セカンド・ウィンド

 七時に目が覚めた。というより一果に起こされた。

「ほら、朝祝いするよ」

 冷ややかな声と共にべりっと布団を剥がされる。

「一果、あの時はかっこ良かったね〜」

 私は鼻をすすった。さすがに涙はこぼれてなかった。

「は? 何言ってんの。早く起きな」

「凍死する~」

 剥がされた掛け布団を引き寄せ、ロール巻きになってふざけていたら、一果が急に真面目な口調になった。

「……あのさ、一晩考えたんだけど。たぶん花音は悪くない。ただ、都合よく解釈して、相手を見誤っていただけ」

 一果の低く優しい声に私は耳を疑った。
 どんな顔をして言っているのか、仏の顔を拝もうと思って勢いよく布団から出たら、鬼の形相が待っていた。

「先に食べるからね!」 と言って、行ってしまったので慌てて着替えて追いかけた。

 一日を過ぎるとお正月の雰囲気は余韻を残しつつも薄れていく。

 和室の部屋のボロさにも慣れると居心地がいい。寒くて石油の匂いがかすかにして、壁にかかったハンガーのコートやスカートが私のだという匂いを出している。

 もう少しここに居たい。
 三ヶ月、いや一ヶ月でいい。学校のことも将来のことも何も考えず、ただ毎朝、一果と走る。そんな生活をしたら私の心は浄化される気がした。夜明け前に眠い目をこすり準備運動をし、薄闇の中、一果のシルエットを追い、走る。いつかああいう風に凛と生きたいと思いながら。苦しい息、上昇する体温、重くなる足。歩いてしまっても、止まらない限りゴールには近づける。本当に苦しいのは何をすればいいのか、どうすればいいのか、先が見えない時だ。

 何をすれば自分は心満たされるのかさえ分からなくなる。迷い、焦り、責める。だから迷いなく生きる人を真似することで、迷走から抜け出せる気がした。
 貧乏だから不安なんじゃない。騙されたから不幸なんじゃない。正しいとか間違っているとかでもない。
 自分を取り巻く状況はいつも変化して、居心地のいい場所ばかりじゃないけれど、孤立していても喝采の中でも凛としていられる、いつでも自分を見失わない強さ。


 帰りの荷物は来た時の三倍に膨れ上がっていた。大きなボストンバックに加え、両手に大きな紙袋。土産に、と色々な物を買ってしまったからだけど、東京駅で田舎娘のようにホームにたたずむ自分の姿が頭をよぎり、知り合いには会いたくないな、と思った。

 駅に着くと、一果から封筒を渡された。

「3月6日の日曜日、空けておいてね」

 右手の紙袋を置いて、受け取りながら私が聞く。

「何、これ。何のチケット?」

「初心者向けのマラソン大会に、花音の名前で応募しておいたから」

「マラソン大会!?」

「そう。東京の郊外で開かれるやつ。そこならそんなに遠くないでしょ」

「ええっ、そんなこと急に言われても。というかなんで!?」

「一人だとランニング続かない、って言ってたでしょ。大会に出るって目的があればモチベーション保てるかもって思って」

「私一人で参加するの? 一果は出ないの?」

「当たり前でしょ」


           ○


 スタートはピストルでもホイッスルでもなく、

「スタート!」

 という大会運営の年老いた男性スタッフの大きな声だった。
 のどかで広々とした公園から、蜂の群れのように固まったランナーがゆっくりと動き出す。

 田舎の大会だからか、参加者は五十人程度。
 お正月から三ヶ月、走ることになってしまったからにはしょうがないと腹をくくり、雨の日以外は毎日走った。

 運動は得意じゃないし、ストイックに練習なんてのは無理だけれど、走りたいとは思った。前に進みたい今の自分にとって一番あったスポーツかもしれない。

 公園から出て道路沿いを走っても、身体は温まってこない。耳と手が寒くて痛い。足首が冷えて固い。手袋を持ってくればよかった。  
 ウォーミングアップが足りてなかったせいか、なかなかエンジンがかからない。肺の奥が苦しくなってきた頃、一キロと書かれた看板が見えた。

