繭に降る雪

【十一】 別れの時

​ 三月の終わり。

 あの日、巨大なリュックを背負ったユキが我が家に転がり込んできてから、あっという間に三ヶ月が過ぎていた。

 長いようで、瞬きのような三ヶ月。

 ユキと出会ってから、私の世界は驚くほど色鮮やかになった。今まで見ないふりをして目を逸らしてきた自分の弱さや寂しさに、ちゃんと向き合えるようになっていた。ユキは私にたくさんのものをくれた。温もりも、笑顔も、そして前を向く勇気も。

​ それはチカも同じだった。バレンタイン以降、学校の廊下や図書室で、チカと相川くんが並んで楽しそうに話している姿をよく見かけるようになった。まだ決定的な告白はできていないみたいだけれど、それも時間の問題だろう。クリスマスにユキからもらったあの分厚い長編ファンタジーも、今では栞が半分以上まで進んでいる。

 卒業を控えた三年生を送り出す準備で、学校もどこか浮足立った空気に包まれていた。図書委員会の引き継ぎ資料を二人で作りながら、相川くんが「来年もよろしくな、桐生」と柄にもなく殊勝なことを言うので、ついからかってしまったのも記憶に新しい。

 家では相変わらず、レイコさんの締め切り前の修羅場に振り回されながらも、三人で笑い合う夕食の時間だけは欠かさなかった。ユキの料理の腕はますます上達し、最近ではレイコさんが本気で「弟子にしたい」とぼやくほどだった。

​ 春の陽射しに包まれた、穏やかで、優しくて、愛おしい毎日。

 私たちは、二度と戻らないこのかけがえのない時間を、精一杯に抱きしめて生きていた。

​ ――そう、あの日が訪れるまでは。

​   *

​ 終わりの始まりは、あまりにも唐突に、一本の電話という形でやってきた。

​ 日曜の午後。リビングのソファで、私とユキとレイコさんの三人でくだらないバラエティ番組を観て笑っていたときだった。

 テーブルの上で、ユキのスマートフォンが激しく震え出した。

​ おや、と思った。

 ユキのスマホに電話がかかってくることなんて滅多にない。連絡を取り合う相手といえば私かチカくらいだし、剣崎くんとはもっぱらメッセージのやり取りばかりだったからだ。

​ 静かな部屋に、ユキが設定したドヴォルザークの交響曲第九番『家路』のメロディが鳴り響く。

 どこか哀愁を帯びたその旋律を耳にした瞬間、私の胸の奥で、言いようのない冷たい胸騒ぎが警鐘を鳴らした。

​ ユキが通話ボタンを押し、耳に当てる。

「……もしもし」

 次の瞬間、ユキの表情から血の気がサーッと引いていった。

​「はい……えっ……? 本当、ですか……?」

​ 途切れ途切れの声。ユキの細い指先が、目に見えてガタガタと震えている。

​「分かりました……はい、すぐに向かいます」

​ 通話が切れた。

 画面が暗転しても、ユキはスマホを握りしめたまま、魂の抜けたような顔で立ち尽くしていた。

​「……ユキ? どうしたの、誰から?」

​ 異様な空気を察したレイコさんが、珍しく真剣な声で問いかける。

 ユキはゆっくりと視線を上げ、焦点の合わない瞳でレイコさんを見つめた。

​「……レイコさん。父の……お父さんの意識が、戻ったそうです」

​ その声は、まるで遠い異国の誰かが喋っているかのように、冷たく乾いていた。

​   *

​ ――ユキのお父さん。

 ユキが大好きだと語り、夜ごとの悪夢の中で「行かないで」と泣き叫んでいた相手。

 そして同時に、ユキの中に『女の子』としての生き方を、そっと根付かせてしまったかもしれない相手。

​ 頭の中が猛烈な勢いで回転し、パニックになりそうだった。

 意識が戻ったということは、今までずっと意識不明だったということ? 一体何があったの? 父親が倒れたから、ユキはうちに預けられていたの?

