【十二】 繭に降る雪
三月三十一日。春休み最後の日。
私は一人、ユキの部屋からハッチを開けて、屋根裏部屋へと上がっていた。
カンテラのランプがぽつんと置かれた小さな部屋。出窓から差し込む春の陽光はどこまでも柔らかく、遠くの街並みを淡い桜色に染め上げている。
あまりにも長閑で、眩しくて――それがかえって、胸の奥の痛みをチクチクと刺激した。
あの日以来、私はユキと会っていなかった。
ふと、屋根裏の隅に置かれたままの古いカンテラに目をやる。冬の初め、二人でここに座って将来の話をしたことを思い出した。
「マユは大人になったら何になりたい?」
そう尋ねてきたユキに、私は大した将来設計もないまま「さあ、決めてない」と笑って誤魔化した。それに対してユキは、少し照れくさそうに「私はね」と言葉を続けた。
「誰かの隣に、ちゃんと自分の足で立っていられる人になりたいの。誰かに支えてもらうだけじゃなくて」
あのときは、その言葉の重みをちゃんと分かっていなかった気がする。今なら分かる。あれはきっと、ユキなりの決意表明だったのだ。
ユキは病院からそのまま、自分の家――おじいさんの屋敷へと戻っていったのだ。
おじいさんは間もなく退院するらしく、レイコさんから聞いた話では、ユキは退院の手続きや家の片付けで慌ただしい毎日を送っているという。その忙しさが落ち着けば、元の屋敷で、お父さんと二人きりの静かな生活が再び始まるのだろう。
おじいさんのしたことを、完全に許せたわけじゃない。十六年間もユキを縛り付けた罪は、そう簡単に消えるものじゃない。
けれど……あの日、病室でユキを抱きしめていた老人の顔と、川原で私を抱きしめてくれたレイコさんの顔が、どうしても重なってしまうのだ。
『お前のことを一番に考えて生きてきた』
そう言った父の瞳。美久ちゃんを抱き上げて誇らしげに笑っていたタケルの瞳。
歪んだ独善だったとしても、あの老人がユキを心から愛していたことだけは紛れもない真実だった。そして、ユキ自身が父親のそばにいることを望んだのなら、私がそれを引き裂く権利なんてどこにもない。
テーブルの上に置いたスマホの画面を見つめる。
着信履歴には、ユキの名前が何件も並んでいた。
画面をタップすれば、いつだってユキの声を聞くことができる。
……けれど、私にはできなかった。
今あの優しい声を聞いてしまったら、絶対に泣きついてしまう。「行かないで」「帰ってきて」と、醜いわがままをぶつけてしまうに決まっているから。ユキの新しい一歩を邪魔することだけは、絶対にしたくなかった。
この部屋に置かれたユキの荷物も、数日中には業者が引き取りに来る手はずになっている。
何もない、がらんとした物置に戻ってしまうのだ。ユキと過ごしたあの温かい日々の痕跡を、すべて消し去るように。
――ピンポーン。
階下で、玄関のインターホンが鳴り響いた。
心臓がドクンと跳ねる。
……もう、荷物を取りに来たの?
(嫌だ……渡したくないよ……)
私は膝を抱え込み、ぎゅっと目を閉じた。
春のぬるい風が出窓から吹き込み、カーテンを虚しく揺らす。
――ピンポーン! ピンポーン!
連打されるチャイム。容赦なく現実を突きつけてくる音に、胸の奥でぷつりと何かが切れた。
分かってる。分かってるわよ! 私が自分で納得して選んだ結末じゃない!
――ピンポンピンポンピンポンッ!!
「ちょっ……! そんなに連打しなくたって、今出るわよーっ!!」
私は屋根裏から飛び降り、階段を駆け下りて、八つ当たり全開で玄関のドアをバーンッ! と勢いよく引き開けた。
そして、怒鳴り散らそうとした口をあんぐりと開けたまま、石のように固まった。
「……マユ? どうしたの、そんなに怒って……?」
そこに立っていたのは、配達員でも業者でもなく――目をまん丸にして、おろおろと私を見つめるユキだった。
「ユ……ユキ……!?」
驚きのあまり声が裏返る。
どうして? 屋敷に帰ったんじゃなかったの?
