繭に降る雪

【八】 その道の果てに…

​「レイコさんの劇団、見学に行きたい!」

​唐突にそう言い出したのはチカだった。

​「何を藪から棒に?」

「藪から棒でも、壁から釘でもいいの。とにかく行きたいの!」

​両手を握りしめて熱弁するチカを見て、私はピンときた。

​「……さては、お目当ては山川達也ね」

​図星を突かれたチカは、隠す気もなく満面の笑みを浮かべた。

山川達也は、レイコさんが所属する劇団の看板役者の一人だ。端正な顔立ちと確かな演技力で、最近ではテレビドラマでも引っ張りだこになっている。チカは年末恒例の大型時代劇に出ていた彼を見て、すっかり骨抜きにされてしまったらしい。以来、彼の出演作はもちろん、わずか数秒のCMまで逐一チェックしては私に報告してくる熱の入れようだった。

​「山川達也なら私も知ってる! すっごくかっこいいよね」

「でしょー!」

​ユキが目を輝かせると、チカは我が意を得たりと頷き合い、二人はキャッキャと顔を見合わせた。

​「ねえ、いいでしょ、レイコさん?」

「お願い、連れてって!」

​すがるような二人の視線を受け、レイコさんはわざとらしく肩をすくめた。

​「しょうがないわね。今度の日曜、台本を届けることになってるから、ついて来たいなら来なさい。ただし、稽古の邪魔は絶対にしないこと。約束を破ったら、即座につまみ出すからね」

​やったー! と二人がハイタッチを交わす。

冷静な顔でそれを見守りつつ、内心では私も「本物の山川達也に会えるのか」と、ちゃっかり胸を高鳴らせていた。

​     *

​「ちょっとレイコさん、遅すぎー!」

「うるさいわね。書けないものは書けなかったんだから、仕方ないでしょ!」

​日曜の昼下がり、車を走らせるレイコさんの背中に、私たちは後部座席からブーイングを浴びせていた。

結局、日曜日までに仕上がるはずだった台本は間に合わず、私たちが朝から急かし、せっついて、ようやく書き上がったのが正午過ぎ。おかげでお昼ご飯を食べる暇もなく、車に飛び乗る羽目になったのだ。

​「劇団の人たち、ずっと待ってるんでしょ? 怒られないの?」

​私の痛いところを突く一言に、レイコさんはハンドルを握ったまま息を詰まらせた。

​「文句ばっかり言わないの。ただでさえ空腹でイライラしてるんだから……これ以上言ったら、キレるわよ?」

​低く凄みのある声に、私たちは思わず口をつぐむ。車内に気まずい沈黙が流れたその時、ユキがおずおずと口を開いた。

​「あの……作ってきたんだけど、食べる?」

​ユキが膝の上に抱えていた大きなバスケットを開けると、そこには綺麗に並んだおにぎりとサンドイッチがぎっしり詰まっていた。あの慌ただしい朝のどこに、これを用意する時間があったのだろう。私たちは唖然として顔を見合わせた。

​それから三十分後、辿り着いたのは郊外の古い廃工場だった。コンクリート剥き出しのそこが、劇団の稽古場なのだという。テレビで見かけるような役者がいる劇団でも、お芝居を続けるのは大変なのだと痛感させられる。

​「遅いよ、レイコさん!」

​重い扉を開けて飛び込んだレイコさんに、劇団員の一人が声を張り上げた。途端に「待ってましたー!」「腹減ったー!」とブーイングの嵐が巻き起こり、すぐにどっと温かい笑い声へと変わる。

