【九】 幸福の条件
ユキは女の子だ。誰が見ても、息を呑むほど可愛い女の子。
相変わらず泣き虫で、優しくて、可愛いものが大好きで――けれど、タケルと話したあの日以来、私はユキの笑顔の奥に、あのとき見せた『男の子』の表情を重ねてしまうようになっていた。
普段のユキには、男の子らしい仕草なんて一つもない。誰の目にも、ただの可憐な少女にしか映らないはずだ。ユキの中にある男の子を知っているのは、世界中で私だけ。私にしか見えない。
……そして、それがこれほどまでに胸に引っかかる理由に、私は気づいてしまっていた。
私は、ユキにどうあってほしいのだろう。男の子でいてほしいのか、それとも女の子のままでいてほしいのか。
同じ屋根の下で暮らし、隣にいられるだけで幸せだった。ユキと出会えて本当によかったと思っている。私よりもずっと女の子らしいユキとお喋りするのは楽しかったし、要領の悪いユキが台所で奮闘している姿も愛おしかった。よく泣いて、よく笑うユキ。チカと同じように、これ以上は望めないほど大切な私の友達。
けれど、私は知ってしまったのだ。ユキの奥底に眠る男の子を。あのとき『僕はここにいるよ』と叫んでいた、剥き出しの魂を。そして、それをもう一度見たいと願ってしまう、自分自身の身勝手さを。
初めて会ったときから、私はユキに惹かれていた。それが『好き』という感情なのだとすぐに分かった。けれど今、自分がユキをどう好きなのかが見えなくなっている。
そもそも、私は『好き』の意味を本当に理解していたのだろうか。
異性としての好きと、同性としての好き。友達としての好きと、恋人としての好き。
私は分かったような顔をして、世間の決めた枠組みに感情を当てはめていただけなのかもしれない。誰もがそうやって迷いながら、答えを探していくものなのだろうけれど――私は、自分だけの答えをどうしても知りたかった。
*
その夜、レイコさんはいなかった。出版社の人たちとの打ち合わせを兼ねた会食で、今夜はホテルに泊まるという。
滅多にないチャンスだった。私はキッチンの奥の棚を探り、レイコさんが大事に隠していた高級ショコラティエの木箱を引っ張り出すと、ユキの部屋へと持ち込んだ。
「へへっ、鬼の居ぬ間に洗濯」
リボンのかかった黒い小箱を掲げてみせると、ユキは目をまん丸にした。
「それ……あの有名な海外ショコラティエのコレクションじゃない!?」
「おいしいの、これ?」
「うん、すっごく有名な高級チョコ。宝石みたいで、一粒数百円もするやつだよ」
いつかの夜と同じようなやり取りに、二人で顔を見合わせて吹き出した。
温かい紅茶をポットに淹れ、私たちは屋根裏部屋へと上がった。
カンテラの淡い光の下、木箱を開けると、艶やかなトリュフや金粉をあしらった美しいチョコレートが並んでいた。口に含むと、濃厚なカカオの香りと芳醇なバニラがなめらかにとろけていく。
「おいしい……! こんなの初めて食べた」
「ふふっ、きっと内緒で食べるから特別なんだよ」
ユキが嬉しそうに目を細めて笑う。
レイコさんが見たら『私のとっておきを!』と目を剥いて怒るに違いないけれど、今夜だけは許してもらおう。
私たちは夜が更けるのも忘れて語り合った。好きな本のこと、チカのこと、学校のこと。話したいことは尽きなかった。
「マユはどんな本が好きなの?」
「うーん、昔からミステリーが好きかな。犯人が誰かより、なんでその人がそうしちゃったのかを考えるのが好き」
「へえ、マユらしいね」
「ユキは?」
「私は……絵本、かな。字が少ない分、余白を自分で埋められる気がして。前にレイコさんが読んでくれた絵本、今でも大事に持ってるんだ」
そう言って、ユキは少し照れくさそうに笑った。同じ屋根の下にいても、まだ知らないユキの欠片がこんなにもたくさんある。それを一つずつ見つけていく時間が、たまらなく愛おしかった。
なんでも話せる、私の大切なユキ。こんな時間がずっと続けばいい――そう思いながら、温かい紅茶と甘い余韻の中で、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
*
ふと目を覚ましたとき、あたりは完全な暗闇だった。カンテラの明かりも消えている。体に掛けられた毛布の温もりに気づき、ユキが掛けてくれたのだと悟った。
ユキはどこだろうと探すまでもなく、すぐ隣にいた。私と同じ毛布にくるまり、すぐ目の前で規則正しい寝息を立てている。
無垢な少女のように眠るユキ。いつか見た、天使のような寝顔。
どこからどう見ても綺麗な女の子なのに、私の目にはどうしても、あの日見せた男の子の面影が重なって見えてしまう。
気づけば、私はユキの顔へ吸い寄せられるように顔を近づけていた。
自分が何をしようとしているのかに気づいたときには、もう唇が触れそうな距離にまで迫っていた。
胸が早鐘のように打ち鳴らされる。止めなければいけないのに、体が言うことを聞かない。
――こんなこと、しちゃいけない。眠っている女の子に、こんな……でも、ユキは男の子なんだよね? いや、だからこそ駄目なんじゃないの?
