そうして二人は、帝都に出向いた。
路面電車が走り、オシャレな洋館が並んでいる。往来は人で賑わい、馬車もひっきりなしに走っていた。そんな中、花野は着物、時雨は軍服で街を歩く。
ワンピースにしようかと悩んだ花野だが、しかしただでさえ慣れない帝都を、慣れないワンピースで歩くのも憚られ、結局いつも通り和服にした。
初夏にふさわしい薄衣水色の単衣に、細かな花模様があしらわれた帯を締めている。日傘まではいらないだろうと踏んだが、思ったよりも日差しが強い。時雨も「あつ……」と独り言を漏らすほどだった。
しかし花野は密かにウキウキしていた。屋敷にいるだけでは分からない、太陽の下を歩く彼の様子が新鮮だった。「あつ」なんて……。忍耐強い時雨の、意外な弱点に他ならない。新しい一面を見つけ、花野はひそかに口に弧を描く。
「時雨さん、しばらくの辛抱ですよ。雨の匂いがありますので、次第に日差しはなくなるかと」
「雨の匂い? 空は、晴れていますが……」
どうやら晴天らしい。だけど花野には分かるのだ。雨の匂いがだんだん濃くなっている。これは雨が降る前兆だ。
「獣人は、嗅覚が並外れていいのです。特に、俺たち龍人は」
「俺たち? 龍人(りゅうじん)?」
すると時雨はしばらく閉口した。返事がない。聞いてはいけないことを聞いてしまったかと、花野は口に力を入れる。これ以上のことを聞いてしまわないように。
すると少しの間を空け、時雨から答えが返ってきた。
「獣人になった龍のことを龍人といいます。他の動物は、この限りではありません」
「俺たち」に関して答えがなかったことが気になったが、どうやら聞いていけないことではなかったらしい。であればと、花野は再び疑問を投げかけた。
「では熊の獣人がいたら、熊人とは呼ばない、ということですか?」
「そうですね。実際部下に熊の獣人はいますが、獣人と呼ばれています」
「なるほど、龍だけ特別なんですね。なんだか神秘的な感じがします。
そういえば龍の神と書いて龍神(りゅうじん)と読む人物が出る説話を、いつか書物で読んだことがあります」
「……」
すると時雨は、とたんに口を閉じた。彼のまとう温度がひんやり下がる。
「神の龍神と、俺たち龍人は……まさしく月とスッポンでしょうね」
「どうして、そう思われるのですか?」
「動物が人と戦うために進化し、人の姿をした獣人になった。だけど龍は、もう一つ先のものになろうとしたんです。
……どうして龍人の見た目が、人間そっくりか分かりますか?」
花野は首を振る。
「きっと龍は、身も心も人間になろうとしたんです。だけど、なれなかった。腕に残った鱗が何よりの証拠です。
所詮、獣は獣。甘い夢は見るなと、天がそう告げたのでしょう」
いつも時雨は淡々と話す。しかし今は、その声色にわずかな寂しさがあると分かる。
だから聞いてしまった。「人間になりたかったのですか?」と。
時雨は、やや考えて口を開く。返ってきたのは、否定でも肯定でもない言葉。
「分かりません。だけど人間だったら今のような扱いを受けなくて済むのでは、と。そう考えたことはあります。実に不毛だ」
「時雨さん……」
「不毛だ」と吐き捨てるように言うくせに、なんと悲しそうな雰囲気なんだろう。
花野には、彼が過去にどんな目に遭ってきたか分からない。けれどその胸の内にあるものは、やはり自分と似ているものだと今確信した。
だから踏み込んだ話をする。もう胸の内を明かしていいはずだ。遠慮はいらない。なぜなら自分たちは立場は違えど、きっと同じ境遇にいるから。だからこそ、時雨にかけたい言葉があるのだ。
「私は三歳まで目が見えていました。その時は既にピアノを習っていて、ある程度は弾けていたそうです」
「ピアノ……そういえば屋敷にありましたね。あれは花野さまが……」
