父への申し訳なさを抱いていると、時雨に呼ばれた。そうして、さっきの質問に答えてほしいと催促される。
ここは素直に答えるべきだろうと、花野は「雨の匂い」について説明した。
「私は、ほら、目が見えないでしょう? だから代わりに耳や鼻がいいんです。といっても私の鼻が極端にいいのは、雨の匂いだけです。他の匂いに関しては、ちょっと敏感なくらいですよ」
「そうなった時期は……」
「目が見えなくなった三歳から、この状態でした。なので先日の朱花の異能と、私の嗅覚は無関係ですよ。だからそんなに心配しないでください……きゃっ」
走りゆく人の鞄に当たり、思わずよろけてしまった。その瞬間、この初夏に似合わない時雨の冷えた手が、とっさに花野の肩を支える。
「あ、ありがとうございます」
「いえ、お怪我は?」
「ぶつかっただけなので、大丈夫です。……今日は、人が多いのですね」
「帝都はいつも、こんなものですよ」
思いのほか知ったような口ぶりだ。そういえば時雨は軍人で、自分のように家に引きこもっている人ではない。
「そうなのですね。いい社会勉強になります。
時雨さんは、帝都にお詳しいのですか?」
「軍の本部が近いので、自ずと詳しくなりました」
「まぁ、それなら心強いです」
気づけば花野は、たくさんの質問をしていた。家にこもりきりの花野にとって、ここは初めての物ばかり。視覚以外の感覚から拾う情報に触れては、時雨に「あれは?」と尋ねた。
「なんだか陽気な音楽が流れていますね」
「ジャズ、というものです。若者が集っていますね」
ラジオで聞いたことがある。花野は「これが」と、音楽に合わせて胸の奥で鼓動が高鳴るのを感じた。
音楽は好きだ。目が見える人にも見えない人にも、分け隔てなく公平に与えられるものだから。だから目が見えなくなった今も、ピアノを好きでい続けるのかもしれない。
すると聴覚の次は、嗅覚が刺激された。けれども少しだけ、不思議な感じ。
「この匂いは何ですか? ちょっとツンとするような……」
「ライスカレーという食べ物です。人気の洋食です」
「あ、それなら食べたことがあります。うちにいる料理人が作ってくれたんです。でも家で食べた物より、刺激が強い匂いですね」
「……苦手ですか?」
今日の時雨は、たくさん話してくれる。
時雨は基本、あまり喋らない。最初よりは口数が多くなったものの、それでも必要事項のみであることがほとんどだ。だから今日は珍しかった。
たくさん質問してくれることが、ひどく嬉しい。まるで自分のことを知りたいと思ってくれているようで。
「この匂いも好きです、いつか食べてみたいですっ」
「……そうですか」
そっけない返事だが、言い方は優しい。ちょっとだけ笑ったように聞こえたのは、きっと気のせいではない。
(今日、時雨さんと帝都へ来てよかった)
慣れない帝都へ行ったものの季美への品物が見つからず、ただの徒労に終わらないか心配だった。
けれど、気づけばこうして楽しい時間を過ごせている。たとえ目は見えなくても、心は充実していた。
(このまま、穏やかな時間が続きますように)
しかし――とある噂が、二人の耳に入る。
「『気の毒令嬢』?」
「そう、秋之橋家のご息女だよ。子宝に恵まれず、生まれたのは女だけ。しかも目が見えないってんだから、どの名家も、秋之橋家やその令嬢に同情してるんだとよ」
「そういや千田家も縁談を断ったとか」
「いくら金のなる木でも、目が見えないんじゃな。負担がでかいってもんだ」
そこまで聞こえたところで、ピタリと話しが止んだ。そうして自分の足も止まった。というのも、時雨が全く歩かなくなったのだ。
「あの……」
どうしたのかと尋ねようとした瞬間。時雨から、ピリッとした冷気が漂ってくる。パチパチと、まるで電気が走るような音もした。
しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐ初夏の日差しにぬりかえられる。さっきとはうって変わり、温かな空気が戻った。
(気のせい、だったのかしら……?)
