孤独で最強の龍人が、盲目の私を、義務的な護衛対象から妻にするまで

「もう召し上がらないのですか?」
「はい、下げてもらって大丈夫です」
「……わかりました。それでは」

 時雨が立ちあがると、僅かに食器が音を立てた。しかし室内はそれきり静かだ。前は、他愛ない会話を交えていたのに。

 やはり時雨は怒っているのだろう。この半日の態度を見れば、そう判断するに充分だった。

(いっそ「情けない」と怒ってくれれば、気が楽になるのに……)

 そんな卑怯なことを花野は思う。というのも、そっけなくなった時雨だが、彼の優しさは変わらず健在だからだ。

「花野さま。今日、お出かけのご予定はありますか?」
「いえ、特には……」
「それなら良かったです。今日俺は本部に呼ばれているので屋敷を離れます。お出かけの際は、他の者を護衛につけてください。そうはいっても、お出かけにならないのが一番ですが。
 念のため、これをお渡ししておきます」
「これは?」

 小さな布袋に入った何か。そこに手を入れると、スベスベの何かに触れる。

「それは俺の鱗です。花野さまに危機が及んだ時は、その鱗が俺に知らせてくれます。そうすれば飛んでいけるので」
「鱗……でも、どのように時雨さまに知らせるのですか?」
「俺から離れているけど繋がっている、とでもいいましょうか。とにかく持っていてください。俺の一部、なんて気持ち悪いかもしれませんが」

 ほら……時雨は優しい。自分の一部である鱗をはがしてまで守ろうとしてくれるのだから。そこまでして尚、こちらを気遣ってくれるのだから。

 もちろん彼が護衛の身として傍にいて、こうして心配していることは分かっている。
 それでも仕事という義務感の中に、彼の本音も混ざっている気がしてならない。雨が降ったら傘を買い、側に居られない時は鱗を渡してくれる人だから。

 時雨が「それでは」と襖を閉める音がする。花野はとっさに口をひらいた。

「鱗、ありがとうございました。
 あの……お気をつけて、行ってきてくださいね」

 すると時雨は、やや間を空けた後。

「……ご忠告痛み入ります」と、そのまま襖を閉めた。
 その際、いつか近くで嗅いだ軍服の匂いが、風に乗って花野に届く。その匂いは傘と同じく、花野にとって心安らぐものへと変わっていた。時雨は自分を傷つけないと分かっているからだろう。だから安心するのだ。彼の匂いを嗅ぐと。

「お世話に、なりっぱなしだわ……」

 何度ありがとうと言っても、言い足りない。
 それだけ大事な物を彼からもらっているのだと、この部屋に新たに増えた「鱗入りの小袋」を胸に抱く。

 何色の鱗をしているのだろう。危機が訪れたら飛んでいくと言ってくれたが、まさか本当に飛んでくるのだろうか。彼は、龍なんだし。

「なんて……まさかね」

 ふふ、と笑いが漏れた。心に落ちた暗い影が、少しだけ晴れる。
 その心情と呼応するように、中庭に植えた松にとまるセミが、元気よく鳴き始めた。

 ◇

 時雨がおらず一人になるのは、久しぶりのことだった。自室は妙にしんとしていて、いっそ不気味なほど。

 婚約する前に、花野は枯元家に行くことになっている。婚約前に、互いが性に合っているかを見定めるためだ。そうは言っても親同士で決められた婚約であれば、「合わなかったから」と取り消しすることは難しいが。

 そういうこともあり、あと三日もすれば花野は秋之橋家を出て行く。それ相応の荷造りが必要になるが、季美を始めとする使用人が、盲目の自分に代わり全てを行ってくれるらしい。その時は、今とうって変わってバタバタするだろう。

 一方の両親は既に忙しくしているようで、朝から不在だ。娘を送り出すには何かと準備がいるらしい。

 しかし嫁入り道具をせかせか買いに行く所を見れば、やはり今回の婚約をかなり嬉しく思っているのだろう。

(お父さまとお母さまが喜んでくれる。それが、私も嬉しい)