 じゃあ……お父さんが目を覚ましたら、ユキはどうなるの?

 帰ってしまうの? また、あの家で一人きり、自分でもわからない気持ちを抱えたまま過ごすことになるの――!?

​「ユキ、病院に行くんでしょ? 私、ついていく!」

​ 取り乱しそうになる自分を抑え、私はユキの震える肩を抱き寄せた。

 私の声で、ユキはようやくハッと我に返ったように息を吸い込んだ。

​「……うん。行かなきゃ。ありがとう、マユ」

​ レイコさんが止めたって絶対に離れない。そう身構えて睨みつけると、レイコさんは意外なほど淡々と頷いた。

​「そうね。二人とも、上着を着てきなさい。車で連れて行くから、玄関の前で待ってなさい」

​ いつもの軽口も茶化しも一切ない。拍子抜けするほどあっさりと許可が出たことに、私はかえって不気味なほどの重圧を感じていた。

​   *

​ 身支度を済ませ、私とユキは玄関先で待っていた。

 けれど、五分経っても十分経ってもレイコさんが出てこない。

​「ちょっと、何やってるのよ! こんな時に――」

​ 痺れを切らしてドアノブに手をかけようとした瞬間、ガチャリと玄関の扉が開いた。

​ 現れた人物を見た瞬間、私の思考が完全に停止した。

​ そこに立っていたのは――仕立てのいい黒いジャケットを羽織った、長身の見知らぬ男の人だった。

 手入れされた短い黒髪。引き締まった高い鼻梁と、涼しげで彫りの深い目元。息を呑むほど端正な顔立ち。どこかで見たことがあるような、けれど絶対に会ったことのないはずの男性。

​「待たせたな。行くぞ」

​ 低く、よく通るその声を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立った。

​「……れ、レイコさん……!?」

​ メイクを落とし、ウィッグを外し、男性の服を着た――桐生正嗣その人だった。

 どうして、男の姿に戻っているの?

