買い物を終えた二人は、帝都の中心を離れ、帰路についていた。雑踏から抜けると辺りも静かになり、自ずと気が抜けていく。やはりほぼ初めてと言っていい帝都への買い物は、いくら楽しかろうと慣れない花野には少し負担があった。
それでも笑顔を絶やさないのは、季美への贈り物を買えたから。しかも、すごく満足いく形で。
「良かったのですか? 俺が選んだ物なんかで」
すっかり雨が止んでいたため、傘はたたんで時雨が持っていた。花野が「持ちます」と言ったが、頑なに拒否されたのだ。そのため渋々、軽い荷物を一つ、薄い紙袋に入れて持っている。
「『なんか』、ではないです。絵葉書、必ず気に入ってくれると思います。これを使って、季美さんが私に近況を書いてくれたら、とても嬉しいです」
そう言って、花野は紙袋を持つ手に力を入れる。
そう、季美への贈り物は「絵葉書」だ。海の近くの町へ嫁ぐと言っていたから、海の絵が入ったものを選んだ。しかも海の向こうに、帝都の街並みも描かれている。
まさしく、それぞれの場所に住む自分と季美。
まるで離れていても二人の心が繋がっていることを象徴しているような一品に、花野は大満足だった。
「あ、でも手紙が来ても私は読めませんね」
「その時は俺が読みましょう、……ん?」
時雨の足が止まる。その口から「門の前に、一台の車が」という言葉が出た。
二人は、もう屋敷の手前まで帰ってきていた。
時雨が言うには、車から降りた運転手が、門の前で何やら話しているらしい。しかも初老の運転手を相手に、花野の両親が頭を下げているという。
時雨は全てのことを話さなかったが、長房とあや子はあべこべ人形のように何度も頭を下げた後、お辞儀したまま車を送り出していた。
「車から降りず運転手に全てを任せる傲慢知己な主に、何をそんなに気を遣っているのか」
ボソリと呟いた時雨の言葉は、長房が「花野」と呼ぶ声と重なる。
時雨の言葉が気になりながらも、花野は声のする方へ歩みを進めた。
「どうされたのですか、お父さま」
声を頼りに近づくと、長房が「喜べ」と花野の両肩を掴む。
「嫁ぎ先が決まったぞ。枯元(かれもと)家だ!」
「え……」
花野が言葉を失ったのも無理はない。枯元家と言えばかなりの資産家だが、その息子の忠司(ただし)が手をつけられないほど我がままで、自由奔放に過ごしているという。
枯元家と繋がりを求めて多くの令嬢が縁談を求めたが、忠司が全て不当な理由で断った。しかし、そんなことをしている内に、跡継ぎである自分も四十歳になり、婚期を逃してしまった。いくら枯元家とはいえ、もうまっとうな家柄とは結婚できない。
しかし家系を途絶えさすわけにはいかないため、忠司の父である現当主が「必死に縁談を組んでいる」というのは、ここ最近になって急に湧いて出た噂だった。
さっき時雨が傲慢知己と言ったのも頷ける。
相手が、あの枯元忠司というのなら。
(そんな人の結婚相手に、私が?)
花野の胸が、ぞうきんを絞るようにグシャリと潰れる。
だって、これではまるで余りものの寄せ集めだ。誰からも見向きもされなかった者同士が一緒になっても、そこに幸せは生まれない。数々の令嬢を無下に断ってきた話が本当なら、仲良くなれるかさえ怪しいほど。
「……っ」
嫌だ、嫌だ、断りたい――花野の口元が、ひくりと揺れる。
長房が盲目の自分のために必死で嫁ぎ先を考えてくれる、その気持ちは嬉しい。けれど、こんな結婚では本末転倒だ。
確かに不自由なく暮らすための金は手に入るかもしれない。だけどそれだけだ。花野の心が満たされ、色づくことはない。
(既に心が冷たい。まるで体から心臓を取り出し、積もった雪の上にむき身で放り出したかのよう)
時雨と一緒にいて温まった心が、急速に温度を失っていく。しかしそんな花野を前にしても、長房はご機嫌を隠しきれないまま話を続ける。よかったなとか、これで何も心配いらないとか。
それは一体誰を思って言っている言葉なのかと。問いただしたいくらい的外れな意見だった。
「幸せになれよ、花野」
「!」
なれない、私こんなことをされて、幸せになんてなれないわ――花野は唇に力を入れる。笑わないように努めた。笑いたくない時は笑うなと、そう時雨が教えてくれたから。
「お父さま……私っ」
「お前には、いつも苦労をかけたからな。苦しかっただろ、でも、それももう終わりだ」
花野がヒュッと息を飲んだと同時に、今度は頭に手を置かれる。あや子だ。
「花野。よかったわね、本当に。幸せになるのよ」
「お母、さま……」
二人から、そんなことを言われた花野は……全身が脱力した。
(もしかしてお父さまとお母さまは……私ではなく、自分自身を労っている?)