混乱する頭でユキの姿を凝視した私は、次の瞬間、息を呑んだ。
「……髪……っ!」
腰のあたりまであった、あの長く豊かな栗色の巻き髪が、跡形もなく消えていた。
襟足をすっきりと切り揃え、私のショートボブと同じくらいの、肩口でふわりと揺れる軽やかなショートヘア。
亡き母・雪江の影を完全に脱ぎ捨てたその姿は、春の風のように爽やかで、息を呑むほど綺麗だった。
私の視線に気づいたユキは、照れくさそうに指先で髪を撫でた。
「あ、これ? 邪魔だったからバッサリ切っちゃった。もうマユに『フラフラしてる女の子』なんて言わせないんだから」
いたずらっぽく笑うその表情には、もう過去の翳りなんて微塵もなかった。
「それより……ごめんね、この間は。ずっと直接謝りたくて。電話も出てくれないから心配したんだよ? ……女の子の顔を叩くなんて、私、本当に最低だよね」
ユキがそっと手を伸ばし、あの日叩いた私の左頬を、壊れ物に触れるように優しくさすってくれた。温かい指先の感触に、視界がじんわりと滲む。
「ううん……違うよ。私こそごめん。あの時、完全に頭に血が上っちゃってて……ユキが止めてくれなかったら、取り返しのつかないことになってた」
「マユ……」
「……謝りに、来てくれたの?」
私の問いに、ユキは小さく首を横に振った。
そして、すっと背筋を伸ばし、真剣な瞳でまっすぐに私を見つめてきた。
「それもあるけど……私、マユにお願いがあって来たの」
「お願い……?」
「うん」
ユキは大きく息を吸い込み、澄んだ声で言った。
「私を――もう一度、この家に住まわせてほしい」
時が止まった。
……え?
今、何て言ったの? ここに住む? ユキが、うちに戻ってくる……!?
「ユキ、本気……? だってお父さんは……」
「うん。私ね、最初にここへ来る前、レイコさんに言われたの。『すべてを抜きにして、自分が本当にどうしたいのかを考えなさい』って。だからずっと考えてた。でもね、すべてを抜きにして考えることなんて、私にはできなかったよ」
ユキは言葉を一つひとつ確かめるように紡ぎ出す。
「だって今の私は、お父さんの愛も、レイコさんの優しさも、剣崎くんとの約束も、チカちゃんの真っ直ぐさも……そして、マユがくれた勇気も、全部もらってここに立っているんだもの。そのすべてが、私を作ってくれた大切な宝物だから」
春の光を浴びて、ユキの瞳が眩い光を放つ。
「その上で、自分の心に聞いたの。私はどう生きたいんだろうって。……そうしたらね、答えは一つしかなかった。私は、マユと一緒に生きたい」
「……っ!」
「マユといる時間が、一番自分らしくいられるの。二人でいると、胸が苦しくなるくらいドキドキすることもあった。これから先、自分がマユに対してどんな気持ちを抱いていくのか、自分でもまだよく分からない。……それでも、一緒にいたいの。マユの隣にいたいんだ」
その瞬間、ユキの姿の奥に、確かに『少年』の影が見えた。
誰の身代わりでもない、自分自身の足で立ち、『僕はここにいる』と誇り高く微笑む一人の男の子の姿が。
けれど、それはもう痛々しい叫びではなかった。
――ああ、そうか。
確かなことが、一つだけ胸に落ちる。
私は、この真っ直ぐで不器用な少年に、恋をしているのだ。
ユキが一歩、私へ向かって歩み寄る。
「お父さんも許してくれた。『お前が選んだ場所へ行きなさい』って笑って送り出してくれたの。レイコさんも『部屋を空けて待ってるわよ』って言ってくれた。……あとは、マユだけなの」
目の前に立つユキを見上げる。
男の子でも、女の子でもない。世間のどんな型にも嵌まらない、世界でたった一人のかけがえのない存在――ただの、私の大好きなユキ。
これから先、二人の関係がどう変わっていくかなんて分からない。
男の子として私と同じ道を歩むのかもしれないし、いつか別の誰かに恋をするのかもしれない。
でも、そんなの先のことでいい。その時が来たら、また一緒に悩めばいいのだ。
一番大切なのは、今、この瞬間から、手を取り合って同じ未来を歩んでいくこと。
私は溢れ出る涙を拭いもせず、胸いっぱいの想いを込めて、最高の笑顔を向けた。
「一緒にいよう、ユキ。……ずっと、ずっと一緒に!」
差し出した私の右手を、ユキが両手でぎゅっと包み込む。
その瞬間、世界が眩い光で満たされた。
タケルの肩の上から見上げた、あの広い青空。
チカの胸の中で感じた、温かい世界の広がり。
