繭に降る雪

【二】 黄昏の少年

​ 目が覚めたら、すでに朝の七時を回っていた。

 いつもなら朝ごはんを作るために六時半起きなのに、完全に寝過ごした。スマホのアラームが鳴らなかった? 今まで一度もそんな失敗したことないのに。

​ 朝ごはんを食べる時間はない。またレイコさんに嫌味を言われる。

 私は半泣きで身支度を済ませ、ブレザーのボタンを留めながら、転がるように階段を駆け下りた。

​ リビングへ飛び込んだ瞬間、足を止めた。

 見知らぬ少女が立っていた。

 エプロン姿で、手際よくフライパンを動かしている。朝日を浴びた長い巻き髪がキラキラと透き通って、まるで絵本から抜け出してきた天使みたいだ。

​ 口を開けて突っ立っていると、彼女がこちらに気づいた。

​「おはよう、マユ。よく眠れた?」

​ そこでようやく頭が追いついた。

 そうだ、ユキだ。昨日の出来事が一気にフラッシュバックする。

​「ユキが作ってくれたの?」

「うん。お口に合うといいんだけど」

​ にっこり微笑むユキに、私は申し訳なさで縮こまった。

​「ごめんね、一人でやらせちゃって。目覚ましが止まってたみたいで……」

「あ、それ、私が止めたの」

「え?」

「マユ、すごく疲れてそうだったから。少しでも寝かせてあげたくて……」

​ そこまで言って、ユキは私のボサボサ頭と焦り顔に気づいたらしい。

​「……ごめん。余計なお世話だった?」

「ううん! 全然! ユキの朝ごはん、すごく楽しみ!」

​ 慌ててフォローすると、ユキはぱっと表情を明るくした。

​「よかった。すぐできるから、顔を洗ったら座ってね」

​   *

​ 大急ぎで顔を洗い、髪にブラシを通し、歯を磨いて食卓へ戻る。

 すでにレイコさんが席についていた。徹夜明け特有の充血した目と、見事な寝癖。

​「レイコさん、ひどい顔」

「うるさいわね。昨日中に原稿をなんとか書き上げたのよ。今日はクリスマスの準備があるんだから」

「もう若くないんだから無理しないでよね」

「可愛くない娘だこと」

​ 軽口を叩き合っていると、ユキがお皿を運んできてくれた。

​「お待たせしました」

​ テーブルに並んだのは、黄金色のフレンチトースト、半熟卵にカリカリのベーコン、ヨーグルト、そして温かいミルク。

​「おいしそう……!」

​ お世辞抜きで感動した。まるで海外のカフェのモーニングだ。

​「あ、ユキ、悪いけど私にはコーヒー淹れてくれる? ブラックのアッツいやつ」

「ちょっと、それくらい自分で淹れなさいよ」

「いいじゃない、減るもんじゃなし」

​ レイコさんのわがままに、ユキはクスクス笑いながらキッチンへ戻っていく。なんだか私までレイコさんと同レベルの子供扱いをされている気がする。

​ ユキの料理は、見た目どおり信じられないくらい美味しかった。

 でも、美味しいのは腕前だけのせいじゃない。誰かが自分のために作ってくれた温かい料理。それがどれほど心に沁みるか、私は初めて実感していた。昨日のおでんが美味しかったのも、きっと同じ理由だ。