 キロごとのポイントに看板が立っているらしい。ありがたい。先頭集団はとっくに先に行き、遠くの田んぼ沿いの道に縦長に伸びて走っている。追いつけそうもない。追いつかなくていい。自分のペースで最後まで走りきるために練習してきたのだから。

 二キロ地点の看板は、のどかな畑の中を行く道に立っていた。空は晴れ、風は冷たい。
 看板を過ぎると、今度は夫婦らしきランナー二人が、私を追い抜いて行った。

 私はモデル以外のことはいつも中途半端で、得意と言えるような技術や能力が身についたことがない。人からちやほやされないことには、やりがいを見出せなかった。
 ちやほやされて賞賛を浴びたあの頃の感覚が忘れられなくて、甘い言葉に騙されやすい性質になったんだ、きっと……。ダメだなあ。

 ……違う。こんな劣等感を持つために走り始めたんじゃない。

 はっとして暗い思考を消し去る。無になれ、と自分に言い聞かせた。

 三キロ地点の看板が見えてきた。
 林沿いを走っているとゆるやかな下り坂になっているのに気付いた。どんどんスピードが上がる。

 半年前、失恋した後、私は一人で部屋に居るのが怖かった。その頃は身体も不調続きで、お腹が空いている感覚がなくて、何を食べても味がしなかった。

 それなのにこんなに走れるようになるとは、成長というか回復というか、分からないけれど、誰に追い抜かれようと素晴らしいじゃないか。

「あと少しだぞ!」

 と見知らぬ沿道の応援者に言われ

「はい!」 と力強く返した。
 斜め前には山が見える。
 コース沿いに人混みが増えてきた。公園が近い。
 あそこがゴールだ。
 一果の「全力で走れ」という言葉を思い出した。
 厳しいなあ。いや、私が甘ったれなのか。今、私に必要なのは叱咤激励してくれる一果のような厳しさだ。

 ――あそこまで全力疾走?

 やってやる!
 両腕を大きく振った。少し前傾姿勢で、肘を大きく身体の後ろに引くように。
 息があがる。
 もっと手前でとっくに歩くと思っていた。
 自分で自分を一番信用しなくなっていた。
 頑張ることに疲れ、頑張らなくちゃと思うことに疲れていた。
 でもそんな自分を励まし続け、とにかくまずは一歩踏み出すだけでもいい。一歩でも少しずつでも前に進むように。
 そうして一果に会いに行った。

 公園に入ると、ゴール地点に人がたくさんいた。カメラを構えている人がいる。タイム計測のため、私のゼッケン番号を確認しようと凝視している人がいる。たいしたタイムじゃないからいいよ、と内心思いつつも迎えてもらえるのは嬉しかった。

「あと少し!」 と笑顔で迎えてくれる。息は上がっていたけれど、私も笑い返した。

 ゴールした時に、大会運営スタッフの人たちが温かい拍手をしてくれた。私はすぐには止まらず、しばらくはその辺を軽く走り、呼吸を整えた。

 体育祭の時のような大きな感動はなかったけれど、自分自身には勝てた気がした。
 腰に手をあて空を見上げる。
 澄んだ青い空が広がっていた。

 ゴール後は閉会式があるわけでもなく、流れ解散。帰る途中で一果にメッセージを送った。

「走り切ったよ」

 するとすぐに一果からメッセージが返ってきた。

「入賞した?」

 嬉しかった。連絡を待っていたかのような返信の速さだ。

「入賞なんて無理。でも完走したよ」 と返すと「そっか。まあ頑張ったじゃん」 と返ってきた。

 この言葉が何より嬉しくて、走ってる途中で苦悩していたことを思い出して笑えた。一果の『私が楽しんで貧乏暮らししてると思ってる?』という言葉を思い出した。

 自分の都合のいいように解釈しては違って傷ついたり、甘ったれだったりするのはすぐに直せないかもしれない。だから、また同じように傷つくのかもしれない。そうしたらまた走ろう。その時は——

「一果、また一緒に走ってね」

 もう一度、セカンドウィンドが吹くまで。