繭に降る雪

【四】 日常の始まり

​ ユキが、男の子……。

​ 混乱で頭がパンクしそうだった。あの華奢で可憐なユキが男の子だなんて、とても信じられない。レイコさんのタチの悪い冗談じゃないのか。

 そう抗議した私に、レイコさんは言い放った。

「なら、確かめてみれば?」

 ――どう確かめろっていうのよ!

​ ショックで固まる私の一方で、チカはあっけらかんと言い切った。

「あれだけ可愛ければ、男も女も関係ないよ。それに私、ユキちゃんと友達でいるって言ったし。その言葉に嘘はないもん」

​ チカの言う通りだ。私も同じ気持ちだ。

 ……けれど、チカと違って私は、これからユキと同じ屋根の下で暮らしていくのだ。

 よくよく考えなくても、私はこの二日間、ユキと同じ部屋で寝起きしていた。同年代の男の子と一緒に二晩も眠っていたのだ。

 そう意識した瞬間、顔から火が出るかと思った。

​ 結局、あーだこーだと議論したものの結論は出ず、私とチカはリビングのソファでそのまま雑魚寝してしまった。

​   *

​ カーテンの隙間から差し込む朝日の眩しさに目を覚ます。

 隣のソファでは、チカが天使のように無防備な顔で爆睡中だった。こうしていると本当にただの子供だ。

 ……夢じゃなかった。ユキは男の子なのだ。これからどう接していけばいいんだろう。

​ 一晩寝ても、心の整理はまったくついていなかった。

 チカを起こさないよう、抜き足差し足で階段を上がる。自分の部屋の前に立ち、恐る恐るドアを開けた。

 正面のベッドを見る。……もぬけの殻だった。

​ どこへ行ったんだろう?

 まさか――昨夜の私の動揺を見透かされて、愛想を尽かして出て行ったんじゃ……!?

 昨夜の自分の口先だけの綺麗事が思い出され、激しい自己嫌悪と焦燥感が押し寄せる。

​ その瞬間。

 ――ドスンッ!

