孤独で最強の龍人が、盲目の私を、義務的な護衛対象から妻にするまで

 枯元忠司に地面に倒された花野は胸ぐらを掴まれたまま、けれど何もできないでいた。

「お前のせいで枯元家の品格が落ちた! 俺が今まで結婚できなかったのも、全部お前のせいだ!」

 忠司はかなり興奮しているようで、いくら花野が「違う」と言っても聞いてくれない。しまいにはあることないこと言われ、もう花野は泣くこともできなかった。

 恐怖で体が動かない、涙腺さえ緩まない。石のように強張った体は、忠司の圧倒的な力の前では為す術なく、されるがまま乱暴に動かされる。

 しかも花野は、賑やかな往来から離れた場所を歩いていたらしい。これだけ騒ぎを起こしているのに、まるっきり群衆の声が聞こえない。止めに入ってくれる者もない。

 きっと狭い路地裏にでも入ってしまったのだ。
 場所によっては、昼間から酒を飲み、気分良く声を上げる者もいる。きっとここは、そういう場所なのだ。

 だから忠司がいくら大声を出しても、誰も見向きもしない。気づいても「また誰かが酔っ払っているのか」と悪態をついて終わり。

 まさか秋之橋家の令嬢が、資産家の枯元家の跡継ぎに馬乗りにされているなど……誰が想像できようか。

「も、やめて、くださ……っ」

 だんだんと息をするのも苦しくなってきた。着物を掴まれているから、忠司が手を放してくれない限り、花野は息をするのが難しい。これでは首を絞められているのと同じだ。

 しかし途切れ途切れで呟いた声は、また忠司を逆上させてしまう。花野はグイと更に引っ張られ、生暖かい吐息に触れた。忠司の顔が目の前にあると分かるまで、時間はかからなかった。

「お前なんかいなければよかったんだ……お前なんか、お前なんか!」
「っ!」

 今まで周りから噂されることはあった。自分の知らない所で、隠れて心無い言葉を言われたこともあった。それに傷ついた自分もいたが、今この時に比べればあんなものは可愛い方だ。
 こうして面と向かい敵意むき出しの言葉を聞くのは初めて――その残酷さを、花野は身をもって知る。

「ご、ごめん、なさい……っ」

 謝らないと、正気を保てなかった。
 花野の心は、もう崩壊寸前だった。

 季美から「結婚相手を選り好みしている場合ではない」と言われた。

 両親に叶わない縁談を何度も組まされ、心に傷を負った。ちゃんと愛情を注がれていると思ったのに、金のなる木としか見られていなかった。

 夫となる枯元忠司からは「お前なんかいなければよかった」と言われた。金もあり身分もある枯元家が唯一ほしいのは、この異能だろう。決して「自分自身」ではない。そんな所へ嫁いで、どうやって幸せになれというのか。

(けれど、帰る場所もない)

 結婚して、枯元家からひどい仕打ちを受けたとて、実家には帰れない。だって花野が枯元家に嫁ぐことで、秋之橋家にお金が入り、二人は幸せになれるのだから。
 もし離縁なぞしたら、どんな顔をされるか――想像しただけで恐ろしい。

(八方塞がりの人生なら、もう消えた方がマシだわ……っ)

 花野の目から、新たに涙が零れる。すると「忌々しい!」と、花野の耳にヒュンと風を切る音が聞こえた。

 きっと殴られる――花野の判断に間違はなく、現に忠司は腕を振りあげていた。
 目の見えない花野に向かい、容赦なく拳を降ろす。花野は暗闇の中なすすべなく、受ける風の強さを肌で感じていた。

「盲目の不完全な異能者は、いなくなってしまえ! ……がっ⁉」

 花野の予想に反して、痛みはなかなか襲ってこなかった。代わりに聞こえるのは、忠司のうめき声のみ。

「な、にが……?」

 何も分からない。
 自分の回りで何が起こっている?
 忠司はどうしたのか?
 それとも、他に誰かいる?

(――あ)

 その時、花野は匂いをかいだ。
 それはいつか軍服につつまれた、あの匂い。

「時雨、さん……?」

 力を振り絞り、なんとか地面から背中を浮かせる。そのまま、手探りで時雨を求めた。すると返事の代わりにバチッと音が鳴り、一陣の突風が吹く。忠司がうめいて何も言わなくなった後、指先に知った温度を覚えた。
 冷たい、だけど心が温もる温度だ。

「遅れてすみません、花野さま」
「し、ぐれ、さん……?」
「はい、俺です」

 忠司に掴まれ、着物が乱れていたのだろう。時雨がサッと胸元を直した。それがあまりに俊敏な動きだったため、花野は恥ずかしがる暇もない。
 それに、覚えるのは驚きばかり。どうして時雨がここにいるのか。今日は本部に行くと言っていたのに。