思考がぐちゃぐちゃに混ざり合い、熱を帯びた吐息が重なりそうになった、その瞬間。
「……だめ」
心臓が止まるかと思った。
起きていたの? 暗闇の中で顔が一気に熱くなる。けれど、ユキの目は閉じたままだった。寝言だったのだ。
「……行っちゃ、だめ……」
泣き出しそうな、か細い声。
「……行っちゃだめ……お父さん……」
お父さん? ユキは父親の夢を見ているのだろうか。
私は小さく息を吐き出して身を引いた。それでも、バクバクと暴れる心臓はなかなか静まってくれない。ユキのお父さんに救われたのか、邪魔されたのか、自分でもよく分からなかった。
いつかユキが口にしていた、大好きだという父親。一体どんな人なのだろう。
脳裏に、レイコさんの言葉が蘇る。
『もう、誰もあなたを縛ったりはしない。そう、誰もね……』
誰もユキを縛れないというのは、父親のことだったのだろうか。
けれど、すぐに思い至る。『誰も』とは、言葉通りの意味なのだと。
そう、私だってユキを縛ることはできない。私がどれほど望もうと、ユキを自分の思い通りにすることなんて許されない。
その冷厳な事実が、胸の奥で重く鈍い痛みに変わっていった。
*
休日の午後、私とチカとユキの三人で街へ買い物に出かけた。
ユキは見るものすべてが珍しいようで、「すごいね、すごいね」と子どものようにはしゃいでいた。チカはお気に入りの服を見つけては、自分だけでなく私やユキの体に当てがい、着せ替え人形のようにして楽しんでいる。
私とユキはお目当ての本を一冊ずつ買い、「あとで交換して読もうね」と約束を交わした。本を選んでいる間、退屈そうに頭を抱えていたチカの顔がおかしくて、思わず笑ってしまった。
帰りのバスを降りたときには、太陽が西の空を朱色に染め上げていた。
「それじゃマユ、また明日学校でね! ユキちゃんもまたね!」
買い込んだ紙袋を抱え、チカが手を振って去っていく。
二人きりになった帰り道、私はクリスマスイブの日のことを思い出していた。あのときも、こうして本を買って一人で歩いていた。隣にユキはいなかったし、ユキが男の子だということも知らなかった。
そう考えると、今こうして二人で並んで歩いていることがどこか奇跡のように思える。私たちはこれからも、ずっとこうして歩いていけるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたとき、前方にすっと人影が差した。
――前にも、こんなことがあった。
デジャヴ? いや、違う。あの日も確かに、こうして夕暮れの中に現れたのだ。
「剣崎くん……!」
ユキが息を呑み、まるで幻でも見るかのように声を上げた。
そこに立っていたのは、あの日と同じ学生服を着た少年、剣崎護だった。
「広瀬……久しぶり。約束、果たしに来たよ。遅くなってごめん」
夕焼けの赤に包まれながら、剣崎くんはユキに向かって静かに微笑んだ。
*
私たちは、あの日と同じ公園のベンチへと向かった。
腰掛けるユキと剣崎くんの横で、私は立ったまま二人を見つめていた。
剣崎くんの顔つきは、以前会ったときよりもずっと引き締まり、幼さが抜けて少年の顔から青年の顔へと変わりつつあった。
その変化を前にして、私は強烈な居たたまれなさを覚える。ここにいる私は、どう見ても部外者だ。
「……ユキ、私、先に帰るね」
自分でも情けなくなるほど頼りない声だった。
けれど、ユキは小さく首を横に振った。
「マユ、一緒にいてほしい。見ていてほしいの……結末を」
ユキが何をしようとしているのか、すぐに察しがついた。
真実だ。隠してきたすべてを打ち明けるつもりなのだ。
その告白のあと、二人の関係はどうなってしまうのだろう。私はただ、ユキが傷つかないことだけを祈るしかなかった。
「……わかった」
絞り出すようにそれだけを答えると、ユキは剣崎くんに向き直った。
「……ごめんね、剣崎くん。黙って引っ越しちゃって」
ユキの言葉に、剣崎くんは困ったように笑った。
「俺の方こそごめん。住所は分かってたんだ。もっと早く会いに来るべきだった」
剣崎くんが呼んだ『広瀬』という名前に、胸がちくりと痛む。それがユキの本当の苗字なのか。私の知らないユキの過去を知る彼に、かすかな焦燥感が募っていく。
