繭に降る雪

【五】 初恋の代償

​ 冬休みが終わり、ついに三学期が始まってしまった。

 私は愛しいベッドから引き剥がされるように起き上がり、半分眠ったままリビングへ向かった。

​「おはよう、マユ」

​ キッチンでは、すでにユキが朝ごはんの準備をしていた。

 ユキが来てからというもの、私の起床時間はきっちり三十分遅くなっている。本当は一緒に台所に立つべきなのに、冬の羽毛布団の引力にはどうしても勝てない。……ごめんね、ユキ。

​「今日は始業式だけだから、お弁当はいらないよね?」

「うん、午前中で終わるから大丈夫」

​ ユキの「お弁当」という言葉に、終業式の夕暮れに出会った剣崎くんの顔がふと浮かんだ。あの子とユキの間には、きっと私の知らない複雑な事情があるのだろう。

​「そういえば、レイコさんは?」

「まだ寝てるよ。二日酔いだって。あとでブラックコーヒー持っていくね」

​ これだから自由業の大人は気楽でいい。羨ましい限りだ。

​   *

​ 家を出てバス停へ向かうと、お下げ髪を揺らしたチカが待っていた。

​「マユ、おはよー! なんか久しぶりな気がする。元日以来じゃん?」

「そうだね。三が日は忙しかった?」

「うん、営業利益の集計で死んでた」

​ お賽銭とお守りの売上計算のことだ。相変わらず表現が生々しい。

​「そういえば、年賀状届いたよ。可愛かったけど、今年ウサギ年じゃないからね?」

​ LINE全盛のこの時代に、チカはわざわざ手書きの年賀状を送ってきたのだ。デフォルメされたピーターラビットのイラストの横に『あけましておめでとうだぴょん』と書かれていた。

​「いいの! 可愛ければすべて許されるの!」

​ チカのその無駄な勢いがあれば、世の中の大抵の波風は乗り越えられそうな気がする。

​「で……クラスの男子から、誰か年賀状とかLINE来た?」

​ 上目遣いに、わざとらしく「別に気にしてないけど?」というトーンで尋ねてくる。気にしてるのがダダ漏れだ。

​「グループLINEでスタンプが流れてきたくらいだよ。チイちゃんでしょ、アイでしょ、山田でしょ……」

「……くんは?」

「え?」

「相川くんからは、なんか個人的に来てたりしないのかなーって」

「来るわけないじゃん」

​ 私は呆れて笑った。

​「チカのところに届いてないのに、私のところに来るわけないでしょ。男子なんて新年の挨拶すらめんどくさがる生き物だし。相川くんの視界に私なんて入ってないって」

「そんなことないよ! 自覚ある? 相川くんと一番まともに喋ってる女子、マユなんだよ?」

「それは図書委員で業務連絡してるからでしょ」

「でも、マユって普通に美人だし……」

​ なぜかチカは私の顔を過大評価している節がある。可愛いチカに褒められるのは嬉しいけれど、買いかぶられすぎると居心地が悪い。

​「いい、マユ? もし相川くんと仲良くなったら、ちゃんと報告すること! 正々堂々勝負なんだから、私負けないからね!」

「はいはい、分かってますよ」

​ 恋する乙女の暴走を適当にいなしながら、私たちは学校行きのバスに乗り込んだ。

 窓の外を流れる見慣れた景色を眺めながら、私はふと隣のチカの横顔を見た。

 相川くんの話をするときのチカは、いつもと違う顔をする。強気なようでいて、どこか不安げで、それでいて誰よりも真っ直ぐだ。

 「ねえ、チカはさ、好きになる理由って何だと思う?」

 唐突な質問に、チカは目を丸くした。

 「急にどうしたの。哲学?」

 「いや、なんとなく」

 「うーん……分かんないけど、一緒にいてドキドキできる人、かな。あと、ちゃんと相手のことを思いやれる人」

 「シンプルだね」

 「恋なんて、案外シンプルなものだよ。難しく考えすぎるとかえって見失っちゃうんじゃない?」

 何気ない一言のはずなのに、妙に胸に残った。まるで、これから起きることを予感していたかのように。

​   *

​ 教室に入ると、やけに空気がざわついていた。

 チカが持ち前のアンテナを張り巡らせて情報収集へ走り、ものの数分で戻ってきた。

​「ねえねえ! 産休の深沢ちゃんの代わりに来る先生、男の人らしいよ!」

「へえ、どんな人?」

「若いイケメン! でも既婚者なんだって、残念ー」

「チカ、さっきまで相川くん相川くん騒いでたのに切り替え早すぎ」

「目の保養は別腹なの! 担当は深沢ちゃんと同じ現代文。でね、名前が……」

「確か、橘先生だっけ? 終業式にゾロリが言ってたような」

「そう、橘! 『橘 猛(たちばなたける)』先生!」

​ タケル……? タチバナ、タケル?

