【六】 鏡
それは、学校からの帰り道のことだった。
ガタゴトと揺れるバスの窓の外をぼんやり眺めていた私の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
大きな総合病院の自動ドアから、トボトボと歩き出てくる人影――ユキだった。
どうしてユキが病院に?
怪我でもしたのだろうか。だがそれ以上に、バスの窓越しに一瞬だけ見えたユキの表情が、私の胸をざわつかせた。
血の気が引いたように真っ白な横顔。見たこともないほど険しく、暗い瞳。
まるで、私の知らない誰か別の人間を見ているようだった。
「ユキだ……!」
考えるより先に、私は立ち上がって降車ボタンを押し込んでいた。
車内に甲高いブザーが鳴り響く。
「えっ、何!? どうしたのマユ!?」
驚くチカの腕を掴み、滑り込んだ『国立大学病院前』の停留所でバスを降りた。
冷たい風が吹き抜ける歩道を、先ほど見かけた場所へと急ぎ足で戻る。
「本当にユキちゃんだったの?」
「間違いない……と思う。絶対ユキだった」
何度も確認されると少し自信が揺らぐけれど、あの長い栗色の巻き髪と華奢なシルエットを見間違えるはずがない。
少し走ると、前方にゆっくりと歩く少女の後ろ姿が見えた。
「ユキ!」
呼びかけると、彼女はびくっと肩を跳ねさせて振り返り、目を丸くした。
「マユ……? チカちゃんも! どうしたの、こんなところで?」
「こっちの台詞だよ! ユキが病院から出てくるのが見えたから……どこか悪いの? 怪我でもした?」
息を切らしながら問い詰めると、ユキは一瞬だけ表情を固めたあと、すぐにいつもの柔らかい笑顔を作って両手をパタパタと振った。
「ううん、違うの! 私のことじゃないよ。ここに、昔からの知り合いが入院してて……そのお見舞いに来ただけ」
「知り合い……?」
誰だろう。前の家の関係か、それとも剣崎くん絡みだろうか。
気になったけれど、ユキの表情があまりにも必死に「なんでもない」と訴えかけていたので、それ以上は踏み込めなかった。
「二人とも怖い顔して走ってくるからびっくりしちゃった」
「心配したんだからね。……もう用事は済んだの? 一緒に帰ろっか」
私がそう言った瞬間、横からチカが二人の腕をガシッと掴んだ。
「ちょっと待った! せっかくここまで来たのに、このまま真っ直ぐ帰るなんてありえないでしょ!」
チカがビシッと指差した先には、ポップな看板を掲げた人気のアイスクリームショップがあった。
「わあ……! アイスクリーム!」
ユキの目がキラキラと輝く。さっきまでの不穏な気配はすっかり消え、いつもの無邪気なユキに戻っていた。
……さっきの真っ青な顔は、私の見間違いだったのかな。
「私、トリプルにする!」
「私も!」
キャッキャと腕を組んで店へ吸い込まれていく二人を、私は苦笑しながら追いかけた。
*
ガラス張りの店内に入ると、周囲の視線が一斉にこちらへ集まるのが分かった。制服姿の男子高校生たちが、チラチラと露骨にこちらの席を伺っている。
……無理もない。こんな美少女が二人も並んでいれば目立つに決まっている(私の存在は完全に背景と同化しているはずだ)。
当の美少女たちはといえば、周囲の視線などどこ吹く風で、三段重ねのアイスと必死に格闘していた。小動物みたいにスプーンを動かす姿が微笑ましい。
特にユキはトリプルを食べるのが人生初らしく、髪がアイスにつかないよう気合を入れて後ろでひとつに束ね、真剣な顔でスプーンを口に運んでいる。
一段目を平らげたあたりで、チカがふとスプーンを止め、私の顔とユキの顔をじーっと見比べた。
「……あれ? そうやってユキちゃんが髪をまとめてるとさ、マユとすっごく似てない?」
「え?」
ユキが顔を上げようとしてアイスのタワーがぐらりと傾き、慌てて体勢を立て直す。
「私とユキが?」
「うん。前に初めて会ったときも思ったけど、髪型を同じにしたらそっくりだよ」
確かに、趣味や感性が似ているなと思う瞬間はある。同じ本を好きになったり、クリスマスのプレゼントで同じ本を選んでしまったり。
けれど、顔が似ているというのはさすがに買いかぶりすぎだ。
「よしてよ。私、こんなお人形さんみたいに可愛くないし」
「またそういうこと言う! マユだって目鼻立ちスッキリしてて綺麗じゃん!」
「百歩譲ってそうだとしても、ユキとは系統が違うでしょ」
「似てるもん! 顔の輪郭も、目の形も!」
チカは意地になって身を乗り出してくる。
「はいはい、分かった分かった」
適当に受け流そうとしたのが、完全に悪手だった。チカの負けず嫌いに火がついてしまったのだ。
「信じてないでしょ! よし、勝負よマユ!」
「……なんの勝負?」
「負けた方は、勝った方の言うことを何でも一つ聞くこと! いいわね!?」
こうなったチカは誰にも止められない。ため息をつきながら覚悟を決める。
「分かったよ。で、どうやって白黒つけるの?」
チカがニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。
「それはね――」
ビチャッ!