「……実は、広瀬がここに越してきたばかりの頃、俺、一度ここに来てたんだ」
「本当に……?」
驚くユキの横で、私はイブの前の日に剣崎くんに呼び止められた記憶を手繰り寄せていた。あのときは何も知らなくて、ただ困惑するばかりだった。
「俺さ、広瀬と初めて話したときのことを今でもはっきり覚えてるよ。退院して学校に戻ったけど、年下の奴らと同じ学年で浮いてて、全部がうまくいかなくて苛ついてた。そんなとき、通学路の窓から外を見ていた女の子が、俺と同じようにずっと学校を休んでた広瀬だって気づいたんだ」
『女の子』という単語に、ユキの肩が微かに跳ねた。
「広瀬はもう卒業してたけど、高校には行ってないって聞いて……俺と同じだ、って思ったら、気づけば目で追うようになってた。あの日、広瀬が俺に会いに来てくれたときは本当に嬉しかったよ。だから、思ってたことを全部素直に伝えたんだ」
「私も……すごく嬉しかった」
ユキの返答に、剣崎くんは嬉しさと切なさが混ざったような表情を浮かべた。
「でも、そのあとすぐ君は引っ越しちゃって……しばらくして、俺は広瀬が引っ越した理由を知った。家の事情で、今年は受験すらできなくなったことも。それで慌ててここまで走ってきたんだ。でも、いざ着いたら急に怖くなった。あんな偉そうなこと言っておいて、俺自身が全然駄目だったから。一緒に高校へ行こうなんて言ったくせに、これっぽっちも自信が持てなくて」
「そんなことない……剣崎くん、頭よかったのに」
「成績なんて関係ないよ。自分に自信がなかったんだ。周りのみんなに置いていかれてる気がして……怖くて広瀬に会えなかった。だから桐生さんに伝言を頼もうとしたんだ」
二人の視線が一斉に私へ向けられる。
「マユ、剣崎くんに会ってたの……?」
すがるようなユキの視線が痛い。そんな目で見ないでほしい、と心が軋む。
「俺が頼んだんだ、言わないでくれって。でも、桐生さんに話しかけて気づいたんだよ。こんなのずるい、フェアじゃないって。自分がちゃんと前を向いて、胸を張って会えるようになってから、自分の口で伝えるべきだって。だから――今日、会いに来た」
「剣崎くん……」
「広瀬。俺、城南高校に受かったよ。春からあそこに通う」
「……おめでとう、剣崎くん」
ユキの声には微塵の曇りもなく、心からの祝福が込められていた。
「広瀬が一番つらいときに逃げて、自分が受かって楽になってから来るなんて、本当に卑怯だと思う。でも、どうしてももう一度伝えたかったんだ。広瀬――」
「だめ!」
ユキが鋭くその言葉を遮った。
剣崎くんが驚いたように口をつぐむ。
夕闇の中、二人の間に沈黙が落ちた。冷たい風が公園の木々を揺らし、遠くで犬の鳴き声がした。
ユキは俯いたまま、しばらく動かなかった。膝の上に置かれた両手が、白くなるほど強く握りしめられている。
何度か、唇が微かに開いては閉じるのを繰り返した。言葉になる前の吐息だけが、白く揺れて消えていく。
隣で見守る私にも、その葛藤が痛いほど伝わってきた。ユキの喉がごくりと動く。
剣崎くんは急かすことなく、ただじっとユキを見つめ続けていた。
どれくらいの時間が経っただろう。ユキが大きく息を吸い込む音が、静けさの中にはっきりと聞こえた。
「……剣崎くん」
やがて、絞り出すような声が漏れた。
「私、剣崎くんのことが好き」
風が止んだような気がした。
剣崎くんは何も言わず、ただユキを見つめている。
「ずっと前から、好きだった」
言い終えると、ユキは怖くなったように視線を落とした。返事を待つ数秒が、ひどく長く感じられた。
「……俺も」
剣崎くんの声は、震えていた。
「俺も、広瀬のことが好きだよ」
ユキが弾かれたように顔を上げる。
剣崎くんの耳が、夕焼けよりも赤く染まっていた。
しばらくの間、二人は互いの言葉の重みを噛みしめるように、ただ見つめ合っていた。
けれど、その温かな沈黙を破るように、ユキの表情がふっと曇る。
「……でも」
「ん?」
「剣崎くんに、言っていないことがあるの」
声が震える。ユキは膝の上の拳を、さらに強く握りしめた。
剣崎くんは、静かに首を横に振った。
「知ってるよ」
「……え?」