 長年仲良くしていた使用人の季美も、結婚していなくなる。自分もこの屋敷を出る。そう考えれば、この婚約はちょうど良かった。

(後ろ向きなことばかり考えるのではなく、これからの自分の幸せは枯元家にあると信じて、そろそろ前を向こう)

 そうして花野は、昨日のことを思い出す。
 季美への贈り物は、まだ花野の部屋にあった。

「今なら渡せるかも」

 朝食が済み、きっと季美も一息ついている頃だろう。絵葉書を渡すには絶好の機会だ。

(本当は、一緒に選んでくれた時雨さんにも同行してもらいたかったけれど……)

 しかし屋敷の中、時雨への視線は相変わらず冷たかった。それは季美も同じこと。
 そんな彼女の元へ向かうのに、さすがに時雨と一緒では――と悔しい気持ちを飲み込んで、廊下を歩く。季美がいるのは、恐らく台所だ。

(獣人だからって関係ない。彼は、こんなに優しい人なのに)

 さっきもらった小袋を懐に入れ、目的の場所へ向かう。そこには複数の使用人がいて、朝食の片付けをしていた。食器の音に紛れて、季美の声が聞こえる。

 よかったと、花野は声を掛けようとした。
 しかし――

「それにしても、相手が枯元家とはいえ、お嬢さまのご結婚はおめでたいわね」
「そうよね。このまま一生一人身なんて、おいたわしくて……。
 ね、あなたもそう思うでしょ? 同じく結婚する身としてどう、季美?」

 花野はサッと身を隠した。すると季美が「そうねぇ」と間延びした返事をする。

「お嬢さまをさしおいて結婚するのは憚られたから、お嬢さまの嫁ぎ先が決まってホッとしたわ。相手が枯元家というのはお可哀想だけど……。
 でもお嬢様の場合は、選り好みをしていられないものね」
「――」

 言葉を失った。まさか昔から仲良くしていた季美に、そんなことを言われるなんて……。
 衝撃を受けていると、他の使用人も「そうよね」と同調する。

「そろそろ結婚しなければ、名家としての威厳も落ちていくでしょうし。この辺りがいい頃合いよね」
「旦那さまの喜びようも凄かったしね。日ごろは気丈に振る舞われていたけど、内心は不安だったんでしょうね」

 その声で、やはり長房は喜んでいたのだと再認識する。
 だけどその喜びには、「別の意味」もあるようだった。

「旦那さまは先の戦で受傷して、思ったように異能を使えず退役されたでしょう? そうしたら国から入るお金がかなり減ったそうよ。異能者だったからこそ、高額なお金が毎年入っていたみたい」
「あぁ、だから上流階級とばかり縁談していたのね。確かに枯元家は資産家だし、今回もたっぷり結納金が貰えるでしょうね。なぁんだ、全てはお金だったのね」
(え――)

 それは初耳だった。長房とあや子により、今まで伏せられていた事実なのだろう。
 秋之橋家のために、二人は娘を上流階級へ嫁がせようとしていたのだ。

 娘を思っての婚約ではなかった。
 全てはこの家のため、自分たちのため。

(うそ、うそよ……っ)

 打ちひしがれる花野の耳に入ってきたのは「さ、仕事仕事~」と言う使用人たちの笑い声。季美もその一人で、花野のことを「可哀想」とも言わなかった。あんな話を聞いた後なのに、いつも通り手を動かしている。
 動けないのはただ一人、花野だけ。

 季美に渡すはずだった絵葉書は、石のように固まってしまった手からひらりと落ちた。すると僅かに音がして、季美が「誰かいるの?」と近づいてくる。

 ここで見つかるわけにはいかないと、花野は体にむちを打って離れた。そうしてそのまま屋敷を飛び出し、裸足のまま駆けていく。

(私は、本当にお荷物だったのね……っ)

