【序】 繭の季節
好きって、なんだろう。
友達としての好きと、恋人としての好き。
その境界線を、私はまだ知らない。
私の初恋は、小学1年生のとき。
相手の名前はタケル。それが本名だったのかどうかは今でも分からない。父がそう呼んでいたから、私も真似して「タケル」と呼んでいただけだ。
タケルは父の知り合いだった。よくうちへ遊びに来ては、そのたびに小さなお土産をくれた。手のひらサイズのクマのぬいぐるみ、星の砂が入った小瓶、外国のポストカードに綺麗な絵本……私の宝物は、ぜんぶタケルがくれたものだった。
幼かった私は、彼がやってくるたびに足元にまとわりついて離れなかった。父にはよく「カルガモの親子か」と笑われたものだ。
とにかくタケルのことが大好きだった。
好きな理由なんて数え切れないほどある。まず何といっても、彼はとびきりのイケメンだった。誰よりも笑顔が眩しくて、微笑むたびにキラキラ光っているように見えた。嘘じゃない。当時の私には眩しすぎて、まともに直視できなかったほどだ(まあ、それはちょっと盛っているかもしれないけれど)。
二つ目の理由。タケルは、呆れるくらい優しかった。小学1年生の私を「子供」扱いせず、ちゃんと一人の女の子として対等に接してくれた。給食を食べるのが遅いとか、鉄棒の逆上がりができないとか、そんなくだらない悩みにも真剣に付き合ってくれたのだ。
そして三つ目。最後にして、一番の理由。
それは、肩車だった。
タケルが来るたび、私は決まって肩車をせがんだ。
背の高いタケルの肩の上に乗ると、いつもの見慣れた景色がまるで違って見えた。空はどこまでも高くて、頬を撫でる風がすぐ近くにある。視界のモヤが一気に晴れて、もう少し背伸びをすれば遠くの海まで見えるんじゃないか――本気でそう思った。
その瞬間、私は初めて「世界の広さ」を知ったのだ。
「タケルは大人になったら何になるの?」と聞いたことがある。彼は少し照れくさそうに笑って、「先生になりたいんだ。高校の先生」と答えた。
「せんせい?」
「ああ。誰かに何かを教えるって、すごく素敵なことだと思わないか?」
その横顔があんまり眩しくて、私は「じゃあ私、タケルの生徒になる!」と得意げに宣言したものだ。タケルは声を上げて笑いながら、「そのころには、お前はとっくに大人だろ」と私の頭を撫でてくれた。
こんな幸せな時間がずっと続くのだと信じていた。この景色が未来へとどこまでも繋がっていて、いつか大人になったらタケルと結婚するのだと、疑いもしなかった。
タケルが家に遊びに来なくなったのは、小学2年生の冬。
毎日のように顔を出していた彼が、ある日を境にパタッと姿を見せなくなった。私の頭の中は「?」マークでいっぱいだった。だってそうでしょう? 私はこんなにタケルが好きなのに、どうして来てくれないの?
父に何度も理由を聞いたけれど、返ってくるのはいつも「さあ?」という曖昧な一言だけ。
そこで初めて、私はタケルのフルネームも住んでいる場所も、何一つ知らないのだと気づいた。今思えばあまりにもお間抜けな話だ。
父に聞けばすぐに分かったはずなのに、どうしても聞けなかった。理由は分からなくても、子供心に「それを聞いたら何かが壊れてしまう」と直感していたのだと思う。
モヤモヤとした霧が晴れないまま、タケルとはもう会えないのだと諦めかけた頃。
私はようやく、彼が消えた「本当の理由」を知ることになる。
きっかけは、父だった。
昔から、うちの父はちょっと変だなとは思っていた。ただ、幼かった私には何がどう変なのかを言葉にできなかったのだ。
私の家には、お母さんがいない。私がまだ目も開かないような赤ん坊の頃に亡くなったと聞かされていた。だから母の顔を知らないけれど、それは別にいい。幼稚園にも母子家庭や父子家庭の子はいたし、寂しさはあっても「そういうもの」として受け入れていた。
問題は、父のほうだ。
どう見ても、よそのお父さんと違う。まず、髪が肩までサラサラと長くて綺麗だった(よそのお父さんは短髪ばかりだし、下手をすると髪自体が怪しい人も多いのに)。着ている服も違う。スーツにネクタイばかりの大人が不思議で、父のようにもっとお洒落で可愛い服を着ればいいのにと思っていた。
『人と違うことは、悪いことじゃない!』
それが父の口癖だった。私も大賛成だったから、父のスタイルの違和感なんて気に留めていなかったのだ。
父はいつも、私よりずっと早起きだった。台所に立つ後ろ姿を、寝ぼけ眼でぼんやり眺めるのが好きだった。フライパンの上でくるりと踊る卵焼き、鼻歌交じりに刻まれる野菜の音。ただそれだけの、なんでもない朝の景色。
「おはよう、繭。今日も可愛いわね」
毎朝欠かさず向けられるその一言に、当時の私は「またそんなこと言って」と唇を尖らせながらも、内心では誇らしくてたまらなかった。父の隣にいると、いつも花の匂いがした。今思えば、それは香水だったのだろう。
