繭に降る雪

【十】 輝く世界

​「とびっきり甘いやつを作るの!」

​ 腕まくりをしたチカが、鼻息荒く宣言した。

 無理もない。明日は待ちに待ったバレンタインデーだ。相川くんという明確なターゲットがいる今年のチカは、いつも以上に気合が入りまくっている。

​「手作りチョコで、相川くんをキャッチ&リリースよ!」

「……逃してどうするのよ」

​ すかさずツッコミを入れたけれど、チカの耳には届いていない。

​「さあ、それじゃあチョコ作り講座を始めるわよ」

​ 講師を務めるのは、もちろんレイコさんだ。今日はチカの熱烈なリクエストで、レイコさん直伝のチョコ作り教室が我が家のキッチンで開かれることになっていた。

 参加者はチカ、ユキ、そして私の三人。

​「はーい!」

​ ユキが嬉しそうにエプロンの紐を結び直す。キラキラと輝くその笑顔を見つめながら、私の胸の奥がきゅっと窄まった。

 ……きっと、剣崎くんにあげるために作るんだろう。

 楽しそうに鼻歌を歌うユキの姿が、今の私にはあまりにも眩しすぎて、直視できなかった。

​「いい、あんたたち? チョコ作りで一番大事なものは何だと思う?」

「えーと、見た目の可愛さ?」

「ブー!」

​ チカの答えをレイコさんが即座に却下する。

​「味……ですか?」

「ブー!」

​ 自信なさげに答えたユキも不正解。

​「情けないわね。チョコで一番大事なのは『ハート』よ! 魂! それさえ込もっていれば、形が崩れていようが味がビターすぎようが関係ないの! 極論、ハートさえあればチョコの形をしていなくたって、それは立派なチョコなのよ!」

「おおーっ!」

​ チカとユキが感嘆の声を上げる。……いや、チョコの形をしていないものはチョコじゃないでしょ。

 呆れていると、レイコさんがジロリと私を睨みつけた。

​「こら、マユ! ぼさっと突っ立ってないで準備しなさい!」

​ 私は小さく首を横に振った。

​「いい。私、パス」

「はあ?」

「ちょっと出かけてくる。晩ごはんまでには帰るから」

「ちょっと、マユ!?」

​ 引き止めるレイコさんの声を背中に浴びながら、私は逃げるように玄関を飛び出した。

 振り返り際に目に入った、チカとユキの心配そうな顔が脳裏に焼き付いて離れない。

 ……ごめんね、二人とも。

​   *

​ ガタゴトと揺れるバスの座席で、私は深い自己嫌悪に沈んでいた。

 どうしていつも、こうやって拗ねて逃げ出してしまうんだろう。

​ いつも通学で使っているバス停をいくつも通り過ぎていく。

 無性に、タケルに会いたかった。

 私にユキへの感情を自覚させてくれた人。そして、かつてレイコさんと何の後ろめたさもなく付き合っていた人。何より私は昔から、嫌なことがあるといつもタケルの胸に泣きついていたのだ。

 高校生にもなって、幼い頃から何一つ成長していない。情けなくて泣きたくなるけれど、今日くらい甘えさせてほしい。

​ 以前、深沢先生からもらったメモの住所を頼りに、大きな団地へと辿り着いた。

 エレベーターで上がり、『橘』と書かれた表札の前に立つ。

 ここでタケルと深沢先生、そして赤ちゃんの三人が暮らしているのだ。

​ 意を決して、インターホンを押した。

​『はーい、どちら様ですか?』

「あの……桐生です」

​ ガチャリとドアが開き、エプロン姿の深沢先生が顔を出した。

​「あら、桐生さん! よく来てくれたわね、寒かったでしょ。さあ、上がって上がって!」

​ 案内されたリビングは、新婚らしい温かみのあるインテリアで綺麗に整頓されていた。大雑把なタケルのことだから、きっと深沢先生がこまめに掃除をしているのだろう。

​「深沢先生……あ、今は橘先生なんですよね」

「いいのよ、深沢で。仕事場じゃ通称で通してるし、名字変えるのって手続きが面倒なんだもの。それに――」

​ 深沢先生は悪戯っぽく笑った。

​「万が一離婚したとき、また戻すの大変じゃない?」

「先生……」

​ そんな冗談をあっけらかんと言い合えるところに、二人の揺るぎない絆を感じて心が和む。

​「しーっ、怪獣が寝てるから静かにね」

​ 深沢先生が指差したベビーベッドには、小さな赤ちゃんがすやすやと眠っていた。

​「可愛い怪獣ですね」

「ふふっ、私の一番大切な怪獣よ」

​ 深沢先生は愛おしそうに赤ちゃんの頬を突ついた。

​「名前は美久(みく)。うちの旦那がつけたのよ。『誰からも愛され、久しく美しくあれ』って。音の響きも字面も意味も全部こだわり抜いて、辞書引きまくって頭抱えてたわ」

