繭に降る雪

【一】 雪の訪れ

​ 高校の帰り道。

 空はどんよりと重く、今にも泣き出しそうな嫌な天気だった。遠くでゴロゴロと雷が鳴っている。

 こういう中途半端な空が一番嫌いだ。降るならさっさと降ればいいのに。もちろん、傘を持っていない今降られたら最悪だけど。

​ 今朝は密かに期待していたのだ。雨で体育が潰れないかな、と。

 今日の体育は長距離走だった。私の天敵だ。どうしてこんな極寒の中、わざわざ外を走らなきゃいけないのか。暖まりたいなら暖房をつければいいし、体を動かすなら暖かい体育館でいいはずだ。

 わざわざ険しい道を選ぶのが正解とは限らない。好んで選ばなくたって、これから先、険しい一本道なんていくらでも歩かされるんだから。

​ 私はかじかむ指先を、手袋の上からさすった。赤い毛糸の手袋。去年のクリスマスに、今かぶっているニット帽とおそろいでチカが編んでくれたものだ。

 今年のクリスマスは、もう明後日。

 それなのに、チカへのプレゼントがまだ決まっていない。いくつか候補はあるけれど、どれが一番喜んでくれるだろう。

​ そんなことを考えていた、そのときだった。

​ ――リュックサックが、歩いていた。

​ 見間違いじゃない。本当にそう見えたのだ。

 いや、よく見ると違った。リュックから足が生えている……わけもなく、誰かが巨大なリュックを背負って歩いている。背負っている人の姿がすっぽり隠れるほど荷物が大きすぎて、リュックがひとりでに二足歩行しているように見えただけだった。

​ それにしても大きすぎる。完全にガチの登山装備だ。クリスマスツリーやリースで飾られた閑静な住宅街の中で、明らかに浮いている。

 しかも、足元がかなり危なっかしい。

 右にふらふら、左にふらふら。体勢を立て直そうとするたびに、揺れがどんどん大きくなっていく。このままじゃ――。

​(ほら、がんばって……!)

​ 心の中でエールを送った瞬間、ドスンと鈍い音が響いた。

 あえなく、そのリュック――背負っていた人は、派手に尻餅をついてしまった。

​ さすがに放置できない。私は小走りで駆け寄り、その人の前に回り込んだ。

​「大丈夫ですか?」

​ 声をかけた瞬間、思わず息を呑んだ。

​ 大きなリュック=山登り=ごつい男性、という私の雑な予想は完全に外れた。

 そこに座り込んでいたのは、女の子。それも、とびきり可愛い女の子だった。

 思わず見惚れて固まってしまう。年齢は私と同じくらいだろうか。少し色素の薄い大きな瞳に、透き通るような白い肌。ゆるくウェーブのかかった栗色の長い髪が、腰のあたりまでさらりと流れている。

 チェックのロングスカートに、マスタードイエローのタートルネックセーター。少しレトロな服だけど、彼女の愛らしさを引き立てていてすごく似合っていた。

​ 彼女は顔を上げ、上目遣いで私を見つめた。

​「大丈夫です……荷物が多すぎて、ここまで来るのにすでに三回も転んじゃいました」

​ 照れくさそうに笑いながら、少しハスキーで柔らかな声でのんびりと答える。

 華奢な体に対して、荷物が大きすぎるのだ。一体どうしてこんな大荷物を背負っているんだろう。

 一瞬「家出?」と思ったけれど、すぐに打ち消した。こんな大荷物を抱えて歩く家出少女なんて今時いないし、何よりこの子はあまりにもおっとりしている。家出というよりは、世間知らずのお嬢様という雰囲気だ。

​「立てそう?」

「はい」

​ 差し伸べた手に、彼女はにっこりと微笑んだ。

 ……もし私が男の子だったら、確実にひとめ惚れしていたと思う。花が咲きこぼれるような無垢な笑顔。この笑顔にやられない人なんているんだろうか。同じ女の子の私ですら、ドキドキしてしまっているのに。

