繭に降る雪

【七】 揺れる華

​「ただいまーっ!」

​ 玄関のドアが勢いよく開き、チカの弾んだ声が響いた。

 無事に帰ってきたんだ。私はエプロンを外して、パタパタと玄関へ迎えに出た。

​「おかえり! どうだった?」

「もう、完璧! 大・成・功!」

​ チカが親指と人差し指で大きな丸を作り、ドヤ顔をキメてみせる。

​「マジで誰も気づかないの! 山田もアイも『あれ? 今日マユ大人しくない?』って言ってるだけでさ。私、笑い堪えるの死ぬほど大変だったんだから!」

「そんなに……?」

「しかもね、ユキちゃんすごいの! ゾロリに急に当てられたのに、私が答えを教える隙もなく即答で正解しちゃって! あの難しい化学をだよ!?」

「すごい……! でもチカ、席離れてるのにどうやって答え教えようとしたの?」

「紙ヒコーキ」

「バレるわ」

​ 思わずツッコミを入れたけれど、胸の奥でホッと息を吐いた。何より、ユキが毎日頑張っている勉強の成果が出て、授業についていけたことが本当に嬉しかった。

​「あとね、給食の時間も完璧だったよ! マユの好き嫌い、ちゃんと予習させておいたから」

「え、そこまでしてくれたの……?」

​「うん! ピーマン残したら『あれ、マユが野菜残すなんて』って怪しまれるでしょ。だから昨日の夜、電話で好き嫌いリスト全部覚えてもらったの」

「そこまで気合入れなくても……でも、ありがとう」

​ 苦笑いしながらも、二人の周到さに胸が温かくなる。ユキとチカ、性格も雰囲気もまるで違う二人が、こんなふうに手を取り合って一日を乗り切ってくれたのだと思うと、なんだかくすぐったい気持ちになった。

​「じゃ、私そろそろ帰るね! マユ、また明日! ユキちゃん、またやろうねー!」

「……うん」

​ チカが手を振って嵐のように去っていく。

 その背中を見送るユキの返事が、あまりにも小さくて掠れていた。

 チカとは対照的に、ユキは俯いたまま肩を落としている。

​「……ユキ? どうしたの?」

​ 声をかけると、ユキはビクッと肩を跳ねさせて顔を上げた。

​「な、なんでもないの……! 私、着替えてくるね」

​ 逃げるように階段を駆け上がっていく。

 私の背筋がスッと冷たくなった。

 何かが起きた。学校で嫌な思いをしたのだろうか。やっぱり、チカが何を言おうと止めさせるべきだったんじゃないか。

​ 胸騒ぎを抱えたまま二階へ上がり、ユキの部屋をノックした。

​「ユキ?」

​ 返事はない。もう一度ノックする。静まり返った部屋。

​「入るよ」

​ ドアノブを回して部屋に入った。

 ユキはすでに部屋着に着替え、ウィッグも外していた。

​「ユキ――」

​ 呼びかけると、ゆっくりと振り返った。

 その瞬間、ユキの大きな瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。

​「ユキ……!? どうしたの、一体何があったの!?」

​ 慌てて駆け寄ると、ユキは私の胸にすがりつき、しゃくり上げながら何度も頭を下げた。

​「ごめんね……っ、マユ、本当にごめんなさい……!」

「どうしてユキが謝るの? 落ち着いて、何があったのか話して」

​ 震える背中を優しく撫でる。

 しばらくして、ユキは途切れ途切れに言葉を紡ぎ始めた。

​「学校……すごく楽しかったの。みんな私をマユだと思ってくれて、チカちゃんとクスクス笑って……。でもね、お昼休みに、相川くんに呼び出されたの」

「相川くん……?」

​ 思いがけない名前に息を呑む。

​「屋上に一人で行ったら、相川くんがいて……」

「そこで、何か言われたの?」

​ ユキは唇をぎゅっと噛み締め、涙をいっぱいに溜めた瞳で私を見つめた。

​「……『桐生が好きだ』って」

​ ドクン、と心臓が跳ねた。

​ 桐生が好き――つまり、告白されたということ?