チカの言葉を遮るように、鈍い音がテーブルに響いた。
見ると、バランスを崩した一番上のチョコミントがテーブルの上に無惨に転がり、ユキがスプーンを握りしめたまま半泣きで固まっていた。
「……落ちた」
あまりに情けないその顔に、私とチカは同時に吹き出してしまった。
「も、もったいないことしちゃった……」
しゅんとうなだれるユキに、店員さんが気を利かせて新しいチョコミントを一段サービスしてくれた。
「わあ、ありがとうございます……!」
「ほら見なさい。ユキちゃんの可愛さは万国共通なのよ」
チカが我が事のように胸を張る。
「そういうチカだって、さっき店員さんにチラチラ見られてたでしょ」
「え、うそ、いつ!?」
動揺して辺りをキョロキョロ見回すチカがおかしくて、私はまた笑ってしまった。三人でいるだけで、こんなにも他愛のない時間が楽しい。当たり前の日常のはずなのに、いつまでもこの時間が続けばいいのにと、柄にもなく願ってしまう。
ふと、話題は自然と相川くんのことに移っていった。
「そういえばチカ、最近相川くんとは話せてるの?」
「……全然」
さっきまでの元気はどこへやら、チカがしゅんと肩を落とす。
「委員会でマユとばっかり喋ってるの見ると、地味に凹むんだよね……向こうから話しかけてくれることもないし」
「そのままだと、ずっと『片想い』のままだよ?」
「そんなの嫌だーっ!」
チカが本気で叫び、テーブルに突っ伏す。
突っ伏したまま、くぐもった声で呻いた。
「じゃあどうすればいいのよ……好きって伝える勇気もないくせに、友達のままでいるのも嫌なの……」
スプーンを咥えたまま、ユキがぽつりと呟いた。
「友達として好きな気持ちと、恋人として好きな気持ちって、何が違うんだろうね」
「え?」
チカと私は同時に顔を上げた。
「なんとなく。……境界線って、案外はっきりしてないのかもって思っただけ」
ユキは誤魔化すように笑って、また新しいアイスに口をつけた。
「うーん……好きな人とは一緒にいたいと思うし、友達とも一緒にいたいと思うし……正直、あんまり変わらない気がする」
「マユまで何言ってんの!」
チカのツッコミに、三人で顔を見合わせて笑った。
*
放課後の我が家。
「準備があるから!」とどこかへ飛び出していったチカを、私とユキはリビングで待っていた。
しばらくして、チカが大きな紙袋を抱えて息を切らしながら戻ってきた。
「お待たせーっ! ジャジャーン、これを見て!」
誇らしげに掲げられたのは、黒髪のショートボブのウィッグだった。……私の髪型に驚くほどそっくりだ。
「マユ、制服の予備出して!」
「はいはい……」
クローゼットから予備のブレザーとスカートを持ってくると、チカはユキの手を強引に引いた。
「行くよ、ユキちゃん! マユは絶対覗いちゃダメだからね!」
有無を言わさずユキを自室へ連行していく。
着せ替え人形状態のユキに同情しつつも、私はどんな姿になるのか少しワクワクしながらリビングで待っていた。
三十分後。
カチャリとドアが開き、足音が近づいてくる。
「できたよー!」
チカの声に続いて入ってきた人物を見た瞬間、私の息が止まった。
「……っ!?」
そこに立っていたのは――私自身だった。
鏡を見ているわけでもないのに、自分の姿が目の前に立っている。双子でもない限り、一生味わうことのない強烈な違和感に鳥肌が立った。
思わず立ち上がり、ユキの正面に立つ。
私が右手を挙げると、ユキもつられて右手を挙げる。左手を挙げると、やはり同じように動く。
鏡合わせのように手のひらを合わせ、顔を近づけてみる。私が瞬きをすると、ユキもぱちりと瞬きを返した。
「……ちょっと、顔近すぎ!」
チカに突っ込まれて、ハッと我に返り一歩後ずさった。
「どう? 私の勝ちでしょ!」
チカが得意満面に胸を張る。
完敗だった。認めざるを得ない。メイクの力もあるのだろうけれど、骨格や目元の配置まで、気味が悪いほど私にそっくりだった。
「髪はどうしたの……? あんなに長かったのに」
「ウィッグの中に、くるくるって巻き込んであるの」
ユキが少し窮屈そうに頭を押さえながら笑う。声を聞けばユキだと分かるけれど、黙っていれば完全に私だ。
「ね? これなら、ユキちゃんが代わりに学校に行っても誰も気づかないと思わない?」
……は?