友達のお父さんたちとは違う。けれど、それの何がいけないというのだろう。少なくとも私にとって、父は世界で一番格好よくて、世界で一番優しい「お父さん」だった。その事実だけは、何があっても揺るがないはずだった。
けれど、その呑気な日常が打ち破られる日がやってきた。
小学校で仲良くなったチカが、初めて私の家に遊びに来た日のことだ。
あまり友達を家に連れてこない私が友達を連れてきたものだから、父はすっかりテンションが上がってしまった。朝から手作りケーキを焼き、私の部屋に持ち込んで居座ってしまう始末。チカは最初こそ驚いていたものの、すぐに父と打ち解けた。誇らしいような、恥ずかしいような、なんだか複雑な気持ちだったのを覚えている。
やがて夕方になり、チカが帰るときに耳元でぽつりと囁いた。
「いいなあ。あんなに綺麗なお姉さんがいて、うらやましい」
チカが手を振って帰っていったあと、私は玄関先で立ち尽くしていた。
頭の中で、足りなかったパズルのピースが一気に嵌まり込んでいく。今までぼんやりとしていた違和感の正体が、音を立てて形を結んだ。
そうか――父は世間から見れば「お父さん」じゃない。世間では、父のような見た目の人を「お姉さん」とか「お母さん」と呼ぶのだ。
なぜ父が男であることをやめ、女の子の格好をするようになったのか。当時の私にそんな深い事情が分かるはずもなかった。けれど、その事実を理解した瞬間、雪崩のようにさらに大きな真実に気づいてしまった。
――そう、タケルは父の恋人だったのだ。
その瞬間の私の絶望を、誰が想像できるだろう。
初恋の相手は、父の彼氏。私は勝負のリングにすら上がれていなかったのだ。
私はそのとき、心に固く誓った。もう二度と、恋なんてしない。絶対にするもんか。
……それなのに。
私は――私たちは、出会ってしまった。
そう、あの日、あの場所で。
まだ何も知らなかった。
あの少年もまた、私と同じように、誰にも言えない秘密を抱えていることを。
物語の幕が静かに上がり、スポットライトが私を照らし始めていたことも。自分がすでに、逃れられない舞台の上に立っていたことさえも。
かき割りに描かれた、作りものの青空。
その低い空の下で、私はただ一人、どこか遠くを見つめ続けていた。
好きって、なんだろう。
友達としての好きと、恋人としての好き。
その境界線を、私はまだ知らない。
私の初恋は、小学1年生のとき。
相手の名前はタケル。それが本名だったのかどうかは今でも分からない。父がそう呼んでいたから、私も真似して「タケル」と呼んでいただけだ。
タケルは父の知り合いだった。よくうちへ遊びに来ては、そのたびに小さなお土産をくれた。手のひらサイズのクマのぬいぐるみ、星の砂が入った小瓶、外国のポストカードに綺麗な絵本……私の宝物は、ぜんぶタケルがくれたものだった。
幼かった私は、彼がやってくるたびに足元にまとわりついて離れなかった。父にはよく「カルガモの親子か」と笑われたものだ。
とにかくタケルのことが大好きだった。
好きな理由なんて数え切れないほどある。まず何といっても、彼はとびきりのイケメンだった。誰よりも笑顔が眩しくて、微笑むたびにキラキラ光っているように見えた。嘘じゃない。当時の私には眩しすぎて、まともに直視できなかったほどだ(まあ、それはちょっと盛っているかもしれないけれど)。
二つ目の理由。タケルは、呆れるくらい優しかった。小学1年生の私を「子供」扱いせず、ちゃんと一人の女の子として対等に接してくれた。給食を食べるのが遅いとか、鉄棒の逆上がりができないとか、そんなくだらない悩みにも真剣に付き合ってくれたのだ。
そして三つ目。最後にして、一番の理由。
それは、肩車だった。
タケルが来るたび、私は決まって肩車をせがんだ。
背の高いタケルの肩の上に乗ると、いつもの見慣れた景色がまるで違って見えた。空はどこまでも高くて、頬を撫でる風がすぐ近くにある。視界のモヤが一気に晴れて、もう少し背伸びをすれば遠くの海まで見えるんじゃないか――本気でそう思った。
その瞬間、私は初めて「世界の広さ」を知ったのだ。
「タケルは大人になったら何になるの?」と聞いたことがある。彼は少し照れくさそうに笑って、「先生になりたいんだ。高校の先生」と答えた。
「せんせい?」
「ああ。誰かに何かを教えるって、すごく素敵なことだと思わないか?」
その横顔があんまり眩しくて、私は「じゃあ私、タケルの生徒になる!」と得意げに宣言したものだ。タケルは声を上げて笑いながら、「そのころには、お前はとっくに大人だろ」と私の頭を撫でてくれた。
こんな幸せな時間がずっと続くのだと信じていた。この景色が未来へとどこまでも繋がっていて、いつか大人になったらタケルと結婚するのだと、疑いもしなかった。
タケルが家に遊びに来なくなったのは、小学2年生の冬。
毎日のように顔を出していた彼が、ある日を境にパタッと姿を見せなくなった。私の頭の中は「?」マークでいっぱいだった。だってそうでしょう? 私はこんなにタケルが好きなのに、どうして来てくれないの?