「昔弾いていたものです。今は調律もしていないので、ただの置物になってしまいましたが」
だけど花野の頭に、昔自分が弾いていた曲が蘇る。まだ指は小さいし腕は短かったから、椅子から落ちそうになるのをあや子に支えてもらいながら弾いていたという。
「曲を聴くと、なんとなく思い出すんです。楽しんでピアノを弾いていたことを」
「花野さまは、ピアノがお好きですか?」
「はい」
「……今も?」
「変わらず好きです」
弾くことはできませんが――と、花野は自身の手を広げる。
「手は大きくなり、腕は伸びました。あのままピアノを続けていたら上手になっていただろうかと、たまに想像します。さっきの時雨さんの言葉をお借りすると、実に不毛なことですが」
少しばかり意地悪く言うと、時雨の空気が揺れた。「いや、あの」と困った様子だ。
これには花野の心がほぐされ、つい笑みがこぼれる。
(自分には「不毛だ」なんて厳しい言葉をかけておきながら、こうして私が使えば申し訳なく思う――なんて優しい人だろう)
花野は、広げた手をきゅっと握りしめた。大事な物をとりこぼさないような、ゆっくりとした手つきで。
「だけど不毛でもいいのです。なりたい私を想像する――そんな私を止めることは、誰もできません。
私は自分の想像の中では、自由に羽ばたける。それが心の拠り所になることもあるのです。
だから時雨さん、私と一緒に想像しませんか? 一緒に語らえば、例え不毛なことも、そうでなくなるかもしれません。少なくとも私は、時雨さんとお話をするだけで楽しいです」
だから一緒に始めませんか? 不毛なことを――そう尋ねた瞬間、時雨は「ぶはっ」と吹きだした。その後も笑いをこらえきれないというように、クツクツ喉の奥で笑っている。
「えっと、時雨さん?」
「いや……すみません」
ひとしきり笑った後。時雨は咳払いした。そんな彼がまとう雰囲気は、とても柔らかい。
「花野さまが、まるで少女のような笑みを浮かべて話すから……つられてしまいました」
「あ! ごめんなさい、私ったら」
同じ境遇だと信じ切って、上から目線で物を言ってしまった。今さらになって「さっきのは出過ぎた助言だったのでは?」と、穴があったら入りたい気持ちになる。
しかし意気消沈していると、またもや時雨が笑った。
「でも花野さまと架空のことを語らい合うのは、確かに楽しそうだ」
「! ではっ」
花野がパチンと手を叩く。時雨は「気が向いたらですよ」なんて言うが、それでも良かった。彼の心の中に、少しだけ花野の居場所を作ってもらえた気がして嬉しいのだ。
もっと嬉しいのが、出会った日には感じなかった「彼の気配」を探れていることだ。もう時雨は、きっと花野に警戒心を抱いていない。
(心を許してくれたのも、笑い声を聞けたのも、どちらも嬉しいわ。
時雨さんって普段は物静かだけど、けっこう豪快に笑う人だと知れたし。あとは……)
しかし、ふと気づいた。自分の頭の中が、時雨のことばかりになっていると。
これではまるで恋する乙女! 興奮しすぎてしまった、急いで熱を覚まさなければ。
(深呼吸、深呼吸……っ)
心臓の音が早い。気分が高揚し、体が火照っている。しかし僥倖というべきか、ふわりとした風が花野にぶつかった。すると、いっそう雨の匂いが濃くなったことに気づく。
「空は、もう暗いのですか?」
「いえ、まだまだ晴天ですよ。だからさっき不思議だったのですよ。『雨が降る』なんて言われるから。
本当にそうなら、花野さまの嗅覚は並外れたものです。嗅覚が鋭いとされる龍人の俺でさえ、まだ嗅ぎとれていない匂いを、どうして……」
花野に答えさせる暇を与えないまま「それに」と、時雨は矢継ぎ早に話す。
「以前、朱花の異能が出ましたよね。それ以来、何も変化はありませんか?