​「チカちゃん、見て……あの人」

「嘘、本物……山川達也よ!」

​チカとユキが耳元で黄色い悲鳴を上げる。その視線に気づいたのか、すらりとした長身の青年――山川達也がこちらを振り返った。

​「あれ? レイコさん、その可愛い子たちは?」

「私の娘と、そのお友達よ」

「ええっ! レイコさん、もうそんな大きな娘さんがいるの!?」

​心底驚く彼を見て、チカが私の腕を掴み、興奮気味に囁いた。

​「ねえ、向こうから話しかけてきたんだから、邪魔したことにはならないよね?」

「……もう、好きにしなさい」

​レイコさんが諦めたように呟くや否や、チカとユキは脱兎の勢いで彼のもとへ駆け寄っていった。

​「大ファンです!」

「サインください!」

​口々に色紙を差し出す二人に、山川達也は照れくさそうに笑いながら快くペンを走らせてくれる。私はユキの後ろから、そっと自分の色紙を差し出した。

​「あ、あの……私もお願いします」

「あれ、マユちゃんまで?」

​ユキに驚かれ、私はへへへと笑って誤魔化した。

​集まっていた役者さんは十人ほどだった。テレビや他の仕事で遅れてくる人もいるらしいが、今回の公演の主要キャストはほぼ揃っているという。

​「みんな、待たせちゃってごめんね」

「本当に頼みますよ、レイコさん。昼飯もお預けで待ってたんだから」

「悪かったわね。あ、そうだ……ユキ、さっきのおにぎり、まだ残ってるわよね?」

​レイコさんに促され、ユキが残りの詰まったバスケットを差し出した。

​「あの、よかったら皆さんでどうぞ」

​その瞬間、飢えた狼のように役者さんたちの手が伸び、あっという間にバスケットは空っぽになった。

​「うまっ! これ君が作ったの?」

「おいしすぎる……俺のお嫁さんになってくれない?」

「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ、こんな可愛い子がアンタなんかの嫁になるわけないでしょ!」

「それより舞台に出てみない? 絶対似合うよ!」

​口々に騒ぎ立てる劇団員たちから、レイコさんはユキの腕をぐいと引いて自分の背中に隠した。

​「あんたたち、うちの娘に手を出さないでちょうだい。大事な箱入り娘なんだからね!」

​場内にわざとらしい「ちぇー」という声が響く。ユキが男の子だと知ったら、みんなどんな顔をするだろう――私は内心で密かに吹き出していた。

​     *

​やがて、稽古場の空気が一変した。

​張り詰めた静寂の中、レイコさんが背筋を伸ばして座っている。その正面で、白髪の上品なおばあさんが、届けられたばかりの台本に静かに目を落としていた。

いつも飄々としているレイコさんが、あんなにも緊張した面持ちを見せるのを、私は初めて目にした。

​劇団の主宰であり、伝説的な看板役者でもある天王寺ゆかり。この劇団で唯一、レイコさんが絶対に頭の上がらない人物なのだと、隣にいた劇団員のお姉さんが耳打ちしてくれた。

​やがて、ゆかりさんが最後のページをめくり終え、顔を上げた。

​「……いかがでしょうか」

​レイコさんの硬い声が落ちる。

​「あなた自身は、どう思っているの?」

「……最高の作品に仕上がったと、自負しています」

「なら、私から言うことは何もないわ」

​ゆかりさんが柔らかく微笑むと、周囲の劇団員たちから「ふうっ」と安堵の息が漏れた。

​今回レイコさんが書き下ろしたのは、『カルメン』をモチーフにした現代劇だという。都会の夜を舞台に、男たちを狂わせる恋多き女。その主役のカルメンを、なんとこのゆかりさんが演じるのだ。

ニコニコと優しそうなおばあちゃんが、男を破滅させる魔性の美女――正直、私にはあまりピンとこなかった。若い綺麗な女優さんは他にもいるし、いっそレイコさんが演じた方が似合うのではないか、とさえ思っていた。

​けれど、立ち稽古が始まった瞬間、私は自分の浅はかさを思い知らされた。

​ゆかりさんが息を吸い込み、第一声を発した途端、場の空気が劇的に塗り替えられたのだ。

そこにいたのは人の良さそうなおばあさんなどではなく、立ち姿一つ、視線一つで男の理性を狂わせる、蠱惑的なカルメンその人だった。

​圧倒的だった。他の役者たちがどれほど熱演しようと、彼女の一挙手一投足に呑み込まれ、惹きつけられていく。世界全体が、彼女の吐息一つに弄ばれているようだった。

男も女も、観る者すべてを絡め取っていく情熱的な眼差し。抗うことのできない絶対的な引力。

​――これが、芝居。

レイコさんは、こんな凄まじい世界に身を置いているのか。

​「……私はね、一生あの人には敵わないのよ」

​隣に立ったレイコさんが、舞台を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

​     *

​休憩に入っても、私は当てられた熱に浮かされたように、一人パイプ椅子に座り込んでいた。チカとユキは、レイコさんに連れられて劇団員たちと談笑している。

 遠くから、ユキの明るい笑い声が聞こえてくる。何人もの役者さんに囲まれ、身振り手振りを交えて何かを話しているようだった。あんなに人見知りだったユキが、初めての場所でもこんなに自然に馴染めるようになったのかと思うと、なんだか胸が熱くなる。