​ 彼女はリュックを背負い直して立ち上がろうとしたけれど、重さに引っ張られて起き上がれない。

​「手伝うよ」

「すみません……!」

​ 彼女の後ろに回り、リュックを両手で持ち上げる。「せーの」と二人で力を合わせて、ようやく立ち上がることができた。

​「ありがとうございます。もう手を離して大丈夫ですよ」

「何言ってるの。ここで手を離したらまた倒れちゃうでしょ」

「そんな、悪いですから」

「乗りかかった船。どこに行こうとしてるの?」

「それが……」

​ 彼女は急に口ごもった。言いにくいことなんだろうか。お節介だったかな、と反省しかけたとき、彼女は意を決したように口を開いた。

​「実は私……道に迷っちゃって」

「道に迷った?」

​ 思わず吹き出してしまった。彼女のトーンがあまりにも深刻だったからだ。まるで世界の終わりみたいな重苦しい口調と、「ただ道に迷っただけ」という現実のギャップがおかしすぎる。

​「笑わないでください、真剣に困ってるんですから……」

「ごめんごめん、馬鹿にしたわけじゃないの。ただ……」

「ただ、なんですか? 私だって好きで迷ってるわけじゃありません。この辺りのお家なのは間違いないんですけど……詳しい番地を聞くのを忘れちゃって」

​ 最後は消え入りそうな小声になった。

​「この辺なら詳しいよ、私のご近所だし。笑ったの許してくれるなら教えてあげる」

「本当ですか? もちろん許します!」

​ 現金なもので、彼女はぱっと表情を明るくした。

​「それで、なんて名前のお宅?」

「桐生さんです」

「桐生?」

​ 思わず聞き返した。

​「はい。『桐生レイコ』さんのお家を探しているんです。ご存知ありませんか?」

​ 心配そうに覗き込んでくる彼女に、私は呆気にとられた。知らないどころの話じゃない。

​「もちろん知ってるよ」

「よかった! 行き方も分かりますか?」

「毎日通ってる道だからね」

「え?」

​ きょとんとする彼女に、私は言った。

​「自己紹介が遅れたね。私の名前は桐生繭(きりゅうまゆ)」

「まさか……」

「そう。あなたの探している桐生レイコの家族」

​「ええーっ!?」

​ 彼女は目を丸くして叫んだ。

 ドラマみたいな偶然って、本当にあるんだ。

 私は驚きつつも、どこか冷静に『どうせなら前から支えればよかった。そしたら彼女のびっくりした顔をもっと正面から見られたのに』なんて呑気なことを考えていた。

​   *

​ 出会った場所から、私の家までは歩いてすぐだった。

「こんなに近かったんですか?」と彼女は愕然としていた。聞けば、この辺りを一時間もぐるぐる歩き回っていたらしい。筋金入りの方向音痴だ。

 二人で協力して巨大なリュックを玄関に下ろすと、彼女は心底ほっとしたように息を吐いた。

​「ちょっと待ってて、レイコさん呼んでくるから」

「はい」

​ 靴を脱ぎ、階段を上がる。

 二階の一番手前がレイコさんの部屋だ。ドアにはクリスマスリースと『仕事中・立ち入り禁止!』のプレート。軽く二回ノックした。

​「レイコさん、いる? ただいまー」

​ 返事がない。もう一度ノックしようとした瞬間、向かいの部屋のドアがギィと開いた。

​「なによ、大きな声出しちゃって。ここにいるわよ」

​ 姿を現したのは、かつて私が『お父さん』と呼んでいた人物――桐生レイコその人だった。本名は桐生正嗣(まさつぐ)。本人が覚えているかは怪しいけれど。

​ この人を見るたび、神様はつくづく不公平だと思う。生物学的には男であるこの人より綺麗な女性を、私は滅多に見かけない。メイクや仕草の完璧さもあるけれど、肌のツヤからしてアラフォーとは思えないのだ。二十代と言われても誰も疑わないだろう。妖怪の血でも混ざっているんじゃないかと本気で疑いたくなる。

​「そんなところで何してるの?」

​ レイコさんが出てきたのは、通称『開かずの書斎』。昔は書斎として使っていたけれど、今はただの物置部屋だ。

​「片付けてるに決まってるでしょ」

​ 肩口の黒髪を三角巾でまとめ、エプロン姿ではたきを持っている。完全にお掃除モードだ。掃除好きなレイコさんだけど、この書斎だけはずっと放置していたはずなのに。どうして今さら?