花野が疑問を抱くと同時に、噂していた男たちが悲鳴を上げて慌て始める。
「さっきの……ひっ! じゅ、獣人だっ」
「なんで今まで気づかなかったんだ……。胸糞悪い、行くぞ!」
そうして地面を蹴る足音が遠くなる。あの人たちは、本当に行ってしまったらしい。すると花野はすぐ「すみません」と時雨に謝った。
「私のせいで嫌な思いをさせてしまって……」
さっきの男たちの言葉は、ひどいものだった。「胸糞悪い」なんて……。
自分のせいで、時雨まで巻きこんでしまった。一緒にいなければ、こんなことにはならなかったのに。
(やっぱり私は、いつも周りの人を不幸にしてしまう)
すると時雨の冷えた手が、花野の肩に触れる。
「顔を上げてください」
「でも、せっかくのお出かけなのに暗い気分にさせてしまって」
すると時雨からパタリと返事がなくなった。不思議に思っていると、
「……『せっかく』と思ってくれているのか」
とポツリと声が聞こえた。……どういうことだろう?
聞き返そうとすると、時雨が「行きましょう」と花野を促す。
どうやらさっきの件で目立ってしまったらしい。「あれが気の毒令嬢で」「あっちが獣人」と、あちらこちらで声が聞こえる。
花野は耳を塞ぎたくなる衝動に駆られながら、速足でこの場を去った。
しばらく歩くと、周りの人の声が止む。それを見はからったかのように、時雨が口を開いた。
「さっきの……俺はいいとして」
「え?」
「自分のことも、聞こえていたのだろう?」
時雨のいう「自分のこと」とは、花野が「気の毒令嬢」と噂されていたことだろう。それをあざ笑うかのように、見ず知らずの男たちが話していた――それらのことに気分を悪くした時雨の口調が崩れていることに気づかず、花野はキュッと下唇をかむ。
「……聞こえていました」
「だったら、なぜ笑う? どうして咎めない?
さっきの奴らは明らかに非礼だった」
花野は、時雨へ振り返る。着物の前で両手を合わせ、いつもの笑顔を貼り付けたまま。
「でも、事実ですから」
そう、事実なのだ。どれほど他人に自分のことを言われようが。目が見えないことも、縁談を断られたことも全て事実なのだ。気の毒なのも、その通り。
「誰も悪くありません。あの人も、きっと私も……」
置かれた身の上を、今さら変えることはできない。だったら受け入れるだけだ。
怒りの矛先を他人に向けることはお門違いだと、もう花野は知っている。言われることが事実だからこそ、悲しみや怒りを覚えたところで余計に虚しくなるだけ。
そこへ、雨の匂いが一段と濃くなった。異常な速さで雨雲が発達しているらしい。夕立だろう。轟く雷鳴に驚く人たちの声で、一気に周りが騒がしくなった。
そこに意識を向けていたからだろうか。
「――気に入らないな」
時雨が何と言ったか、花野にはよく聞こえなかった。そればかりか急に手を握られ、そのまま引っ張られる。
同時にバサリと、何かを被せられた。厚い服のようだ。それを動かすとシャラリと音がする。これは徽章がぶつかる音?
「えっと……あの……?」
時雨が軍服を脱いで自分に被せてくれたのだと花野は理解できた。だけど、どうして? いつも嗅いでいる時雨の匂いを濃く感じながら、疑問に思う。
そんな中、服越しに時雨のくぐもった声が聞こえた。
「花野さまが気にしないと言うなら、俺は何も言いません。でも俺は護衛として隣にいる。
あなたの身だけでなく心もお守りしたいと思っていることは、忘れないでほしい」
「っ!」
これには花野も反応してしまった。
心が、どうしようもないほど揺れる。
なんて返事しようか言葉を探していると、布越しにぎゅっと力が加わった。それは一瞬のことで、もう何も感じない。今は、少し慌てた時雨の気配があるだけ。
すると、また一段と雨の匂いが濃くなる。やがて地面にシミが落ち、本格的な雨が降り始めた。
「少し、雨宿りしましょう」
二人は店の軒下に移動した。軍服をとっていいかと聞かれたが、気恥ずかしくて花野は「もう少しこのままで」と、今もなお、てるてる坊主のような格好になっている。