 相川くんが、私を……?

 でも、私はタケルのことで頭がいっぱいで、それに何よりチカは……? チカは相川くんのことが好きなのに。

 混乱が津波のように押し寄せて、頭の中が真っ白になる。

 けれど、今は目の前で泣きじゃくるユキを宥めるのが先だった。

​「ユキ、泣かないで。今日ユキが学校に行かなくたって、いつかはそうなっていたことだよ。ユキのせいなんかじゃない。だから、もう泣かないで……ね?」

「違うの……! そうじゃないの!」

​ ユキが、今まで聞いたこともないような強い声で叫んだ。

​「相川くんの『好き』は、本当はマユが直接受け取るべき言葉だった! それなのに……それなのに、私が身代わりのくせに、横取りしちゃったの……っ!」

​ その言葉に、息が止まった。

​ 私は、致命的な見当違いをしていた。

 ユキにとって、『好き』という言葉がどれほど特別で、重たいものか。

 ありのままの自分を受け入れ、認め、存在を肯定してくれる言葉。ユキがずっとずっと、誰よりも渇望していたはずの言葉。

 それを、自分の姿ではなく『マユの身代わり』として受け取ってしまった。その残酷な事実が、ユキの心を激しく切り裂いていたのだ。

​ 人を好きになること、好きになってもらうこと。

 ユキにとってそれは、自分の存在そのものを懸けるほどの切実な祈りなのだと、痛いほど思い知らされた。

​「ユキ……」

​ たまらなくなって、私はユキを強く抱きしめた。

​「大丈夫だよ、ユキ。ユキは何も悪くない。全部大丈夫だから……私がずっとそばにいるから、もう泣かないで」

​ 背中を撫で続けると、ユキは私の肩に顔を埋めたまま、ようやく静かに涙を落ち着かせてくれた。

 しばらくして、ユキがぽつりと呟いた。

​「……ねえ、マユ。私、最低なことに気づいちゃった」

​「最低なこと……?」

​「身代わりだって分かってたのに……相川くんに『好きだ』って言われた瞬間、ほんの一瞬だけ、嬉しいって思っちゃったの。誰かに、本当に好きになってもらえたんだって」

 ユキの声が、自分自身を責めるように震えた。

​「マユの身代わりのくせに。それなのに、私、その気持ちを自分のものみたいに受け取りそうになった。そんな自分が、怖い」

 それ以上は何も言わず、ユキは私の胸にもう一度顔を埋めた。

 その声に滲む切実さの理由を、私はまだ知らなかった。

​   *

​ 翌日の放課後。

 今度は、私の方から相川くんを屋上へ呼び出した。

​「ごめんね、昨日は逃げ出しちゃって。急なことで、どうしたらいいか分からなくて」

​ ユキは告白された瞬間、パニックになって思わず逃げ出してしまったらしいのだ。

​「いや、急に呼び出してあんなこと言った俺が悪いんだ。嫌われたかと思って焦ったけど……こうして話せてよかった」

​ 真っ直ぐに見つめてくる相川くんの澄んだ瞳が、胸にチクリと刺さる。

 最初から、私の答えは決まっていた。

​「相川くん、ごめんなさい。気持ちはすごく嬉しい……でも、その気持ちには応えられない。それを、ちゃんと自分の言葉で伝えたくて」

​ これでいい。これが正しい選択だ。

 相川くんは一瞬だけ傷ついたように眉を下げ、それからふっと笑った。

​「そっか。……でも、桐生がどう思ってても、俺が桐生を好きなのは変わらないから。ちゃんと返事くれて、ありがとな」

​ さっぱりとした笑顔だった。

 相川くんは踵を返し、階段のドアへと向かう。ドアノブに手をかけたところで、くるりと振り返った。

​「次の図書委員会、二月一日だからな! 忘れるなよ!」

​ 屈託なく笑うその横顔に、思わず息を呑んだ。

 太陽の光を浴びて眩しく輝くその笑顔が、幼い頃に見たタケルの笑顔と重なって見えたからだ。

​ ――本当に、これでよかったのだろうか。

 もしチカのことがなかったら。もし私の心がタケルに囚われていなかったら。

 私は相川くんの手を取って、新しい恋を始めていたんだろうか……?