​ 国語教師らしい生真面目さに、思わず口元が緩む。

​「旦那ったら親バカ全開でね。『この子は絶対に美人になる! 将来は天下の大女優だな!』なんて騒いでるのよ。私なんて完全にそっちのけ」

「タケル……橘先生、目に浮かびます」

「でもね、私は別に女優になんてならなくていいと思ってるの。元気に、人の心の痛みが分かる優しい子に育ってくれればそれでいい。……そう、桐生さんみたいにね」

​ その言葉が、胸にチクリと刺さった。

​「私なんて……ちっとも優しくないです」

​ ユキの幸せを心から祝福してあげることすらできない、心の狭い人間なのに。

 俯く私を、深沢先生はじっと見つめたあと、ふっと表情を緩めた。

​「そういえば桐生さん、明日のチョコはもう用意した?」

「……いえ」

「ちょっとこっちに来て」

​ キッチンへ案内されると、甘く香ばしいカカオの香りが漂っていた。

​「今日ね、旦那が出張で泊まりなの。だから今のうちに、サプライズで気合の入ったチョコを作ろうと思ってね」

 湯煎にかけた鍋の中で、板チョコがゆっくりと艶やかに溶けていく。

 「桐生さん、混ぜるときはね、優しく、でも止めずにゆっくりと」

 言われるままへらを動かすと、とろりとした感触が手のひらに伝わってくる。

 「先生って、タケル先生のどんなところが好きになったんですか?」

 ふと気になって尋ねると、深沢先生は懐かしそうに目を細めた。

 「うーんとね。誰に対しても分け隔てなく優しいところ、かな。あの人ね、私が最初にプロポーズされたとき、指輪の代わりに真っ先に『君の生徒たちにも祝ってもらおう』って言ったのよ。変わってるでしょ?」

 「タケルさんらしいです」

 思わず笑ってしまった。誰かを好きになる理由なんて、本当は単純なのかもしれない。一緒にいて安心できるか、その人の優しさに救われたことがあるか。ただそれだけのことなのに、私はいつも難しく考えすぎていたのかもしれない。

​ ――タケルは、今日いない。

 それを聞いた瞬間、不思議なことに、私は落胆しなかった。

​ そこでようやく気づいたのだ。

 私はタケルにすがりたかったわけじゃない。

 ただ、あんなに嬉しそうにしているユキのそばにいるのが苦しくて、ユキの事情を知らない場所に逃げ込みたかっただけなのだと。

​「ねえ、まだ用意してないなら、一緒に作らない?」

「……やめておきます。あげる相手、いませんから」

「本当にいないの?」

「……よく、分からないんです」

​ 情けなくて消え入りそうな声で答えると、深沢先生は優しく微笑んだ。

​「分からないってことは、あげたい人がいるかもしれないってことよね」

「……はい」

「それって、まさかうちの旦那?」

​ 顔から火が出るかと思った。あの稽古場での大告白を思い出して、パニックになる。

​「ち、違います! 橘先生はそういうのじゃなくて……!」

「ふふっ、冗談よ。旦那から全部聞いてるわ」

​ 深沢先生はコロコロと笑った。

​「『マユがすごく悩んでるみたいだ。学校でも覇気配がないから、もしかしたら家に来るかもしれない。俺がいないときは頼むな』ってね」

​ タケル……。

 あんなに遠くに離れても、私のことを見ていてくれたんだ。

 幼い頃、肩車の上から見せてくれた世界の広さが、胸の奥に鮮やかによみがえる。

​「桐生さんの悩みっていうのは、その『あげたいのかどうか分からない人』のことなのね?」

​ 私は小さく頷いた。

​「なら、なおさら一緒に作りましょう。チョコ作りで一番大事なのは、気持ちよ。気持ちを込めなきゃ、ただのお菓子になっちゃう」

​ レイコさんと同じことを言う深沢先生に、思わず目を見張る。

​「心を込めてチョコを作ればね、自分の本当の気持ちが見えてくるわ。どうしても渡したくないと思ったら、自分で食べちゃえばいいじゃない。私のレシピ、すっごく美味しいんだから!」