泣いてはいないが、今自分はグシャグシャな顔をしているのではないかと危惧してのことだった。
しかし、これでは逆に気まずいのでは? と気づいたのは、そのすぐ後のことである。
だけど本音を言いやすい環境でもあると気づき……花野は、さっきの返事を兼ねて、今まで打ち明けなかった本心をぽつりぽつりと話し始める。
「私……聴覚さえも衰えたらいいのにと、今まで何度も思いました」
何も聞こえなかったら、こうして自分のことをとやかく聞かなくていい。自分自身を守っていける――
誰かに投げかけられた無鉄砲な言葉に傷つくことがない世界に行きたいと、暗闇の世界で何度願っただろう。
「悲しいことを言われても、悟られないよう笑顔でいる。それを繰り返すうちに、私は自分を『人ではないただの荷物』と思うようになりました」
軍服の下、花野は思い出す。
名家から縁談を断られる度に、隠れて両親が意気消沈していたことを。
『あの子の目さえ見えていたら……』
何度そう言われただろう。その言葉で傷ついた自分を、何度なかったことにしただろう。
それでも花野は、笑顔でいることを努めた。
「現にお荷物でしたし、そんな私を周りが『気の毒』と同情してくれれば、辛い気持ちも薄らぐような気がしました。ですが……」
お見合いをなかったことにされた。
全く知らない人に路上でけなされた。
これにはいくらなんでも心が冷えてしまった。生きている意味はない、と物騒な考えも浮かんだほどだ。
生きているだけで辱めを受けているような、いつも矢面に立たされているような……こんな気分は、もうたくさんだった。
だけど、そんなどこまでも落ちゆく自分を、時雨がすくってくれた。
――あなたの身だけでなく心もお守りしたいと思っていることは、忘れないでほしい
あの言葉に、花野は確かに救われたのだ。
「時雨さんにあぁ言ってもらえて、私は初めて、自分をお荷物じゃないかもと思えました」
彼が守ると言ってくれた。
そんな自分を、もう少し大切にしようと思う。
「私が自分を大切にしたら、時雨さんも喜んでくれますか……なんて。
あれ、時雨さん?」
さっきから時雨の返事がない。いつの間にか気配が消えている。
もしかして先に帰った? いや、そんなはずは――
「もちろん、喜びますよ」
「っ!」
パタパタと「何か」にぶつかる雨音が、だんだん大きくなる。同時に、雨に濡れた地面を踏む革靴の音も聞こえた。
どうやら時雨は、今まで本当に席を外していたらしい。しかし会話が繋がるということは、目と鼻の先にいた……ということだろう。
それならと、花野も話を続ける。
「本当に、喜んでくれますか? 私が私を大切にしても、時雨さんには何の利益もないですよ?」
少し意地悪なことを言うと、上からかぶっていた軍服をサッととられる。代わりに、細長い何かをつかまされた。
「少なくとも今、傘を渡すほどには……風邪をひいてほしくないと思うほどには、俺もあなたを大切に思っているので。
だから花野さまも自分を大切にしてください。笑いたくない時は、無理に笑わなくていい」
「どうして、そこまで……」
尋ねると、時雨はしばらく無言になった。挙句の果てに「どうしてだろうな」と笑うから、花野も困ってしまう。
「花野さまは強かだ。だけど、あまりにも自分を顧みない。だからこそ俺が守らなければ、と思うのかもしれません」
加えて「それと、生き方が危なっかしくて見てられない」と時雨。あまりに正直な意見に、花野も笑ってしまった。
「時雨さん……ありがとうございますっ」
「――」
さっき軍服で顔を隠した時とは違い、花野はためらうことなく時雨に笑みを向ける。
すると、なぜか時雨の喉がゴクッと鳴った。咳……ではなさそうだ。
するとパタパタと傘を叩く雨音に、再び意識が戻る。全く濡れないということは、大きな傘なのだろう。
(時雨さんが私のためにと買ってくれた傘は、どんな物かしら?)