けれど今、私の目の前に広がっているのは、誰かに見せてもらった景色じゃない。
私とユキが、自分たちの足でしっかりと立って見つめる、どこまでも広がる輝かしい私たちの世界だ。
舞い散る桜の花びらが、春の柔らかな光を浴びてキラキラと煌めいている。
まるで、温かい光の雪のように。
私はユキの手を握りしめたまま、そっと瞼を閉じた。
春の陽射しに溶けていく光の雪。
その祝福の雪は、私という小さな繭を優しく包み込み、どこまでも、どこまでも温かく降り注いでいた。
【了】
三月三十一日。春休み最後の日。
私は一人、ユキの部屋からハッチを開けて、屋根裏部屋へと上がっていた。
カンテラのランプがぽつんと置かれた小さな部屋。出窓から差し込む春の陽光はどこまでも柔らかく、遠くの街並みを淡い桜色に染め上げている。
あまりにも長閑で、眩しくて――それがかえって、胸の奥の痛みをチクチクと刺激した。
あの日以来、私はユキと会っていなかった。
ふと、屋根裏の隅に置かれたままの古いカンテラに目をやる。冬の初め、二人でここに座って将来の話をしたことを思い出した。
「マユは大人になったら何になりたい?」
そう尋ねてきたユキに、私は大した将来設計もないまま「さあ、決めてない」と笑って誤魔化した。それに対してユキは、少し照れくさそうに「私はね」と言葉を続けた。
「誰かの隣に、ちゃんと自分の足で立っていられる人になりたいの。誰かに支えてもらうだけじゃなくて」
あのときは、その言葉の重みをちゃんと分かっていなかった気がする。今なら分かる。あれはきっと、ユキなりの決意表明だったのだ。
ユキは病院からそのまま、自分の家――おじいさんの屋敷へと戻っていったのだ。
おじいさんは間もなく退院するらしく、レイコさんから聞いた話では、ユキは退院の手続きや家の片付けで慌ただしい毎日を送っているという。その忙しさが落ち着けば、元の屋敷で、お父さんと二人きりの静かな生活が再び始まるのだろう。
おじいさんのしたことを、完全に許せたわけじゃない。十六年間もユキを縛り付けた罪は、そう簡単に消えるものじゃない。
けれど……あの日、病室でユキを抱きしめていた老人の顔と、川原で私を抱きしめてくれたレイコさんの顔が、どうしても重なってしまうのだ。
『お前のことを一番に考えて生きてきた』
そう言った父の瞳。美久ちゃんを抱き上げて誇らしげに笑っていたタケルの瞳。
歪んだ独善だったとしても、あの老人がユキを心から愛していたことだけは紛れもない真実だった。そして、ユキ自身が父親のそばにいることを望んだのなら、私がそれを引き裂く権利なんてどこにもない。
テーブルの上に置いたスマホの画面を見つめる。
着信履歴には、ユキの名前が何件も並んでいた。
画面をタップすれば、いつだってユキの声を聞くことができる。
……けれど、私にはできなかった。
今あの優しい声を聞いてしまったら、絶対に泣きついてしまう。「行かないで」「帰ってきて」と、醜いわがままをぶつけてしまうに決まっているから。ユキの新しい一歩を邪魔することだけは、絶対にしたくなかった。
この部屋に置かれたユキの荷物も、数日中には業者が引き取りに来る手はずになっている。
何もない、がらんとした物置に戻ってしまうのだ。ユキと過ごしたあの温かい日々の痕跡を、すべて消し去るように。
――ピンポーン。
階下で、玄関のインターホンが鳴り響いた。
心臓がドクンと跳ねる。
……もう、荷物を取りに来たの?
(嫌だ……渡したくないよ……)
私は膝を抱え込み、ぎゅっと目を閉じた。
春のぬるい風が出窓から吹き込み、カーテンを虚しく揺らす。
――ピンポーン! ピンポーン!
連打されるチャイム。容赦なく現実を突きつけてくる音に、胸の奥でぷつりと何かが切れた。
分かってる。分かってるわよ! 私が自分で納得して選んだ結末じゃない!
――ピンポンピンポンピンポンッ!!
「ちょっ……! そんなに連打しなくたって、今出るわよーっ!!」
私は屋根裏から飛び降り、階段を駆け下りて、八つ当たり全開で玄関のドアをバーンッ! と勢いよく引き開けた。
そして、怒鳴り散らそうとした口をあんぐりと開けたまま、石のように固まった。
「……マユ? どうしたの、そんなに怒って……?」
そこに立っていたのは、配達員でも業者でもなく――目をまん丸にして、おろおろと私を見つめるユキだった。
「ユ……ユキ……!?」
驚きのあまり声が裏返る。
どうして? 屋敷に帰ったんじゃなかったの?