​ その名を聞いた瞬間、ドクンと心臓が跳ねた。

 嘘でしょ? いや、タケルなんてありふれた名前だ。同姓同名の別人に決まってる。

​ キーンコーンカーンコーン――。

​「あ、チャイム鳴った! 席戻るね。うー、楽しみ!」

​ 小躍りしながら戻っていくチカを見送りながら、私の胸は早鐘のように激しく脈打っていた。

 落ち着け、私。ただの偶然。タケルなんてありふれた名前だ。そんなドラマみたいなこと、あるわけがない。

​ ガラガラと、教室の前扉が開いた。

​ 足音とともに視界へ入ってきた人物の姿を捉えた瞬間、私の肺からすべての空気が抜け落ちた。

​ 冬の柔らかい光を浴びて、教壇へと歩み寄る長身の男の人。

 朝の連続ドラマで爽やかな笑顔を見せる人気俳優のように、涼しげで端正な横顔。

 目元がゆるむときの、あの懐かしい癖。

 ――私が生まれて初めて恋をした男、タケルその人だった。

​ 教室の喧騒が一瞬で遠のき、耳の奥で自分の心臓の音だけがドクンドクンと異常な音量で響き始める。

 八年という歳月が、一瞬でゼロに巻き戻されたような錯覚。少し大人の落ち着きを纏っていたけれど、その立ち姿も、眩しすぎる笑顔も、あの頃私の世界の中心にいたタケルそのままだった。

​「えー、自己紹介も不要なくらい噂が回ってるみたいだが、一応名乗っておく。『橘 猛』だ。三学期の間、よろしくな」

​ 教壇に立ったタケルが笑う。黒板にはチカたち早耳軍団が書いたらしい『ようこそ橘猛先生!』の巨大な文字。

​「今日は始業式だけだから、軽く顔合わせってことで。何か質問あるか?」

​「あの……っ!」

​ 考えるより先に、体が勝手に跳ね起きていた。ガタッと机が鳴り、教室中の視線が一斉に私へ突き刺さる。

 息が詰まり、喉がカラカラに乾いて言葉が出てこない。チカが心配そうに私を見上げている。

​「えーと……」

「いいぞ、桐生。落ち着いてゆっくり話せ。待つから」

​ 昔と変わらない、どこまでも包み込むような優しい声。

 その温かさに背中を押され、私はすがるように声を絞り出した。

​「あの……深沢先生と赤ちゃんは、無事だったんでしょうか」

​ 私の質問に、タケルはふわりと目を細めて笑った。

​「ああ、母子ともに健康で、無事に出産されたそうだ。しかも誕生日は十二月二十五日。まさにクリスマスベビーだな」

​ 教室中から「おおーっ!」「よかった!」と歓声が上がる。

​「一番に担任の体を心配してくれるなんて、深沢先生も幸せ者だな」

​ タケルは心底嬉しそうにそう言って、私を見て微笑んだ。

 その笑顔に、胸が熱くなる。

 やっぱりタケルだ。私の大好きな、あの優しいタケルなんだ――。

​   *

​ 始業式が終わり、ホームルームも解散となった。

 結局あの日、私はタケルに話しかけることができなかった。「橘先生」と呼ばれるたびに跳ねる心臓を持て余しながら、ただ遠くからその背中を目で追うだけの一日が終わった。

​   *

 それから数日、私の日常は明らかにおかしかった。

 朝、制服を選ぶのにいつもの倍の時間がかかる。廊下でタケルとすれ違うたび、心臓が痛いくらいに騒ぐ。授業中もノートの端に、意味もなく「橘」という字を書いては慌てて消した。

​「マユ、最近なんか楽しそうだね」

 夕食のあと、リビングでお茶を淹れていたユキが、ふいにそう言った。

​「……そんなことないよ」

​「そう? なんか、鼻歌歌ってたし」

​「歌ってないよ!」

 慌てて否定したけれど、内心では図星を突かれてドキドキしていた。ユキは特に追及するでもなく、にこっと笑ってマグカップを手渡してくれる。その屈託のない笑顔に、なぜか少しだけ後ろめたさを覚えた。

 毎晩、布団の中で考えるのは決まって同じこと。今度会ったら、何を話そう。「お久しぶりです」なんて他人行儀すぎる。「タケル」なんて、もう呼べるはずもない。何度も頭の中でシミュレーションしては、結局答えが出ないまま眠りに落ちる。そんな夜が、もう五日も続いていた。