「広瀬が男だってこと」
「……っ、剣崎くん……」
ユキはそのまま泣き崩れてしまうかと思った。
けれど違った。ユキは涙をいっぱいに溜めながら、剣崎くんの目をまっすぐに見つめ返し、ふわりと微笑んだのだ。
それは、私が今まで見てきたどんなユキの笑顔よりも、眩しく輝いていた。
――私は、激しい嫉妬を覚えていた。
私がずっと悩み続け、喉まで出かかっては飲み込んできた答えを。どうしてもユキに言ってあげられなかった救いの言葉を、この少年はいとも容易く差し出してしまったのだから。
剣崎くんは、笑顔のユキへ力強く右手を差し出した。
「広瀬。何があっても、俺はずっとお前のそばにいる。それだけは絶対に忘れるなよ」
言葉の返事はなかった。その代わりに、ユキは差し出された大きな手を両手でぎゅっと握りしめた。
夕闇が静かに二人を包み込み、薄紫の空に一番星がひとつ、瞬いていた。
*
……それからというもの、ユキが嬉しそうにスマートフォンの画面を眺めている姿をよく見かけるようになった。クリスマスイブにレイコさんから買ってもらった、あのスマホだ。剣崎くんと頻繁にメッセージを交わしているらしい。
二人は一体、どんな言葉を交わし合っているのだろう。
剣崎くんは『家の事情で受験できなかった』と言っていた。ユキの家庭に何があったのか、剣崎くんは知っているのだ。私の知らないユキの痛みを。
私には話してくれないような深い秘密も、剣崎くんなら打ち明けられるのだろうか。そんなことを考えてしまう自分が惨めで、ひどく悲しかった。
ユキはずっと飢えていたのだ。
自分のすべてを受け入れ、認め、その上で存在を肯定してくれる言葉に。
私が迷い、足踏みしている間に、剣崎くんはあっさりとそれを成し遂げてしまった。
私は『友達としての好き』と『恋人としての好き』について考える。
二人は、その境界線を理解しているのだろうか。
剣崎くんは、ユキにずっとそばにいると誓った。けれど、その言葉に友達としての想いと恋人としての想い、どちらが込められていたのか、境界線は曖昧なままだった。そして、ユキ自身はどうなのだろう。初恋の相手を、本当にただの友達として見つめることなんてできるのだろうか。
きっとユキは、剣崎くんが望む限り『友達』であり続けようとするだろう。けれど、心の中では初恋の淡い痛みを抱き続けるのではないか。
私には、その境界線が見えなかった。あまりにも曖昧で、脆すぎる。
けれど、性別という現実は曖昧ではいられない。男か、女か。
剣崎くんを想い続ける限り、ユキは彼にとって都合のいい『女の子』の姿を選び続けるのではないか。それが本当に、ユキにとっての幸せなのだろうか。
もしそれがユキの選んだ幸福だというのなら、私は笑って祝福してあげるべきだ。
……けれど、私にはどうしてもそれができない。
女の子のままでいてほしいという想いと、男の子としての自分を取り戻してほしいという想いが、私の中で激しくせめぎ合っている。ユキの心が完全に剣崎くんに奪われてしまった今でさえ。
私にユキを縛る権利なんて、何ひとつないというのに。
初恋の相手から、ずっと求めていた救いの言葉をもらえたユキ。
一番近くにいる友達として、誰よりも喜んであげなければならないはずなのに、どうしても心が拒絶してしまう。
私は、そんな自分の醜い感情を持て余し、ただ途方に暮れていた。
ユキは女の子だ。誰が見ても、息を呑むほど可愛い女の子。
相変わらず泣き虫で、優しくて、可愛いものが大好きで――けれど、タケルと話したあの日以来、私はユキの笑顔の奥に、あのとき見せた『男の子』の表情を重ねてしまうようになっていた。
普段のユキには、男の子らしい仕草なんて一つもない。誰の目にも、ただの可憐な少女にしか映らないはずだ。ユキの中にある男の子を知っているのは、世界中で私だけ。私にしか見えない。
……そして、それがこれほどまでに胸に引っかかる理由に、私は気づいてしまっていた。
私は、ユキにどうあってほしいのだろう。男の子でいてほしいのか、それとも女の子のままでいてほしいのか。
