
「大丈夫だって」
少し歩いたところで、悠は振り返った。
「俺たちの秘密な」
そう言って笑った。
蝉の声がうるさいくらいに響いていた。

海岸へ着くと、悠は砂浜を走り出した。
「おい、待てよ!」
「俊、遅い!」
俺も追いかける。
砂浜を走って、波打ち際まで来ると、悠が突然こちらへ水を蹴り上げた。
「うわっ、冷た!」
「ははは!」
「お前なぁ!」
仕返しに水を蹴り返す。
気づけば二人とも服がびしょ濡れになっていた。
蝉の鳴き声と、波の音と、俺たちの笑い声。
その瞬間だけは楽しかった。
波の音も、陽光を反射する水面も、いつも以上にまぶしく見えた。
悠は海の中へ少しずつ入っていった。
「ほら、泳いでみろよ」
「無理だって。俺、泳げないんだから」
「俺が教えてやるって言っただろ」
そう言って笑う悠の顔を、俺は今でも覚えている。

風が強まっていることにも、引き波がいつもより激しいことにも、俺は気づかなかった。
悠の姿が、ふいに見えなくなった。
「悠? 悠!」
周囲を見回しても、どこにもいない。
俺は膝まで水に浸かりながら叫び続けた。
近くにいた人たちが騒ぎ始め、やがて救助隊も呼ばれた。
数十人で海岸を捜索した。
俺は声が枯れるまで、
「ゆうーっ! どこにいるんだー!」
叫び続けた。

数時間後、悠は見つかった。
もう、呼吸をしていなかった。
その日は引き波が強かったという。
俺は、綺麗とはとても言いがたい悠の体を、なんとか抱きかかえた。
海の水と涙で、視界も体もぐしゃぐしゃだった。
ポケットの中に、硬くなった指先が何か小さなものに触れた。
二つで一つのハートになる、イルカのストラップだった。
「俺を置いていくなよ……」
小さく呟いた声は、波の音にかき消された。
「俺なら、良かったのに」
葬式の後、悠の母親から日記を手渡された。
「これは、あなたが読むべきだと思って」
ページをめくると、そこには俺のことばかりが書かれていた。

『俊にプレゼントを贈ったら、笑ってくれた。かわいい』
『俊は泳ぐのが下手らしい。俺が教えてやらないとな』
『あいつはすぐ自分を捨てようとする。だから、俺が大事を拾ってやらないと』

俺は泣きながら、笑っていた。
「なんだよこれ。ラブレターかよ……」
ページの端を指でなぞりながら、俺は小さく呟いた。
「悠、まだ汚く生きてみるよ」
葬式の席で笑顔でいるなんて、おかしいかもしれない。
でも、不思議と清々しい気持ちがした。
あの日の蝉の声も、溶けかけたアイスも、波打ち際ではしゃいだことも。
もう二度と戻らない。
それでも、俺の中には残っている。
鞄の中で、イルカのストラップが小さく揺れていた。