父に何度も理由を聞いたけれど、返ってくるのはいつも「さあ?」という曖昧な一言だけ。
そこで初めて、私はタケルのフルネームも住んでいる場所も、何一つ知らないのだと気づいた。今思えばあまりにもお間抜けな話だ。
父に聞けばすぐに分かったはずなのに、どうしても聞けなかった。理由は分からなくても、子供心に「それを聞いたら何かが壊れてしまう」と直感していたのだと思う。
モヤモヤとした霧が晴れないまま、タケルとはもう会えないのだと諦めかけた頃。
私はようやく、彼が消えた「本当の理由」を知ることになる。
きっかけは、父だった。
昔から、うちの父はちょっと変だなとは思っていた。ただ、幼かった私には何がどう変なのかを言葉にできなかったのだ。
私の家には、お母さんがいない。私がまだ目も開かないような赤ん坊の頃に亡くなったと聞かされていた。だから母の顔を知らないけれど、それは別にいい。幼稚園にも母子家庭や父子家庭の子はいたし、寂しさはあっても「そういうもの」として受け入れていた。
問題は、父のほうだ。
どう見ても、よそのお父さんと違う。まず、髪が肩までサラサラと長くて綺麗だった(よそのお父さんは短髪ばかりだし、下手をすると髪自体が怪しい人も多いのに)。着ている服も違う。スーツにネクタイばかりの大人が不思議で、父のようにもっとお洒落で可愛い服を着ればいいのにと思っていた。
『人と違うことは、悪いことじゃない!』
それが父の口癖だった。私も大賛成だったから、父のスタイルの違和感なんて気に留めていなかったのだ。
父はいつも、私よりずっと早起きだった。台所に立つ後ろ姿を、寝ぼけ眼でぼんやり眺めるのが好きだった。フライパンの上でくるりと踊る卵焼き、鼻歌交じりに刻まれる野菜の音。ただそれだけの、なんでもない朝の景色。
「おはよう、繭。今日も可愛いわね」
毎朝欠かさず向けられるその一言に、当時の私は「またそんなこと言って」と唇を尖らせながらも、内心では誇らしくてたまらなかった。父の隣にいると、いつも花の匂いがした。今思えば、それは香水だったのだろう。
友達のお父さんたちとは違う。けれど、それの何がいけないというのだろう。少なくとも私にとって、父は世界で一番格好よくて、世界で一番優しい「お父さん」だった。その事実だけは、何があっても揺るがないはずだった。
けれど、その呑気な日常が打ち破られる日がやってきた。
小学校で仲良くなったチカが、初めて私の家に遊びに来た日のことだ。
あまり友達を家に連れてこない私が友達を連れてきたものだから、父はすっかりテンションが上がってしまった。朝から手作りケーキを焼き、私の部屋に持ち込んで居座ってしまう始末。チカは最初こそ驚いていたものの、すぐに父と打ち解けた。誇らしいような、恥ずかしいような、なんだか複雑な気持ちだったのを覚えている。
やがて夕方になり、チカが帰るときに耳元でぽつりと囁いた。
「いいなあ。あんなに綺麗なお姉さんがいて、うらやましい」
チカが手を振って帰っていったあと、私は玄関先で立ち尽くしていた。
頭の中で、足りなかったパズルのピースが一気に嵌まり込んでいく。今までぼんやりとしていた違和感の正体が、音を立てて形を結んだ。
そうか――父は世間から見れば「お父さん」じゃない。世間では、父のような見た目の人を「お姉さん」とか「お母さん」と呼ぶのだ。
なぜ父が男であることをやめ、女の子の格好をするようになったのか。当時の私にそんな深い事情が分かるはずもなかった。けれど、その事実を理解した瞬間、雪崩のようにさらに大きな真実に気づいてしまった。
――そう、タケルは父の恋人だったのだ。
その瞬間の私の絶望を、誰が想像できるだろう。
初恋の相手は、父の彼氏。私は勝負のリングにすら上がれていなかったのだ。
私はそのとき、心に固く誓った。もう二度と、恋なんてしない。絶対にするもんか。
……それなのに。
私は――私たちは、出会ってしまった。
そう、あの日、あの場所で。
まだ何も知らなかった。
あの少年もまた、私と同じように、誰にも言えない秘密を抱えていることを。
物語の幕が静かに上がり、スポットライトが私を照らし始めていたことも。自分がすでに、逃れられない舞台の上に立っていたことさえも。
かき割りに描かれた、作りものの青空。
その低い空の下で、私はただ一人、どこか遠くを見つめ続けていた。