​ そう言って、深沢先生は私の額を指先でトンと突ついた。

​ 悩んでいたことが、急にバカバカしく思えてきた。

 分からないなら、確かめればいい。ユキが誰を想っていようと関係ない。私自身の心を、この手で確かめるんだ。

​「……はい! よろしくお願いします!」

​ 私は深沢先生に向かって、深々とお辞儀をした。

​   *

​ 翌日、二月十四日。

​「マユーっ! やったよーっ!」

​ 始業前の教室で、チカが猛ダッシュで飛び込んできた。

​「相川くんに、ちゃんと渡せた! 受け取ってくれたよーっ!」

​ 昨夜、私が家に帰ったとき、チカはまだキッチンで黙々とチョコを作っていた。丁寧に、時間をかけて、心を込めて。編み上げたマフラーと一緒に、今朝直接手渡したのだという。

​「よかったね、チカ! ……告白はしたの?」

「ううん、してない!」

​ チカはあっけらかんと首を振った。

​「でもね、受け取ってもらえただけで百点満点! すっごく嬉しい!」

​ 満面の笑みを浮かべるチカは、眩しいほどに輝いていた。

 見返りを求めず、ただ純粋に相手を想うことの強さ。

​「私ね、もっと本を読むことにしたの」

「えっ? あんなに活字嫌がってたのに?」

「相川くんとたくさんお話ししたいもん! 相川くんの好きな本を読んで、相川くんのことをもっと知りたいの!」

​ ……ああ、そうか。

 レイコさんはハートだと言い、深沢先生は気持ちだと言った。チカは最初から、その一番大切なことを知っていたのだ。

​「すごいよ、チカは」

「えー? 私なんて全然すごくないよ。難しい本がいっぱい読めるマユの方がずっとすごいじゃん」

​ チカは照れくさそうに手を振る。自分の美しさに無自覚な親友。

​「私ね、ちっともすごくないよ。これから大事なことを伝えなきゃいけないのに、まだ足がすくんでる。……チカみたいな勇気がほしいな」

「なら、分けてあげる!」

​ ぎゅっ、と力いっぱい抱きしめられた。

​「がんばれ、マユ!」

​ 耳元で囁かれた温かい声。

 その瞬間、目の前の視界がパッと開けたような気がした。

 タケルの肩の上から見せてもらった広い世界。けれど今はもう、誰かの肩を借りる必要はない。自分の足でしっかりと地面を踏みしめて、前を見据えている。

​「……ありがとう、チカ」

​ 私は小さく呟いて、チカの背中を抱き返した。

​   *

​ さりげなく渡そうと思っていたのに、家に帰ってからもタイミングが全く掴めなかった。

 ようやくチャンスが訪れたのは、夕食の後片付けが終わった時だった。

 急ぎの原稿があると言ってレイコさんが二階へ上がり、リビングには私とユキの二人きりになった。

​「あのね、ユキ……」

​ 声をかけると、ユキがいつものようにふわりと振り返った。

 無防備な笑顔の奥に、あの日チカを抱きしめていた『少年の瞳』が重なり、ドクンと心臓が跳ねる。一気に顔が熱くなった。

​「どうしたの、マユ?」

「えっと……チョコ、なんだけど……」

​ しどろもどろになる私を見て、ユキが「あ!」と手を叩いた。

​「チョコといえばね、レイコさんすっごく面白かったんだよ! 今日、こんなに大きな箱いっぱいにチョコを持って帰ってきてさ。『ファンの子にもらったのよ』って自慢するから、どうするのかと思ったら……」

​ ユキは両手を大きく広げて身振り手振りで語り出す。

​「『ご近所に配りましょう』って言い出して、私と二人で一軒一軒配って歩いたの! 数が多すぎて、もう腕がパンパンになっちゃった」

「……ちょっと待って、本当にそんなことしたの!?」

​ 人からもらった贈り物を近所に配るなんて、みっともないにも程がある。

​「うん! 『マユにバレたら口うるさく説教されるから絶対内緒ね』って言われて……あ」

​ ユキがピタリと口を押さえた。みるみる顔が真っ青になっていく。

​「し、しまった……マユには内緒だったのに……! どうしよう!?」

「……本人に言ってどうするのよ」

​ あまりの天然っぷりに、思わず噴き出してしまった。

 相変わらず抜けていて、のんびり屋のユキ。

 張り詰めていた緊張が、潮が引くように解けていく。

​「分かった、聞かなかったことにしてあげる。レイコさんには黙っとくよ」

「本当!? よかったぁ……」

​ 胸を撫で下ろすユキの姿に、リビングが柔らかな空気に包まれる。

 今なら、渡せる。飾らない言葉で、ちゃんと伝えられる。

​「ユキ。私、渡したいものが――」

​ バターンッ!!