​「ど、どうしたの、その格好……?」

​ 私の問いかけに、レイコさんは何も答えなかった。前を向いたまま、静かに車のキーを握りしめている。

 レイコさんが女であることを捨て、男の姿に戻ってまで会いに行かなければならない相手。

 ユキの父親。

 急速に胸を支配していく底知れない恐怖に、私の足が竦んだ。

​「ユキのお父さんって、一体誰なの……? 私、本当について行っていいの……?」

​ 震える声でそう零した私を、レイコさんは男の瞳で、深く、温かく見つめ返した。

​「ああ。お前には、そこへ行く権利も義務もある。……今から会いに行く人はな、マユ、お前の祖父だ」

​   *

​ 車が走り出す。

 ハンドルを握るレイコさん、助手席には俯いたままのユキ、そして私は後部座席で一人、張り詰めた沈黙に耐えていた。

​ 信号が赤になり、車が滑らかに停車する。

 私はバックミラーに映るレイコさんの瞳を見つめ、静かに口を開いた。

​「……ユキのお父さんが、私のおじいちゃんって、どういうこと?」

​ 自分でも驚くほど、声は低く落ち着いていた。

​「前に言ったよね。私とユキには、血の繋がりなんて一切ないって」

​ もしレイコさんの言葉が本当なら、私とユキは姪と叔父の関係になってしまう。赤の他人なんかじゃない。

​ チッカ、チッカ、とウインカーの音だけが車内に響く。

​「……すべてが始まったのは、二十年前だ」

​ 青信号に変わり、車を発進させながら、レイコさんは低い男の声で語り始めた。

​「二十年前、私と一人の女性が出会った。すべての歯車は、そこから狂い始めたんだ」

「女性……?」

「彼女の名は――広瀬雪江(ゆきえ)」

​ 息が止まった。

​「それって……私のお母さん?」

​ レイコさんが無言で一度だけ頷いた。

 広瀬雪江。一度も会ったことのない、私の実の母。レイコさんは母の遺品も写真もすべて処分してしまっていて、私はその顔すら知らない。名前しか知らなかった人。

​ けれど、私は心のどこかで予感していたのかもしれない。

 あの夕暮れの公園で、剣崎くんがユキを『広瀬』と呼んだあの日から。自分とユキの顔が気味の悪いほどそっくりだと知ったあの瞬間から。

 いつか、母の真実と向き合う日が来るのだと。

​「大学で出会った瞬間、私と雪江は恋に落ちた。この世にこんなにも美しく、儚く、優しい女性がいるのかと息を呑んだよ。脆くて、泣き虫で、けれど誰よりも眩しかった。私は彼女のすべてを愛していた」

​ ――脆くて、泣き虫で、美しい。

 それはまるで、目の前にいるユキそのものの形容ではないか。

​「私たちは愛し合い、生涯を共にしようと誓い合った。だが、結婚は許されなかった。雪江の父親――広瀬さんは、教育界に絶大な権力を持つ厳格な男だった。『娘の結婚相手は私が決める。貧乏役者などに娘はやれん』と、冷徹に拒絶されたよ」

​ レイコさんは、私の祖父にあたるその人を、終始『広瀬さん』と呼んだ。

​「広瀬さんは早くに妻を亡くし、雪江と二人きりで生きてきた。娘への執着は凄まじかったよ。娘の幸せを願う父親の気持ちを、当時の若かった私には理解できなかった。……だから私たちは、駆け落ちをしたんだ」

​ 昼ドラのような言葉が、現実の重みを持って私の鼓膜を震わせる。

​「貧しい暮らしだったが、幸せだった。世界で一番愛する人と暮らす日々は、天国そのものだったよ。やがて雪江のお腹に新しい命が宿った。……そう、お前だ、マユ。私は幸せの絶頂にいた。あの日が訪れるまではな」

「……あの日?」

​ レイコさんの横顔が、苦痛に歪んだ。

​「雪江は元々、身体が酷く弱かった。お前を産むとき、凄まじい難産になったんだ。母体か、赤ん坊か――どちらかの命しか救えないと宣告された。私には選べなかったよ。どちらか一方を殺す選択なんて、できるはずがなかった! だが……雪江は迷わなかった。『自分はどうなってもいいから、この子を助けて。私たちの愛の結晶なんだから』と、笑って言い切ったんだ」

​ 膝の上で握りしめていた自分の拳に、ポタポタと熱い雫が落ちた。

 涙だった。

 顔も知らないお母さん。私の命は、お母さんが自分の命を引き換えにして手渡してくれたものだったんだ。

​ 悲しみとも感謝ともつかない、胸が張り裂けそうな巨大な感情の奔流に呑まれ、私は声もなくただ涙を零し続けた。

​「雪江が逝き、私も後を追おうと思った。だが、死ねなかったよ。お前がいたからだ。雪江が命懸けで残してくれた、最愛の娘がいたからだ」

​ レイコさんの声が、微かに震えていた。

​「お前を抱いたとき、私は初めて広瀬さんの痛みを理解した。私が雪江を奪い去ったことで、あの人がどれほどの地獄を味わったかを。私は広瀬さんに謝りたかった。雪江の死を知らせ、土下座をして償いたかった。震える手で、広瀬さんの屋敷に電話をかけたよ。……だが、返ってきたのは想像を絶する言葉だった」

​ レイコさんは乾いた笑いを漏らした。

​「『君は何を言っているんだ? 娘は誰とも結婚などしていない。雪江は今、私の隣にいる』……そう言われたんだ」

「え……?」

「広瀬さんは、雪江の死という現実を受け止められず、追い詰められていた。そして……身寄りのない一人の孤児を引き取り、養子にしたんだ。その子につけた名前が『雪也』。……男の子だった」

