数日後。この間のお見合いから一変し、花野は心晴れやかな気持ちになっていた。その理由は、小さな頃から使用人として働いていた季美から「結婚する」と、さっき報告を受けたからだ。
「お嬢さま、私、幸せになりますね」
そう言った彼女の弾んだ声を思い出す度、花野は胸の奥が温かくなる。ここを止めて家庭に入るらしいから、そこだけは寂しいが……。
しかし友達同然に思っていた季美が、幸せな思いでここを巣立つのは何よりも喜ばしいことだった。
そこで花野は、とあることを思い立つ。
「今までの感謝をこめて、季美に何か贈り物をしたいわ」
家族そろって朝食をとっている時に、花野はポツリと漏らした。すると父・長房が「いい案だな」と笑みを浮かべる。
「久しぶりに帝都に行ってみるといい。今日は天気も良さそうだし」
「え、行ってもいいの?」
「あぁ、たまには外の空気を吸うのもいいだろうから」
もともと長房は、花野をあまり外へ出したがらない。母のあや子もそうで、花野が外へ出ることにかなりの不安を抱いている。理由はもちろん、花野が盲目だから。
しかし今日の二人は、声をそろえて「行ってこい」という。
花野は不思議に思ったが、しかしここ数日に起きたことを思い出せば、その理由も簡単に分かった。
ここ数週間で、立て続けに縁談を断られているからだ。きっと長房とあや子は、花野が落ち込んでいるだろうと思い、気分転換に帝都へ行くことを勧めている。
花野は一か月前に誕生日を迎え、二十歳となった。すると縁談の話が、以前にも増して入ってくるようになった。とはいえそういう話を持ってくるのは長房なので、縁談の回数の多さは、彼の焦りの具現化とも言える。
二十歳であり、盲目であり、異能もさほど使えないとあれば、上流下流の家庭関係なく、どこから見向きもされなくなるのは時間の問題だ。
だから長房は、さらに多くの縁談を組もうと画策している。数打てば当たる、と思っているのだろう。……いや、実際にそう思っているのだ。長房があや子にそう話しているのを、偶然にも花野は聞いてしまった。つまり彼らの「帝都へいってこい」は、「まだまだ縁談は続くだろうから、ここいらで気分転換しておいで」という意味が込められている。
(でも気分転換が必要なのは、むしろお父さまの方じゃないかしら。最近はご無理をされてるようですし……)
縁談を取り付けるまでには、様々な労力と苦労が必要だ。だから長房も、夜遅くまで各方面に送る文(ふみ)を書いている。父の奏でる万年室の音が、まるで……花野の心にできたささくれをはがすようにゾワリと耳に届くのだ。
無理しないで、体を大事にして――と言いたいが、花野の口からは到底言えなかった。どれほど長房が縁談に身命を賭しているか、花野は充分に知っているからだ。
ゆえに父を気遣う行為は、彼の熱意に水を差すものと思い、だんまりを貫いた。だから今晩も、きっと万年室の音は聞こえるだろう。同じように、ささくれも広がっていく。
「帝都に行くなら、付き人をつけましょうね」
あや子が言うと、長房は「いや」と新聞をめくりながら答える。
「こういう時のために獣人がいるんだ。付き人は不要だ」
長房が「獣人」と言った時、この場の空気がやや重くなった。
みんな気づいているのだ。
長房が時雨を「護衛」と呼ばず、わざと「獣人」と呼ぶことを。それが嫌悪からきていることを。もちろん、今この時も花野の後ろに控える時雨だって気づいている。
長房は、先の戦に参加した。あまりに長く続く戦の上で家系は意味を持たず、異能者は総出で出陣した。特に「異能者ゆえに上流階級と認めてもらってる」家系の者は、今が出番と言わんばかりに前線に派遣されたそうだ。長房も、その一人。