例えば、このように雨の匂いが分かるようになったとか」
「――ふふ」
「今のは、笑うところではありませんが……」
「いえ、その、ごめんなさい。嬉しくて」
時雨の言い方は、「その嗅覚は朱花の異能が原因ではないのか?」「体は大丈夫なのか?」と心配してくれているようで……くすぐったい。だから笑ってしまった。やっぱり時雨は優しい人だと、そんなことを思いながら。
だからこそ、獣人を嫌う長房の気持ちに共感できない。今朝の食卓で父が時雨を、ひいては獣人を嫌っているのが手に取るように分かったが……。
確かに戦いをしていた者同士、思うところはあるだろう。しかし花野にとって時雨は護衛である以前に、もう心を許せる間柄になりつつあるのだ。
(お父さまのように獣人を嫌うことはできないわ。どうしても)
路面電車が走り、オシャレな洋館が並んでいる。往来は人で賑わい、馬車もひっきりなしに走っていた。そんな中、花野は着物、時雨は軍服で街を歩く。
ワンピースにしようかと悩んだ花野だが、しかしただでさえ慣れない帝都を、慣れないワンピースで歩くのも憚られ、結局いつも通り和服にした。
初夏にふさわしい薄衣水色の単衣に、細かな花模様があしらわれた帯を締めている。日傘まではいらないだろうと踏んだが、思ったよりも日差しが強い。時雨も「あつ……」と独り言を漏らすほどだった。
しかし花野は密かにウキウキしていた。屋敷にいるだけでは分からない、太陽の下を歩く彼の様子が新鮮だった。「あつ」なんて……。忍耐強い時雨の、意外な弱点に他ならない。新しい一面を見つけ、花野はひそかに口に弧を描く。
「時雨さん、しばらくの辛抱ですよ。雨の匂いがありますので、次第に日差しはなくなるかと」
「雨の匂い? 空は、晴れていますが……」
どうやら晴天らしい。だけど花野には分かるのだ。雨の匂いがだんだん濃くなっている。これは雨が降る前兆だ。
「獣人は、嗅覚が並外れていいのです。特に、俺たち龍人は」
「俺たち? 龍人(りゅうじん)?」
すると時雨はしばらく閉口した。返事がない。聞いてはいけないことを聞いてしまったかと、花野は口に力を入れる。これ以上のことを聞いてしまわないように。
すると少しの間を空け、時雨から答えが返ってきた。
「獣人になった龍のことを龍人といいます。他の動物は、この限りではありません」
「俺たち」に関して答えがなかったことが気になったが、どうやら聞いていけないことではなかったらしい。であればと、花野は再び疑問を投げかけた。
「では熊の獣人がいたら、熊人とは呼ばない、ということですか?」
「そうですね。実際部下に熊の獣人はいますが、獣人と呼ばれています」
「なるほど、龍だけ特別なんですね。なんだか神秘的な感じがします。
そういえば龍の神と書いて龍神(りゅうじん)と読む人物が出る説話を、いつか書物で読んだことがあります」
「……」
すると時雨は、とたんに口を閉じた。彼のまとう温度がひんやり下がる。
「神の龍神と、俺たち龍人は……まさしく月とスッポンでしょうね」
「どうして、そう思われるのですか?」
「動物が人と戦うために進化し、人の姿をした獣人になった。だけど龍は、もう一つ先のものになろうとしたんです。
……どうして龍人の見た目が、人間そっくりか分かりますか?」
花野は首を振る。
「きっと龍は、身も心も人間になろうとしたんです。だけど、なれなかった。腕に残った鱗が何よりの証拠です。
所詮、獣は獣。甘い夢は見るなと、天がそう告げたのでしょう」
いつも時雨は淡々と話す。しかし今は、その声色にわずかな寂しさがあると分かる。
だから聞いてしまった。「人間になりたかったのですか?」と。
時雨は、やや考えて口を開く。返ってきたのは、否定でも肯定でもない言葉。
「分かりません。だけど人間だったら今のような扱いを受けなくて済むのでは、と。そう考えたことはあります。実に不毛だ」
「時雨さん……」
「不毛だ」と吐き捨てるように言うくせに、なんと悲しそうな雰囲気なんだろう。
花野には、彼が過去にどんな目に遭ってきたか分からない。けれどその胸の内にあるものは、やはり自分と似ているものだと今確信した。
だから踏み込んだ話をする。もう胸の内を明かしていいはずだ。遠慮はいらない。なぜなら自分たちは立場は違えど、きっと同じ境遇にいるから。だからこそ、時雨にかけたい言葉があるのだ。
「私は三歳まで目が見えていました。その時は既にピアノを習っていて、ある程度は弾けていたそうです」
「ピアノ……そういえば屋敷にありましたね。あれは花野さまが……」