 チカはチカで、山川達也から色紙にサインをもらった経緯を身振り手振りで劇団員のお姉さんに力説していた。相変わらずの賑やかさに、思わず口元が緩む。

 二人があんなふうに笑っていられるのは、レイコさんがこの世界を私たちに見せてくれたからだ。当たり前のようで、決して当たり前じゃない時間。

​レイコさんが「敵わない」と認める相手。

普段はおちゃらけていても、レイコさんの実力は本物だ。誰よりも美しく、頭の回転が早く、テレビからのオファーを蹴るほどの誇りを持っている。そんなレイコさんが、あんな顔をするなんて。

​「マユちゃん」

​鈴を転がすような声に顔を上げると、そこにゆかりさんが立っていた。

​「お隣、いいかしら?」

「あ、はい……どうぞ!」

​私が慌てて椅子を勧めると、ゆかりさんは上品に腰を下ろした。

​「あの小さかった赤ちゃんが、こんなに大きくなったのねぇ。私がおばあちゃんになるわけだわ」

「私のこと、知ってるんですか……?」

「ええ、もちろん。赤ちゃんの頃、桐生くんに抱かれてよくここに来ていたのよ。本当に嬉しそうに、大事そうにあなたを抱いてね」

​ゆかりさんはレイコさんのことを『桐生くん』と呼んだ。

​「……レイコさんが、男の人だった頃のことをご存じなんですね」

「ええ。あなたのお父さんは、本当に格好よかったのよ。彼があなたのお母さん――広瀬さんと結婚した時なんて、劇団の女の子たちがショックで何人も辞めそうになったくらいなんだから」

​レイコさんのことを「お父さん」と言われると、胸の奥が少しくすぐったい。

​「あの……」

「なあに?」

「レイコさんは……どうして、女の人になったんでしょうか」

​ずっと誰にも聞けなかった疑問が、思わず口をついて出た。

ゆかりさんはふふっと優しく微笑むと、懐かしむように遠くを見つめ、静かに語り始めた。

​「私ね、舞台が好きでたまらなかったの。目の前にお客さんがいて、同じ空気を吸って、感情を分かち合える場所が。でもね、時代と共に仲間は一人、また一人と去っていったわ。生活のために辞めていったり、テレビの世界へ行ったり……それでも私はこの劇団を立ち上げて、しがみついていた。けれど、ある時どうしても限界が来てね。お金も続かない、お客さんも減っていく。あんなに愛していた芝居が、いつの間にか苦しくてたまらなくなって……もう劇団を畳もう、すべて終わりにしようと決めたの」

​ゆかりさんの横顔は、台本を推敲している時のレイコさんの横顔と、どこか重なって見えた。

​「その時、私を救ってくれた恩人がいたのよ」

「恩人……ですか?」

「ええ。『俺の芝居を見てください』って、舞台の袖に消えていった一人の男がいたの。客席で待っていた私の前に現れたのは、息を呑むほど美しい、一人の女性だったわ。それが彼だと理解するのに、私はしばらく時間がかかった。……その人はね、凄まじい芝居を見せてくれたのよ。あれは光だった。魂の奥を焦がすような太陽であり、引き裂かれるような獣の慟哭だった。『私はここにいる』と、命そのものを叫んでいたの。私は芝居を辞めることなんてすっかり忘れて、ただ涙を流して見入っていたわ。演じ終えたその人が、息を切らしながら私に言ったの。『次の公演、私にこの役をやらせてください』って」

「それが……」

「そう、桐生くんよ」

​ゆかりさんは慈しむような目で私を見た。

​「奥さんを亡くして、幼いあなたを抱えて、彼自身もきっと張り裂けそうな思いを抱えていたのね。私はあの芝居を見て、二度と舞台を降りまいと誓ったわ。あの子が命を削って見せてくれたあの高みこそが、私の永遠の目標になったの。あの子が道を照らしてくれたから、私は今も役者でいられる。感謝してもしきれないわ」