そう思って顔を上げる。当然見えやしないのに、どうしても見たくなって……。
花野が苦笑を浮かべていると「傘の柄ですが」と、時雨が口を開く。
「朝顔の絵が描かれた和傘です。青色と紫色の花がとても鮮やかですよ」
「――はいっ」
花野は目が見えない。だから心の目で見るのだ。時雨が教えてくれたことを、心の中で再現する。
(うん、とても素敵な傘だわ)
花野が思い浮かべる和傘。そこにはキレイな朝顔が二つ、大輪を咲かせていた。
そうして一つの傘の下、二人は並んで歩き、色んな店を回った。そうして文房具店を訪れた時、目当ての品にやっと出会えたのだった。
この時、花野は心から幸せを噛み締めていた。
屋敷に帰る、その時までは――
ここは素直に答えるべきだろうと、花野は「雨の匂い」について説明した。
「私は、ほら、目が見えないでしょう? だから代わりに耳や鼻がいいんです。といっても私の鼻が極端にいいのは、雨の匂いだけです。他の匂いに関しては、ちょっと敏感なくらいですよ」
「そうなった時期は……」
「目が見えなくなった三歳から、この状態でした。なので先日の朱花の異能と、私の嗅覚は無関係ですよ。だからそんなに心配しないでください……きゃっ」
走りゆく人の鞄に当たり、思わずよろけてしまった。その瞬間、この初夏に似合わない時雨の冷えた手が、とっさに花野の肩を支える。
「あ、ありがとうございます」
「いえ、お怪我は?」
「ぶつかっただけなので、大丈夫です。……今日は、人が多いのですね」
「帝都はいつも、こんなものですよ」
思いのほか知ったような口ぶりだ。そういえば時雨は軍人で、自分のように家に引きこもっている人ではない。
「そうなのですね。いい社会勉強になります。
時雨さんは、帝都にお詳しいのですか?」
「軍の本部が近いので、自ずと詳しくなりました」
「まぁ、それなら心強いです」
気づけば花野は、たくさんの質問をしていた。家にこもりきりの花野にとって、ここは初めての物ばかり。視覚以外の感覚から拾う情報に触れては、時雨に「あれは?」と尋ねた。
「なんだか陽気な音楽が流れていますね」
「ジャズ、というものです。若者が集っていますね」
ラジオで聞いたことがある。花野は「これが」と、音楽に合わせて胸の奥で鼓動が高鳴るのを感じた。
音楽は好きだ。目が見える人にも見えない人にも、分け隔てなく公平に与えられるものだから。だから目が見えなくなった今も、ピアノを好きでい続けるのかもしれない。
すると聴覚の次は、嗅覚が刺激された。けれども少しだけ、不思議な感じ。
「この匂いは何ですか? ちょっとツンとするような……」
「ライスカレーという食べ物です。人気の洋食です」
「あ、それなら食べたことがあります。うちにいる料理人が作ってくれたんです。でも家で食べた物より、刺激が強い匂いですね」
「……苦手ですか?」
今日の時雨は、たくさん話してくれる。
時雨は基本、あまり喋らない。最初よりは口数が多くなったものの、それでも必要事項のみであることがほとんどだ。だから今日は珍しかった。
たくさん質問してくれることが、ひどく嬉しい。まるで自分のことを知りたいと思ってくれているようで。
「この匂いも好きです、いつか食べてみたいですっ」
「……そうですか」
そっけない返事だが、言い方は優しい。ちょっとだけ笑ったように聞こえたのは、きっと気のせいではない。
(今日、時雨さんと帝都へ来てよかった)
慣れない帝都へ行ったものの季美への品物が見つからず、ただの徒労に終わらないか心配だった。
けれど、気づけばこうして楽しい時間を過ごせている。たとえ目は見えなくても、心は充実していた。
(このまま、穏やかな時間が続きますように)
しかし――とある噂が、二人の耳に入る。
「『気の毒令嬢』?」
「そう、秋之橋家のご息女だよ。子宝に恵まれず、生まれたのは女だけ。しかも目が見えないってんだから、どの名家も、秋之橋家やその令嬢に同情してるんだとよ」
「そういや千田家も縁談を断ったとか」
「いくら金のなる木でも、目が見えないんじゃな。負担がでかいってもんだ」
そこまで聞こえたところで、ピタリと話しが止んだ。そうして自分の足も止まった。というのも、時雨が全く歩かなくなったのだ。
「あの……」
どうしたのかと尋ねようとした瞬間。時雨から、ピリッとした冷気が漂ってくる。パチパチと、まるで電気が走るような音もした。
しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐ初夏の日差しにぬりかえられる。さっきとはうって変わり、温かな空気が戻った。
(気のせい、だったのかしら……?)