混乱する頭でユキの姿を凝視した私は、次の瞬間、息を呑んだ。
「……髪……っ!」
腰のあたりまであった、あの長く豊かな栗色の巻き髪が、跡形もなく消えていた。
襟足をすっきりと切り揃え、私のショートボブと同じくらいの、肩口でふわりと揺れる軽やかなショートヘア。
亡き母・雪江の影を完全に脱ぎ捨てたその姿は、春の風のように爽やかで、息を呑むほど綺麗だった。
私の視線に気づいたユキは、照れくさそうに指先で髪を撫でた。
「あ、これ? 邪魔だったからバッサリ切っちゃった。もうマユに『フラフラしてる女の子』なんて言わせないんだから」
いたずらっぽく笑うその表情には、もう過去の翳りなんて微塵もなかった。
「それより……ごめんね、この間は。ずっと直接謝りたくて。電話も出てくれないから心配したんだよ? ……女の子の顔を叩くなんて、私、本当に最低だよね」
ユキがそっと手を伸ばし、あの日叩いた私の左頬を、壊れ物に触れるように優しくさすってくれた。温かい指先の感触に、視界がじんわりと滲む。
「ううん……違うよ。私こそごめん。あの時、完全に頭に血が上っちゃってて……ユキが止めてくれなかったら、取り返しのつかないことになってた」
「マユ……」
「……謝りに、来てくれたの?」
私の問いに、ユキは小さく首を横に振った。
そして、すっと背筋を伸ばし、真剣な瞳でまっすぐに私を見つめてきた。
「それもあるけど……私、マユにお願いがあって来たの」
「お願い……?」
「うん」
ユキは大きく息を吸い込み、澄んだ声で言った。
「私を――もう一度、この家に住まわせてほしい」
時が止まった。
……え?
今、何て言ったの? ここに住む? ユキが、うちに戻ってくる……!?
「ユキ、本気……? だってお父さんは……」
「うん。私ね、最初にここへ来る前、レイコさんに言われたの。『すべてを抜きにして、自分が本当にどうしたいのかを考えなさい』って。だからずっと考えてた。でもね、すべてを抜きにして考えることなんて、私にはできなかったよ」
ユキは言葉を一つひとつ確かめるように紡ぎ出す。
「だって今の私は、お父さんの愛も、レイコさんの優しさも、剣崎くんとの約束も、チカちゃんの真っ直ぐさも……そして、マユがくれた勇気も、全部もらってここに立っているんだもの。そのすべてが、私を作ってくれた大切な宝物だから」
春の光を浴びて、ユキの瞳が眩い光を放つ。
「その上で、自分の心に聞いたの。私はどう生きたいんだろうって。……そうしたらね、答えは一つしかなかった。私は、マユと一緒に生きたい」
「……っ!」
「マユといる時間が、一番自分らしくいられるの。二人でいると、胸が苦しくなるくらいドキドキすることもあった。これから先、自分がマユに対してどんな気持ちを抱いていくのか、自分でもまだよく分からない。……それでも、一緒にいたいの。マユの隣にいたいんだ」
その瞬間、ユキの姿の奥に、確かに『少年』の影が見えた。
誰の身代わりでもない、自分自身の足で立ち、『僕はここにいる』と誇り高く微笑む一人の男の子の姿が。
けれど、それはもう痛々しい叫びではなかった。
――ああ、そうか。
確かなことが、一つだけ胸に落ちる。
私は、この真っ直ぐで不器用な少年に、恋をしているのだ。
ユキが一歩、私へ向かって歩み寄る。
「お父さんも許してくれた。『お前が選んだ場所へ行きなさい』って笑って送り出してくれたの。レイコさんも『部屋を空けて待ってるわよ』って言ってくれた。……あとは、マユだけなの」
目の前に立つユキを見上げる。
男の子でも、女の子でもない。世間のどんな型にも嵌まらない、世界でたった一人のかけがえのない存在――ただの、私の大好きなユキ。
これから先、二人の関係がどう変わっていくかなんて分からない。
男の子として私と同じ道を歩むのかもしれないし、いつか別の誰かに恋をするのかもしれない。
でも、そんなの先のことでいい。その時が来たら、また一緒に悩めばいいのだ。
一番大切なのは、今、この瞬間から、手を取り合って同じ未来を歩んでいくこと。
私は溢れ出る涙を拭いもせず、胸いっぱいの想いを込めて、最高の笑顔を向けた。
「一緒にいよう、ユキ。……ずっと、ずっと一緒に!」
差し出した私の右手を、ユキが両手でぎゅっと包み込む。
その瞬間、世界が眩い光で満たされた。
タケルの肩の上から見上げた、あの広い青空。
チカの胸の中で感じた、温かい世界の広がり。
けれど今、私の目の前に広がっているのは、誰かに見せてもらった景色じゃない。
私とユキが、自分たちの足でしっかりと立って見つめる、どこまでも広がる輝かしい私たちの世界だ。
舞い散る桜の花びらが、春の柔らかな光を浴びてキラキラと煌めいている。
まるで、温かい光の雪のように。
私はユキの手を握りしめたまま、そっと瞼を閉じた。
春の陽射しに溶けていく光の雪。
その祝福の雪は、私という小さな繭を優しく包み込み、どこまでも、どこまでも温かく降り注いでいた。
【了】