「ちょっと待って。何の話?」
「さっきユキちゃんと話してたの! 一日だけマユとユキちゃんが入れ替わってみるの! ユキちゃんに学校を体験させてあげよう大作戦!」
「絶対ダメに決まってるでしょ! バレたらどうするの!」
「大丈夫、私が完璧にフォローするから! それにマユ……勝負に負けた方は、言うこと何でも一つ聞く約束だったよね?」
チカが天使のような極悪スマイルを向けてくる。完全に嵌められた。
「わ、私はよくても、ユキが嫌に決まってるでしょ……?」
すがる思いでユキを見つめた。
けれど、ユキは少し迷うように視線を泳がせたあと、すがるような瞳で私を見つめ返してきた。
「……私、学校に行ってみたい。ダメかな、マユ……?」
上目遣いの、今にも泣き出しそうな瞳。
チカの笑顔と、ユキの涙目。この二つが揃ってしまっては、私に拒否権など残されていなかった。
「…………一日だけだからね」
私は観念して、深くため息をついた。
*
数日後の朝。
「絶対にバレないから任せて!」と豪語するチカに連れられ、私の制服を着たユキが家を出て行った。
初めて子供を預ける母親のように胃がキリキリと痛む。けれど、「学校に行ける」と嬉しそうに目を輝かせていたユキの顔を思い出すと、止めることはできなかった。
同情なんかじゃない。けれど、あんなに勉強を頑張っているユキが、どれだけ学校という場所に憧れていたのかを思うと、胸が締め付けられるのだ。
幸い、レイコさんはまだ起きてこない。
私はクローゼットから私服を取り出し、着替えを済ませた。
この無茶な計画を受け入れた時から、私はある場所へ行くことを決めていたのだ。
家を出て、いつもより遅い時間のバスに乗る。
車内は空いていて、乗客はお年寄りや小さな子供連ればかり。普段の通学とは全く違う町の景色が流れていく。
やがて、バスは『国立大学病院前』に到着した。
見上げるほど巨大な白亜の病棟。
あの日、ユキが青ざめた顔で出てきた場所だ。「知り合いのお見舞い」とユキは言っていたけれど、どうしてもあの時の表情が頭から離れなかった。
自動ドアをくぐると、消毒液の匂いが鼻をつく。
ここまで来て、私は自分の行動の無謀さに気づいて立ち尽くしてしまった。
気になるならユキに直接聞けばいい話だし、そもそも私はユキの苗字すら知らないのだ。広い病院の中で、どうやって病室を探せばいいというのか。
情けなくて惨めな気持ちになり、踵を返そうとした。
けれど、ここで何も確かめずに帰るのは、逃げるような気がしてどうしても嫌だった。
意を決して、総合受付のカウンターへ向かう。
「あの……面会をお願いしたいんですけど」
「はい、患者様のお名前か病室は何号室でしょうか?」
受付の看護師さんに尋ねられ、完全に言葉に詰まった。頭が真っ白になる。
「その……頼まれて来たんですけど、部屋番号を聞き忘れてしまって……」
しどろもどろで怪しさ満点だ。不審者扱いされて追い出される――そう身構えた瞬間、看護師さんが「あ!」と小さく声を上げた。
「さては、あなたマユちゃんでしょ? ユキちゃんに頼まれて来たのね」
「えっ……?」
どうして私の名前を?
「そんなに驚かないでよ。ユキちゃん、あなたのことすっごく楽しそうによく話してくれるもの。それに顔もそっくりだし、見た瞬間にピピーンときたわ」
ちょうどそこへ別の看護師がやってきて交代を告げた。
「ちょうどよかった、病室まで案内してあげる。ついてきて」
スタスタと歩き出す看護師さんの後を、私は混乱したまま追いかけた。
「ユキちゃん、いつもこの時間に来るのに今朝は姿を見せないから心配してたのよ。代わりにあなたが来てくれたのね。ユキちゃん、風邪でも引いちゃった?」
「あ、ええ……まあ、そんなところで……」
曖昧に話を合わせながら、衝撃で胸が波打っていた。
毎日、この時間にお見舞いに来ている?
ユキが毎朝欠かさず通い詰める相手って、一体誰なんだろう。
エレベーターを上がり、静まり返った特別病棟の長い廊下を進む。
看護師さんは、ある個室の扉の前で足を止めた。
「ここよ。ユキちゃんからも聞いてると思うけど、絶対安静だから、静かにね」
それだけ言い残し、看護師さんは戻っていった。
残されたのは、無機質な白い扉と、私だけ。
この扉の向こうに、ユキをあんな顔にさせた人物がいる。
私はゆっくりとドアノブに手をかけた。
冷たい金属の感触が手のひらに伝わる。
――けれど、ノブを押し下げようとしたその瞬間、頭の中で鋭い警告音が鳴り響いた。
(本当にこれでいいの……?)