同じ屋根の下で暮らし、隣にいられるだけで幸せだった。ユキと出会えて本当によかったと思っている。私よりもずっと女の子らしいユキとお喋りするのは楽しかったし、要領の悪いユキが台所で奮闘している姿も愛おしかった。よく泣いて、よく笑うユキ。チカと同じように、これ以上は望めないほど大切な私の友達。
けれど、私は知ってしまったのだ。ユキの奥底に眠る男の子を。あのとき『僕はここにいるよ』と叫んでいた、剥き出しの魂を。そして、それをもう一度見たいと願ってしまう、自分自身の身勝手さを。
初めて会ったときから、私はユキに惹かれていた。それが『好き』という感情なのだとすぐに分かった。けれど今、自分がユキをどう好きなのかが見えなくなっている。
そもそも、私は『好き』の意味を本当に理解していたのだろうか。
異性としての好きと、同性としての好き。友達としての好きと、恋人としての好き。
私は分かったような顔をして、世間の決めた枠組みに感情を当てはめていただけなのかもしれない。誰もがそうやって迷いながら、答えを探していくものなのだろうけれど――私は、自分だけの答えをどうしても知りたかった。
*
その夜、レイコさんはいなかった。出版社の人たちとの打ち合わせを兼ねた会食で、今夜はホテルに泊まるという。
滅多にないチャンスだった。私はキッチンの奥の棚を探り、レイコさんが大事に隠していた高級ショコラティエの木箱を引っ張り出すと、ユキの部屋へと持ち込んだ。
「へへっ、鬼の居ぬ間に洗濯」
リボンのかかった黒い小箱を掲げてみせると、ユキは目をまん丸にした。
「それ……あの有名な海外ショコラティエのコレクションじゃない!?」
「おいしいの、これ?」
「うん、すっごく有名な高級チョコ。宝石みたいで、一粒数百円もするやつだよ」
いつかの夜と同じようなやり取りに、二人で顔を見合わせて吹き出した。
温かい紅茶をポットに淹れ、私たちは屋根裏部屋へと上がった。
カンテラの淡い光の下、木箱を開けると、艶やかなトリュフや金粉をあしらった美しいチョコレートが並んでいた。口に含むと、濃厚なカカオの香りと芳醇なバニラがなめらかにとろけていく。
「おいしい……! こんなの初めて食べた」
「ふふっ、きっと内緒で食べるから特別なんだよ」
ユキが嬉しそうに目を細めて笑う。
レイコさんが見たら『私のとっておきを!』と目を剥いて怒るに違いないけれど、今夜だけは許してもらおう。
私たちは夜が更けるのも忘れて語り合った。好きな本のこと、チカのこと、学校のこと。話したいことは尽きなかった。
「マユはどんな本が好きなの?」
「うーん、昔からミステリーが好きかな。犯人が誰かより、なんでその人がそうしちゃったのかを考えるのが好き」
「へえ、マユらしいね」
「ユキは?」
「私は……絵本、かな。字が少ない分、余白を自分で埋められる気がして。前にレイコさんが読んでくれた絵本、今でも大事に持ってるんだ」
そう言って、ユキは少し照れくさそうに笑った。同じ屋根の下にいても、まだ知らないユキの欠片がこんなにもたくさんある。それを一つずつ見つけていく時間が、たまらなく愛おしかった。
なんでも話せる、私の大切なユキ。こんな時間がずっと続けばいい――そう思いながら、温かい紅茶と甘い余韻の中で、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
*
ふと目を覚ましたとき、あたりは完全な暗闇だった。カンテラの明かりも消えている。体に掛けられた毛布の温もりに気づき、ユキが掛けてくれたのだと悟った。
ユキはどこだろうと探すまでもなく、すぐ隣にいた。私と同じ毛布にくるまり、すぐ目の前で規則正しい寝息を立てている。
無垢な少女のように眠るユキ。いつか見た、天使のような寝顔。
どこからどう見ても綺麗な女の子なのに、私の目にはどうしても、あの日見せた男の子の面影が重なって見えてしまう。
気づけば、私はユキの顔へ吸い寄せられるように顔を近づけていた。
自分が何をしようとしているのかに気づいたときには、もう唇が触れそうな距離にまで迫っていた。
胸が早鐘のように打ち鳴らされる。止めなければいけないのに、体が言うことを聞かない。
――こんなこと、しちゃいけない。眠っている女の子に、こんな……でも、ユキは男の子なんだよね? いや、だからこそ駄目なんじゃないの?