しかし、そこで長房は獣人から攻撃を受け、肺を損傷した。なんとか生還したものの、長く異能を発動できない体になった。それが理由で軍を退役した時から、ことさら獣人を憎むようになった。時雨を「獣人」と呼んで蔑むのも、それが理由だ。
長房は獣人を嫌っている。心の底から。
「花野さまのことはお任せください」
花野の後ろで、時雨が頭を下げる。長房は時雨を見なかった。新聞から目さえ離さなかった。
そんな時だ。
花野が「では」と、会話に終止符を打ったのは。
「今日は、時雨さんと街に出かけてきますね」
長房とあや子に笑顔を向けると、当の二人はヒクリと口元を歪めた。どうやら花野が「時雨」と呼んだことが、そうとう衝撃的で不快だったようだ。
さっきから重たくなっていた空気が、さらに質量を増す。そこへ花野だけが笑みを浮かべ、いつもと同じように振る舞った。
そうして何事もなかったように「ごちそうさまでした」と席を立つ。部屋を出る時、二人の視線が痛いほど背中に刺さった。
花野が部屋へ戻るまでの間。花野は、いつものように他愛ない会話を時雨と交える。
「今日は何の服を着ようかしら」
もう、うぐいすは鳴いていない。代わりに、じりじりと肌を焼くような初夏の日差しが注がれている。
(こういう日は、ワンピースもいいかもしれないわ)
外の気温を、肌で感じた花野は考える。
帝都、お出かけ、ワンピース、そして贈り物。いつもとは違う日常に、自然と心が浮き足立つ。
「今日はよろしくお願いしますね、時雨さん」
「……」
時雨は何も言わなかった。時雨は物静かだが、問いかけた時は答えてくれる。
(それでも今なにも言わないということは……)
花野の脳裏に、さっきの光景が蘇る。
「もしかして、名前で呼ばれるのは嫌でしたか? もしそうだったら仰ってくださいね」
実は花野もあまり意識していなかったことだが、あの時とっさに時雨を名前で呼んでいた。決して長房をぎゃふんと言わせようとして言ったことではない。だからこそ、食事を終えた時の二人からの視線は堪えた。「そんなつもりはなかったんですごめんなさい」と、心の中で謝ったほどだ。
しかし、そうかといってあの場で何も言わないまま……というのも無理だったろう。
なぜなら長房が「獣人」と言った瞬間。後ろに立つ時雨の気配が、スッと冷えたものに変わったからだ。
その温度の中に、若干の寂しさが交じっているような気がして……だから放っておけなかった。気づけば名前で呼んでいた。
(私が盲目だと言われているように、時雨さんも獣人と言われ、傷つくことがあるんじゃないかしら)
それは時雨が護衛についてから、花野が少しずつ考えていたことである。
もしかして自分と彼は似た所があるのではないか、そんなことを思ったのだ。そんな淡い希望を抱くことは時雨に失礼だと思いつつも、それでも希望を見出してしまう。この胸の奥底にある孤独が、少しばかり晴れるかもしれないと思ったから……。
もちろん時雨の立場からすると、自分と似た所なんてない方がいいに決まっているが。
だけど、もし、万が一。周りから一歩引かれた目で、彼も見られることがあるのなら……なんて、やはり思ってしまう。繋がりを求めてしまう。
もし彼もそうであるなら、自分は一人ではなくなるから。
花野には、誰にも言えない話したいことがたくさんある。もし時雨と思いを共有できたなら、布団の中で身を縮めて眠るような夜は、もう訪れないかもしれない。
そんな期待に満ちた花野の心に呼応するように、時雨が遠慮がちに口を開く。
「俺は、名前で呼ばれるのは、別に。
ただ、ちょっと調子が狂うだけで……」
「……ふふ、そうですか」
初めて聞いたかもしれない彼の本心を、よもやこんな形で耳にしようとは。