脳裏に浮かんだのは、今朝、嬉しそうに手を振って学校へ向かったユキの笑顔だった。
どこまでも純粋で、私を信じ切っているあの笑顔。
私はハッと我に返り、ドアノブから手を離した。
一体、私は何をしようとしていたんだろう。
ユキが隠している秘密を、留守の間に盗み見るなんて。
知りたいことがあるなら、ユキ自身の口から聞くべきだ。こんなやり方は、あまりにもアンフェアで卑怯すぎる。
大切な友達との関係を、自分の浅ましい好奇心で壊してしまうところだった。
冷や汗で濡れた手のひらをスカートで拭い、私は大きく息を吐き出した。
時計を見れば、もう正午を回っている。学校では、ユキがチカとお弁当を広げている頃だろう。
私は一度も振り返ることなく、病院を後にした。
*
家に帰り着くと、リビングのソファでレイコさんが台本をめくっていた。
所属している劇団の次回作の脚本だ。役者としての収入は微々たるものらしいけれど、レイコさんは劇団の脚本を一手に引き受け、エッセイやコラムの連載も抱える売れっ子ライターでもあった。三人が暮らしていくには十分な稼ぎがある。
真剣な横顔で文字を追うレイコさんは、同性の私から見ても息を呑むほど美しい。
気配に気づいたレイコさんが顔を上げた。
「あら、早かったわね……って、あんた何で私服なのよ? まさか学校サボったの?」
「結論から言うと、サボった」
開き直って答えたけれど、レイコさんは怒らなかった。私のただならぬ雰囲気を察したらしい。
「あんた……何か聞きたいことがある顔ね」
台本をテーブルに置き、脚を組み替える。
「ユキのことね」
見透かされたように言われ、私は正面の椅子に座り直した。
「……ユキって、私の親戚なの?」
「親戚? 血が繋がってるかってこと?」
「うん」
「どうしてそんなこと思うのよ」
私は、今朝ユキが私の代わりに学校へ行ったこと、ウィッグをつけて並んだら気味が悪いほど双子そっくりだったことを正直に話した。
レイコさんは呆れ返ったように天井を仰いだ。
「あんたたち、放っておくと本当にロクでもないことしかしないわね……。で、そんなに似てたわけ?」
「瓜二つだった。だから……ユキと私には、何か血の繋がりがあるんじゃないの?」
そうとしか思えない。
だが、レイコさんは視線をまっすぐに戻し、残酷なほどあっさりと首を横に振った。
「残念だけど、その推理は大ハズレよ。ユキとあんたは、血の繋がりなんて一切ない赤の他人」
「そんな……! じゃあ、どうしてあんなに似てるのよ!?」
「世界には自分に似た人間が三人いるって言うでしょ。ただの他人の空似よ」
納得がいかず食い下がる私を、レイコさんは静かな眼差しで見つめ返した。
「ねえ、マユ。あんた、ユキのことどう思う?」
「どうって……」
「あの子が、男の子に見える?」
私は言葉に詰まり、小さく首を横に振った。
男の子だと知らされた後も、ユキの仕草や佇まいに男らしさを感じたことは一度もない。華奢な骨格も、柔らかな物腰も、すべてが完璧に可憐な少女そのものだ。
「普通、男が女を演じる場合、血のにじむような努力をしないと女には見えないのよ。男は男として、女は女として育てられるから。生まれ持った肉体だけがすべてを決めるわけじゃない。育ってきた環境も、その人の在り方に深く関わってくるものなのよ。どんなに上手に化けても、ふとした所作に必ず男が出る」
レイコさんの言葉には重みがあった。レイコさん自身が完璧な女性に見えるのも、劇団での鍛錬と凄まじい自己プロデュースの賜物だからだ。
「でも、ユキは違うでしょ。あの子は演じてるんじゃない。物心ついたときにはもう、自ら『女の子』として生きることを選んでいたの」
――え?
頭の中で、言葉の意味がうまく結びつかない。
「ユキはずっと、自分を女の子だと思って生きてきたの。だからあの子の内面は完全に女の子なのよ。可愛いものが好きで、料理が得意で、泣き虫で……そして、男の子に恋をする」
夕暮れの公園で出会った、剣崎くんの顔が脳裏をよぎる。
「そんなユキに、今になって現実が問いかけているの、本当にそうなのか、女の子として生きることがお前の本当の幸せなのかと」
血の気が引いていくのを感じた。
それは……なんて残酷なことだろう。
今まで生きてきた十六年間の自分をすべて否定され、大好きなものも、初恋の思い出も、自分という存在の根底をすべて捨て去れと命じられているのと同じじゃないか。死ねと言われているのと何が違うというのか。
「私はね、ユキが無理に男に戻る必要なんてないと思ってる。でも、女の子のまま生きていくことも、今の世の中じゃ決して平坦な道じゃない。だから……ユキ自身が、自分で納得できる道を選んでほしいのよ。どれだけ時間がかかってもいいから」
どちらを選んでも、待っているのは茨の道だ。
あんなに儚くて、あんなに優しいユキが、どうしてそんな理不尽な業を背負わされなければならないのか。
毎日を笑顔で過ごしているユキの健気さが、痛ましいほど愛おしかった。
「私も、協力する」
喉の奥から、確かな決意を込めて言葉を紡ぎ出す。
「ユキが一番幸せになれる道を、自分で選べるように。私、何だってするよ」
私の言葉に、レイコさんはふっと目元を緩め、母親のように優しく微笑んだ。
「……ありがとう、マユ」
それは、学校からの帰り道のことだった。
ガタゴトと揺れるバスの窓の外をぼんやり眺めていた私の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
大きな総合病院の自動ドアから、トボトボと歩き出てくる人影――ユキだった。
どうしてユキが病院に?