 そして、その日はやってきた。

 放課後、図書室から出ると、渡り廊下の向こうにタケルの姿が見えた。一人で、資料を抱えて職員室のほうへ歩いている。

 考えるより先に、足が動いていた。

​「タケ……橘先生」

​ タケルが手を止め、顔を上げた。

 視線がまっすぐに交錯する。

 私の耳は、懐かしいあの声で、あのトーンで、『マユ』と呼ばれる奇跡を、疑いもなく待ち望んでいた。

​「おう、どうした? 桐生」

​ ――きりゅう。

​ その二文字が鼓膜を打った瞬間、頭の芯を鈍器で殴られたような衝撃が走った。

 視界がぐらりと歪む。

 ……桐生?

 どうして? なんでそんな、他人行儀な呼び方をするの?

​ さっきまであれほど愛おしかったはずの彼の声が、冷たい鉛の塊になって胸の奥へずっしりと沈み込んでいく。息ができない。指先から急速に体温が奪われていく。

​ 何かの冗談であってほしくて、すがるように見つめたタケルの左手。

 チョークの粉を払うその薬指で、鈍く光るプラチナのリングが目に飛び込んできた。

​ ――ああ、そうか。

​ 冷水を浴びせられたように、残酷な現実が一気に脳内を埋め尽くした。

​ タケルは、もう二度と私を『マユ』とは呼んでくれない。

 今のタケルにとって、私はあの日肩車をして世界の広さを教えてくれた「特別な女の子」じゃない。

 目の前にいるのは、誰かの夫であり、どこにでもいる教師。

 そして私は――何十人もいる生徒のうちの一人、ただの『桐生』でしかないのだ。

​ 失われた八年間は、もう二度と埋まらない。

 あの日の眩しい青空も、肩車の上の温もりも、全部私ひとりの胸の中にしか残っていない過去の残骸だった。

​「どうしたんだ、桐生? 顔色が悪いぞ」

​ 心配そうに眉を寄せるタケル。その顔すら、ただの「生徒を気遣う担任教師」の表情でしかないことが、耐えられないほど痛かった。

​「……なんでも、ないです」

​ 喉の奥から、乾いた掠れ声を絞り出すのが限界だった。

​「そうか? 無理するなよ。じゃあ俺は職員室に戻るから、最後に出るなら戸締り頼むな」

​ タケルは私の頭を撫でることもなく、ただ事務的に手をひらひらと振って、あっけなく教室を出て行ってしまった。

 遠ざかる背中を見つめながら、私はただ、冷え切った教室の真ん中で立ち尽くしていた。

​「マユ、大丈夫? どっか痛いの……?」

​ チカが駆け寄ってきて、おろおろと私の顔を覗き込む。

 痛い。全身が引き裂かれそうなくらい痛い。

 けれど、それを言葉にする術すら、今の私には残されていなかった。

​「なんでもない……ううん、なんでもあるんだけど、今はうまく話せないの。ちゃんと話すから、少しだけ待ってくれる?」

​ 私がそう言うと、チカは何も聞かずに、ただ優しく頷いてくれた。

​   *

​ 家に帰り、晩ごはんを終えた。

 リビングではレイコさんがのん気にテレビを観て笑っている。レイコさんにタケルのことを話す気にはなれなかった。言ったところで茶化されるのがオチだし、タケルに関して言えば、私とレイコさんは過去のライバル同士なのだから。

​ 私は二階へ上がり、ユキの部屋のドアを二回ノックした。

​「はーい、どうぞ」

​ ドアを開けると、ユキが机に向かってペンを走らせていた。

 まともに学校へ通えなかった遅れを取り戻すため、高校への編入試験に向けて毎日コツコツと独学を続けているのだ。

​「本、借りるね」

「うん、好きなの読んで」

​ ユキが前の家から持ってきた本棚から、トーベ・ヤンソンの文庫本を抜き取る。

 壁にもたれかかり、ページをめくる。

 紙が擦れる微かな音と、ユキのシャープペンの芯が走るカリカリという音だけが部屋を満たす。お互いに別のことをしながら、同じ空間にいるだけで心が凪いでいく。この静かな時間が、私はたまらなく好きだった。