 向かいの書斎から、派手な衝突音が響いた。

​ 慌てて駆け込みドアを開けると、床の上でユキが豪快に尻餅をついていた。

​「ユキ! 大丈夫!?」

「あ、マユ……。おはよう」

​ 駆け寄る私に、ユキは照れくさそうに頭をかいた。

​「クリスマスの準備で手つかずだったから、朝から片付けてたの。でも踏み台から落っこちちゃって……起こしちゃった?」

​ 昨日と何一つ変わらない、やわらかな笑顔。

 それを見た瞬間、胸につかえていたモヤモヤがいっぺんに吹き飛んだ。

 男の子だろうが女の子だろうが、ユキはユキだ。そんなの当たり前じゃないか。私は、目の前のこのユキだから友達になりたいと思ったのだ。

​「立てる?」

「うん、ありがとう」

​ 差し出した手を取って起き上がったユキに、私は悪戯っぽく笑いかけた。

​「ねえユキ、この部屋の秘密、教えてあげよっか」

「秘密?」

​ 本棚の裏から金属のフック棒を取り出し、天井の金具に引っ掛けてグッと引く。

 バタンとハッチが開き、折りたたみ階段がスルスルと降りてきた。

​「わあ、すごい……!」

​ 目を輝かせるユキの手を引き、二人で階段を上がる。

 上がった先は、小さな屋根裏部屋だ。古い机がひとつと、小さな出窓。

​「小さい頃の私の秘密基地。レイコさんに叱られた時は、いつもここで泣いてたんだ」

​ 出窓に並び、朝日を浴びて動き出す町を見下ろす。

​「ここ、ユキの部屋になった後も遊びに来ていい?」

「もちろん!」

​ 満面の笑みで即答したユキを、私は衝動のまま後ろから抱きしめていた。

​「ユキ、ごめんね」

「えっ……マユ? ちょっと苦しいよ」

「いいの。ごめんね」

​ 男の子だとか女の子だとか、勝手に線引きして狼狽えていた自分が恥ずかしかった。

 ユキは目を白黒させていたけれど、やがて私の腕にそっと自分の手を重ねてくれた。

​   *

​ その日はチカも巻き込み、三人で大掃除に明け暮れた。

 日が暮れる頃にはようやくユキの部屋が完成。チカが「疲れたー!」と顔を拭ってススだらけになり、腹いせに私達の頬を真っ黒に塗りたくって大爆笑で一日が終わった。

​ そこからの年末は、まさに怒涛だった。

 締め切り爆発寸前だったレイコさんの原稿チェックに駆り出され、三十日の夜にようやく仕事が終わったと思えば――レイコさんが突如「手打ちそばを作るわよ!」と言い出したのだ。

​「わあ、お蕎麦打つのはじめて!」

​ ユキまで一緒になってノリノリになり、キッチンは小麦粉とそば粉で大惨事。

​「そば粉はケチっちゃダメよ、水加減が命なんだから」と、レイコさんは謎の自信満々な講釈を垂れながら大量の粉をボウルにぶちまけた。

 しかし、いざ捏ね始めてみると、生地は麺というより粘土に近い代物になってしまった。ユキが力いっぱい捏ねるたびに、白い粉が舞い上がって三人とも頭から真っ白になる。

​「ちょ、ちょっとユキ、優しくしなきゃ切れちゃうから……!」

「あ、ごめん……こう?」

​ 不器用な手つきで恐る恐る生地を伸ばすユキの横で、私は笑いを堪えるのに必死だった。出来上がった麺は、太いところは指ほどもあり、細いところは今にも千切れそうなでこぼこの代物。

​「これ、うどんじゃない……?」

「そばうどん、って新ジャンルにしましょう」

​ レイコさんの適当な提案に三人で大笑いしながら、不格好な年越しそばを茹で上げた。味は決して褒められたものじゃなかったけれど、湯気の向こうで笑うユキの顔が、忘れられないくらい温かかった。