​ 助手席で、ユキの背中が小さく跳ねた。

「写真を取り寄せて驚いたよ。その子は、雪江の幼少期に生き写しだった。雪也は生まれつき体が弱くてな。学校もろくに通えず、家で寝込んでばかりいたそうだ。広瀬さんは仕事も何もかも投げ打って、必死に看病を続けたらしい」

「広瀬さんを知る人から聞いたんだが、その頃、広瀬さんはひどく悩んでいたそうだ。用意した男の子の服を、その子は一度も着ようとしなかった。着るのはいつも、雪江の遺した服だけだったと」

「広瀬さんは、一度だけ聞いたそうだ。どうしても女の子の服を着るのかと。するとユキはこう答えたそうだ。『私、女の子だから男の子の服着るの、変でしょ』と。それ以来、何も言えなくなったそうだ」

 胸の奥が、締めつけられるように痛んだ。

 雪也は、広瀬さんの悲しみを和らげたくて、自分から雪江になろうとしていたのだろうか。父親を支えたい一心で、自分自身を差し出すようにして。

​「広瀬さんは、それに気づきながら、それでも何もできなかったことを、ずっと悔やんでいた」

 こんなにも健気で、こんなにも切ない選択があるだろうか。

 ユキが大切に抱えてきた大きなリュック。あのレトロな服も、本棚に並んでいた本も、すべて――亡くなった私の母、雪江の遺品だったのだ。

 ユキがずっと一人で抱えてきた迷いの正体は、私の母親だった。

 そして、私とユキが双子のように似ていたのも当然だ。私は雪江の実の娘で、ユキは雪江として作られた存在なのだから。

「私は雪也の様子を確かめようと何度も接触を試みた。だが、広瀬さんはなかなか会わせてくれなかった。私がようやくユキに会えたのは……数ヶ月前、広瀬さんが交通事故で意識不明の重体になったときだった」

「事故……」

「外傷はなかったが、昏睡状態に陥り、医師からはいつ目覚めるか分からないと告げられた。私は屋敷へ乗り込み、ユキにすべての真実を話した。そして、うちへ連れてきたんだ。広瀬さんの呪縛から離れて、ユキ自身がこれからどう生きたいのかを、自分の心で見つめ直してほしかったからだ」

​ レイコさんは助手席のユキを見つめ、苦しげに言葉を絞り出した。

「すべては、あの人を追い詰めた私の罪だ。私は、命をかけてでも二人を救わなければならないんだ……」

​「やめてください!」

​ 静寂を切り裂いて、ユキの凛とした声が響いた。

​「レイコさん、以前言いましたよね。『自分は負い目なんて感じていない』って。その通りです。レイコさんは何も悪くありません。そして……お父さんだって悪くないんです」

​ ユキは涙を拭い、前をしっかりと見据えていた。

「こうやって生きることを選んだのは私です。私の生きてきた十六年間を、過ちの結果だったなんて絶対に思いたくありません!」

​ 助手席のユキが振り返り、まっすぐに私を見つめた。

​「私は出会えたんです。大切な人たちに。剣崎くんに、レイコさんに、チカちゃんに……そして、マユに! これは間違いなんかじゃない。私は、自分の生きてきた道を、何一つ後悔なんてしていません!」

​ その瞳の強さに、私は息を呑んだ。

 ユキは、すべてを受け入れているのだ。

 自分の中に宿る男の子も、女の子も、雪江の影も、父親の不器用な愛も、過去のすべてを許し、抱きしめて、今ここに立っている。

​ ――なんて、強い子なんだろう。

 守られるだけの儚い少女なんかじゃなかった。ユキは、誰よりも気高く、強い魂を持った一人の人間だったのだ。

​ 窓の外に、白亜の国立大学病院が大きくそびえ立っていた。

​   *

​ 静まり返った特別病棟の長い廊下を歩く。

 かつて私が開けることを躊躇った、あの白い扉の前で私たちは立ち止まった。

​ ユキがゆっくりとドアノブを押し下げる。

 カチャリと静かにドアが開き、私たちは病室へと足を踏み入れた。

​ 清潔な白いベッドの上に、一人の老人が横たわっていた。

 管に繋がれ、やつれ果てた姿。

 ……この人が、私のおじいちゃん?