怪我でもしたのだろうか。だがそれ以上に、バスの窓越しに一瞬だけ見えたユキの表情が、私の胸をざわつかせた。
血の気が引いたように真っ白な横顔。見たこともないほど険しく、暗い瞳。
まるで、私の知らない誰か別の人間を見ているようだった。
「ユキだ……!」
考えるより先に、私は立ち上がって降車ボタンを押し込んでいた。
車内に甲高いブザーが鳴り響く。
「えっ、何!? どうしたのマユ!?」
驚くチカの腕を掴み、滑り込んだ『国立大学病院前』の停留所でバスを降りた。
冷たい風が吹き抜ける歩道を、先ほど見かけた場所へと急ぎ足で戻る。
「本当にユキちゃんだったの?」
「間違いない……と思う。絶対ユキだった」
何度も確認されると少し自信が揺らぐけれど、あの長い栗色の巻き髪と華奢なシルエットを見間違えるはずがない。
少し走ると、前方にゆっくりと歩く少女の後ろ姿が見えた。
「ユキ!」
呼びかけると、彼女はびくっと肩を跳ねさせて振り返り、目を丸くした。
「マユ……? チカちゃんも! どうしたの、こんなところで?」
「こっちの台詞だよ! ユキが病院から出てくるのが見えたから……どこか悪いの? 怪我でもした?」
息を切らしながら問い詰めると、ユキは一瞬だけ表情を固めたあと、すぐにいつもの柔らかい笑顔を作って両手をパタパタと振った。
「ううん、違うの! 私のことじゃないよ。ここに、昔からの知り合いが入院してて……そのお見舞いに来ただけ」
「知り合い……?」
誰だろう。前の家の関係か、それとも剣崎くん絡みだろうか。
気になったけれど、ユキの表情があまりにも必死に「なんでもない」と訴えかけていたので、それ以上は踏み込めなかった。
「二人とも怖い顔して走ってくるからびっくりしちゃった」
「心配したんだからね。……もう用事は済んだの? 一緒に帰ろっか」
私がそう言った瞬間、横からチカが二人の腕をガシッと掴んだ。
「ちょっと待った! せっかくここまで来たのに、このまま真っ直ぐ帰るなんてありえないでしょ!」
チカがビシッと指差した先には、ポップな看板を掲げた人気のアイスクリームショップがあった。
「わあ……! アイスクリーム!」
ユキの目がキラキラと輝く。さっきまでの不穏な気配はすっかり消え、いつもの無邪気なユキに戻っていた。
……さっきの真っ青な顔は、私の見間違いだったのかな。
「私、トリプルにする!」
「私も!」
キャッキャと腕を組んで店へ吸い込まれていく二人を、私は苦笑しながら追いかけた。
*
ガラス張りの店内に入ると、周囲の視線が一斉にこちらへ集まるのが分かった。制服姿の男子高校生たちが、チラチラと露骨にこちらの席を伺っている。
……無理もない。こんな美少女が二人も並んでいれば目立つに決まっている(私の存在は完全に背景と同化しているはずだ)。
当の美少女たちはといえば、周囲の視線などどこ吹く風で、三段重ねのアイスと必死に格闘していた。小動物みたいにスプーンを動かす姿が微笑ましい。
特にユキはトリプルを食べるのが人生初らしく、髪がアイスにつかないよう気合を入れて後ろでひとつに束ね、真剣な顔でスプーンを口に運んでいる。
一段目を平らげたあたりで、チカがふとスプーンを止め、私の顔とユキの顔をじーっと見比べた。
「……あれ? そうやってユキちゃんが髪をまとめてるとさ、マユとすっごく似てない?」
「え?」
ユキが顔を上げようとしてアイスのタワーがぐらりと傾き、慌てて体勢を立て直す。
「私とユキが?」
「うん。前に初めて会ったときも思ったけど、髪型を同じにしたらそっくりだよ」
確かに、趣味や感性が似ているなと思う瞬間はある。同じ本を好きになったり、クリスマスのプレゼントで同じ本を選んでしまったり。
けれど、顔が似ているというのはさすがに買いかぶりすぎだ。
「よしてよ。私、こんなお人形さんみたいに可愛くないし」
「またそういうこと言う! マユだって目鼻立ちスッキリしてて綺麗じゃん!」
「百歩譲ってそうだとしても、ユキとは系統が違うでしょ」
「似てるもん! 顔の輪郭も、目の形も!」
チカは意地になって身を乗り出してくる。
「はいはい、分かった分かった」
適当に受け流そうとしたのが、完全に悪手だった。チカの負けず嫌いに火がついてしまったのだ。
「信じてないでしょ! よし、勝負よマユ!」
「……なんの勝負?」
「負けた方は、勝った方の言うことを何でも一つ聞くこと! いいわね!?」
こうなったチカは誰にも止められない。ため息をつきながら覚悟を決める。
「分かったよ。で、どうやって白黒つけるの?」
チカがニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。
「それはね――」
ビチャッ!