思考がぐちゃぐちゃに混ざり合い、熱を帯びた吐息が重なりそうになった、その瞬間。
「……だめ」
心臓が止まるかと思った。
起きていたの? 暗闇の中で顔が一気に熱くなる。けれど、ユキの目は閉じたままだった。寝言だったのだ。
「……行っちゃ、だめ……」
泣き出しそうな、か細い声。
「……行っちゃだめ……お父さん……」
お父さん? ユキは父親の夢を見ているのだろうか。
私は小さく息を吐き出して身を引いた。それでも、バクバクと暴れる心臓はなかなか静まってくれない。ユキのお父さんに救われたのか、邪魔されたのか、自分でもよく分からなかった。
いつかユキが口にしていた、大好きだという父親。一体どんな人なのだろう。
脳裏に、レイコさんの言葉が蘇る。
『もう、誰もあなたを縛ったりはしない。そう、誰もね……』
誰もユキを縛れないというのは、父親のことだったのだろうか。
けれど、すぐに思い至る。『誰も』とは、言葉通りの意味なのだと。
そう、私だってユキを縛ることはできない。私がどれほど望もうと、ユキを自分の思い通りにすることなんて許されない。
その冷厳な事実が、胸の奥で重く鈍い痛みに変わっていった。
*
休日の午後、私とチカとユキの三人で街へ買い物に出かけた。
ユキは見るものすべてが珍しいようで、「すごいね、すごいね」と子どものようにはしゃいでいた。チカはお気に入りの服を見つけては、自分だけでなく私やユキの体に当てがい、着せ替え人形のようにして楽しんでいる。
私とユキはお目当ての本を一冊ずつ買い、「あとで交換して読もうね」と約束を交わした。本を選んでいる間、退屈そうに頭を抱えていたチカの顔がおかしくて、思わず笑ってしまった。
帰りのバスを降りたときには、太陽が西の空を朱色に染め上げていた。
「それじゃマユ、また明日学校でね! ユキちゃんもまたね!」
買い込んだ紙袋を抱え、チカが手を振って去っていく。
二人きりになった帰り道、私はクリスマスイブの日のことを思い出していた。あのときも、こうして本を買って一人で歩いていた。隣にユキはいなかったし、ユキが男の子だということも知らなかった。
そう考えると、今こうして二人で並んで歩いていることがどこか奇跡のように思える。私たちはこれからも、ずっとこうして歩いていけるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたとき、前方にすっと人影が差した。
――前にも、こんなことがあった。
デジャヴ? いや、違う。あの日も確かに、こうして夕暮れの中に現れたのだ。
「剣崎くん……!」
ユキが息を呑み、まるで幻でも見るかのように声を上げた。
そこに立っていたのは、あの日と同じ学生服を着た少年、剣崎護だった。
「広瀬……久しぶり。約束、果たしに来たよ。遅くなってごめん」
夕焼けの赤に包まれながら、剣崎くんはユキに向かって静かに微笑んだ。
*
私たちは、あの日と同じ公園のベンチへと向かった。
腰掛けるユキと剣崎くんの横で、私は立ったまま二人を見つめていた。
剣崎くんの顔つきは、以前会ったときよりもずっと引き締まり、幼さが抜けて少年の顔から青年の顔へと変わりつつあった。
その変化を前にして、私は強烈な居たたまれなさを覚える。ここにいる私は、どう見ても部外者だ。
「……ユキ、私、先に帰るね」
自分でも情けなくなるほど頼りない声だった。
けれど、ユキは小さく首を横に振った。
「マユ、一緒にいてほしい。見ていてほしいの……結末を」
ユキが何をしようとしているのか、すぐに察しがついた。
真実だ。隠してきたすべてを打ち明けるつもりなのだ。
その告白のあと、二人の関係はどうなってしまうのだろう。私はただ、ユキが傷つかないことだけを祈るしかなかった。
「……わかった」
絞り出すようにそれだけを答えると、ユキは剣崎くんに向き直った。
「……ごめんね、剣崎くん。黙って引っ越しちゃって」