「昔弾いていたものです。今は調律もしていないので、ただの置物になってしまいましたが」
だけど花野の頭に、昔自分が弾いていた曲が蘇る。まだ指は小さいし腕は短かったから、椅子から落ちそうになるのをあや子に支えてもらいながら弾いていたという。
「曲を聴くと、なんとなく思い出すんです。楽しんでピアノを弾いていたことを」
「花野さまは、ピアノがお好きですか?」
「はい」
「……今も?」
「変わらず好きです」
弾くことはできませんが――と、花野は自身の手を広げる。
「手は大きくなり、腕は伸びました。あのままピアノを続けていたら上手になっていただろうかと、たまに想像します。さっきの時雨さんの言葉をお借りすると、実に不毛なことですが」
少しばかり意地悪く言うと、時雨の空気が揺れた。「いや、あの」と困った様子だ。
これには花野の心がほぐされ、つい笑みがこぼれる。
(自分には「不毛だ」なんて厳しい言葉をかけておきながら、こうして私が使えば申し訳なく思う――なんて優しい人だろう)
花野は、広げた手をきゅっと握りしめた。大事な物をとりこぼさないような、ゆっくりとした手つきで。
「だけど不毛でもいいのです。なりたい私を想像する――そんな私を止めることは、誰もできません。
私は自分の想像の中では、自由に羽ばたける。それが心の拠り所になることもあるのです。
だから時雨さん、私と一緒に想像しませんか? 一緒に語らえば、例え不毛なことも、そうでなくなるかもしれません。少なくとも私は、時雨さんとお話をするだけで楽しいです」
だから一緒に始めませんか? 不毛なことを――そう尋ねた瞬間、時雨は「ぶはっ」と吹きだした。その後も笑いをこらえきれないというように、クツクツ喉の奥で笑っている。
「えっと、時雨さん?」
「いや……すみません」
ひとしきり笑った後。時雨は咳払いした。そんな彼がまとう雰囲気は、とても柔らかい。
「花野さまが、まるで少女のような笑みを浮かべて話すから……つられてしまいました」
「あ! ごめんなさい、私ったら」
同じ境遇だと信じ切って、上から目線で物を言ってしまった。今さらになって「さっきのは出過ぎた助言だったのでは?」と、穴があったら入りたい気持ちになる。
しかし意気消沈していると、またもや時雨が笑った。
「でも花野さまと架空のことを語らい合うのは、確かに楽しそうだ」
「! ではっ」
花野がパチンと手を叩く。時雨は「気が向いたらですよ」なんて言うが、それでも良かった。彼の心の中に、少しだけ花野の居場所を作ってもらえた気がして嬉しいのだ。
もっと嬉しいのが、出会った日には感じなかった「彼の気配」を探れていることだ。もう時雨は、きっと花野に警戒心を抱いていない。
(心を許してくれたのも、笑い声を聞けたのも、どちらも嬉しいわ。
時雨さんって普段は物静かだけど、けっこう豪快に笑う人だと知れたし。あとは……)
しかし、ふと気づいた。自分の頭の中が、時雨のことばかりになっていると。
これではまるで恋する乙女! 興奮しすぎてしまった、急いで熱を覚まさなければ。
(深呼吸、深呼吸……っ)
心臓の音が早い。気分が高揚し、体が火照っている。しかし僥倖というべきか、ふわりとした風が花野にぶつかった。すると、いっそう雨の匂いが濃くなったことに気づく。
「空は、もう暗いのですか?」
「いえ、まだまだ晴天ですよ。だからさっき不思議だったのですよ。『雨が降る』なんて言われるから。
本当にそうなら、花野さまの嗅覚は並外れたものです。嗅覚が鋭いとされる龍人の俺でさえ、まだ嗅ぎとれていない匂いを、どうして……」
花野に答えさせる暇を与えないまま「それに」と、時雨は矢継ぎ早に話す。
「以前、朱花の異能が出ましたよね。それ以来、何も変化はありませんか?
例えば、このように雨の匂いが分かるようになったとか」
「――ふふ」
「今のは、笑うところではありませんが……」
「いえ、その、ごめんなさい。嬉しくて」
時雨の言い方は、「その嗅覚は朱花の異能が原因ではないのか?」「体は大丈夫なのか?」と心配してくれているようで……くすぐったい。だから笑ってしまった。やっぱり時雨は優しい人だと、そんなことを思いながら。
だからこそ、獣人を嫌う長房の気持ちに共感できない。今朝の食卓で父が時雨を、ひいては獣人を嫌っているのが手に取るように分かったが……。
確かに戦いをしていた者同士、思うところはあるだろう。しかし花野にとって時雨は護衛である以前に、もう心を許せる間柄になりつつあるのだ。
(お父さまのように獣人を嫌うことはできないわ。どうしても)