​ 食後の片付けを終えると、ユキが満面の笑みで尋ねてきた。

​「マユ、今日は終業式?」

「うん、そうだよ。式だけだから午前中で終わるの」

「じゃあ、早く帰ってくる?」

「買い出しがあるから、ちょっと遅くなるかな」

「なに、あんたプレゼントまだ買ってなかったの?」

​ レイコさんの横槍にぐうの音も出ない。

​「そっか。じゃあ、これ持って行って」

​ ユキが小さな巾着包みを差し出した。

​「お昼どうするか分からなかったから、一応作ってみたの。お弁当」

​ ……天使か。

 ここまで至れり尽くせりされると、なんだか可愛いお嫁さんをもらったような気分になる。

​「ありがとう! 大切に食べるね」

「うん、感想聞かせてね」

​「そうだ、明日のイブディナー、リクエストある?」

 ユキが小首を傾げて聞いてくる。

​「うーん……ユキの作るものなら何でも美味しいと思うけど、強いて言うならグラタン食べたいかも」

「グラタンね、了解!」

​「あんたたち、私を差し置いて勝手に決めないでよね。今年はチキンも焼くんだから」とレイコさんが横から口を挟む。

​「レイコさん、料理は?」

「私は指示を出す担当よ」

​「それ、ただ見てるだけって言うんじゃ……」

​ 軽口を叩き合う三人の笑い声が、朝の台所に響いた。こんな些細なやり取りひとつひとつが、当たり前のようでいて、実はとても愛おしいものなのだと、私はまだ気づいていなかった。

​ 時計を見れば、そろそろ家を出る時間だ。お弁当をスクールバッグに詰め込み、玄関へ向かう。

​「それじゃあ、行ってきます!」

「いってらっしゃい!」

「車に気をつけるのよー」

​ 二人の見送りを受けながら、私は冬の冷たい空気の中へと駆け出した。

​   *

​ バス停に着くと、お下げ髪を揺らしながらチカが駆け寄ってきた。

​「マユ、おはよー! 今日は早いじゃん」

​ 大きな瞳をぱちくりさせて笑う。

 チカとは小学校からの腐れ縁だ。レイコさんの事情も知っているし、お互いのことは何でも知っている。チカはよく喋り、よく笑い、よく泣く。ユキとはまた違うタイプの、底抜けに明るい女の子だ。