 涙なんて出ない。もう笑うしかない。家族からも使用人からも物扱いされ、誰一人花野を見てはいなかったのだから。。

「もう、何もかも嫌……っ」

 何も見えないまま、花野は無我夢中で走る。
 なに、何かにぶつかった時はそれまでだし、それで怪我をしてもどうってことはない。自分の心臓が動いていれば、皆はそれでだけ満足するのだから――

 しかし自暴自棄になった花野は、とんと忘れていた。
 今朝、時雨から注意を受けていたことを。

 ――お出かけの際は、他の者を護衛につけてください
 ――そうはいっても、お出かけにならないのが一番ですが

 それらのやりとり完全に忘れていた花野は、一心不乱に走り続ける。そうしてついに、何かにぶつかり体がよろけてしまった。

「す、すみません……」

 どっちの方向を向いて謝ればいいか分からない。ぶつかった人の声が聞こえないからだ。
 狼狽えていると突然、低い声が聞こえた。

「……本当に、見えないんだな」
「え?」

 刹那、花野はふわりと宙に浮く感覚を覚える。次に、背中に激痛が加わった。あまりの痛さに呼吸ができない。
 投げ飛ばされた? どうして、そもそも誰に?

「うぅ……っ」

 痛みがあるため起き上がれない。仰向けになったまま、花野は小さくうめいた。そうしていると、何者かに胸倉を掴まれる。その状態のまま、自分を「枯元忠司(かれもとただし)」と名乗った。

「こんな往来を裸足で駆けるなんて。それが枯元家に嫁ぐ奴のすることか? 嫁ぐ前から迷惑をかけるな! この恥さらしめ‼」

 枯元忠司――花野の婚約者になる人だ。結婚し、共に人生を歩む人。
 けれど噂通りの人物で、傲慢というだけあって話す内容は自分のことばかり。いくらこちらが怯えていようが、乱暴に言葉を浴びせ続けるだけ。

「盲目のお前なんかと婚約させられるせいで、俺は『目の見えない女と結婚するしかない無能な男』と周りから辱めを受けたんだぞ! どうしてくれるんだ‼」
「く、るし……っ」

 ねじり上げられているせいで、着物が自分の首を絞めていく。息が、続かない。
 もしかしたら死んでしまうかも――危機感を覚えた花野は、自分の胸倉をつかむ忠司の手をとっさに握る。

「おやめ、ください。忠司さま……っ」

 しかし助けを求めた手は、まるでゴミくずを払うような勢いで叩き落された。

「うるさい! この気の毒令嬢が! お前はそうやって結婚もせず、周りから同情されて生きていればいいんだ! そうやってお恵みをもらっていれば、一人で生きていけるだろ‼」
「っ!」

「言葉の刃物」は存在すると、目が見えなくなってから花野は感じていた。それは易々と心臓まで届き、そして、抉る。今の花野のように、深い深い傷を作るのだ。

「申し訳、ありま、せん……っ」

 悲しい、あまりにも。だけど忠司にこのような言葉を言わせているのも、また自分なのだ。
 自分が盲目なばかりに迷惑をかけてしまった。忠司だけでははない、両親にも使用人にも、数えきれないほど迷惑をかけてきた。

 今まで数多の人の手をかり、ようやっと花野はここに立っている……なんて。
 やはりこの目は、周りの人を不幸にする。

 だけどこの不幸を取り除く術がない。既に視力を失っている目を、花野はどうすることもできない。この眼球をえぐりとって皆が幸せになれるのなら、喜んでそうするのに。

「いなくなれ……お前なんか、いなきゃいいんだ!」

 忠司の言葉を、その通りだと思いながら聞いた。婚約者になる人に往来で投げ飛ばされたって当然だ。だって自分には、何の価値もないのだから。
 すると顔の近くでヒュッと空を切る音がする。きっと、これから殴られるのだろう。

(だけど、それも仕方のないことだわ)

 全てを諦めた花野の手が、ダランと脱力する。
 もう自分には、何の価値も見いだせなかった。