​私の知らない父の姿。レイコさんが背負ってきたものの重さ。

​「……その時のお芝居のタイトルは、何だったんですか?」

​私の問いに、ゆかりさんは悪戯っぽく微笑んだ。

​「あの日、桐生くんが舞台の上で生み出した、あの美しい女性の名前よ。……そう、『レイコ』という芝居だったわ」

​休憩の終わりを告げる声が響き、ゆかりさんは立ち上がった。

「この話は内緒よ。恥ずかしがるから」と、劇中のカルメンのように片目をウィンクして去っていく。

​私は呆然と、その背中を見送った。

レイコさんは今、どんな気持ちで生きているのだろう。もしかしたら、あの日の舞台からずっと、『レイコ』という役を演じ続けているのではないか。

そして私は、その物語の中で『レイコさんの娘』という役を演じているだけなのではないか――そんな奇妙な眩暈を覚えた。

​その時、稽古場の重い鉄扉が勢いよく開いた。

​「遅くなってすみません!」

​聞き覚えのある、芯の通った温かい声。

​「おいおい先生、ずいぶん遅かったじゃないか!」

「悪ぃ、期末テストの採点に追われててさ。遅れた分はきっちり芝居で返すよ!」

​息を呑んだ。

信じられない。こんな声の持ち主を、私は世界に一人しか知らない。

扉の方を見るのが怖くて縮こまっていると、隣でチカがガタッと椅子を蹴立てて立ち上がった。

​「あ――っ! 橘先生!?」

​     *

​「久しぶりだな、マユ」

​稽古場の隅のベンチで、タケル――橘先生は昔と変わらない優しい声で私の名前を呼んだ。

出番待ちの彼と二人きりになれたのは、事情を察したユキとチカが、それとなく周囲の人を遠ざけてくれたからだ。

​ずっと聞きたかった、彼が呼ぶ私の名前。

どれほど取り乱すかと思っていたけれど、不思議なほど心は凪いでいた。ただただ、懐かしさと温かさが胸を満たしていく。

​「久しぶりって……学校で毎日会ってるじゃない」

「こうして二人で話すのが、ってことだよ。悪かったな、学校じゃお前だけを特別扱いはできなかったからさ」

​子どもの扱いをせず、一人の人間として向き合ってくれるところは、昔のタケルのままだ。

​「タケル、この劇団の人だったんだね」

「ああ、学生の頃からな」

「……レイコさんと出会ったのも、ここ?」

​その名を出した瞬間、タケルは苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

​「レイコさんか……参るよな、あの人には。何年経ってもちっとも変わらない。いつまでも思い出の中の綺麗なままでさ。このままじゃ俺の方が先に老いぼれちまうよ」

​少し目尻に刻まれた小じわを見つめながら、八年という確かな歳月の流れを感じる。

​「どうして……レイコさんと別れちゃったの? 男の人だったから?」

「唐突だな」

​タケルは驚いたように目を丸くし、それから腕を組んでじっと考え込んだ。誤魔化さず、自分の中の真実を真摯に探そうとする、昔と変わらない誠実な横顔。

​「最初に入団してレイコさんを見た時、世の中にこんな綺麗な人がいるのかって雷に打たれたみたいだった。すぐに告白したら『私、男よ』ってあっさり言われてさ」

​タケルは懐かしそうに笑った。

​「一瞬ポカンとしたけど、次の瞬間には『こんなに綺麗なら男でも女でも関係ないや』って思ってた。好きになった気持ちに嘘はつけないだろ? 毎日振り回されて、本当に楽しかったよ。ずっとこの時間が続くんだって思ってた」

​幼い頃の記憶が蘇る。タケルのお嫁さんになると信じて疑わなかった、あの頃の私。

​「……別れた理由は、俺にあるんだ。俺が一度、芝居を諦めて劇団から逃げ出したからだ。後ろめたくてレイコさんに連絡もできなくなって、それっきりだった。教師になってからも、本当に芝居を捨ててよかったのかって、ずっと燻ってた。そんな時に出会ったんだよ。……同僚だった、今の妻に」

「深沢先生に……?」

「ああ。あいつは言ってくれたんだ。『私は好きなことをずっとやってきて、気づいたら教師になってた。あなたも本当に好きなことをやりなさいよ。あなたが何者になろうと、私は構わないから』ってさ。その言葉で目が覚めて、どんなに怒られてもいいから劇団に戻ろうと扉を叩いたんだ。出迎えてくれたのはレイコさんだったよ。なんて言われたと思う?」