チカの言葉を遮るように、鈍い音がテーブルに響いた。
見ると、バランスを崩した一番上のチョコミントがテーブルの上に無惨に転がり、ユキがスプーンを握りしめたまま半泣きで固まっていた。
「……落ちた」
あまりに情けないその顔に、私とチカは同時に吹き出してしまった。
「も、もったいないことしちゃった……」
しゅんとうなだれるユキに、店員さんが気を利かせて新しいチョコミントを一段サービスしてくれた。
「わあ、ありがとうございます……!」
「ほら見なさい。ユキちゃんの可愛さは万国共通なのよ」
チカが我が事のように胸を張る。
「そういうチカだって、さっき店員さんにチラチラ見られてたでしょ」
「え、うそ、いつ!?」
動揺して辺りをキョロキョロ見回すチカがおかしくて、私はまた笑ってしまった。三人でいるだけで、こんなにも他愛のない時間が楽しい。当たり前の日常のはずなのに、いつまでもこの時間が続けばいいのにと、柄にもなく願ってしまう。
ふと、話題は自然と相川くんのことに移っていった。
「そういえばチカ、最近相川くんとは話せてるの?」
「……全然」
さっきまでの元気はどこへやら、チカがしゅんと肩を落とす。
「委員会でマユとばっかり喋ってるの見ると、地味に凹むんだよね……向こうから話しかけてくれることもないし」
「そのままだと、ずっと『片想い』のままだよ?」
「そんなの嫌だーっ!」
チカが本気で叫び、テーブルに突っ伏す。
突っ伏したまま、くぐもった声で呻いた。
「じゃあどうすればいいのよ……好きって伝える勇気もないくせに、友達のままでいるのも嫌なの……」
スプーンを咥えたまま、ユキがぽつりと呟いた。
「友達として好きな気持ちと、恋人として好きな気持ちって、何が違うんだろうね」
「え?」
チカと私は同時に顔を上げた。
「なんとなく。……境界線って、案外はっきりしてないのかもって思っただけ」
ユキは誤魔化すように笑って、また新しいアイスに口をつけた。
「うーん……好きな人とは一緒にいたいと思うし、友達とも一緒にいたいと思うし……正直、あんまり変わらない気がする」
「マユまで何言ってんの!」
チカのツッコミに、三人で顔を見合わせて笑った。
*
放課後の我が家。
「準備があるから!」とどこかへ飛び出していったチカを、私とユキはリビングで待っていた。
しばらくして、チカが大きな紙袋を抱えて息を切らしながら戻ってきた。
「お待たせーっ! ジャジャーン、これを見て!」
誇らしげに掲げられたのは、黒髪のショートボブのウィッグだった。……私の髪型に驚くほどそっくりだ。
「マユ、制服の予備出して!」
「はいはい……」
クローゼットから予備のブレザーとスカートを持ってくると、チカはユキの手を強引に引いた。
「行くよ、ユキちゃん! マユは絶対覗いちゃダメだからね!」
有無を言わさずユキを自室へ連行していく。
着せ替え人形状態のユキに同情しつつも、私はどんな姿になるのか少しワクワクしながらリビングで待っていた。
三十分後。
カチャリとドアが開き、足音が近づいてくる。
「できたよー!」
チカの声に続いて入ってきた人物を見た瞬間、私の息が止まった。
「……っ!?」
そこに立っていたのは――私自身だった。
鏡を見ているわけでもないのに、自分の姿が目の前に立っている。双子でもない限り、一生味わうことのない強烈な違和感に鳥肌が立った。
思わず立ち上がり、ユキの正面に立つ。
私が右手を挙げると、ユキもつられて右手を挙げる。左手を挙げると、やはり同じように動く。
鏡合わせのように手のひらを合わせ、顔を近づけてみる。私が瞬きをすると、ユキもぱちりと瞬きを返した。
「……ちょっと、顔近すぎ!」
チカに突っ込まれて、ハッと我に返り一歩後ずさった。
「どう? 私の勝ちでしょ!」
チカが得意満面に胸を張る。
完敗だった。認めざるを得ない。メイクの力もあるのだろうけれど、骨格や目元の配置まで、気味が悪いほど私にそっくりだった。
「髪はどうしたの……? あんなに長かったのに」
「ウィッグの中に、くるくるって巻き込んであるの」
ユキが少し窮屈そうに頭を押さえながら笑う。声を聞けばユキだと分かるけれど、黙っていれば完全に私だ。
「ね? これなら、ユキちゃんが代わりに学校に行っても誰も気づかないと思わない?」
……は?