​「バスが来ちゃうから、乗ったら話すね」

​ やってきたバスに乗り込み、一番後ろの席に並んで座る。

 私は昨日からの一連の出来事を、チカに順を追って話した。

​「ええっ、そんなドラマみたいなこと、本当にあるんだ!」

​ 教室に着いても、チカの興奮は冷めなかった。私の前の席に逆向きに座り、身を乗り出してくる。

​「で、そのユキちゃんって子、すっごく可愛いんでしょ? どんなタイプ?」

「どんなタイプって言われてもなあ……」

「じゃあさ、私とどっちが可愛い?」

「出た」

​ チカらしい質問だ。公平に見ても、チカはかなりモテる部類に入る。男子が噂しているのを何度も聞いたことがある。

​「どうだろ。会えば分かるんじゃない?」

「う、ちょっと怖いかも……」

​ 冗談めかして身を縮める。この素直な子供っぽさがチカの魅力だ。

​「明日のイブのパーティー、チカも来るでしょ? そこで会えるよ」

「うん! 楽しみ!」

「今ごろレイコさんと二人で準備してるはず」

「あれ? ユキちゃん、学校は?」

​ 言われてハッとした。

 そういえば、ユキはどうして学校に行っていないんだろう。二学期末だから、三学期からどこかに編入するのかな? チカに指摘されるまでまったく頭が回っていなかった。

​ ガラガラと教室の前扉が開き、チカが「あ、先生だ」と自分の席へ戻っていく。

 入ってきたのは担任の深沢先生……ではなく、化学担当の伊坂先生だった。白衣の裾を引きずって歩く姿から、生徒たちには『ゾロリ』と呼ばれている。

​「おい静かにしろー。深沢先生の件、手短に説明するぞ」

​ ざわつく教室をゾロリが手で制した。

​「みんな知っての通り深沢先生はお腹が大きかったわけだが、昨晩急に産気づいて緊急入院された」

「ええっ!」

「安心しろ。少し予定が早まっただけで、母子ともに無事だそうだ」

​ クラス中に安堵の溜息が広がる。

 深沢先生は生徒思いで、カリキュラム以上に「学ぶ面白さ」を教えてくれる大好きな先生だ。無事で本当によかった。

​「……ってことは、赤ちゃんの誕生日、明日になるかも?」

「そうだ」ゾロリがニヤリと笑う。「クリスマスイブ生まれだ」

​ 教室が歓声に包まれた。

​   *

​ 終業式が終わり、通知表を受け取って(私の成績は散々だった)、教室はすっかり冬休みムードになった。

​「三学期の担任は、臨時の橘(たちばな)先生という方が来られる予定だ。じゃあお前ら、休みだからってハメを外すなよ。解散!」

​ ゾロリの雑な号令で、クラス中が荷物をまとめ始める。

​「マユ、通知表どうだった?」

「聞かないで、最悪……」

​ チカと頭を抱え合っていると、不意に上から声をかけられた。

​「桐生」

​ 見上げると、クラスメイトの相川くんだった。

 一年生ながらサッカー部のレギュラーで、学年トップクラスの秀才。背が高く涼しげな顔立ちで、ちょっとぶっきらぼうだけど根は優しい。女子からの人気はダントツだ。チカもその相川くんに絶賛片思い中だった。

​「これ、前回の図書委員会のプリント。風邪で休んでただろ」

「あ……わざわざありがとう、相川くん」

「年明けの委員会は十五日だから。忘れるなよ」

​ それだけ言い残し、相川くんは足早に教室を出て行った。

​「……もういませんよ、お嬢さん」

​ 私が小声で振ると、チカが顔を真っ赤にして机から顔を上げた。

​「ば、びっくりした……! 急に来るんだもん」

「声かければよかったのに」

「無理無理! 何話したらいいか分かんないもん」

​ チカはぶんぶんと首を振る。

 真面目すぎる相川くんと、照れ屋のチカ。見ていて微笑ましいけれど、チカの道程はなかなか険しそうだ。

​「さて、チカ。私ちょっと寄り道していくから、今日はここで」

「えー、どこ行くの?」

「秘密」

​ チカの追及を適当にかわし、私は一人で駅前の本屋へ向かった。

​   *

​ 買い物を終えてバスを降りる頃には、すっかり夕暮れ時になっていた。

 紙袋を抱える胸の奥はホクホクしている。チカへのプレゼントに選んだのは、海外のクラシックな絵本イラスト集。可愛いものが大好きなチカが、少しでも本に親しんでくれたらいいなという私のささやかな企みだ。