​「……マユ?」

​ 階段の踊り場に、チカが立っていた。心配そうにこちらを見上げている。

​「大丈夫? 相川くんとすれ違ったけど……何かあったの?」

​ チカの優しい声を聞いた瞬間、私の迷いは一気に吹き飛んだ。

​「ううん、何でもないよ! 図書委員会の打ち合わせをしてただけ」

​ そう、何でもない。これで全部終わりだ。

 明日からも、今までと同じ日常が続いていく。そう信じて疑わなかった。

​   *

​ 翌日の夕方。

 私とユキがキッチンで晩ごはんの支度をしていると、玄関のドアが乱暴に開く音がした。

 入ってきたチカの顔を見て、息が止まった。

 いつもの天真爛漫な笑顔はどこにもなく、唇をきつく引き結び、冷たい瞳で私を睨みつけていた。

​「チカ……? どうしたの、入んなよ」

「……相川くんに告白されたんだって?」

​ 頭から冷水を浴びせられたような衝撃だった。

​「……誰から、それを」

「チイちゃんから聞いた。相川くんが友達に話してたって。……なんで言ってくれなかったの?」

​ 感情の抜け落ちた、低く掠れた声。

​「ちょっと待ってチカ、私、ちゃんと断ったから――」

「そういうことじゃないッ!!」

​ チカの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

​「私がどうして怒ってるか、本当に分かんないの!? マユ、私なんて言った!? 相川くんと何かあったら絶対に教えてって、正々堂々勝負しようねって言ったよね!? 私は、相川くんがマユを好きでも、マユが相川くんを好きになっても構わなかった! 悔しくても応援したし、今まで通りマユのことが大好きでいられた! それなのに……なんで黙ってたの!? 私たち、どれだけ長い間一緒にいると思ってんのよ! マユは私のことなんて、何一つ信じてなかったんじゃない!!」

​ 悲痛な叫びが、狭い玄関に木霊する。

​「チカちゃん待って! 私が悪いの、私があの時――」

​ 助け舟を出そうとしたユキの声を遮るように、チカは顔をぐしゃぐしゃにして、脱兎の如く外へと飛び出していってしまった。

​「マユ、追いかけて! 早く!」

「だめ……行けないよ」

​ 足が竦んで動かない。

​「どうして!?」

「私……チカの言う通りだから。私、どこかで優越感を感じてたの。相川くんがチカじゃなくて私を選んでくれたこと、チカに勝ったんじゃないかって……そんな醜いこと思ってた。私には、チカを追いかける資格なんてないよ……!」

​ 自分自身の底知れない汚さに、涙が止まらなくなっていた。

​「マユ、よく思い出して!」

​ ユキが私の肩を強く掴み、真っ直ぐに瞳を覗き込んできた。

​「チカちゃんが言ったことでしょ!? 『どれだけ長い間一緒にいたと思ってるの』って! その言葉の意味を、ちゃんと考えて!」

​ ユキはそれだけ言い残すと、チカを追って冬の寒空の下へ飛び出していった。

​ ――どれだけ長い間、一緒にいたか。

​ 小学校の教室で、本ばかり読んでいた私に屈託なく話しかけてくれたチカ。

 雨の日も風の日も、嬉しい時も泣きたい時も、私たちはいつも隣にいた。レイコさんの複雑な家庭環境だって、チカは何の偏見もなく笑って受け入れてくれた。

 高校が離れ離れになるかもしれないと二人で抱き合って大泣きした、あの春の日のこと。

​ チカを失いたくない。

 こんな自分のくだらないプライドのせいで、一生の宝物を手放すなんて絶対に嫌だ。

 おばあちゃんになっても、どちらかが死ぬまで、死んだ後だって友達でいるって約束したじゃないか――!