花野が疑問を抱くと同時に、噂していた男たちが悲鳴を上げて慌て始める。
「さっきの……ひっ! じゅ、獣人だっ」
「なんで今まで気づかなかったんだ……。胸糞悪い、行くぞ!」
そうして地面を蹴る足音が遠くなる。あの人たちは、本当に行ってしまったらしい。すると花野はすぐ「すみません」と時雨に謝った。
「私のせいで嫌な思いをさせてしまって……」
さっきの男たちの言葉は、ひどいものだった。「胸糞悪い」なんて……。
自分のせいで、時雨まで巻きこんでしまった。一緒にいなければ、こんなことにはならなかったのに。
(やっぱり私は、いつも周りの人を不幸にしてしまう)
すると時雨の冷えた手が、花野の肩に触れる。
「顔を上げてください」
「でも、せっかくのお出かけなのに暗い気分にさせてしまって」
すると時雨からパタリと返事がなくなった。不思議に思っていると、
「……『せっかく』と思ってくれているのか」
とポツリと声が聞こえた。……どういうことだろう?
聞き返そうとすると、時雨が「行きましょう」と花野を促す。
どうやらさっきの件で目立ってしまったらしい。「あれが気の毒令嬢で」「あっちが獣人」と、あちらこちらで声が聞こえる。
花野は耳を塞ぎたくなる衝動に駆られながら、速足でこの場を去った。
しばらく歩くと、周りの人の声が止む。それを見はからったかのように、時雨が口を開いた。
「さっきの……俺はいいとして」
「え?」
「自分のことも、聞こえていたのだろう?」
時雨のいう「自分のこと」とは、花野が「気の毒令嬢」と噂されていたことだろう。それをあざ笑うかのように、見ず知らずの男たちが話していた――それらのことに気分を悪くした時雨の口調が崩れていることに気づかず、花野はキュッと下唇をかむ。
「……聞こえていました」
「だったら、なぜ笑う? どうして咎めない?
さっきの奴らは明らかに非礼だった」
花野は、時雨へ振り返る。着物の前で両手を合わせ、いつもの笑顔を貼り付けたまま。
「でも、事実ですから」
そう、事実なのだ。どれほど他人に自分のことを言われようが。目が見えないことも、縁談を断られたことも全て事実なのだ。気の毒なのも、その通り。
「誰も悪くありません。あの人も、きっと私も……」
置かれた身の上を、今さら変えることはできない。だったら受け入れるだけだ。
怒りの矛先を他人に向けることはお門違いだと、もう花野は知っている。言われることが事実だからこそ、悲しみや怒りを覚えたところで余計に虚しくなるだけ。
そこへ、雨の匂いが一段と濃くなった。異常な速さで雨雲が発達しているらしい。夕立だろう。轟く雷鳴に驚く人たちの声で、一気に周りが騒がしくなった。
そこに意識を向けていたからだろうか。
「――気に入らないな」
時雨が何と言ったか、花野にはよく聞こえなかった。そればかりか急に手を握られ、そのまま引っ張られる。
同時にバサリと、何かを被せられた。厚い服のようだ。それを動かすとシャラリと音がする。これは徽章がぶつかる音?
「えっと……あの……?」
時雨が軍服を脱いで自分に被せてくれたのだと花野は理解できた。だけど、どうして? いつも嗅いでいる時雨の匂いを濃く感じながら、疑問に思う。
そんな中、服越しに時雨のくぐもった声が聞こえた。
「花野さまが気にしないと言うなら、俺は何も言いません。でも俺は護衛として隣にいる。
あなたの身だけでなく心もお守りしたいと思っていることは、忘れないでほしい」
「っ!」
これには花野も反応してしまった。
心が、どうしようもないほど揺れる。
なんて返事しようか言葉を探していると、布越しにぎゅっと力が加わった。それは一瞬のことで、もう何も感じない。今は、少し慌てた時雨の気配があるだけ。
すると、また一段と雨の匂いが濃くなる。やがて地面にシミが落ち、本格的な雨が降り始めた。
「少し、雨宿りしましょう」
二人は店の軒下に移動した。軍服をとっていいかと聞かれたが、気恥ずかしくて花野は「もう少しこのままで」と、今もなお、てるてる坊主のような格好になっている。
泣いてはいないが、今自分はグシャグシャな顔をしているのではないかと危惧してのことだった。
しかし、これでは逆に気まずいのでは? と気づいたのは、そのすぐ後のことである。
だけど本音を言いやすい環境でもあると気づき……花野は、さっきの返事を兼ねて、今まで打ち明けなかった本心をぽつりぽつりと話し始める。