ユキの言葉に、剣崎くんは困ったように笑った。
「俺の方こそごめん。住所は分かってたんだ。もっと早く会いに来るべきだった」
剣崎くんが呼んだ『広瀬』という名前に、胸がちくりと痛む。それがユキの本当の苗字なのか。私の知らないユキの過去を知る彼に、かすかな焦燥感が募っていく。
「……実は、広瀬がここに越してきたばかりの頃、俺、一度ここに来てたんだ」
「本当に……?」
驚くユキの横で、私はイブの前の日に剣崎くんに呼び止められた記憶を手繰り寄せていた。あのときは何も知らなくて、ただ困惑するばかりだった。
「俺さ、広瀬と初めて話したときのことを今でもはっきり覚えてるよ。退院して学校に戻ったけど、年下の奴らと同じ学年で浮いてて、全部がうまくいかなくて苛ついてた。そんなとき、通学路の窓から外を見ていた女の子が、俺と同じようにずっと学校を休んでた広瀬だって気づいたんだ」
『女の子』という単語に、ユキの肩が微かに跳ねた。
「広瀬はもう卒業してたけど、高校には行ってないって聞いて……俺と同じだ、って思ったら、気づけば目で追うようになってた。あの日、広瀬が俺に会いに来てくれたときは本当に嬉しかったよ。だから、思ってたことを全部素直に伝えたんだ」
「私も……すごく嬉しかった」
ユキの返答に、剣崎くんは嬉しさと切なさが混ざったような表情を浮かべた。
「でも、そのあとすぐ君は引っ越しちゃって……しばらくして、俺は広瀬が引っ越した理由を知った。家の事情で、今年は受験すらできなくなったことも。それで慌ててここまで走ってきたんだ。でも、いざ着いたら急に怖くなった。あんな偉そうなこと言っておいて、俺自身が全然駄目だったから。一緒に高校へ行こうなんて言ったくせに、これっぽっちも自信が持てなくて」
「そんなことない……剣崎くん、頭よかったのに」
「成績なんて関係ないよ。自分に自信がなかったんだ。周りのみんなに置いていかれてる気がして……怖くて広瀬に会えなかった。だから桐生さんに伝言を頼もうとしたんだ」
二人の視線が一斉に私へ向けられる。
「マユ、剣崎くんに会ってたの……?」
すがるようなユキの視線が痛い。そんな目で見ないでほしい、と心が軋む。
「俺が頼んだんだ、言わないでくれって。でも、桐生さんに話しかけて気づいたんだよ。こんなのずるい、フェアじゃないって。自分がちゃんと前を向いて、胸を張って会えるようになってから、自分の口で伝えるべきだって。だから――今日、会いに来た」
「剣崎くん……」
「広瀬。俺、城南高校に受かったよ。春からあそこに通う」
「……おめでとう、剣崎くん」
ユキの声には微塵の曇りもなく、心からの祝福が込められていた。
「広瀬が一番つらいときに逃げて、自分が受かって楽になってから来るなんて、本当に卑怯だと思う。でも、どうしてももう一度伝えたかったんだ。広瀬――」
「だめ!」
ユキが鋭くその言葉を遮った。
剣崎くんが驚いたように口をつぐむ。
夕闇の中、二人の間に沈黙が落ちた。冷たい風が公園の木々を揺らし、遠くで犬の鳴き声がした。
ユキは俯いたまま、しばらく動かなかった。膝の上に置かれた両手が、白くなるほど強く握りしめられている。
何度か、唇が微かに開いては閉じるのを繰り返した。言葉になる前の吐息だけが、白く揺れて消えていく。
隣で見守る私にも、その葛藤が痛いほど伝わってきた。ユキの喉がごくりと動く。
剣崎くんは急かすことなく、ただじっとユキを見つめ続けていた。
どれくらいの時間が経っただろう。ユキが大きく息を吸い込む音が、静けさの中にはっきりと聞こえた。
「……剣崎くん」
やがて、絞り出すような声が漏れた。
「私、剣崎くんのことが好き」
風が止んだような気がした。
剣崎くんは何も言わず、ただユキを見つめている。
「ずっと前から、好きだった」
言い終えると、ユキは怖くなったように視線を落とした。返事を待つ数秒が、ひどく長く感じられた。
「……俺も」