「ちょっと待って。何の話?」
「さっきユキちゃんと話してたの! 一日だけマユとユキちゃんが入れ替わってみるの! ユキちゃんに学校を体験させてあげよう大作戦!」
「絶対ダメに決まってるでしょ! バレたらどうするの!」
「大丈夫、私が完璧にフォローするから! それにマユ……勝負に負けた方は、言うこと何でも一つ聞く約束だったよね?」
チカが天使のような極悪スマイルを向けてくる。完全に嵌められた。
「わ、私はよくても、ユキが嫌に決まってるでしょ……?」
すがる思いでユキを見つめた。
けれど、ユキは少し迷うように視線を泳がせたあと、すがるような瞳で私を見つめ返してきた。
「……私、学校に行ってみたい。ダメかな、マユ……?」
上目遣いの、今にも泣き出しそうな瞳。
チカの笑顔と、ユキの涙目。この二つが揃ってしまっては、私に拒否権など残されていなかった。
「…………一日だけだからね」
私は観念して、深くため息をついた。
*
数日後の朝。
「絶対にバレないから任せて!」と豪語するチカに連れられ、私の制服を着たユキが家を出て行った。
初めて子供を預ける母親のように胃がキリキリと痛む。けれど、「学校に行ける」と嬉しそうに目を輝かせていたユキの顔を思い出すと、止めることはできなかった。
同情なんかじゃない。けれど、あんなに勉強を頑張っているユキが、どれだけ学校という場所に憧れていたのかを思うと、胸が締め付けられるのだ。
幸い、レイコさんはまだ起きてこない。
私はクローゼットから私服を取り出し、着替えを済ませた。
この無茶な計画を受け入れた時から、私はある場所へ行くことを決めていたのだ。
家を出て、いつもより遅い時間のバスに乗る。
車内は空いていて、乗客はお年寄りや小さな子供連ればかり。普段の通学とは全く違う町の景色が流れていく。
やがて、バスは『国立大学病院前』に到着した。
見上げるほど巨大な白亜の病棟。
あの日、ユキが青ざめた顔で出てきた場所だ。「知り合いのお見舞い」とユキは言っていたけれど、どうしてもあの時の表情が頭から離れなかった。
自動ドアをくぐると、消毒液の匂いが鼻をつく。
ここまで来て、私は自分の行動の無謀さに気づいて立ち尽くしてしまった。
気になるならユキに直接聞けばいい話だし、そもそも私はユキの苗字すら知らないのだ。広い病院の中で、どうやって病室を探せばいいというのか。
情けなくて惨めな気持ちになり、踵を返そうとした。
けれど、ここで何も確かめずに帰るのは、逃げるような気がしてどうしても嫌だった。
意を決して、総合受付のカウンターへ向かう。
「あの……面会をお願いしたいんですけど」
「はい、患者様のお名前か病室は何号室でしょうか?」
受付の看護師さんに尋ねられ、完全に言葉に詰まった。頭が真っ白になる。
「その……頼まれて来たんですけど、部屋番号を聞き忘れてしまって……」
しどろもどろで怪しさ満点だ。不審者扱いされて追い出される――そう身構えた瞬間、看護師さんが「あ!」と小さく声を上げた。
「さては、あなたマユちゃんでしょ? ユキちゃんに頼まれて来たのね」
「えっ……?」
どうして私の名前を?
「そんなに驚かないでよ。ユキちゃん、あなたのことすっごく楽しそうによく話してくれるもの。それに顔もそっくりだし、見た瞬間にピピーンときたわ」
ちょうどそこへ別の看護師がやってきて交代を告げた。
「ちょうどよかった、病室まで案内してあげる。ついてきて」
スタスタと歩き出す看護師さんの後を、私は混乱したまま追いかけた。
「ユキちゃん、いつもこの時間に来るのに今朝は姿を見せないから心配してたのよ。代わりにあなたが来てくれたのね。ユキちゃん、風邪でも引いちゃった?」
「あ、ええ……まあ、そんなところで……」
曖昧に話を合わせながら、衝撃で胸が波打っていた。
毎日、この時間にお見舞いに来ている?
ユキが毎朝欠かさず通い詰める相手って、一体誰なんだろう。
エレベーターを上がり、静まり返った特別病棟の長い廊下を進む。
看護師さんは、ある個室の扉の前で足を止めた。
「ここよ。ユキちゃんからも聞いてると思うけど、絶対安静だから、静かにね」
それだけ言い残し、看護師さんは戻っていった。
残されたのは、無機質な白い扉と、私だけ。
この扉の向こうに、ユキをあんな顔にさせた人物がいる。
私はゆっくりとドアノブに手をかけた。
冷たい金属の感触が手のひらに伝わる。
――けれど、ノブを押し下げようとしたその瞬間、頭の中で鋭い警告音が鳴り響いた。
(本当にこれでいいの……?)