「私……聴覚さえも衰えたらいいのにと、今まで何度も思いました」
何も聞こえなかったら、こうして自分のことをとやかく聞かなくていい。自分自身を守っていける――
誰かに投げかけられた無鉄砲な言葉に傷つくことがない世界に行きたいと、暗闇の世界で何度願っただろう。
「悲しいことを言われても、悟られないよう笑顔でいる。それを繰り返すうちに、私は自分を『人ではないただの荷物』と思うようになりました」
軍服の下、花野は思い出す。
名家から縁談を断られる度に、隠れて両親が意気消沈していたことを。
『あの子の目さえ見えていたら……』
何度そう言われただろう。その言葉で傷ついた自分を、何度なかったことにしただろう。
それでも花野は、笑顔でいることを努めた。
「現にお荷物でしたし、そんな私を周りが『気の毒』と同情してくれれば、辛い気持ちも薄らぐような気がしました。ですが……」
お見合いをなかったことにされた。
全く知らない人に路上でけなされた。
これにはいくらなんでも心が冷えてしまった。生きている意味はない、と物騒な考えも浮かんだほどだ。
生きているだけで辱めを受けているような、いつも矢面に立たされているような……こんな気分は、もうたくさんだった。
だけど、そんなどこまでも落ちゆく自分を、時雨がすくってくれた。
――あなたの身だけでなく心もお守りしたいと思っていることは、忘れないでほしい
あの言葉に、花野は確かに救われたのだ。
「時雨さんにあぁ言ってもらえて、私は初めて、自分をお荷物じゃないかもと思えました」
彼が守ると言ってくれた。
そんな自分を、もう少し大切にしようと思う。
「私が自分を大切にしたら、時雨さんも喜んでくれますか……なんて。
あれ、時雨さん?」
さっきから時雨の返事がない。いつの間にか気配が消えている。
もしかして先に帰った? いや、そんなはずは――
「もちろん、喜びますよ」
「っ!」
パタパタと「何か」にぶつかる雨音が、だんだん大きくなる。同時に、雨に濡れた地面を踏む革靴の音も聞こえた。
どうやら時雨は、今まで本当に席を外していたらしい。しかし会話が繋がるということは、目と鼻の先にいた……ということだろう。
それならと、花野も話を続ける。
「本当に、喜んでくれますか? 私が私を大切にしても、時雨さんには何の利益もないですよ?」
少し意地悪なことを言うと、上からかぶっていた軍服をサッととられる。代わりに、細長い何かをつかまされた。
「少なくとも今、傘を渡すほどには……風邪をひいてほしくないと思うほどには、俺もあなたを大切に思っているので。
だから花野さまも自分を大切にしてください。笑いたくない時は、無理に笑わなくていい」
「どうして、そこまで……」
尋ねると、時雨はしばらく無言になった。挙句の果てに「どうしてだろうな」と笑うから、花野も困ってしまう。
「花野さまは強かだ。だけど、あまりにも自分を顧みない。だからこそ俺が守らなければ、と思うのかもしれません」
加えて「それと、生き方が危なっかしくて見てられない」と時雨。あまりに正直な意見に、花野も笑ってしまった。
「時雨さん……ありがとうございますっ」
「――」
さっき軍服で顔を隠した時とは違い、花野はためらうことなく時雨に笑みを向ける。
すると、なぜか時雨の喉がゴクッと鳴った。咳……ではなさそうだ。
するとパタパタと傘を叩く雨音に、再び意識が戻る。全く濡れないということは、大きな傘なのだろう。
(時雨さんが私のためにと買ってくれた傘は、どんな物かしら?)
そう思って顔を上げる。当然見えやしないのに、どうしても見たくなって……。
花野が苦笑を浮かべていると「傘の柄ですが」と、時雨が口を開く。
「朝顔の絵が描かれた和傘です。青色と紫色の花がとても鮮やかですよ」
「――はいっ」
花野は目が見えない。だから心の目で見るのだ。時雨が教えてくれたことを、心の中で再現する。
(うん、とても素敵な傘だわ)
花野が思い浮かべる和傘。そこにはキレイな朝顔が二つ、大輪を咲かせていた。
そうして一つの傘の下、二人は並んで歩き、色んな店を回った。そうして文房具店を訪れた時、目当ての品にやっと出会えたのだった。
この時、花野は心から幸せを噛み締めていた。
屋敷に帰る、その時までは――