彼は今、いったいどういう表情をしているのだろうと。いつも寡黙で冷静な彼が「調子を狂わせた」一面を、花野はちょっとばかり想像した。
「お嬢さま、私、幸せになりますね」
そう言った彼女の弾んだ声を思い出す度、花野は胸の奥が温かくなる。ここを止めて家庭に入るらしいから、そこだけは寂しいが……。
しかし友達同然に思っていた季美が、幸せな思いでここを巣立つのは何よりも喜ばしいことだった。
そこで花野は、とあることを思い立つ。
「今までの感謝をこめて、季美に何か贈り物をしたいわ」
家族そろって朝食をとっている時に、花野はポツリと漏らした。すると父・長房が「いい案だな」と笑みを浮かべる。
「久しぶりに帝都に行ってみるといい。今日は天気も良さそうだし」
「え、行ってもいいの?」
「あぁ、たまには外の空気を吸うのもいいだろうから」
もともと長房は、花野をあまり外へ出したがらない。母のあや子もそうで、花野が外へ出ることにかなりの不安を抱いている。理由はもちろん、花野が盲目だから。
しかし今日の二人は、声をそろえて「行ってこい」という。
花野は不思議に思ったが、しかしここ数日に起きたことを思い出せば、その理由も簡単に分かった。
ここ数週間で、立て続けに縁談を断られているからだ。きっと長房とあや子は、花野が落ち込んでいるだろうと思い、気分転換に帝都へ行くことを勧めている。
花野は一か月前に誕生日を迎え、二十歳となった。すると縁談の話が、以前にも増して入ってくるようになった。とはいえそういう話を持ってくるのは長房なので、縁談の回数の多さは、彼の焦りの具現化とも言える。
二十歳であり、盲目であり、異能もさほど使えないとあれば、上流下流の家庭関係なく、どこから見向きもされなくなるのは時間の問題だ。
だから長房は、さらに多くの縁談を組もうと画策している。数打てば当たる、と思っているのだろう。……いや、実際にそう思っているのだ。長房があや子にそう話しているのを、偶然にも花野は聞いてしまった。つまり彼らの「帝都へいってこい」は、「まだまだ縁談は続くだろうから、ここいらで気分転換しておいで」という意味が込められている。
(でも気分転換が必要なのは、むしろお父さまの方じゃないかしら。最近はご無理をされてるようですし……)
縁談を取り付けるまでには、様々な労力と苦労が必要だ。だから長房も、夜遅くまで各方面に送る文(ふみ)を書いている。父の奏でる万年室の音が、まるで……花野の心にできたささくれをはがすようにゾワリと耳に届くのだ。
無理しないで、体を大事にして――と言いたいが、花野の口からは到底言えなかった。どれほど長房が縁談に身命を賭しているか、花野は充分に知っているからだ。
ゆえに父を気遣う行為は、彼の熱意に水を差すものと思い、だんまりを貫いた。だから今晩も、きっと万年室の音は聞こえるだろう。同じように、ささくれも広がっていく。
「帝都に行くなら、付き人をつけましょうね」
あや子が言うと、長房は「いや」と新聞をめくりながら答える。
「こういう時のために獣人がいるんだ。付き人は不要だ」
長房が「獣人」と言った時、この場の空気がやや重くなった。
みんな気づいているのだ。
長房が時雨を「護衛」と呼ばず、わざと「獣人」と呼ぶことを。それが嫌悪からきていることを。もちろん、今この時も花野の後ろに控える時雨だって気づいている。
長房は、先の戦に参加した。あまりに長く続く戦の上で家系は意味を持たず、異能者は総出で出陣した。特に「異能者ゆえに上流階級と認めてもらってる」家系の者は、今が出番と言わんばかりに前線に派遣されたそうだ。長房も、その一人。
しかし、そこで長房は獣人から攻撃を受け、肺を損傷した。なんとか生還したものの、長く異能を発動できない体になった。それが理由で軍を退役した時から、ことさら獣人を憎むようになった。時雨を「獣人」と呼んで蔑むのも、それが理由だ。