​首を横に振る私に、タケルは参ったように笑った。

​「『あら久しぶり。ちょうど欠員が出てるのよ、暇なら出なさいよ』……それだけだぜ? やっぱり敵わないよ、あの人には」

​あまりにもレイコさんらしくて、私も思わず笑ってしまった。

​「俺はね、レイコさんが男だから諦めたんじゃない。妻のことが一番好きだと、レイコさんよりも愛おしいと思える女性に出会ったから結婚したんだ」

​迷いのない、誇らしげな笑顔だった。

​――ああ、そうなんだ。

その言葉を聞いた瞬間、私の心に巻き付いていた見えない鎖が、ハラハラと音を立てて解けていくのが分かった。

失恋の痛みではなく、深い納得と感謝。私は、この真っ直ぐなタケルが好きだったのだ。そしてこれからも、一人の大切な人として好きでいられる。

​ふと、胸の奥に一つの疑問が浮かんだ。

私にとっての『一番好きでいられる人』は、誰なのだろう。

脳裏をよぎったのは、いつかチカを優しく抱きしめていたユキの横顔だった。あの時、胸の奥がきゅっと痛んだ本当の理由が、今ならはっきりと分かる。私は――

​「タケルは、奥さんのことが本当に大好きなんだね」

「まあな。でも、今はもう一人、世界で一番大事な人間がいる」

​タケルが悪戯っぽく笑ったのと同時に、稽古場の扉が静かに開いた。

​「あら、桐生さん」

​そこに立っていたのは、産休中のはずの担任・深沢先生だった。その腕には、小さな赤ん坊が大切そうに抱かれている。

​「旦那に『今日稽古場に来たら面白いものが見られるぞ』って言われて来てみたら……そういうことだったのね」

​ふふっと柔らかく笑う深沢先生のもとへ、タケルが駆け寄る。そして壊れ物を扱うように、慈しみを込めて赤ん坊を腕に抱き上げた。

​「見てくれよマユ。俺の、世界一の宝物だ」

​父親の顔になったタケルの腕の中で、赤ちゃんが小さく寝息を立てている。それを見つめる深沢先生の眼差しは、どこまでも温かい光に満ちていた。

胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。家族の形、愛の形は、一つじゃない。

​「おーい、マユ! そろそろ帰るわよー!」

​遠くからレイコさんの呼ぶ声が響いた。

振り返ると、帰り支度を整えたレイコさんとチカ、ユキが手を振っている。

​「もう帰るの?」

「今日の私の役目は終わり。締め切りもあるしね……それに、たっぷり話せたでしょ?」

​悪戯っぽくウィンクするレイコさんを見て、私はようやくすべてを悟った。

全部、レイコさんが仕組んだことだったのだ。私をタケルに会わせ、私の初恋にきちんと決着をつけさせるための、優しくて粋な舞台立て。

​「……今行きます!」

​私は大きく返事をして駆け出そうとした。

​「あ、桐生さん、これ」

​深沢先生が小さなメモを差し出してくれる。

​「私たちの家の住所。子育てでなかなか外に出られないから、よかったらみんなで遊びに来てね」

「はい! 絶対にいきます!」

​私はメモを握りしめ、二人に背を向けて走り出した。

​「気をつけて帰れよ、マユ!」

​背後から届いたタケルの声。その瞬間、私の中でカチリと最後のピースが嵌まった。

今なら、言える。胸に澱んでいたすべての想いを、一番綺麗な形で手放すことができる。

​大きく息を吸い込み、私は立ち止まって力いっぱい振り返った。

​「タケル! 好きだよ! 今までも、これからも、ずーっと大好き!」

​廃工場の高い天井に、私の声が心地よく反響した。

タケルと深沢先生が驚いて目を丸くし、それから二人同時に吹き出して手を振り返してくれる。

​胸の中の霧が、綺麗さっぱり晴れ渡っていた。

私は満面の笑みでくるりと向き直り、待っている三人のもとへと全力で走った。

​息を切らして辿り着いた私を、レイコさんは口元に誇らしげな笑みを浮かべて見つめていた。

​「……あんたも、やる時はやるじゃないの」