 だけど混乱する頭では、何も言えない。時雨からの質問に答えるのが精一杯だった。

「お怪我は?」
「あ、りません……」

 そう答えると、時雨は息を吐いた。安心、したのだろうか? どうやら心配かけてしまったらしい。……いや、この状況を見れば、誰だって肝を冷やすか。

 忠司に押され、こかされ、胸倉を掴まれ……よく無事だったものだと、今度は花野が息を吐く。
 すると頭に冷たい温度が載る。時雨の手だ。

「よく俺の鱗を持っていてくれましたね。このおかげで異変に気づけた」
「あ……」

 そういえば、と花野は懐から小袋を出す。取り出すと鱗はじんわりと熱を帯びていて、まるで生きているみたいだった。

 さっき忠司に酷い言葉を浴びせられ冷えてしまった心を温めるように、それをそっと胸に近づけ両手で包む。

 今気づいたが、手が震えている。そのために指の隙間から落ちそうになった鱗を、花野はしっかり握り込んだ。その一連を、時雨に見られているとは知りもせず。

「……俺の獣力で枯元忠司を捕らえています。このまま警察に突き出しましょう」
「え……ま、待ってください!」

 花野は、時雨に手を伸ばす。触れた軍服を、ギュッと掴んだ。

「忠司さんは悪くありません。私が縁談の相手だったから、それでっ」
「……そのお言葉は、ご自分でご自分を貶めているものと気づいておいでですか?」
「それは……」

 時雨を握っていた手が、次第に力を失っていく。言われたことがその通り過ぎて、あまりにも自然に自分で自分を卑下していて……情けなくなった。

 だけど忠司の呻き声を聞いてハッとする。もちろん忠司のしたことは酷く、恐ろしいものだ。許されるものではない。

 しかし、では相手をそう豹変させた自分に全く非がないかと言えば……きっと違う。
「それでも」と、花野は自分の手に、再び力をこめる。

「私との縁談がなければ、忠司さんはいつも通り、真っ当に生きることができたのです。私と出会わなければ、よかっただけなので」
「……また人のため、ですか」

 すると地面に突っ伏したままの忠司が、顔だけ起こして二人を見る。

「こんな婚約は破談だ! 異能の力も弱くて、盲目で……。将来は名家であることも危ぶまれるような秋之橋家の女に、何を期待できる!」
「っ!」

 聞いてられない言葉だが、全て真実だ。ゆえに何も言えない花野は、ただ顔を下げる。

「お前みたいな女はこちらから願い下げだ、とっとと失せろ!」
「申し訳ありません、すぐに……」

 そうして立ち上がろうとした瞬間。ぐらりと地面が揺れ、奇妙な感覚を覚えた。地面に亀裂が入っている。それはまるで蜘蛛の巣のような形をしていて、大きく広がっている。
 しかもそれは時雨を中心に広がっているようだった。聞けば、パチパチと電気の弾けるような音もする。まるで能力を使った後のような。

 (もしかして、この地面は時雨さまが……?)

 獣力の行使に初めて遭遇し、花野はただただ驚きを覚える。異能とはまた別の、さらにはもう一段階上のような――それほどの格差があるような気がした。

 もちろん自分の異能が弱いせいかもしれない。父の長房であれば、これくらいのことはお茶の子さいさいでしてみせるのかも。
 けれども格別に思えてしまう。時雨から漂う余裕が、そう思わせているのかもしれないが。

「ここにいてください、花野さま」

 触れた時雨の手が、いつもとは違って熱を帯びている。恐らく獣力を使ったせいだろう。まるで焚き火の近くに手をかざした時のような熱さだ。この温度は、水属性と言った時雨に影響はないのだろうかと、花野は自分の前に立つ護衛を心配する。砂利を踏む音はどこか緊張感が漂っていて、それが静かなこの場に響いて恐ろしい。

「枯元忠司殿」

「殿」とは言っているが、怒気を含んだ声色だ。心では全く敬っていないことが分かる。それを忠司が勘づかないはずがない。
 しかし何も言わないところを見れば、時雨の獣力に怯えているのだろう。恐怖で言葉を失っているらしい。

 しかし、次に言葉を失うのは花野だった。
 恐怖ではなく、驚愕で、という理由だが。

「ならば俺がもらってもいいのだな?」
「は……、それはどういう意味だ?」
「秋之橋花野を、俺がもらってもいいのだな? と聞いている」

 時雨の言葉には忠司だけでなく、もちろん花野も驚いた。頭の中にいくつもの疑問符が浮かび、目を瞑ればあまりの混乱に星がチカチカ瞬くようだった。

 (私を、もらう? 時雨さんが?)

 何度も何度も時雨の言葉を頭の中で繰り返したが、しかしピンとこない。さっきのは、幻聴?

 再び静寂に包まれたこの場。
 そんな中で先に我を取り戻したのは、忠司だった。

「本気で……言ってるのか? 秋之橋家は、将来は衰退するだろうが今でこそ異能を使う名家だ。そんな家柄の令嬢と獣人のお前が、結婚できるわけないだろう? 身の程を知れよ!」

 これに対して時雨は「確かに」と答えた。そうかといって前言撤回する気はないらしい。

「人間と獣人の婚姻は例を見ない。
 しかし、禁止されているわけでもない」

 ザクザクッとまるで薄氷を踏み潰すような音が鳴る。恐らく時雨が歩いているのだろう。蜘蛛の巣のように亀裂の入った地面は、こんな音がするほど砕けているのか。
 その音は次第に大きくなり、やがて花野の前でピタリと止まる。

「だから花野さまを連れて行く。
 異論はないな、枯元忠司殿」
「……っ」

 獣人は気に食わないが、されど捨てた令嬢を引き止める理由は無いらしい。忠司は「勝手にしろ!」と大声で吐き捨てた。

 ということは、この婚約は破談だろうか――そんなことを考えていると、温かな手が触れる。そのまま引っ張られ、「行きますよ」と時雨が立たせてくれた。
 花野は訳が分からないまま、とりあえず足を動かす。

 (時雨さま……一体、何をお考えなのかしら?)

 何も分からない、どうしてこうなっているのだろう。ただハッキリしているのは、時雨が窮地を救ってくれたこと。こんなボロボロの有様でも、彼は助けてくれたのだ。この身も、心も。
 あのまま忠司にされるがままにされていたら、今頃は――

 (触れる手が、冷たくなくて、温かい。
 いつもの時雨さまじゃないみたいだわ……)

 前を歩く彼の匂いに包まれる。そのことに安心感を覚えた花野は、時雨に導かれるがまま、ただ歩いた。