 ユキの人生に、こんなにも深く、複雑な影を落としていた男が、こんなにも小さく、頼りない老人だというのか。

​ 老人が、ゆっくりと瞼を開けた。

​「……正嗣、君か……」

​ 掠れた声で、レイコさんの本名を呼ぶ。

 老人は濁った瞳で宙を見つめ、途切れ途切れに呟いた。

​「長い……夢を見ていたよ。夢の中で、雪江は赤ん坊で……すくすくと育っていった。いつも私を見て笑って、『お父さん』と呼んでくれた。なのに……ふと気づくと、誰もいないんだ。暗闇の中に、私一人だけが取り残されていて……私は叫び声をあげて、目を覚ました」

「広瀬さん……」

「雪也が、雪江の身代わりになろうとしているのに気づいていながら、それを止めてやれなかったのは私だ……。雪江を失った悲しみに、私自身が縋ってしまっていたから……。とうとう私は、あの子が一人で歩けるように育ててやれなかった。君たちを引き裂いたことも、すべて私の罪だ……」

​ 消え入りそうな老人の懺悔に、レイコさんは男の穏やかな笑みを向けた。

「何を言っているんですか、広瀬さん。雪也は、最初から自分の足でちゃんと歩いています。自分の人生を自分で決められる強い子に育てたのは、他ならぬあなたです。それに……雪江が遺してくれた宝物も、ここにいます」

​ レイコさんが私の背中をそっと押し、ベッドの前に立たせた。

​「雪江の娘です。名は、繭(まゆ)」

「……繭……」

​ 老人が震える骨張った手を伸ばしてきた。

 けれど――私はその手を握ることができなかった。『おじいちゃん』と呼ぶことなんて、どうしてもできなかった。

​ レイコさんがユキに視線を送ると、ユキが静かにベッドサイドへ歩み寄った。

​「……お父さん」

​ ユキの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。

​「よかった……! 本当によかった……! 私を置いて、死んじゃうんじゃないかって……!」

​ 泣きじゃくりながら老人の胸にすがりつくユキを、老人は震える腕で抱きしめた。

​「雪也……許しておくれ。私の身勝手で、お前の人生を奪ってしまった私を……」

「ううん! 私は正嗣さんから全部聞いたよ。でも、お父さんは私を育ててくれた。愛してくれた。私のお父さんは、世界でたった一人、あなただけだよ……! だから、ずっと一緒にいる!」

「……ありがとう、雪也……ありがとう……」

​ 老人の目から涙が溢れ、二人は抱き合って泣き続けた。

​ 傍から見れば、それは美しく感動的な親子の和解の光景だったのかもしれない。

 けれど――私の胸の奥で、ドロドロとした黒い感情が猛烈な勢いで沸騰していた。

​ ……何なの、これ。

 この老人は今まで、どれだけユキを苦しめてきたの? どれだけユキの愛情に甘えてきたの?

 それなのに、目を覚ましてちょろっと涙を流して謝っただけで、全部チャラになるわけ!?

 老人が退院したら、ユキはまたあの屋敷に連れ戻される。

 じゃあ、私たちが過ごしたあの温かい三ヶ月は、この老人が目を覚ますまでのただの『お留守番』だったとでも言うの――!?