脳裏に浮かんだのは、今朝、嬉しそうに手を振って学校へ向かったユキの笑顔だった。
どこまでも純粋で、私を信じ切っているあの笑顔。
私はハッと我に返り、ドアノブから手を離した。
一体、私は何をしようとしていたんだろう。
ユキが隠している秘密を、留守の間に盗み見るなんて。
知りたいことがあるなら、ユキ自身の口から聞くべきだ。こんなやり方は、あまりにもアンフェアで卑怯すぎる。
大切な友達との関係を、自分の浅ましい好奇心で壊してしまうところだった。
冷や汗で濡れた手のひらをスカートで拭い、私は大きく息を吐き出した。
時計を見れば、もう正午を回っている。学校では、ユキがチカとお弁当を広げている頃だろう。
私は一度も振り返ることなく、病院を後にした。
*
家に帰り着くと、リビングのソファでレイコさんが台本をめくっていた。
所属している劇団の次回作の脚本だ。役者としての収入は微々たるものらしいけれど、レイコさんは劇団の脚本を一手に引き受け、エッセイやコラムの連載も抱える売れっ子ライターでもあった。三人が暮らしていくには十分な稼ぎがある。
真剣な横顔で文字を追うレイコさんは、同性の私から見ても息を呑むほど美しい。
気配に気づいたレイコさんが顔を上げた。
「あら、早かったわね……って、あんた何で私服なのよ? まさか学校サボったの?」
「結論から言うと、サボった」
開き直って答えたけれど、レイコさんは怒らなかった。私のただならぬ雰囲気を察したらしい。
「あんた……何か聞きたいことがある顔ね」
台本をテーブルに置き、脚を組み替える。
「ユキのことね」
見透かされたように言われ、私は正面の椅子に座り直した。
「……ユキって、私の親戚なの?」
「親戚? 血が繋がってるかってこと?」
「うん」
「どうしてそんなこと思うのよ」
私は、今朝ユキが私の代わりに学校へ行ったこと、ウィッグをつけて並んだら気味が悪いほど双子そっくりだったことを正直に話した。
レイコさんは呆れ返ったように天井を仰いだ。
「あんたたち、放っておくと本当にロクでもないことしかしないわね……。で、そんなに似てたわけ?」
「瓜二つだった。だから……ユキと私には、何か血の繋がりがあるんじゃないの?」
そうとしか思えない。
だが、レイコさんは視線をまっすぐに戻し、残酷なほどあっさりと首を横に振った。
「残念だけど、その推理は大ハズレよ。ユキとあんたは、血の繋がりなんて一切ない赤の他人」
「そんな……! じゃあ、どうしてあんなに似てるのよ!?」
「世界には自分に似た人間が三人いるって言うでしょ。ただの他人の空似よ」
納得がいかず食い下がる私を、レイコさんは静かな眼差しで見つめ返した。
「ねえ、マユ。あんた、ユキのことどう思う?」
「どうって……」
「あの子が、男の子に見える?」
私は言葉に詰まり、小さく首を横に振った。
男の子だと知らされた後も、ユキの仕草や佇まいに男らしさを感じたことは一度もない。華奢な骨格も、柔らかな物腰も、すべてが完璧に可憐な少女そのものだ。
「普通、男が女を演じる場合、血のにじむような努力をしないと女には見えないのよ。男は男として、女は女として育てられるから。生まれ持った肉体だけがすべてを決めるわけじゃない。育ってきた環境も、その人の在り方に深く関わってくるものなのよ。どんなに上手に化けても、ふとした所作に必ず男が出る」
レイコさんの言葉には重みがあった。レイコさん自身が完璧な女性に見えるのも、劇団での鍛錬と凄まじい自己プロデュースの賜物だからだ。
「でも、ユキは違うでしょ。あの子は演じてるんじゃない。物心ついたときにはもう、自ら『女の子』として生きることを選んでいたの」
――え?
頭の中で、言葉の意味がうまく結びつかない。
「ユキはずっと、自分を女の子だと思って生きてきたの。だからあの子の内面は完全に女の子なのよ。可愛いものが好きで、料理が得意で、泣き虫で……そして、男の子に恋をする」
夕暮れの公園で出会った、剣崎くんの顔が脳裏をよぎる。
「そんなユキに、今になって現実が問いかけているの、本当にそうなのか、女の子として生きることがお前の本当の幸せなのかと」
血の気が引いていくのを感じた。
それは……なんて残酷なことだろう。
今まで生きてきた十六年間の自分をすべて否定され、大好きなものも、初恋の思い出も、自分という存在の根底をすべて捨て去れと命じられているのと同じじゃないか。死ねと言われているのと何が違うというのか。
「私はね、ユキが無理に男に戻る必要なんてないと思ってる。でも、女の子のまま生きていくことも、今の世の中じゃ決して平坦な道じゃない。だから……ユキ自身が、自分で納得できる道を選んでほしいのよ。どれだけ時間がかかってもいいから」
どちらを選んでも、待っているのは茨の道だ。
あんなに儚くて、あんなに優しいユキが、どうしてそんな理不尽な業を背負わされなければならないのか。
毎日を笑顔で過ごしているユキの健気さが、痛ましいほど愛おしかった。
「私も、協力する」
喉の奥から、確かな決意を込めて言葉を紡ぎ出す。
「ユキが一番幸せになれる道を、自分で選べるように。私、何だってするよ」
私の言葉に、レイコさんはふっと目元を緩め、母親のように優しく微笑んだ。
「……ありがとう、マユ」