​「あんた、何か用だったんじゃないの?」

「あ、そうだった! お客さん、レイコさんに。玄関で待ってもらってるから早く来て」

「ちょっと、そういう大事なことは最初に言いなさいよ!」

​ レイコさんは私の頭を軽く小突くと、エプロンを外して階段を駆け下りていった(はたきを持ったままで)。

​ 玄関に降りると、彼女はお行儀よく立っていた。レイコさんの姿を見るなり、ぺこりと頭を下げる。

​「よく来てくれたわね、ユキ。ごめんなさい、こんなところで待たせちゃって。まったく気の利かない娘なんだから」

「違うんです! 迷っていた私をマユさんが連れてきてくれたんです。マユさんがいなかったらどうなっていたか……」

​ 大げさに庇ってくれたおかげで、私へのお説教は免れた。

​「とにかく、こんなところで話してないで上がりなさい。あったかい紅茶でも淹れるわ」

​   *

​ リビングのテーブルに、湯気を立てるダージリン。淹れたての豊かな香りが広がると、冬の寒さも悪くないと思える。

 私がスプーンで砂糖をきっちり五杯投入してかき混ぜると、レイコさんが眉をひそめた。

​「あんたはまたそんなにお砂糖を入れて……」

「いいの。甘いほうがおいしいんだから」

「そんなに甘やかすと頭がバカになるわよ」

「これ以上バカにはなりませんーだ」

​ いつもの減らず口の応酬を、ユキはカップを両手で包みながら不思議そうに眺めていた。

​「あの……レイコさん。マユさんには、まだ私のこと……?」

「そういえば、あんたには言ってなかったかしら」

「何の話? 何も聞いてないけど」

​ 困った顔をするユキを制するように、レイコさんが言った。

​「この子はユキ。私の昔からの知り合いよ。仲良くしてあげてね」

「昔からの知り合いって……ユキちゃん、どう見ても私と同い年くらいじゃない。レイコさんの昔からの知り合いなわけないでしょ」

「なら、ただの知り合いでいいわよ」

​ 雑すぎる。ツッコミを入れようとしたけれど、レイコさんは完全に話を打ち切る気配だった。ユキもどこか居心地悪そうに俯いている。

​「さてと、そろそろ晩ごはんの支度でもしようかしら」

「えっ、レイコさんが作るの?」

「何よ、不服なの?」

​ 不服じゃないけれど珍しい。レイコさんの料理の腕はプロ級だけど、普段は面倒くさがって私に当番を押し付けることが多いのだ。

​「ちょっと買い物行ってくるから、あんたたちは書斎の掃除お願いね」

「書斎の掃除? なんで今さらあそこを片付けてるのよ」

「何言ってるの。ユキの部屋を作ってるんじゃない」

​ ……は?

​「今日からユキもこの家に住むから。よろしくね」

​ あっけらかんと言い放つレイコさんに、思考がフリーズした。

 この家に住む? 一緒に暮らすってこと?

 どうしてそんな大事なことを、一言の相談もなく勝手に決めてしまうのか。いくらなんでも自分勝手すぎる。怒りを爆発させようとした瞬間――。

​「ごめんなさい! 私、やっぱり迷惑ですよね……。レイコさんの言葉に甘えちゃって、マユさんの気持ちを全然考えていませんでした。私、出ていきます」

​ ユキが立ち上がった。さっきまでの頼りなさは消え、凛とした決意がこもった声だった。

​「待ちなさい、ユキ」

​ レイコさんが静かに制止する。

​「いい、マユ。ユキには色々事情があって、今行くところがないの。でも私は同情で呼んだんじゃないわ。ユキと一緒に暮らしたいと思ったから呼んだの。それだけよ。……その上で、あんたは反対なの?」

​ そこまで言われたら、何か深い事情があるのは明らかだった。何より、出会ってまだ一時間も経っていないのに、私自身すでにユキのことが嫌いになれなかった。せっかく出会えたのに、このまま追い出すなんて嫌だ。

​「……反対だなんて、一言も言ってない」

​ 絞り出すように答えると、レイコさんは満足そうに笑った。

​「なら決まりね」

「本当にいいんですか、マユさん……?」

「……掃除、行こう!」

「え?」

「書斎の掃除! ピッカピカにしてレイコさんを一泡吹かせてやるんだから!」

​ 私はユキの手を取り、リビングを飛び出して書斎へと向かった。

​   *

​ 意気込んで始めたものの、長年放置された物置部屋は手強かった。

 散乱した本や段ボールと格闘すること数時間。時計の針が夜の七時を回った頃、階下からレイコさんの呼ぶ声がした。

​ リビングへ降りると、テーブルの中央に土鍋が置かれていた。蓋を開けると出汁の良い香り。おでんだ。

​「わあ、おでん! 私、おでん大好きです」

「そう、たくさん食べなさい」

​ ユキの言葉にレイコさんはご満悦だ。私が作ると「手抜きだ」と文句を言うくせに。けれど一口食べると、文句のつけようがないほど味が染みていて悔しいくらいに美味しい。