​「ふざけないでよッ!!」

​ 張り詰めた病室に、私の怒声が炸裂した。

​ 全員が息を呑んで私を見る。構うものか。私はベッドの老人を指差して叫び続けた。

​「何を今さら被害者面してんのよ! あなたなんかに、ユキと一緒に暮らす資格なんてない!」

「マユ、やめて! お父さんは――」

「ユキは黙ってて!」

​ 止めに入ろうとしたユキを、私は力いっぱい自分の胸の中に引き寄せ、抱きしめた。

 腕の中に収まる、温かくて柔らかなユキの体。

​ ――渡さない。

 この光を、私の大切なユキを、こんな身勝手な大人たちに奪われてたまるものか!

​「あなたにユキの気持ちなんてこれっぽっちも分かってない! ユキの痛みを本当に分かってるのは私だけよ! あんたなんかがユキに愛される筋合いなんてない!!」

​ 老人が心臓を撃ち抜かれたように青ざめ、項垂れる。

 もう理性なんて吹き飛んでいた。口から出る罵倒を止められない。

​「やめないか、繭! 広瀬さんだって十分に苦しんだんだ!」

​ レイコさんが私の腕を掴んで引き剥がそうとする。

 正論だ。分かりきった大人の道理だ。

 けれど、その手が触れた瞬間、私の中で張り詰めていた最後の糸が音を立てて千切れ飛んだ。

​「父親ぶらないでよッ!!」

​ レイコさんの動きが凍りついた。

​「な……んだと?」

「図星でしょ!? あんたが今まで一度でも父親らしいことしてくれた!? 女の格好なんかしてさ! 学校で、近所で、私がどれだけ恥ずかしい思いをしてきたか分かる!? どれだけ惨めで肩身の狭い思いをしてきたか分かるのよ!? あんたは自分の罪悪感から逃げるために女になって、自分のためだけに生きてきただけじゃない! ここにいる老人と同じよ! 私のことなんて何一つ考えてないくせに、今さら父親面するな!!」

​ 思ってもいない残酷な言葉が、刃となってレイコさんを滅多刺しにしていく。

 レイコさんは反論もせず、ただ傷ついた獣のように深く項垂れていた。

 違う、こんなことを言いたいんじゃない。誰か私を止めて。誰か――!

​ パーンッ!!

​ 乾いた鋭い破裂音が、病室に響き渡った。

​ 熱い痛みが左頬に走る。

 何が起きたのか分からず、私は目を見開いた。

​ ……ユキだった。

 ユキが、右手を振り抜いたまま、肩を震わせて立っていた。

​ あの優しくて、虫も殺せないユキが、私を叩いた……?