​ 半分ほど読み進めた頃、ユキがふと手を止めて振り返った。

​「マユ。……何かあった?」

「えっ……どうして分かったの?」

「なんとなく。でも、やっぱり何かあったんだね」

​ その柔らかい眼差しに向けられた瞬間、張り詰めていた心のストッパーが外れてしまった。

 誰かに話したい。ユキになら、話せる。

​「ユキ、上に上がらない?」

「うん」

​ ハッチを開けて折りたたみ階段を下ろし、二人で屋根裏部屋へ上がる。

 カンテラ風のランプが、薄暗い隠れ家をオレンジ色に暖かく照らしていた。

​ 少しして、ユキがマグカップを二つ持って上がってきた。

​「ココア、淹れてきたよ」

​ 手渡されたカップの温もりが、かじかんだ指先と強張った胸をじんわりと解きほぐしていく。ユキが私の隣にちょこんと腰を下ろした。

​「あのね……今日、学校に新しい先生が来たの」

「うん」

「名前は橘猛。……私の、初恋の人だった」

​ ユキは口を挟まず、静かにココアに口をつけた。

​「タケルは昔、よくうちに来てたの。すっごく優しくて、私のくだらない悩みも全部真面目に聞いてくれた。タケルの肩車が大好きでね、肩の上に乗ると世界の果てまで見えるんじゃないかって思った。ずっとこんな時間が続いて、大人になったらタケルのお嫁さんになるんだって信じて疑わなかった」

「かっこいい人だった?」

「うん、誰よりもかっこよかったよ。……でもね、私、フラれたの。ううん、フラれたどころか、勝負の土俵にすら上がってなかった。タケルは、レイコさんの恋人だったの」

​ ココアの湯気を見つめながら、言葉を絞り出す。

​「それを知った時、悔しくて悔しくてたまらなかった。だから心に決めたの、もう二度と恋なんてしないって。それをずっと守ってきたのに……今日、タケルに『桐生』って呼ばれた瞬間、全部崩れちゃった。もう、あの頃のタケルじゃない。私はただの生徒でしかないんだって思い知らされて……」

​ 情けなくて、膝を抱え込んで顔を埋めた。

 その時、ユキの温かい手が、私の手をきゅっと包み込んだ。

​「そっか……。ねえマユ、お返しに私の初恋の話も聞いてくれる?」

「……ユキの初恋?」

「うん」

​ ユキは少し照れくさそうに微笑んだ。

​「私ね、物心ついた時からお母さんがいなくて、ずっとお父さんと二人きりで暮らしてたの。お父さんはすごく優しい人で、私、お父さんのことが大好きだった」

​ 初めて聞く、ユキの過去の話。私は息を呑んで耳を澄ませた。

「でも、私、生まれつき体があまり丈夫じゃなくて、あんまり外に出られなかったの。学校にも、ほとんど行けなくて……」

「……」

「それでも寂しくなかったよ、お父さんがずっとそばにいてくれたから。でもね、ある日窓の外を見ていたら、毎日同じ時間に家の前を通る男の子がいることに気づいたの。その男の子が、いつも私の部屋の窓を見上げててね」

「誰だったの?」

「私のクラスメイト。ほとんど学校に行けなかった私と、心臓の手術でずっと休んで留年しちゃったその男の子。たった一度だけ、学校で顔を合わせたことがあったの。窓辺でその子が通るのを待つのが、毎日の楽しみになって……ある日、目が合ったら、たまらなくなって外に飛び出していっちゃった」

​ ユキは懐かしそうに目を細めた。

​「話せたのはほんの少し。でもね、その男の子は私の顔を見て『よかった』って笑ったの。『俺もずっと話したかった。一緒に高校へ行こう、がんばろう』って。……結末を言っちゃうと、これは失恋なんだけどね。それ以来会えてないし、学校では私、女の子として通ってたから。その子も私のことを女の子だと思ってる。だから、もう二度と会えない」

​ 剣崎護――。

 あの夕暮れの公園の少年の顔が浮かび、喉元まで名前が出かかったけれど、約束を思い出してぐっと飲み込んだ。

​「でもね、私、今でもその男の子が好きだし、約束を守りたいと思ってる。だから高校に行くために勉強してるの」

​ ユキが、私の手をぎゅっと力強く握り直した。

​「人を好きになることは、悪いことじゃないよ。だからマユも、タケルのことずっと好きでいていいんだよ。ずっとずっと、マユが『もういいや』って納得できる日まで、好きでい続ければいいんだよ」

「ユキ……」

​ 張り詰めていた心の結び目が、ふわりと解けていくような気がした。

​「ココア、冷めちゃったね」

「本当だ」

​ 冷めかけたカップに口をつける。

​「ぬるーい」

「ぬるーい」

​ ユキが私の口真似をして、二人で顔を見合わせて笑い合った。

​ 何かが解決したわけじゃない。明日からも学校へ行けばタケルはいて、そのたびに胸の奥がチクリと痛むだろう。

 けれど、その痛みを抱えたままでも歩いていける。

 ユキの温かい言葉に、私は少しだけ、自分を許されたような気がしていた。