​ けたたましい音とともにリビングのドアが蹴破るように開いた。

​「ちょっとあんたたち! 私の万年筆知らない!? あれがないと原稿が進まないのよーっ!」

​ 鬼の形相で乱入してきたレイコさんに、私たちは固まった。

​   *

​ ……すべては、レイコさんのせいだ。

 あと一歩だったのに。

​ それから一時間、家中の引き出しやソファの隙間を大捜索させられ、結局、万年筆はレイコさん自身の胸ポケットに最初から刺さっていたというオチだった。

「あら、あったわ。ごめんなさいねー」と嵐のように去っていったレイコさんに付き合わされ、ユキは「疲れちゃったから先に寝るね」と部屋に戻ってしまったのだ。

​ リビングに取り残された私は、重い足取りで自分の部屋に戻り、ベッドの端に腰を下ろした。

​ カーディガンのポケットから、赤い小さな包みを取り出す。

 昨日、深沢先生のキッチンで心を込めて作ったトリュフチョコレート。

​『気持ちを込めなきゃ、チョコじゃないわ』

​ 深沢先生の言葉が耳元で蘇る。

 やっぱり、渡せないまま自分で食べる運命なのかな。情けなさと悔しさで、視界がじんわりと滲んでくる。

​ その時、コンコンと控えめにドアが鳴った。

​「……っ、どうぞ! 開いてるよ」

​ 慌てて涙を拭うと、ドアの隙間からユキが顔を覗かせた。

​「マユ、まだ起きてた?」

「ユキ……? どうしたの?」

​ ベッドから立ち上がると、ユキはおずおずと後ろ手に隠していた小さな包みを差し出してきた。

 夜空のような深い青色のラッピングに、金色のリボンが結ばれている。

​「マユに……これ、渡したくて」

「これって……」

「チョコレート。昨日、レイコさんに教わりながら、チカちゃんと一緒に作ったの」

​ 息を呑んだ。

 昨日、ユキが作っていたチョコは、たった一つだけだったはずだ。チカと同じように、一つだけに時間をかけ、丁寧に丁寧に作っていた。

​「……剣崎くんに、あげなくてよかったの?」

​ 私の問いに、ユキは静かに、けれどしっかりと首を横に振った。

​「今年は、マユにあげたいの。……どうしても、マユに受け取ってほしかったんだ」

​ 差し出された青い包みを受け取る。

 照れくさそうに笑うユキの瞳は、あの夕暮れの公園で剣崎くんに見せたのと同じ――ううん、それ以上に澄み切った光を宿していた。

​ その笑顔を見た瞬間、私の中に渦巻いていた迷いがすべて消え去った。

​ ユキが男の子でも、女の子でも、どちらだっていい。

 ユキが自分で望む姿で生きてくれれば、それでいいのだ。

​ 友達としての好き、恋人としての好き。その境界線が曖昧なら、無理に白黒つける必要なんてない。

 大切なのは『どう好きか』という定義ではなく、『好き』だと想うこの温かい感情そのものなのだから。

​ ユキがどんな道を選ぼうと、私はユキの隣にいる。

 もしこの先、お互いの一番大切な人が別の人になったとしても、その時にまた一緒に歩き出せばいい。

 大事なのは、今この瞬間、同じ時間を分かち合えていること。

​ ――大丈夫。言葉にしなくても、ユキには最初から全部伝わっていたんだ。

​「……私からも、渡したいものがあるの」

​ ポケットから、赤い包みを取り出してユキの手のひらに乗せる。

​「これ……?」

「昨日、深沢先生の家で作ったチョコ。受け取ってくれる?」

​ ユキは驚いたように目を丸くし、それから顔をくしゃくしゃにして笑った。

​「嬉しい……! 私、今日のこと、一生絶対に忘れないよ」

「私も。絶対に忘れない」

​ 私たちは顔を見合わせ、声を立てて笑い合った。

​ 青い包みと、赤い包み。

 手のひらに残る確かな重みと温もりが、冷え切った冬の夜を溶かしていく。

​ この一瞬を永遠にできるかどうかは、きっと私たち次第だ。

 大丈夫。この温もりがある限り、私たちはどこまでも歩いていける。

 私は心の中で、強くそう信じていた。