 もちろん、ユキへのプレゼントも抜かりなく用意した。

​ 住宅街に入り、我が家の明かりが見えてきたときだった。

​「あの……桐生繭さん、ですよね?」

​ 後ろから声をかけられた。

 振り返ると、学ランを着た見知らぬ男の子が立っていた。

​「そうだけど……?」

​ 警戒しながら答えた私を、彼はじっと見つめたまま黙り込んでしまう。

​「何か用?」

「……いえ、なんでもないです。すみませんでした」

​ 呼び止めておいて、くるりと踵を返して走り去ろうとする。

 思わせぶりすぎる。私は思わず、彼の制服の袖を掴んだ。

​「ちょっと待ってよ――」

​ 強く引っ張ったわけではない。

 なのに、彼はあっけなくバランスを崩し、前のめりにつんのめって私に倒れ込んできた。

​「わっ、ちょっと! 大丈夫!?」

「う……」

​ 痛むのかと焦ったけれど、彼の口から絞り出されたのは意外すぎる一言だった。

​「お腹が……すいた……」

​ 直後、静かな夕暮れの通りに、けたたましいお腹の音が鳴り響いた。

​   *

​ 近所の公園のベンチ。

 ブランコが冬の風に揺れてキイキイと鳴る中、その男の子は、ユキが作ってくれたお弁当を一心不乱に頬張っていた。

 買い出しで食べるタイミングを逃し、持ち帰っていたものだ。ユキには申し訳ないけれど、この食べっぷりを見たらきっと許してくれるだろう。

​ 自販機で買った温かいお茶を手渡す。

 彼は一気にお茶を飲み干し、ようやく人心地がついたように息を吐いた。

​「ごちそうさまでした……すごく美味しかったです」

「それ、ユキが作ってくれたんだよ」

「あ……!」

​ 分かりやすく目を見開く。

 こんな年下の男の子に私が待ち伏せされる筋合いはないし、レイコさんに用があるわけでもない。となれば、答えは一つだ。

​「やっぱり、ユキに用事だったのね」

​ 彼は口をへの字に結んだ。

​「まあ、言いたくないならいいけど。ユキには『美味しかったって男の子が食べてた』とだけ伝えておくよ」

​ 立ち上がろうとすると、彼がぽつりと呟いた。

​「……伝言」

「え?」

「桐生さんに、伝言を頼もうと思って待ってたんです」

​ 自分に言い聞かせるように、彼は話し始めた。

​「学校が終わってすぐここに来たんですけど、桐生さんがなかなか帰ってこなくて。朝から何も食べてなくて、お金も持ってなくて……でも、ずっと待ってて」

​ ……なんて一途な子なんだろう。聞いているこっちが恥ずかしくなってくる。

​「でも、桐生さんの顔を見て、声をかけた瞬間に気づいたんです。人に頼むんじゃなくて、自分でちゃんと伝えなきゃ駄目だって」

​ 彼は立ち上がり、ぺこりと綺麗なお辞儀をした。

​「お弁当、本当にありがとうございました。必ず、ちゃんとした形で会いに来ます。だから今日のことは……あいつには内緒にしてもらえませんか」

「……よく分からないけど、分かった」

​ 空になったお弁当箱を受け取る。

​「それじゃ、失礼します!」

「あ、待って。名前くらい教えてよ」

​ 呼び止めると、彼は足を止め、照れくさそうに笑った。

​「剣崎……剣崎護(けんざきまもる)です」

​ 名乗るなり、彼は逃げるように駆け出していった。制服のブレザーの裾が、夕焼けの中で小さくなっていく。

 結局、何をそんなに焦っていたのかは分からずじまいだった。けれど、あの必死な横顔だけは妙に胸に残った。誰かのために全力で走ってこられるような人間に、私は少し眩しさを覚えた。

​ ......そういえば、誰かを好きになるってどんな感覚だったっけ。好きって、一体何なんだろう。

 思えば、あの冬の日――タケルが父の恋人だったと知ったあの日から、私は「好き」という感情に蓋をしたまま生きてきた気がする。あんなに眩しかったタケルへの気持ちも、今となっては本当に恋だったのか、ただの憧れだったのか、自分でもよく分からない。

 それに、と埒もない疑問がふと浮かんだ。タケルは、レイコさんのことをどう思っていたんだろう。男でも女でもない、あの人のことを。

 答えの出ない問いを振り払うように、私は空になったお弁当箱を鞄にしまい、帰り道を急いだ。冬の日暮れは早い。橙色に染まっていた空は、もう藍色に沈みかけていた。

​   *

​ 家に帰ると、リビングは別世界になっていた。

 天井から壁までびっしりとモールが飾られ、部屋の隅には見上げるほど大きなツリーがそびえ立っている。……これ、プラスチックじゃなくて本物のモミの木じゃない?

​「遅ーい!」

​ 踏み台の上からレイコさんが怒声を飛ばしてきた。電飾を巻き付けながら鬼の形相だ。

​「これ、本物の木じゃないの?」

「そうなの!」

​ キッチンからエプロン姿のユキが顔を出した。

​「今日、レイコさんと一緒に買いに行って、運ぶのすっごく大変だったんだよ。楽しかったー!」

​ 満面の笑みで言うユキを見たら、ツリーの後始末の文句なんて吹き飛んでしまった。

​「あ、そうだユキ。友達のチカにユキの話をしたら、すごく会いたがってたよ。明日のイブのパーティーに来るから」

「本当!? 嬉しい、楽しみだなあ」

​ やがて、ユキが湯気の立つシチューをテーブルに運んできた。

 三人でスプーンを動かしながら、温かいクリームの甘みに舌鼓を打つ。

​「そういえばマユ、お弁当どうだった?」

「えっ? あ、うん……すっごく美味しかったよ!」

​ 嘘ではない。食べたのは私じゃないけれど、あんなに綺麗に完食してくれたのだから。

​「よかった。新学期からも作るね!」

​ 嬉しそうに微笑むユキを見つめながら、私はさっき出会った『剣崎護』くんのことを思い出していた。

 あんなに真っ直ぐな男の子を惹きつけてしまうなんて、ユキは案外、無自覚な罪作りなのかもしれない。

​ 温かいシチューを飲み干しながら、私は明日の聖夜に思いを馳せていた。