 けれど、私以上にショックを受けていたのはユキ自身だった。自分の右手を信じられないものを見るように見つめ、みるみる瞳に涙を溢れさせていく。

​「だめだよ……っ! そんな酷いこと言っちゃ、絶対にだめだよ、マユ……っ!!」

​ ユキはそう叫ぶと、顔を両手で覆って泣き崩れた。

​ ――私は、何をしてしまったんだろう。

 最低だ。世界で一番醜いのは、私だ。

​ 耐えきれなくなり、私は病室を飛び出した。

​   *

​ 無我夢中で走り続け、気がつけば病院の裏手を流れる広い河川敷に辿り着いていた。

 冷たい風が吹き付ける土手に、へたり込むように腰を下ろす。

​ ……最悪だ。

 レイコさんを傷つけ、ユキを泣かせ、見ず知らずの老人に八つ当たりして。

​ バレンタインの日、チカに抱きしめられたときに見えたはずの広い世界。自分の足で立って歩いていけると思っていたあの景色は、どこにもなかった。

 私の世界は、こんなにも狭くて、ちっぽけで、醜い嫉妬と独占欲で塗り固められていたのだ。

​ 情けなくて、悔しくて、膝を抱えて涙を流していると、背後の枯れ草がサクリと音を立てた。

​「マユ」

​ レイコさんの声だった。

 慌てて振り返ろうと身を捩ると、頭の上から静かな制止の声が降ってきた。

​「いい、そのままでいい。……聞いてくれ」

​ レイコさんは私のすぐ後ろに腰を下ろした。

 穏やかに流れる川のせせらぎ。早春の冷たい風と、微かな日溜まりの匂い。

 その懐かしい気配の中で、レイコさんはぽつりぽつりと語り始めた。

​「雪江が死んだとき……私は狂乱した。生きる意味を見失い、暗闇の中で途方に暮れていた。気がつくと私は、幼いお前を背負いながら、一心不乱に戯曲を書いていたんだ」

「……『レイコ』ね」

「ああ、知っていたか」

​ レイコさんは驚くこともなく、穏やかに笑った。

​「『レイコ』はな……私の理想の塊だった。どんな過酷な運命にもくじけず、太陽のように笑い、自分が一番苦しいときでも他者を思いやれる強さと気高さを持った女性。私はその女の物語に取り憑かれ、劇団で上演を勝ち取った。そして自ら『レイコ』を演じた。その強さが欲しかったからだ」

​ レイコさんは深く息を吐き出した。

​「だが……千秋楽を終え、舞台を降りた瞬間、猛烈な恐怖に襲われたんだ。私はこれから、どうやって生きていくのだろうと。雪江の死を過去のものとして受け入れ、別の誰かを愛し、平凡な幸せの中で雪江を忘れていくのか? ……そんな未来、死んでも耐えられなかった。私は雪江と魂で結ばれていたかった。雪江以外の女を、一生愛したくなかった」

​ 男の、重く切実な告白。

​「だから私は、舞台を降りても『レイコ』であり続けることを選んだ。女になれば、雪江以外の女を愛することも、愛されることもない。雪江への愛を胸に抱いたまま、お前を育てるための強さを保ち続けられる。……それ以来、私はずっと『レイコ』として生きてきたんだ」

​ 胸が張り裂けそうだった。

 レイコさんが背負ってきた途方もない愛と覚悟の重さに、息が詰まる。

​「もういい……もういいよ、レイコさん……っ!」

​ 堪らなくなって振り返ると、目の前にいたレイコさんは、かつてないほど優しく、穏やかな父親の顔で微笑んでいた。

 大きな手のひらが、幼い頃と同じように、私の頭をそっと撫でる。

​「マユ。私はいつだって、お前のことを一番に考えて生きてきた。だが……それがお前に伝わらず、ただの道化に見えていたのなら。お前を惨めな思いで苦しめていたのなら……私は今日限りで『レイコ』を捨てる。お前の父親、桐生正嗣に戻るよ」

​ 迷いのない、澄み切った瞳。

​「だめ……っ!」

​ 私は叫んでいた。涙で視界がぐしゃぐしゃに滲む。

​「消さないで……! レイコさんを消しちゃだめ! 私、綺麗で、強くて、優しいレイコさんが大好きなの……っ!」

​ レイコさんの胸に飛び込み、ジャケットに顔を埋めて泣きじゃくった。

​「でもね……たまには、男の人に戻って。じゃないと私、レイコさんが私のお父さんだってこと、忘れちゃうから……っ」

​ 私の言葉を聞いたレイコさんは、ふっと目元を緩め、「……そうか」と愛おしそうに呟いて、私の背中を力いっぱい抱きしめてくれた。

​ 温かい、お父さんの胸の中。

 私は子どものように声を上げて泣き続けた。

​ ――分かっていた。

 本当は、最初から全部分かっていたのだ。

 レイコさんが背負ってきた愛の深さも。

 おじいさんが犯した過ちと、その孤独も。

 ユキが進むべき、新しい未来も。

​ そして……この愛おしい日々に、別れの季節が訪れてしまったということも。

​ 見上げた空は、どこまでも高く、どこまでも青く澄み渡っていた。

 遠くから吹き抜けてきた春一番の風が、私たちの頬を優しく撫でて通り過ぎていった。