​「私、前の家ではこうやってみんなで鍋を囲むことなんてなかったんです。だから、すごく憧れてて……」

​ ユキがふうふうと大根を頬張りながらポツリと漏らした。

 その言葉に、私とレイコさんは思わず顔を見合わせて黙り込んでしまった。前の家で、この子は何を抱えて生きてきたんだろう。

 重くなりかけた空気を吹き飛ばすように、レイコさんがことさら明るい声を上げた。

 「そうだ、はんぺんまだあるわよ。ユキ、好きなだけおかわりしなさい」

 「いいんですか……! 実は、はんぺんが一番好きなんです」

 「あら、気が合うじゃない。私もよ」

 二人して顔を輝かせながらはんぺんを取り合う様子に、私は思わず噴き出した。

 「ちょっと、二人とも意地汚いよ」

 「マユは黙って大根食べてなさい」

 レイコさんに軽くあしらわれ、ユキもくすくすと笑っている。さっきまでの翳りはもうどこにもなかった。

 たわいもないやり取りが、こんなにも温かい。この家に流れる時間の心地よさを、ユキにもいつか当たり前のものだと感じてほしい。そんなことを、まだ出会って数時間の私は柄にもなく願っていた。

​ 鍋が空っぽになるまで食べ尽くし、後片付けを終えて順番にお風呂に入った。

 私が最後に風呂から上がり、自分の部屋に戻ると、私のオーバーサイズのパジャマを着たユキがベッドの端にちょこんと座っていた。お風呂上がりでほんのり桜色に染まった頬が、反則なくらい可愛い。

​「髪、ちゃんと乾かした?」

「あ、いえ……まだです」

​ この長さの髪を自然乾燥させるのは無理がある。私はドライヤーを持って彼女の後ろに回った。

​「乾かしてあげる」

「すみません、ありがとうございます」

​ 温風を当てながら、ブラシで丁寧に梳かしていく。指を通すと驚くほどサラサラで柔らかい。

​「カラーもパーマもしてないの?」

「はい、何も」

「いいなあ、綺麗な髪。羨ましい」

「私はマユさんの艶やかな黒髪のほうが羨ましいです。私、湿気が多いとすぐくるくるしちゃうから」

「でも、どうしてそんなに長く伸ばしてるの?」

​ ふと尋ねると、ドライヤーのモーター音の隙間で、ユキが一瞬だけ口を閉ざした。

​「……あの人も髪が長かったから」

​ 一体誰のことだろう?その声の微かな翳りが気になったけれど、それ以上は踏み込めなかった。

 少しの間、ドライヤーの音だけが部屋に響く。

​「あの、マユさん……」

「あ、ちょっと待って」

​ 私はドライヤーのスイッチを止めた。

​「さっきから気になってたんだけど、『マユさん』じゃなくて『マユ』でいいよ。敬語もなし。同い年なんだからタメ口でいこう」

「……うん。分かった、マユ」

​ 二人で顔を見合わせて、くすっと笑い合う。

​「……ねえ、マユ。本当に、私がここに来てよかったの?」

「どうして?」

「だって、今日いきなり転がり込んできた赤の他人だよ? 迷惑じゃないわけないのに……」

「レイコさんも言ってたでしょ。『一緒に暮らしたいから呼んだ』って。私も同じだよ。同情じゃなくて、私がユキと友達になりたいって思ったから。それだけ」

「マユ……」

​ 泣きそうに瞳を潤ませるユキが眩しくて、私は照れ隠しに笑った。

​「それに、こんな危なっかしい子、放っておいたらどこで転ぶか分からないしね」

「もう、ひどいな。私、そんなに転びません!」

​ ぷっと頬を膨らませるユキ。

 その無垢な笑顔を見つめながら、私は確信していた。

 この子となら、きっと大丈夫。これからうまくやっていける――そう信じて疑わなかった。