やっと結婚が決まった、今まで苦労した、これでもう終わりだ、よかった本当に――そんなことを両親が言うわけないと思っていても、もしかして本音はそのように思っているのでは? と。一度そう思い始めたら止まらなくなった。
そうなると花野の強気な心も、一気にしぼんでいく。
(確かに私、今まで二人に迷惑ばかりかけてきた。ここで嫌と言えば、更に迷惑をかけることになる。それは……できないわ)
笑わないようにと横に結んだ唇が、ゆるりと伸びる。その時に後ろから「花野さま」と声がかかったが……断腸の思いで耳に蓋をし、聞かなかったことにした。
(こんな顔、時雨さんには見せられない)
自分自身を大切にすると言ったこの口で、今から本音と真逆のことを言うのだから――
「お父さまお母さま」
いつもと同じ作り笑いを、花野は極めて滑らかに浮かべる。
「ありがとうございます。私、幸せになります」
言い切ると、時雨の視線が背中に突き刺さった……気がした。花野の思い込みかもしれない。だけど落胆はされただろう。
本当はありがとうなんてこれっぽっちも思ってないくせに、笑いたくないくせに――
突き刺さる視線から、彼の気持ちが流れ込んでくるようだった。
(ごめんなさい時雨さん。育ててもらった恩がある限り、私は親孝行しないといけないのです)
それがこの時代の名家の令嬢、今の自分の生き方だと。そう諦めた花野は、笑みを深めた。
――そんな彼女の後ろでは、時雨が真一文字に口を結んでいる。
長房とあや子が「よかったな」という度に肩を落とす花野を見て、眉や口がぐにゃりと歪んだ。
「どっちの目が見えていないんだ」
小さく悪態をつく。しかしその声も、両親が花野を祝う声にかき消されてしまった。
◇
婚約が決まった翌朝。花野は自室で味気ない朝食をとっていた。
味気ないといっても、食事は料理人が作ってくれるため、いつもと変わらぬ上品な味付けだ。変化があったのは、花野の方である。
婚約が決まってからというもの食欲が湧かない。今も湯気の上がらない冷え切った味噌汁の椀を、指でツイとなぞるだけ。
「はぁ……」
ため息も、もう何度目だろう。その度に「いけない」と頬を叩くのも、もう何度目だろう。
チラリと横を見る。障子の向こうには、座って控える時雨の影が写っていた。
(結局、あれからまともに話をしていないわ……)
あれから、というのは「もっと自分を大切にする」と言った当日に、嬉しくもない縁談に喜んだフリをしたことだ。その一部始終を時雨に見られてしまい、花野は合わせる顔がない。
時雨は、きっと怒っている。
現に彼は、買い物の時のように話しかけてくれなくなった。質問すれば答えてくれるけど、それだけだ。これではまるで出会った頃と同じ。初対面で冷たかった、あの時と同じだ。
花野はおもむろに席を立つ。そうして手探りで、ある物を探した。
(傘……よかった、あったわ)
あの日の二人を象徴する傘だけが、まるで居場所を間違えたように部屋の隅に置かれている。花野が「そうしてほしい」と時雨に頼んだのだ。この傘を触っている時だけ、あの日の温かな気持ちを思い出し、少しだけ心が和むから。
「また行きたいな……」
帝都に行きたい、もちろん時雨と一緒に。ジャズの音を聞きながら、カレーライスの話をして、二人でお店を回りたい。
時雨は見た物についてたくさん話してくれるから、あの時ばかりは花野の視界も色づいた。時雨のおかげで景色を想像できたのだ。だからお店を、帝都を、お出かけを好きになれた。
「……うん、そうよね」
花野は小さく息を吐き、パンパンと頬を叩く。
(この思い出を胸に、嫁いでいこう。あの日のキラキラした景色は、きっと一生、私を幸せな気分にさせてくれるわ。例え、どれほどひどい現実が待っていたとしても。
せっかくお父さまが良縁を結んでくださったんですもの。私は、それに応えなくては)
すると「終わりましたか」と時雨が障子を開けた。花野は時雨にバレないよう、急いで傘から離れる。そしてほとんど手をつけていないご飯に向かい、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
時雨は少し間を空けた後。「今……いや、何でもありません」と返事をした。