​ 気がついた時には、私は靴を突っ掛け、無我夢中で夜の街へ駆け出していた。

​   *

​ チカの行きそうな場所を片っ端から走った。

 駅前のアイスクリーム屋、雑貨屋、本屋、チカの神社。どこにもいない。

 けれど、私には分かっていた。チカが最後に逃げ込む場所を。

​ 息を切らしながら辿り着いたのは、あの夕暮れの公園だった。

 小さい頃から、チカが泣くときはいつもここだった。誰にも見られたくなくて、一人でブランコに揺られていた場所。

​ 公園の街灯の下。

 ベンチに、二つの影があった。

 チカと、その隣に寄り添うユキ。私は思わず木の陰に身を隠した。

​「ごめんね……ユキちゃん。関係ないのに巻き込んじゃって……」

「ううん。私とチカちゃんは友達でしょ? そう言ってくれたのはチカちゃんだよ」

「……うん」

「大丈夫。マユは絶対にここに来るよ」

​ ユキの確信に満ちた声に、胸が詰まる。

​「来ないよ……私、マユにすっごく酷いこと言ったもん。許してくれるわけない……」

「そんなことないよ」

「違うの、私……本当はマユに嫉妬してたの!」

​ チカが膝の上で握りこぶしを作り、震える声で叫んだ。

​「正々堂々なんて口先だけで、相川くんがマユを好きだって知ったとき、悔しくてたまらなかった! それを隠して、マユが黙ってたことを責め立てて……マユがどれだけ悩んだかも考えないで八つ当たりしたの! 最低なのは私だよ……マユが来てくれるはずない……!」

​ ――同じだ。

 チカも、私と同じように弱くて、醜い自分に苦しんでいたんだ。

​ ユキがそっと、チカの震える肩を抱き寄せた。

​「チカちゃん、さっき言ったよね。『マユは私のこと何も分かってない』って。もしチカちゃんが本当にマユが来ないと思ってるなら、マユのことを分かってないのはチカちゃんの方だよ。……マユは絶対にチカちゃんを見捨てたりしない」

「ユキちゃん……っ」

​ チカが堰を切ったように泣き崩れ、ユキの胸にすがりついた。

 ユキは何も言わず、大きな手で、壊れ物を包み込むように優しくチカの背中を撫でている。

​ その光景を見た瞬間、私は息を呑んだ。

​ 街灯の淡い光の下で、チカを抱きしめるユキの横顔。

 髪を下ろし、華奢な少女の姿をしているはずなのに――その眼差しは、誰よりも頼もしく、深い慈愛に満ちた『男の子』の顔をしていた。

 タケルよりも、相川くんよりも、世界中の誰よりも優しい少年の顔。

​ ドクン、と胸の奥が鋭く痛んだ。

​ ……え?

 何、これ……?

 チカを抱くユキの姿を見て、どうしてこんなにも胸が引き裂かれそうに痛むの?

​ 生まれて初めて味わう強烈な感情の波に呑まれ、私は思わず足元をふらつかせた。

 ガサリ、と植え込みの枝が音を立てる。

​「……マユ?」

​ 涙で濡れた顔を上げたチカが、私を見つけた。

 次の瞬間、チカはベンチを飛び出し、一直線に私へ飛び込んできた。

​「マユ……! ごめんね、マユ、私……っ!」

「いいの、チカ……! 謝らないで、私の方こそごめん……!」

​ 二人の涙が混ざり合い、私たちは冷たい夜風の中でお互いを力いっぱい抱きしめ合った。

 大好きなチカを、失わずに済んだ。その安堵感だけで胸がいっぱいだった。

​ チカの肩越しに、そっとユキを見る。

 ベンチのユキは、いつもの儚げで可憐な少女の笑顔を浮かべ、静かに私たちを見守っていた。

​ さっき見えた、あの少年の表情は幻だったのだろうか。

 そして、私の胸を貫いた、あの焼けつくような痛みの正体は何だったのだろう。

​ 答えは見つからない。

 けれど、今はこれでいい。チカがいて、ユキがいる。

 私は二度と離さないように、腕の中のチカを一層強く抱きしめた。