剣崎くんの声は、震えていた。
「俺も、広瀬のことが好きだよ」
ユキが弾かれたように顔を上げる。
剣崎くんの耳が、夕焼けよりも赤く染まっていた。
しばらくの間、二人は互いの言葉の重みを噛みしめるように、ただ見つめ合っていた。
けれど、その温かな沈黙を破るように、ユキの表情がふっと曇る。
「……でも」
「ん?」
「剣崎くんに、言っていないことがあるの」
声が震える。ユキは膝の上の拳を、さらに強く握りしめた。
剣崎くんは、静かに首を横に振った。
「知ってるよ」
「……え?」
「広瀬が男だってこと」
「……っ、剣崎くん……」
ユキはそのまま泣き崩れてしまうかと思った。
けれど違った。ユキは涙をいっぱいに溜めながら、剣崎くんの目をまっすぐに見つめ返し、ふわりと微笑んだのだ。
それは、私が今まで見てきたどんなユキの笑顔よりも、眩しく輝いていた。
――私は、激しい嫉妬を覚えていた。
私がずっと悩み続け、喉まで出かかっては飲み込んできた答えを。どうしてもユキに言ってあげられなかった救いの言葉を、この少年はいとも容易く差し出してしまったのだから。
剣崎くんは、笑顔のユキへ力強く右手を差し出した。
「広瀬。何があっても、俺はずっとお前のそばにいる。それだけは絶対に忘れるなよ」
言葉の返事はなかった。その代わりに、ユキは差し出された大きな手を両手でぎゅっと握りしめた。
夕闇が静かに二人を包み込み、薄紫の空に一番星がひとつ、瞬いていた。
*
……それからというもの、ユキが嬉しそうにスマートフォンの画面を眺めている姿をよく見かけるようになった。クリスマスイブにレイコさんから買ってもらった、あのスマホだ。剣崎くんと頻繁にメッセージを交わしているらしい。
二人は一体、どんな言葉を交わし合っているのだろう。
剣崎くんは『家の事情で受験できなかった』と言っていた。ユキの家庭に何があったのか、剣崎くんは知っているのだ。私の知らないユキの痛みを。
私には話してくれないような深い秘密も、剣崎くんなら打ち明けられるのだろうか。そんなことを考えてしまう自分が惨めで、ひどく悲しかった。
ユキはずっと飢えていたのだ。
自分のすべてを受け入れ、認め、その上で存在を肯定してくれる言葉に。
私が迷い、足踏みしている間に、剣崎くんはあっさりとそれを成し遂げてしまった。
私は『友達としての好き』と『恋人としての好き』について考える。
二人は、その境界線を理解しているのだろうか。
剣崎くんは、ユキにずっとそばにいると誓った。けれど、その言葉に友達としての想いと恋人としての想い、どちらが込められていたのか、境界線は曖昧なままだった。そして、ユキ自身はどうなのだろう。初恋の相手を、本当にただの友達として見つめることなんてできるのだろうか。
きっとユキは、剣崎くんが望む限り『友達』であり続けようとするだろう。けれど、心の中では初恋の淡い痛みを抱き続けるのではないか。
私には、その境界線が見えなかった。あまりにも曖昧で、脆すぎる。
けれど、性別という現実は曖昧ではいられない。男か、女か。
剣崎くんを想い続ける限り、ユキは彼にとって都合のいい『女の子』の姿を選び続けるのではないか。それが本当に、ユキにとっての幸せなのだろうか。
もしそれがユキの選んだ幸福だというのなら、私は笑って祝福してあげるべきだ。
……けれど、私にはどうしてもそれができない。
女の子のままでいてほしいという想いと、男の子としての自分を取り戻してほしいという想いが、私の中で激しくせめぎ合っている。ユキの心が完全に剣崎くんに奪われてしまった今でさえ。
私にユキを縛る権利なんて、何ひとつないというのに。
初恋の相手から、ずっと求めていた救いの言葉をもらえたユキ。
一番近くにいる友達として、誰よりも喜んであげなければならないはずなのに、どうしても心が拒絶してしまう。
私は、そんな自分の醜い感情を持て余し、ただ途方に暮れていた。