長房は獣人を嫌っている。心の底から。
「花野さまのことはお任せください」
花野の後ろで、時雨が頭を下げる。長房は時雨を見なかった。新聞から目さえ離さなかった。
そんな時だ。
花野が「では」と、会話に終止符を打ったのは。
「今日は、時雨さんと街に出かけてきますね」
長房とあや子に笑顔を向けると、当の二人はヒクリと口元を歪めた。どうやら花野が「時雨」と呼んだことが、そうとう衝撃的で不快だったようだ。
さっきから重たくなっていた空気が、さらに質量を増す。そこへ花野だけが笑みを浮かべ、いつもと同じように振る舞った。
そうして何事もなかったように「ごちそうさまでした」と席を立つ。部屋を出る時、二人の視線が痛いほど背中に刺さった。
花野が部屋へ戻るまでの間。花野は、いつものように他愛ない会話を時雨と交える。
「今日は何の服を着ようかしら」
もう、うぐいすは鳴いていない。代わりに、じりじりと肌を焼くような初夏の日差しが注がれている。
(こういう日は、ワンピースもいいかもしれないわ)
外の気温を、肌で感じた花野は考える。
帝都、お出かけ、ワンピース、そして贈り物。いつもとは違う日常に、自然と心が浮き足立つ。
「今日はよろしくお願いしますね、時雨さん」
「……」
時雨は何も言わなかった。時雨は物静かだが、問いかけた時は答えてくれる。
(それでも今なにも言わないということは……)
花野の脳裏に、さっきの光景が蘇る。
「もしかして、名前で呼ばれるのは嫌でしたか? もしそうだったら仰ってくださいね」
実は花野もあまり意識していなかったことだが、あの時とっさに時雨を名前で呼んでいた。決して長房をぎゃふんと言わせようとして言ったことではない。だからこそ、食事を終えた時の二人からの視線は堪えた。「そんなつもりはなかったんですごめんなさい」と、心の中で謝ったほどだ。
しかし、そうかといってあの場で何も言わないまま……というのも無理だったろう。
なぜなら長房が「獣人」と言った瞬間。後ろに立つ時雨の気配が、スッと冷えたものに変わったからだ。
その温度の中に、若干の寂しさが交じっているような気がして……だから放っておけなかった。気づけば名前で呼んでいた。
(私が盲目だと言われているように、時雨さんも獣人と言われ、傷つくことがあるんじゃないかしら)
それは時雨が護衛についてから、花野が少しずつ考えていたことである。
もしかして自分と彼は似た所があるのではないか、そんなことを思ったのだ。そんな淡い希望を抱くことは時雨に失礼だと思いつつも、それでも希望を見出してしまう。この胸の奥底にある孤独が、少しばかり晴れるかもしれないと思ったから……。
もちろん時雨の立場からすると、自分と似た所なんてない方がいいに決まっているが。
だけど、もし、万が一。周りから一歩引かれた目で、彼も見られることがあるのなら……なんて、やはり思ってしまう。繋がりを求めてしまう。
もし彼もそうであるなら、自分は一人ではなくなるから。
花野には、誰にも言えない話したいことがたくさんある。もし時雨と思いを共有できたなら、布団の中で身を縮めて眠るような夜は、もう訪れないかもしれない。
そんな期待に満ちた花野の心に呼応するように、時雨が遠慮がちに口を開く。
「俺は、名前で呼ばれるのは、別に。
ただ、ちょっと調子が狂うだけで……」
「……ふふ、そうですか」
初めて聞いたかもしれない彼の本心を、よもやこんな形で耳にしようとは。
彼は今、いったいどういう表情をしているのだろうと。いつも寡黙で冷静な彼が「調子を狂わせた」一面を、花野はちょっとばかり想像した。