 除夜の鐘を聞きながら、ヘトヘトになって年越しそばをすする……そんなドタバタな年越しだった。

​   *

​「初詣に行こうよ!」

​ 元日の朝、私の提案で三人揃ってチカの神社へ出かけることになった。

 生まれて一度も初詣に行ったことがないというユキは、屋台の並ぶ参道に大興奮だった。

​「いい匂い……! たこ焼きに、焼きそば……!」

「何でも好きなの買ってあげるわよ!」

​ 珍しく太っ腹なレイコさんに綿菓子を買ってもらい、ユキは子供のように大はしゃぎで頬張っている。

 拝殿で参拝を済ませ、おみくじ売り場へ向かうと――いた。

 白衣に緋袴の巫女姿で、参拝客を凄まじい手際でさばいているチカの姿が。

​ 目が合った瞬間、チカが猛烈な勢いで手招きをしてきた。

 社務所の裏手に回ると、チカが飛び出してきて私の手首を掴んだ。

​「遅い! 待ってたのよ!」

「あけおめもなしに何よ!?」

「緊急事態! バイトの巫女が二人、熱でドタキャンしたの! 衣装あるから今すぐ着替えてきて!」

「はあ!? 私たちが!?」

「で、でも私は無理だよ! だって私、男の――」

「細かいことはいいの! 女の子の更衣室なんて誰も覗かないからセーフ!」

​ 神主の娘とは思えない豪快な論理のすり替えで、私たちは着替え部屋へ押し込まれた。

 なお、後ろからついてこようとしたレイコさんは「レイコさんは定員オーバーです」とチカに秒でシャットアウトされていた。

​ 閉門間際、ようやく解放された私たちは、朝からずっと後回しにしていたおみくじを引くことにした。

​「私、大吉出すもんね……!」

 鼻息荒く筒を振るユキとは対照的に、私は半分あきらめの境地で棒を引いた。結果は――まさかの、二人とも「末吉」。

​「なんか微妙……」

「でも、ほら。『あせらず進めば道は開ける』って書いてあるよ」

​ ユキが指差した一文に、私は思わず頬を緩めた。今日一日だけでも十分すぎるくらい賑やかだったのだから、これくらいがちょうどいいのかもしれない。

​「つ、疲れた……」

​ 夕暮れ時。神社からの帰り道、私とユキは精魂尽き果てていた。

 ユキの巫女姿の破壊力は凄まじく、ユキの窓口にだけ男子高校生や参拝客の長蛇の列ができるという前代未聞の事態になったのだ。チカのお父さんに「来年もぜひ!」とスカウトされていたけれど、真実を知ったら気絶するんじゃないだろうか。

​ 一人だけ仲間外れにされて拗ねるレイコさんを宥めるため、バイト代で晩ごはんを奢ることになった。

​「ユキ、何が食べたい?」

「うーん……ハンバーグ!」

​ 元気に手を挙げるユキの無邪気さに、私とレイコさんは思わず吹き出した。

​ ――そんな、どこまでも温かく平和な一日の、終わりのことだった。

​   *

​ お風呂から上がり、リビングを通りかかった私の足が、凍りついたように止まった。

​「……それで。これは何?」

​ レイコさんの声だった。

 低く、冷たく、張り詰めた声。冗談めかした響きは微塵もない。

 レイコさんが本気で怒っている時のトーンだ。

​「今日の、お給料です」

​ ユキの声だった。

​「これっぽっちじゃ生活費に足りないのは分かってます。もっと大きくなったら働いて、全額返しますから……とりあえず、受け取ってください」

「……つまりあんたは、自分の生活費を私に払うって言ってるわけね?」

「はい」

​ 生活費?

 ユキ、何を言っているの……?

​ 息の詰まるような沈黙のあと、レイコさんの怒声が炸裂した。

​「ふざけないでよ! あんた、何にも分かってないのね!」

​ ビクッと肩を震わせるユキに、レイコさんは容赦なく言葉を叩きつける。

​「最初に何て言った!? 『私はユキと一緒に暮らしたい』そう言ったはずよ! 私が望んで勝手にやってることなの! 変な気なんて回さないで!」

​ けれど、ユキは怯まなかった。

 真っ直ぐに、澄み切った瞳でレイコさんを見据え返した。

​「……違います。変な気を回してるのはレイコさんの方です。レイコさんは何も悪くない! 僕に負い目なんて感じる必要ないんです!」

​ その言葉に、レイコさんの息が止まった。

​「あんた……」

 レイコさんは、ユキの華奢な体を力いっぱい抱きしめていた。

​「レイコ……さん?」

​ ユキの呆然とした声が漏れる。

​「馬鹿な子ね……。誰が負い目なんかでこんなことするもんですか」

​ レイコさんの声は、震えるほど優しかった。

​「もう一度言うわよ。私はあんたと暮らしたいからここに呼んだの。だから、あんたは好きなように生きなさい。もう、あんたを縛るものは何もない。あんたがここにいたいと思うまで、ずっといればいいのよ……もっとも、私はずっといてほしいけどね」

​ 抱きしめられたまま、ユキは耐えきれなくなったように顔を歪めた。

 そして、糸の切れた人形のように、レイコさんの胸の中で声を上げて泣き崩れた。

 レイコさんは何も言わず、ただ静かに、壊れ物を扱うようにユキの背中を撫で続けた。

​「もう誰も、あんたを縛ったりしない。そう……誰もね」

​ 暗い廊下で、私は涙を拭いながら、音を立てずに自分の部屋へと引き返した。

 ベッドに入り、毛布を被って明かりを消す。

​ ――もう、誰もユキを縛らない。

​ レイコさんの残したその言葉が、暗闇の中で重たく胸に澱のように沈んでいく。

​ ユキを縛っていたものは、一体何だったのか。

 その本当の意味と痛みを、私はまだ何も知らなかった。